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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸80【第1次上田合戦】加沢記・平山説&第13話「決戦」

<<   作成日時 : 2016/04/04 09:20   >>

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・天正13年(1585)、徳川家康の配下:真田昌幸は、上州沼田
領を北条氏直に譲るよう命じられた。しかし、真田昌幸は命令
を拒絶し、上杉景勝に臣従した。徳川家康は自分の造った
上田城を攻撃することになった。第一次上田合戦は、徳川勢
7000余VS真田勢は2000人弱だった。@負けたふりして、城内
に誘い狭い場所で大群を鉄砲で狙い撃ち、A城の外に設けた柵
で側面攻撃、B増水した神川に追い込んで溺死、・・・自分の都
合のよい戦いに持ち込んだ。(★黒田基樹)「空城の計」がどん
ぴしゃであった。『真田丸』は時代考証は平山優・丸島和洋・黒
田基樹の大先生方が担当している。合戦中に真田幸繁は荒砥城:
屋代秀正を攻撃している史実・【上田軍記】から真田幸繁を第1
次上田合戦に活躍させることにしたのであろう。【加沢記】は真田
幸繁の名はないが、流れを【加沢記】をベースにして、ドラマを構
成したのであろう。そして、三谷幸喜氏が「いつ死んだか分から
ない梅の死」を脚本化したのであろう。
画像


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方▲真田丸32【真田昌幸:空城の計&第一次上田合戦】
http://53922401.at.webry.info/201602/article_4.html

箕輪初心●真田3代D『5回主家を変えた真田昌幸』
http://53922401.at.webry.info/201111/article_30.html
<< 作成日時 : 2011/11/30 07:25 >>




【1】歴史年表
・天正11年(1583)   
真田昌幸は上田城を築城・・・真田氏(1582〜1622)40年間 
 *真田昌幸は信濃上田城、上野岩櫃城と沼田城の3城を持つ。
●上田城築城。(長野県上田市尼ヶ渕)
※真田昌幸は徳川家康を利用して、上田城を造らせた。
つまり、徳川家康に
「 上杉景勝を攻めると上田を通る。浜松城をからにするのは
 危険である。たから、上田城を造り、そこに私が入るので
 上杉景勝攻めの先鋒になります。・・・。」
みたいなことを手紙に書いて送った。
徳川家康はもっともだ。といって、上田城築城の応援部隊を
送った。
 (★平山優説・黒田基樹説)
           
・天正12年(1584)
11月 鉢形城主北条氏邦(氏康4男)は沼田城に侵攻

真田昌幸500人 VS 北条綱可2000人。
 手古丸城で勝利。
●手古丸城(群馬県東吾妻町大戸)

・天正13年(1585)    
徳川家康は北条氏直を協定していた。(信濃侵攻のため)
 徳川家康は娘を北条氏直に嫁がせた。

徳川家康は真田昌幸に「上州沼田領の北条氏への明け渡し」を命令。             
→真田昌幸は明け渡しを「いやだ。」と拒否し、
豊臣秀吉に言いつける。
    徳川家康と対立。    
               
@6月 真田昌幸は徳川配下から上杉景勝に接近。

     →真田昌幸は上杉景勝に所属。

・7月15日 次男:真田信繁(真田幸村)を人質にして上杉景勝に
  従属した。
  真田信繁(真田幸村)は海津城に行った。
海津城将は須田満親であった。
 (★「天地人」・真田昌幸:芝辻俊六著)
真田昌幸が徳川家康と対立して上杉方に転じた際には、
 須田満親は真田昌幸との交渉役を務めた。
 徳川・北条と敵対していた上杉景勝に臣従した。
 徳川・北条連合 VS 上杉・羽柴秀吉連合

 同時に、徳川家康にも手紙を出した。
 「・・上杉景勝につく・・・」
 徳川家康は激怒した。

★徳川家康は自分が造った上田城攻撃をすることになった。
そして、北条氏邦を沼田城に侵攻させた。
 (★平山優)

真田昌幸の次男:真田
 信繁を人質として預かった。

7月第1次上田合戦 
  徳川軍来攻、上田城頭の激戦
 ・徳川家康は真田昌幸を攻めるために小県に出兵。
  徳川軍・・・大久保忠世・大久保彦左衛門・鳥居元忠
  ・平岩親吉など+保科正直(家康異父兄弟:箕輪城明け渡し)
  +屋代+諏訪+依田玄蕃
   VS 
  真田騎馬200余騎馬+雑兵1500余人・・
  国分寺〜神川・・・(加沢記)

8月2日徳川の大軍と上田城東の神川の付近で合戦・・撃退。
 
★平山優説・黒田基樹説を使って
 小国は大国に勝つ3つの作戦とは?
閏8月 第一次上田合戦
真田昌幸2000人弱程 VS 徳川家康勢7000余
真田方は約1200人であった説もある。(伝)?

