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zoom RSS 箕輪初心:生方▲千曲市の名所35選:稲荷山城&森将軍塚古墳等

<<   作成日時 : 2016/04/03 06:38   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

千曲市の名所?に3回に渡って訪問した。35〜40ヶ所を巡っ
た。城巡りファンなので、村上氏館・葛尾城・荒砥城・屋代城を
紹介してきたが、今回は森将軍塚古墳・智識寺・武水神社・稲荷
山城・稲荷山宿・長楽寺の写真を掲載しようと思う。稲荷山城は
天正10年(1582)上杉景勝が真っ先に武田晴信を裏切った荒砥城
主:屋代秀正を信用せず、稲荷山城を築城した。町割が北国西街
道の稲荷山宿の原型となった。
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箕輪初心◆松尾芭蕉J【更科紀行】=木曽・姨捨・善光寺
http://53922401.at.webry.info/201207/article_25.html

箕輪初心:生方▲村上氏館跡:満泉寺&村上義清の墓&
坂木ふるさと歴史館
http://53922401.at.webry.info/201603/article_30.html

箕輪初心:生方▲信濃:【葛尾城】:村上義清の詰め城
http://53922401.at.webry.info/201603/article_31.html

箕輪初心:生方▲真田丸78【村上義清&上杉謙信VS武田晴信&
真田幸綱・昌幸】
http://53922401.at.webry.info/201603/article_32.html

箕輪初心:生方▲真田●79信濃:荒砥城:村上→武田→上杉→真田
http://53922401.at.webry.info/201604/article_1.html

箕輪初心:生方▲信濃:屋代城:村上一族:屋代氏の城→真田信繁在城
http://53922401.at.webry.info/201604/article_2.html

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【1】村上氏館:満泉寺

【2】村上義清の墓

【3】坂木宿

【4】坂木ふるさと歴史館

【5】刀の博物館?
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【6】千曲川
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★鮎釣り名人:磯部さんはかつてここでも鮎釣りを
 していた。





【7】戸倉上山田温泉
★湯の華銭湯「瑞祥」上山田本館に入湯した。

  戸倉上山田温泉:笹屋ホテルが有名。
  豊年虫:笹屋ホテル別館:国登録有形文化財


【8】坂井名醸酒蔵コレクション
  主屋と蔵:国登録有形文化財


【9】智識寺:カヤ葺きの本堂:大御堂
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・天平12年(740)聖武天皇が冠着山(かむりきやま:姨捨山の東麓に
 創建されたのが始まりとされている。
・鎌倉時代に智識寺は現在の場所に移されたという。
 3mの十一面観音像(国重要文化財)が安置されている。
・現在、「あじさい寺」として有名である。
千曲市上山田 1197


【10】荒砥城:史跡公園

【●】佐良志奈神社

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稲荷山宿:重要伝統的建造物群保存地区
【11】稲荷山城
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【12】稲荷山郵便局
@江戸時代・・北国西街道(善光寺西街道)と谷街道(千曲川東岸
  →飯山街道)の稲荷山起点・・・
A現在・・・しなの浪漫街道の起点を示す標識があるという。


【13】稲荷山宿本陣:松木家→稲荷山宿蔵し館・くらしの資料館
0)「カネヤマ松源製糸」生糸輸出の先駆者:松林源之助・源九郎の
  邸宅を修復・再生した。
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1)主屋
 白土壁で塗り固めた「土蔵造」の建物である。
 耐火建築様式を弘化の大地震の後、取り入れたそうである。
 大戸とくぐり戸を通ると、土間になる。
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土間の右の部屋がお店で、商いをする部屋である。
 奥に居間、中座敷、奥座敷がある。
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 2階は商品の保管室、接待部屋、宿泊部屋、宴会場、奉公人部屋
 などがある。


2)二階建て倉庫「くらしの資料館」
 稲荷山の生業や生活の様子を物語る民族資料を展示。
 当時は商品の保存蔵であった。



 
【14】呉服商「山丹」:呉服商の建物

【15】長雲寺:愛染明王像は国重要文化財


【16】旧松葉屋 :遊郭の家屋・二つの土蔵


【17】ふる里漫画館 :地元出身:近藤日出造の政治漫画・似顔絵
   作品を展示。

【18】舟繋石・鞍掛石:木曾義仲が丸子依田屋敷から横田河原
  の戦いに行く直前に立ち寄ったと言われる史跡。


【19】二十三夜塔 :月待ち行事「二十三夜講」の石碑。
悪霊にへそを取られないようにする行事で群馬の高崎では
女性が月に一度食べ物を持ち寄って宴会をする息抜き行事
に発展したそうである。