徳川家康と北条氏直は、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約
 7000の兵力を昌幸の居城・上田城に侵攻させた。
 
 徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地の信濃国分
 寺付近に兵を着陣した。
 ※国分寺は上田城の東4km?に押し寄せたのであった。


●真田の作戦・・・少人数で大群を討つ作戦
1)真田昌幸は築城の途中である上田城に籠城した。
・上田城本郭に500余を待機させた。
・上田城の横郭・町中に見張り兵を配置した。
・神川(かんがわ)に200余の遊撃前衛部隊を配備した。

2)長男:信幸を支城:戸石城に籠城させた。
伊勢山(戸石城)の800余説
伊勢山(戸石城)の300余説・・・有力説

3)従兄弟:矢沢三十郎頼康&上杉の援兵:須田満親を支城:
 矢沢城に籠城させた。
 300余説?+500余説?=800余説?
※平山説では上杉の援兵は少なかった。
合計・・・総勢2000余を配置した。

●家臣
祢津長右衛門・祢津志摩守・望月主水・小泉源五郎・矢野・
日置・原・春原・石毛・荒木・高槻・金井・上原・三輪
板垣信形・来福寺(忍者元締め)・成沢・松崎・田中・窪田
・堀田・車・高野・塚本
上州衆・・・・池田・市場・白倉・吉田・・・・など。


4)上田城下には互い違いの矢羽根のような千鳥掛けの柵
===ウナギのびんどうのような逆矢羽根型の柵を
造らせた。★説明が難しい。
======塀・柵======================
/ / / / / / / / / / / / / / / /
 \ \ \ \ \ \ \ \ \ \ \ \ \ \
======塀・柵======================

5)複雑な並びの町家・山野に約3000の武装した百姓兵を
 伏兵とした。

6)橋の構造を工夫した。


【2】上田城の門の2階の「第一次上田合戦」のいシュミレーション
・閏8月1日 
  真田信幸は支城の戸石城に兵300余名で着陣した。
  徳川軍の主力部隊を奥地に誘き寄せる作戦だった。
  結果・・巧みに奥へ誘い込み、大手口で勝利した。

・閏8月2日
徳川勢の先手が上田城の南東の神川(かんがわ)に差し掛かった。
200の真田前衛部隊が迎え撃ち、槍での争いを数回あわせた。
作戦通り、後退し始めた。
真田昌幸は城門を閉ざし、櫓の上で甲冑もまとわず、家臣と囲碁を
打っていた。★塚本という家臣らしいことが載っていた。
  
 徳川勢は真田勢が小勢で弱いと思い、一気に上田城を落とそうと
上田城内になだれ込んだ。
真田昌幸の『空城の計』とも知らず、・・・・。
真田昌幸は諸葛亮孔明が琴を奏でて司馬仲達を退けた『空城の計』
による心理作戦を展開した。
★徳川家康が三方ヶ原の敗戦でうんこを漏らしながら?引き上げて、
浜松城の大手門を開け、内と外に篝火を焚かせ、太鼓を叩かせた
た。警戒した武田軍山県昌景・馬場信房は兵を引き挙げさせた。
そして、浜松城は落城を免れたという『空城の計』のように・・・

徳川軍に攻め寄せられた際に上田城の門を開け放ち徳川勢を引き入
れようとすれば、用心深い指揮官ほど逆に警戒する。徳川勢に見破
られた場合は全滅の危険性があるが・・・鳥居元忠・大久保忠世は、
功績を焦って、突入した。

真田昌幸は家臣と囲碁を打ち続けた。
そして、真田昌幸は家臣に手鼓を打たせて『高砂の謡』を謡った。

徳川勢は挑発に乗った。鳥居元忠・大久保忠世は上田城に楽に入れた。
徳川勢は大手門も突破しようとした。・・・
 
真田昌幸はようやく甲冑を着け、櫓台に立った。眼下には戦功を焦る
鳥居元忠・大久保忠世らの主力兵が狭い二の郭(二の丸)にうじゃ
うじゃひしめきあっていた。門に取り付いたり、城壁
をよじ登っていたり・・・と攻めあぐんでいる。

真田昌幸はこの時を待ってましたとばかりに「攻め太鼓」を打ち鳴
らした。
「ドン・ドン・ドン・ドドドドド・・・」
合図で城門上に隠し、繋いでおいた縄を切らせ、大木や大石を
徳川勢の頭上に落下させた。

「撃てえ・・・」
同時に、堀狭間から鉄砲や弓矢を一斉に撃ちかけた。


鳥居軍・大久保軍は大混乱になり、撤退した。
勝機と見た真田昌幸は城門を開かせ、総攻撃を命じた。
「出撃・・・。」
真田昌幸は上田城内の500の兵を追撃させた。
真田勢の怒涛の勢いに、徳川勢は浮き足立ち、逃げ惑うばかり
となった。
★袋のネズミ状態になったのだ。

上田城下には互い違いの矢羽根のような千鳥掛けの柵===ウナギの
びんどうのような逆矢羽根型の柵で、徳川勢はなかなか逃げられない。
★行きはよいよい帰りは怖い。通りゃんせ、通りゃんせ、ここは
ど〜この細道じゃ・・・状態になってしまった。

上田城外にいた200の遊撃前衛部隊は横郭に後退し、集結していた。
遊撃前衛部隊の200の兵を横から攻撃した。
 
 それから、上田城の町家に撤退した徳川勢に火を放った。
強風にあおられて、鳥居勢はまたまた大混乱となった。

 また、町家や山野に伏兵していた武装した百姓軍が火を合図に徳川勢
に打ちかかった。百姓兵は石礫を投げた。

 さらに、真田信幸は300?800?の兵で戸石城より討って出た。
徳川勢の退路を遮断し、真田信幸軍が襲いかかった。
真田勢は追撃の手を緩めなかった。

徳川勢の先手:鳥居・大久保勢は@城内軍、A遊撃前衛部隊、B百姓軍、
C真田信幸軍の四方から攻められた。・・・はさみ撃ちにされてしまった。

その上、千鳥掛けの柵{{{{{{くくくく《《・・・ハの字形に互い違いに
配置した柵で、塀・柵に突き当たってしまうと逃げにくい。
行きはすんなり行けるが、帰りが逃げにくい。
 (★和根崎剛氏・平山優氏の説明)
======塀・柵======================
/ / / / / / / / / / / / / / / /
 \ \ \ \ \ \ \ \  \ \ \ \ \ \
======塀・柵======================

複雑な町家のトラップに引っかかり、退路を見失った。
真田勢に、弓に刺さったり・鉄砲に撃たれたり・槍に突かれたりと
徳川勢は大混乱に陥いった。
 
 上田城に戻った徳川軍は鉄砲隊に次々と撃ち落とされた。

北国街道に撤退する徳川勢は、戸石城から討って出ていた真田信幸の
突撃で崩された。
真田軍は巻狩りのコの字状態にして、東方向に逃げ場を作った。
徳川軍主力隊はやっとのことで上田城の東方3km程の神川まで敗走
した。

徳川勢の多くが神川(かんがわ)を渡るに及んだ。
そこで、真田昌幸は最後の作戦に取りかかった。
真田昌幸は上流に築いておいた堰を切って落とすことを命令した。
雨による増水の上、さらなる増水=====
徳川勢を溺死させた。
これが最後の仕上げとなった。

矢沢城でも矢沢頼幸が800余の守兵で依田勢1500を退けた。

上田城・神川の戦いは徳川軍の犠牲者は300余名?一説には1,300名
にも上ったという。真田勢は40人程であったという。
●真田信幸の書状
徳川方の死者は1300余、真田方の死者は40余。
●大久保忠教の記録
徳川方の死者は300名余。

●大久保彦左衛門の『三河物語』
「徳川勢は悉く腰がぬけて、・・。」
戦意喪失状態であった。


真田幸村は徳川方の屋代秀正の旧領をもらって、
諏訪久三に安堵させた。
        (★千曲市諏訪家文書)
   
 
 
・真田昌幸は上杉景勝を通じて豊臣秀吉に接近。
・豊臣秀吉は上杉景勝に上田城の援助命令を出した。
 ・上杉景勝援軍が海津城→地蔵峠→真田の根小屋城
   (上田市真田・・砥石城北)に到着。
でも、須田の援軍の到着は遅く、自力で動くしかなかった。
(★平山優・黒田基樹説)
 ●根小屋城(=曲尾城)

 
 ・徳川軍は丸子城に矛先を変え、東側の八重原に布陣。
 ・真田昌幸は手白塚(塩川)に出て牽制。
8月19日 諏訪頼忠が丸子城を攻撃開始。
  合戦が開始。「丸子表の戦い」で、
 ・丸子城主丸子三左衛門(三右衛門)らが少兵力で城を死守。
●丸子城

8月20日  真田昌幸は長瀬河原へ出て、鉄砲で諏訪軍の背後
  を急襲。
  徳川方の岡部長盛は軍を三手に分けて出撃し、河原町に放火。
  真田軍を退破。
  辰ノ口側から丸子城に攻撃。→結局落城せず。 
  真田昌幸・信幸父子が国分寺で徳川軍を撃破

8月26日 井伊隊5000到着。→すぐに撤退命令。
★徳川家康は真田昌幸が上杉景勝や豊臣秀吉に根回ししていた
とは知らず、上田を攻めていた。石川数正・小笠原の離反。
上杉方:須田の救援に来た事を知った家康は撤退命令を出した。 

結果・・・天下に勇名→有名人なった。
※昌幸、信之(当時は信幸)・上杉の援軍、武装農民など
  総数3000人が徳川勢10000人を破った。
次男・信繁(幸村)は春日山城に人質で、参加していない。
「上田軍記」では信繁が参戦したと書いてある。