【20】治田神社:延喜式内社。社伝では雄略天皇8年の建立。


【21】龍洞院:文亀4年(1504)建立された。


【22】道祖神:宿に入る病気・悪霊を退散させる村の入り口の神

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【23】武水別神社 :八幡地区にある神社
  第一次川中島の合戦の舞台になった神社
松田神官邸跡
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【24】SL
更埴文化会館:あんずホールだっけか?
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【25】屋代駅
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【26】あんずの里
1)あんずの里 (森地区) あんずの里アグリパーク
2)あんずの里スケッチパーク
3)あんずの里物産館
4)あんずの里板画館



【27】科野の里歴史公園
1)埴科古墳群:国史跡
2)長野県立歴史館
3)森将軍塚古墳館
4)森将軍塚古墳:国史跡に指定。

@竪穴式住居
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A高床式倉庫

B古代稲・・・赤米・緑米・黒米

信濃「科野の里歴史公園」で古墳時代の住居跡を見ながら、
森将軍塚古墳に登った。
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C森将軍塚古墳
森将軍塚古墳は4C後半、「信濃の国」になる前の「科野「(しなの)
のクニ」を治めていた豪族の前方後円墳の墓である。

急坂を20分ほどで大穴山山頂に到着した。
標高500mの大穴山の頂上にある古墳が森将軍塚古墳である
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全長100mの古墳は群馬の古墳ではかみつけの里:保渡田古墳群と
同じくらいである。特別に大きくはないが、山頂の尾根に沿って築
かれたので、もに凄いスケールに感じた。
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前方後円墳の前方部の石段を行く。 


古墳の外側は葺石であった。
★保渡田の八幡山古墳と同じである。
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箕輪初心◆群馬の古墳C保渡田古墳群=復活した古代様式
http://53922401.at.webry.info/201103/article_24.html

箕輪初心:生方■2015高崎:再現劇『第10回王の儀式』2015年編
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201510/article_20.html

箕輪初心■群馬高崎:再現劇『第6回王の儀式」2010年編
http://53922401.at.webry.info/201010/article_45.html

箕輪初心■群馬高崎:再現劇『第7回王の儀式』2011年編
http://53922401.at.webry.info/201110/article_24.html

箕輪初心■群馬高崎:再現劇『第8回王の儀式』2012年編
http://53922401.at.webry.info/201210/article_30.html
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大穴山の尾根に沿ったために「く」の字になっている。
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後円部の墳頂:長さ29m・幅17mの隅丸長方形
竪穴式石室の規模は長さ8m、幅2m
★日本の最大級?・・・高崎の観音塚古墳・観音山古墳
 より大きい。
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箕輪初心◆【高崎の古墳群9地区】復刻版
http://53922401.at.webry.info/201410/article_11.html

箕輪初心◆群馬の古墳@元島名将軍塚古墳
http://53922401.at.webry.info/201103/article_21.html

箕輪初心◆群馬の古墳A浅間山古墳172m=東日本bR
http://53922401.at.webry.info/201103/article_22.html

箕輪初心◆群馬の古墳C=保渡田古墳群
http://53922401.at.webry.info/201103/article_24.html

箕輪初心◆群馬の古墳D「八幡古墳群&若田原古墳群」
http://53922401.at.webry.info/201103/article_25.html

箕輪初心◆群馬の古墳F「高崎:上小塙稲荷山古墳&箕郷の古墳」
http://53922401.at.webry.info/201103/article_27.html

箕輪初心◆群馬の古墳G「高崎:上小塙稲荷山古墳&箕郷の古墳」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201103/article_27.html

箕輪初心◆群馬の古墳H「綿貫古墳群」=群馬最大の石室
http://53922401.at.webry.info/201103/article_29.html

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森将軍塚古墳の竪穴石室は墳頂から石室の底までが3、5m
石室を石英閃緑石を積み上げて塞いだ。
★手厚く葬られていたようだ。
盗掘で、発掘時には木棺はなかった・・・。
鉄製の鎌・ノミ、矢じり・剣・刀
 三角縁神獣鏡(サンカクブチシンジュウキョウ)、
ヒスイの勾玉、・・・・などの副葬品が納められていた。
葬品は呪術的な要素のもので、森将軍塚古墳の被葬者は
農業生産を呪術の手法で推進した首長と考えられている。

「三角縁神獣鏡は中国製でヤマト政権から賜ったものである。」
とパンフレットあったが、三角縁神獣鏡は
中国製・韓国製・日本製があるが・・・・。
高崎の???古墳出土は一部▲が見つからない三角縁神獣鏡は
卑弥呼からの贈り物の可能性はあると言われている。
保渡田古墳群の三角縁神獣鏡は韓国製のものをヤマト政権から
貰う「大王の儀式」を若狭徹先生監修で行っている。
森将軍塚古墳もヤマト政権の全国統一と密接に関係すると
考えられる。