8月29日付(合戦の3日前) 
矢沢三十郎(矢沢頼綱の子)宛ての海津城代:須田満親書状
未だ申し通せず候と雖も一翰啓せしめ候 
今度御証人(人質)として御幼若の方(=信繁=幸村)
御越し申し痛み入り存じ候
その口に於いて御稼ぎの由是非なき次第に候
先日曲尾筋(真田町)へ助勢申し候ひき、
重ねて今日人数さし遣わし候 
御用等御隔心なく仰せ談ぜらるべく候 
洪水にて路次自由ならざる故、吾等遅参所存の外に候 
何様面談を以って申し承るべく候       恐々謹言
尚々其元昼夜の御苦労察し入り候 
御稼ぎの段並びに御証人指し越され候 
則ち春府(=春日山城)へ申し達し候

結果・・上田合戦における真田の軍略に惚れ、また恐れた本多忠勝
が真田家を取り込むため、徳川家康に自らの娘を嫁がせることを
提案した。徳川家康は、上田合戦後に面会した真田信幸の器量に
感じ入っており、自陣営の武将として取り込んでおきたいという
思いがあったことから快諾した。稲:小松姫を自らの養子
(松代藩3代藩主:真田幸道が幕府に提出した書状には「台徳院
(秀忠)」の養女)として、真田家へ嫁がせることとしたようで
ある。
 (★ウィキペディア)



9月   北条氏直は沼田城に侵攻2回。
9月5日・矢沢頼綱宛の上杉景勝からの書状
 「直江から聞いた。矢沢頼幸の活躍を〜〜。
   (沼田用心してくれ。」)
         (★松代の矢沢家文書)
  ・矢沢頼綱が沼田城を死守。上田から援軍が到着。

10月17日 真田昌幸宛の豊臣秀吉からの返事
  「(徳川を裏切った)松本城領主:小笠原貞慶と相談し、
            〜〜〜。」(★真田宝物館)
    
E10月 真田昌幸は豊臣秀吉の招きで、信幸、信繁(幸村)を
     伴って大坂城に出仕。 
●大坂城   

    
11月 徳川軍は信濃から撤退。(★真田三代) 
 ・徳川家康は内密に更級郡を上杉景勝の家臣:屋代秀正
  に手紙を送る。

・真田昌幸は埴科郡虚空蔵山(麻績)にて
  上杉景勝軍の配下:屋代秀正を撃破。


【3】平成28年(2016)1月17日平山優氏の説明
 徳川方は、真田昌幸のいる上田城二の丸(郭)まで進んだ。
  @負けたふりして、城内に誘い、狭い場所で大群を鉄砲で
   習い撃ちをする作戦だった。
  結果・・・鉄砲の集中攻撃を受け撃退された。
  A更に後退の際に城方の追撃を受けた。
  B逆矢羽根型の柵(ウナギのびんどうのような)を造り、
移動を困難にした。
C真田昌幸は戸石城から横合いから側面攻撃をした。
   横谷掛かり的な作戦であった。
   結果・・・壊乱した。
D追撃戦・・・矢沢勢も加わって神川で多数の将兵が溺死した。
増水もあって多数死んだ。
(★平山優)
・平山優氏


・黒田基樹氏

8月3日
「真田手ごわし」と見た徳川勢は・・・・
 八重原の台地まで退陣し、軍勢を整えた。
 そして真田の属城:丸子城攻撃に切り替えた・・・。
(★上田城のシュミレーション動画)・・★よく分かった。

 徳川方は真田氏に味方した丸子三右衛門の籠城する丸子城を
  攻めた。
  要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できなかった。

〜〜〜以後20日間程対陣を続けた。

  上杉勢援軍:須田軍との小競り合いをした。
  上杉勢の増援の報・・・・
 徳川家康は援軍;井伊直政、大須賀康高、松平康重の5000を
 出した。
 鳥居元忠は徳川家康から井伊直政・松平康重5000の援軍を得て、
 再度、上田城を攻めようとした。
 しかし一時撤退命令がでた。
 
8月28日 徳川軍の大半が上田より撤退した。
   大久保忠世らは小諸城に留まって真田勢と小競り合いを繰
 り返した。

11月 川家の重臣:石川数正が出奔して豊臣秀吉の元に
 走るという事件が起きたため、上田城攻めは中止となり、
  完全に撤退し、三河に引き返した。
  (★ウィキペディア)
@上田城の門2階のビデオは非常に優れている。
  両者の動きが同時に地形図や城内の縄張りに→→で示されて
  いる。★とっても優れものである。
A上田市立博物館・・・神川合戦の合戦図が所蔵されている。


結果・・真田昌幸はわずか2,000の兵力で徳川軍
 に1,300人もの死傷者を出させるという大勝であった。
 真田軍は40人ほどの戦死者だった。
★人殺しなんだよな?戦国武将は・・・
 
真田信繁は上杉氏のもとに人質として置かれたが、
徳川方に帰属した信濃国衆である屋代氏の旧領が与えられた。
  

◆◆第一次上田合戦の作戦がち
(★平山優・黒田基樹)・・・知将:真田昌幸の凄さ
真田昌幸の巧み地の利を活かした戦法・城の構造を生かした戦術
 と長男:信幸の活躍により、徳川軍を撃退した。
@負けたふりして、誘って大量に殺戮する作戦
A城の外の柵を設けた側面攻撃の作戦
B増水した神川に追い込んで溺死させる作戦
・・・自分の都合のよい戦いに持ち込むで、徳川勢を撤退させた。
 真田昌幸は戦略に長けていた。大坂城真田丸の原点がここに
 見られる。
 
・天正13年(1585)9月〜天正14年(1586)5月
沼田城代:矢沢頼綱(真田昌幸の叔父・矢沢三十郎頼康の父)
が北条氏邦や家臣:猪俣邦憲が数回に渡って攻撃を仕掛けたが、
全て撃退に成功している。




◆◆ 第一次上田合戦の影響 ◆◆
真田軍は4〜5倍の敵を見事に撃退した。
@『上田合戦』に勝利した。真田の名は一躍有名となった。
A真田昌幸は優れた智謀であると評されることとなる。
B「徳川敗北」の報は天下を巡り、「真田恐るべし。」と諸大名
  から一目置かれるようになった。
C上田合戦を契機に真田氏は、武田の旧臣から信濃の大名と
 して豊臣系大名の間で認知されることになった。
D徳川家康の真田氏に対する評価は高まり、結果として本多忠勝
の娘:小松姫を養女として真田信之へ嫁がせて懐柔するきっかけ
となった。
E真田昌幸は以後、上杉景勝、豊臣秀吉に臣従し、領国と城の整
備に努めることができた。真田昌幸は上田地方(小県郡)の統一
した。


◆参考文献
『真田昌幸』柴辻俊六著
『真田三代 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る』平山優著
 『真田三代』平山優著
 『真田四代と信繁』丸島和洋著
などたくさん・・・・
上田市立博物館・・・神川合戦の合戦図が所蔵されている。


◆参考動画
上田城の門2階のシュミレーションビデオは非常に優れている。
  両者の動きが同時に地形図や城内の縄張りに→→で示されて
  いる。★とっても優れものである。
◆参考TV
平成28年(2016)1月2日 ぶらたもり「和根崎剛氏の説明」
平成28年(2016)1月17日 平山優氏・黒田基樹氏の説明

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【4】真田丸13話「決戦」あらすじ
画像

 (★真田も白井城にいた上州明珍:明珍信家
   の兜を使用している
。)


◆ナレーター


●????
信繁「まさがこれが援軍?」
上杉が送って来た援軍は、100名程の老人と子どもばかりだった。
信繁と三十郎は、呆然とした。

しかし、上杉景勝が必死でかき集めた援軍であった。
信繁「わかっておる。」
信繁「決して死なせるわけにはいかない。」
と決意を固め、上田城に急いだ。
★実際は海津城将:須田満親が大将であった。

真田信繁は、上杉景勝の許しを得て、矢沢三十郎とともに父:
真田昌幸、兄・真田信幸らの軍に合流した。
 徳川軍を迎え撃つ体制を整えた。


●浜松城
天正13年(1585)8月、
徳川家康は、鳥居元忠、平岩親吉、大久保忠世ら徳川の精鋭部隊
7000の大軍をもって真田家の居城・上田城へと迫った。
真田家は手勢わずか2000。
徳川の3分の1にも満たない兵力である。
▲【加沢記】
「鳥居彦右衛門尉、大久保七郎右衛門、同彦左衛門尉、同新十郎
 、松平甚兵衛、都合6000余騎に、芦田右衛門殿相加えて
 7000余騎が馬場に陣取って・・・
・・4人の1にも人数なり」



家康は、この戦を甘く考えていた。それよりも秀吉の方を警戒し、
本多忠勝を浜松城にとどめ置いた。
★実際には本多正信・井伊直政・榊原康政も・・・
浜松城には、昌幸の弟:信尹が捉えられている。

家康は、信尹の才を買っており、昌幸の元へ返すつもりはない。
このまま囚われているか、徳川氏の家来になるかの選択を迫るの
であった。
家康は本多忠勝は真田信伊を牢に封じた。

◆ナレーター

●上田城
とりが物語る。
梅に説教する薫・・・

●徳川陣営
本多忠勝
「・・・」
徳川軍は神川(かんがわ)を挟み、上田城向かいに本陣を構えた。
▲【加沢記】・・・馬場である。
総大将は家康の信頼の厚い家臣:鳥居元忠。
徳川との決戦が近づく。
兵力差は歴然。
鳥居元忠率いる軍勢は7000、真田軍は2000余り・・・。

鳥居元忠率いる徳川勢は、神川をはさみ上田城の向かいに陣を張った。

鳥居元忠から上田城に手紙が届く。
「沼田城を明け渡せば兵を退く・」
という旨が書いてあった。

昌幸は返事を待たせて、時を稼ぎ軍議を開いた。
まな板に乗せた巨大な餅を伸ばして、
昌幸「7千の軍勢に真正面から挑んでも勝ち目はない。
  だがこの7千も、こうやって(餅のように)細く長く伸ばして
  いけば、・・・よいか、わずかな兵でも切り崩すことができる。」

しかし、駒が足りないのが、唯一の気がかり・・・。

そこに、信繁と三十郎が上杉の援軍とともに上田城に駆けつけた。
昌幸は安堵し、勝利を確信した。

昌幸は、信幸、信繁、昌相、頼綱、作兵衛に指示を与えた。
一人一人に作戦を指示する。


●昌幸の作戦
作兵衛が率いる農兵たちを使い、城下町の大通りのあちこちに
無数の杭を打ち、千鳥掛けの柵を造らせた。
作戦は・・・餅作戦・・・、
「信繁の部隊が敵兵を城内へとおびきいれ、作兵衛の農兵部隊が
側面から叩く。徳川軍の隊列を乱す。そして、敵が慌てたところ
で大手門を開き、迷路のような二の丸に誘い込んできたところを
昌幸の率いる本隊が正面から迎え撃つ。逃げ出す敵を横から攻め
そこへ信幸が追い撃ちをかければ、徳川軍は総崩れとなるはずだ。
そして出浦昌相が、神川の上流の堰を切って敵の退路を断つ。」

地図を見せながら・・・

昌幸は負ける気がしないと自信満々だ。
▲【加沢記】
「手立てを以て防ぐべしとて追手口に??を千鳥掛けに張らせられ
 外郭寄場には乱杭を打ち足り・・・。」

●上田城一室
信繁は軍議を終え、愛娘:すえと初めての対面を果たし、初めて
娘を抱いた。とりや薫といった家族と団らんする。
薫「薫様ですよ?」

●堀田村の廃寺
しかし、梅は作兵衛の配下である堀田村の隠れ場所となっている廃
寺に行っていたため会えなかった。
梅「・・・・」

作兵衛が軍議から廃寺に戻った。信繁の帰還を教えた。
作兵衛「若様、帰ってきたそ。」
梅は笑みを浮かべ上田城に走って戻った。

●帰路
上田城に戻る途中で、泣く男の子と出くわした。
上田城に避難する際に、母とはぐれてしまったのだ。
男の子が家に忘れてきてしまったというお守りを取りに行く
という。
梅は探し当てると、中には小銭が入っていた。
梅は何かを思いつき?・・・お守りを銀と交換して貰った。
※ お守りの中身は6文銭が入っていた。
「お姉さん、これが欲しいの?」
・・・変すぎる?



●城下町
信繁、信幸、作兵衛が大通りの杭を見に行っていた。
信繁「この戦い、誰が考えても我らの部が悪い。そのことが
   逆に勝機をなると、父上はお考えになったのでは、・・・」
信幸「???」
信繁「敵は一気に押しつぶそうとしてくるはずです。しかし、そこに
   油断が生まれる。大軍ならでの隙が・・・。」
作兵衛「どういうことですか?」
信幸「・・・あいつには見えているのだ。戦の決着が・・・。
   父上とあいつだけには・・・」



●上田城
梅は上田城に戻ったが信繁の姿はない。
梅はきりにお守り袋を預け、信繁に渡すよう頼んだ。
梅は再び堀田村の廃寺に戻った。
信繁は本丸に戻った。
きりだけが本丸にいた。



●堀田村の廃寺
信繁も梅に会いに寺に向かった。
結局、梅とは会えないまま・・・


●上田城
幸繁が戻ると、きりだけがいた。
きり「梅から預かった。」
梅がきりに預けていったお守りをあらためると、中には真田家の家紋
である六文銭が入っていた。
きり「どういうこと?」
信繁「以前、お梅に話したことがある。真田の家紋は2つあるんだ。
  ・・・雁金と六文銭。・・これも真田の家紋だ。・・
  六文というのは三途の川の渡し賃。」
きり「縁起でもない。」
信繁「悔いのないように心置きなく戦えということだ。」
と意味を説明した。

信繁はにっこりと笑い、闘志を燃やした。

◆第一次上田合戦、開戦!
閏8月2日。
●神川の河原
夜が明けた。信繁も信幸も作兵衛も準備万端。
▲【加沢記】
「城地2里四方に農民共籠城しければ彼らを集めて男女共に
3000余人百姓の妻女童部には石礫(つぶて)を打たせたり。
かくて
@大手の門をば、祢津宮内大輔父子(★禰津元直・政直)、
鎌原宮内少輔(★幸正=幸綱弟)、大熊五郎左衛門500余騎・・・
A常田口には矢沢三十郎、小泉、和田、湯本、青原300余騎・・
B裏門には常田図書(★隆永=幸綱弟)、武石、西久保(★鎌原の
親戚)、富沢大学200余騎・・・
C嫡子:信幸公は300余騎にて伊勢山(★砥石城)に・・・
D昌幸公・・・・書かれていない。
E信繁・・・・・書かれていない。


●城下町
梅は作兵衛や堀田村の者たちと城下町の路地で待機していたが、
きり「胸が張ってきた。」
と告げると、娘:すえに授乳するために行ってしまった。


●神川の河原:真田信繁軍
幸繁は神川の河原で作戦通り、手描きの六文銭の旗を振り、川向こう
の徳川軍を誘い込むように「高砂」を歌い始めた。
徳川軍に聞こえるよう、朗々と『高砂』を歌いだした。
▲【加沢記】が基になっている。
「8000余騎の寄せ手轡を並べて旗を上げたりければ、昌幸公
いざや、囃子をせよとて、若侍衆に申し付けられ、高砂をぞ始め
られける。・・・後略・・・・。」
 
●神川の河原:徳川側
徳川軍は信繁の挑発に乗った進軍を開始し、川を渡ってくる。

◆第一次上田合戦の幕が切って落とされた。********


●真田信繁軍
 信繁は上田城の城下町大通り付近まで兵を引いた。
 竹の束の盾にして身を隠した。そして、徳川軍を待った。

●徳川軍
 徳川軍が一団となって前進してきた。

●真田信繁軍
高砂「・・・・」
信繁はうんこちちん、おしりペンペン・・・・
 

●上田城本丸
きり「始まったみたいよ?」

信繁の合図によって銃兵隊が発砲し、続いて背後にいた弓平兵隊
が矢を放った。 
▲【加沢記】
「女童は石礫を投げ出し、喚きける。鉄砲竹束法螺の貝勝ち鬨の
声天地に響き・・。高砂一番囃子ける内・・・・」

鉄砲による応酬が一段落した。・・・
信繁隊は作戦通り、城下町に逃げこんだ。

 大通りの入り口には互い違いに結った千鳥掛けの柵があり、奥には
無数の杭が打たれていた。


●徳川軍
 徳川の大軍は大手門を目指し、一気に攻め込んで来た。


●堀田作兵衛隊
 作兵衛たちの隊が作戦通り、杭の隙間かた横槍を入れ、
 石つぶてで攻撃した。

●徳川軍
 徳川軍はひるまず突き進む。しかし、杭が邪魔になり、隊列は5列
 縦隊から3列縦隊へと細く長くなっていった。
大久保「大手門はすぐそこじゃ。かかれ」 
※作戦通り・・・まるで伸ばした餅のように。

●本丸?
昌幸は碁を打っていた。
▲【加沢記】
「昌幸公、少しも騒ぎ給はず長岡寺を碁一番打たんと宣ひて、
 戦ふべき気色はなかりける。・・・」


●上田城
 梅は本丸で娘:すえに乳をあげた。
 梅が、再び戦場に行こうとする。
 きりは必死に止めるが・・・・
梅「私はこの子のために戦うの!」
きり「あなた、戦さは嫌いなんじゃなかったの?」
梅「親になったら話は別よ」


●大手門の前まで来た徳川軍
 ついには2列縦隊にまで細くなっていた。




●上田城大手門前
★鳥居元忠隊・大久保忠世隊 VS 真田信繁隊
激しい戦闘が繰り広げられる。

●真田信繁隊
信繁「開門。」
と叫ぶ。信繁の合図でゆっくり門が開かれた。
真田兵は二の丸に逃げ込んだ。
落とし穴・・・

●徳川軍
 徳川兵は真田信繁隊を追いかけて二の丸なだれ込む。
 しかし、徳川軍にとって二の丸は蔵や厠(トイレ)が複雑に
 並んだまるで迷路であった。
 徳川の隊列は乱れに乱れた。
 本丸の狭間から鉄砲や矢の攻撃が飛んできた。
 徳川軍は完全に混乱状態におちいっていた。

●真田信繁
 信繁は順調に徳川軍を誘い入れてきた。
 しかし、二の丸から本丸に入る脇門のところで梅を見つけた。
 中に入ってきてしまった。
 信繁がつい立ち止まってしまう。梅も気づいた。
信繁「お梅・・」
梅「源次郎様・・」

しかし、信繁に徳川兵が襲いかかる。梅には近づけない。
信繁は矢沢三十郎に窮地を救われた。
(★平山優説・・・矢沢は矢沢城にいたと本に書いている。)
梅は脇門から現れた佐助に引き入れられた。
梅は本丸で待機するのであった。

★志村流の「うんこちんちん」の真田幸繁攻撃開始・・・・・
信繁は梅の安全を確認すると、再び徳川兵との戦いに戻った。
六文銭を振り回す。
信繁は本丸へ通じる門まで徐々に退き、おびき寄せた。
追いつめられたふりをして・・・スッと横に移動する。

●真田昌幸「大手門」
▲【加沢記】
「祢津家臣:加沢・・・直景切って出て・・・
 祢津長右衛門尉、この碁御勝ちとて笑ふ。・・
・・・昌君各甲冑を召されて3尺5寸の大長刀信為に持たせて
 2尺8寸の太刀をはき、・・・十文字の槍をひっさげ・・
 ご秘蔵の望月黒7寸余りの名馬をに赤鞍を置き、金の馬?を
 打ち掛け、・・・・」


●大手門
各方面から鉄砲隊・・・
槍・・
弓・・・
「門を開け・・。」
その瞬間、本丸の門が開いた。
馬に乗った昌幸、内記・・・
▲【加沢記】
「昌幸、昌君、信為・・・の名がある。」

真田昌幸軍の本隊が現れ、一斉に徳川軍に襲い掛かった。
土蔵の壁穴から鉄砲兵が一斉射撃した。
そして、蔵の上からは農民たちが煮え湯や石つぶてを敵兵に浴びせた。

信繁はさらに茶かす。
 此れって昔のうんこちんちん ・・・精一杯のPR
★全くドラマで何か変?
徳川軍は退去するしかなかった。

※実際は★大久保忠世・大久保彦左衛門・鳥居元忠・平岩親吉など
+保科正直などがぐちゃぐちゃになった。

鐘がなった。・・・

●本丸
梅「戦の場所に行けなかった。」
きり「男に任せて置けば良い。」

●城下町
しかし、城下町では信幸隊が待ち受けていた。
信幸「かかれ・・・」


信繁「さて、とどめといくか?」


●徳川軍
徳川軍は必死で振り切り、河原まで退散した。
轟音・・ドド・・どど・・・・
大久保「何だ。この音は?」
徳川軍を待っていたのは、行きとは違う鉄砲水のような急流で
あった。
神川の水をせき止めていた仕掛けを出浦昌相が断ち切ったのだ。
徳川軍の多くは急流に飲み込まれて溺死・・・・・。


●櫓門
梅「逃げ場を失った敵兵が、柵を壊して山へと逃げこんだかも
  しれん。」
きりとともに城の櫓にいた梅は、・・・
梅がいなくなった!


●真田の勝ちどきが城下町に響いた。
信繁「快勝だ。」
お守りの六文銭を見た。

第一次上田合戦は、真田軍の大勝利で幕を閉じた。
昌幸の知略&信繁の機転などで徳川を撃退し、見
大番狂わせを演じる真田家・・・。
●本丸
昌相「・・家康はどう出るか? 」
昌幸「長い戦いになるかも・・・」

しかし、全てが順調に見えた戦いにあまりにも悲しい事態発生・・・

●堀田村の廃寺
作兵衛の部隊が隠れ家としていた廃寺の周囲には、堀田村の人びとの
おびただしい遺体が並んでいた。

信繁が到着した。
信繁「作兵衛・・・」
作兵衛「不幸中の幸いでした。」
信繁「助けてやれなくてすまなかった。」


その時、赤ん坊の泣き声が聞こえた。
信繁が振り返る。
泣いているのは娘:すえだった。
抱いているのは梅ではなくきりだった。

きり「お梅ちゃんは柵が壊されるのを見て、村人たちを
心配して城を飛びだしていきました。」

作兵衛「梅は無事に戻りましたか?」

作兵衛「お梅・・・お梅・・」
信繁 「お梅・・・お梅・・。」

信繁&作兵衛は周囲を探すが、何度呼んでも返事はない。

そして、裏手から・・・・
作兵衛の絶叫が聞こえてきた。

梅が泥だらけで槍を持ったまま倒れている・・・。

「お梅・・・」
と、信繁は梅を抱え起こすが、すでに息はなかった。
信繁は泣いた。
作兵衛も泣いた。
側室:梅がいつ死んだのかは不明である。


◆ナレーター
「徳川軍の死者は1300人あまりにのぼったが、真田側の死者は
 50人に満たなかった。」

きりは梅に涙ながらに誓うのであった。
「お梅ちゃんは私が育てます。私が・・・」

●大坂城
豊臣秀吉・石田三成の登場

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
◆【真田丸】ゆかりの地

1)砥石城・・・

2)加沢記「高砂を・・・。」

3)神川

4)月窓寺
・永禄元年(1558) 真田幸綱(幸隆)の弟:常田隆永が常田に堂宇を
  建立した。
・天正13年(1585) 第一次上田合戦で焼失した。
・????年 月窓寺が鍛冶町に再建された。
(★群馬には鍛冶町は箕輪城下・高崎城下・沼田城下のみ)
真田幸繁が月窓寺を再興したともいわれている。
伝心山月窓寺から伝叟山月窓寺となった。
・慶長14年(1614) 真田信繁(幸村)の法名は月窓伝心という。
・現在・・・上田市中央上田市中央6−4−13(鍛冶町)


★明日は信濃の城?

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箕輪初心:生方▲真田丸80【第1次上田合戦】加沢記・平山説&第13話「決戦」 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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