前方部前方部から竪穴式石室が2基の組合式箱型石棺・埴輪棺が
発見された。
保渡田古墳群は舟形石棺である。


埴輪・・・壺形・円筒・朝顔形・合子・家型が復元されていた。

★日本最大の古墳:大坂の大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)は5Cに
建造された。
★古墳文化が畿内・吉備(岡山)・上野(群馬)が発達した。

墳頂の眼下は善光寺平・・・信濃平
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・妻女山・雨宮の渡しを確認・・・・




【28】屋代城跡



【29】雨宮の渡し
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第4次川中島の戦いで上杉軍が千曲川を渡河した場所。
頼山陽の詩「弁製粛々、夜川を渡る。・・・・。


【30】善光寺大本願別院


【31】姨捨の景観:全国お月見ポイント第1位・国名勝
・平安時代 和歌に詠まれた景勝地:「田毎(たごと)の月」
  として国名勝に指定された。
・江戸時代 松尾芭蕉・小林一茶などが長楽寺などに訪れた。
・姨捨伝説→深沢七郎の楢山節考の元になった舞台である。
姨捨の棚田 :国重要文化的景観:「姨捨の棚田」、棚田百選。
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【32】長楽寺:姨捨孝子観音
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【33】JR姨捨駅:日本3大車窓・訪れて見たい駅全国第2位
  稲荷山宿などを望める。
 



【34】姨捨サービスエリア:夜景百選
高崎から名古屋・京都方面のバス旅行・夜行バスの行き帰りに
の朝一番、夜景時に時々寄るSAである。
  長野盆地〜姨捨の眺望は結構素晴らしい。



【35】桑原宿
★行ったかもしれない。


【36】猿ヶ馬場峠
★行ってない。

【37】冠着山
★行ってない。

【39】生仁城跡
★行ってない。

【40】鷲尾城跡 :倉科将軍塚古墳
★行ってない。






◆◆ 稲荷山宿の歴史 ◆◆
・治承4年(1180) 木曽義仲の挙兵
稲荷山温泉伝説・・・白い狐が温泉に入ってたとか?


・文明16年(1484) 奉納の歌集とされる文書に「いなりやま」と
 詠まれた歌がある。
   (武水別神社神官松田家の「奉納の歌集」)

・天文20年(1551)
5月26日 真田幸隆が戸石城を乗っ取った。
真田幸綱(幸隆)は砥石城の足軽大将:矢沢薩摩守頼綱(幸綱の
弟)等の内通により砥石城は攻略された。
真田幸綱は砥石城を1日で攻略した。
その際、城代であった山田国政、吾妻清綱を討伐した。
山田氏は滅んだ。
山田氏滅亡の後は、荒砥城には屋代政国が入城した。


・天文22年(1553)
3月 狐落城は、児島(小島)兵庫三兄弟が守っていた。
  武田晴信の戦略によって落城した。
  武田晴信は荒砥城を猛攻した。
  城将山田政国が奮戦したが、討死した。

4月 村上義清の属将の荒砥城主:屋代越中守政国、塩崎城主:
 塩崎氏寺尾城主:石川氏、塩崎城主:塩崎氏、春日氏、室賀氏ら
 が内応し、武田晴信に降伏した。
 
  村上義清の本拠:葛尾城を伺った。

4月9日 村上義清は葛尾城を棄てて逃亡した。
  越後春日山城の長尾景虎(上杉謙信)を頼った。
  村上義清は再度体勢を整えた。

4月22日〜23日 村上・長尾軍は葛尾城を攻撃した。
 武田城将:於曾(おぞ))源八郎が戦死した。
  村上義清は葛尾城を奪還した。
  武田晴信は深志城に後退した。

5月11日 一端甲府に引き上げた。
村上義清は旧領を回復し塩田城に入った。


8月4日  
 村上義清方の16の諸城が1日で攻略された。
   
  武田晴信は塩田城包囲のために進軍した。 

  村上義清は塩田城を脱出して身を隠した。

8月5日 武田晴信は塩田城を攻略した。 
  武田晴信は飫富兵部少輔虎昌を城将とした。


▲第一次川中島合戦

8月?日 長尾景虎は村上義清らの要請により川中島に出陣した。

 
 武田晴信は塩田城を本陣として長尾軍に対峙した。 
 武田晴信は飫富虎昌を先鋒として室賀城に移動させた。
武田晴信の部隊は八幡(千曲市)に陣を張った。
 布施・八幡の戦い・・・武水神社付近で戦った。

8月22日 ●真田幸綱(幸隆)は3男:真田昌幸を防府に人質に
 出した。・・・(後、武田晴信の小姓となった。)
  

9月1日 長尾景虎は葛尾城、荒砥城などで交戦した。
荒砥城を占領した。

9月3日 長尾景虎は青柳に進んだ。
武田晴信は手薄になった荒砥城に夜襲をかけた。

長尾景虎は麻績で武田軍と対戦した。
 長尾景虎は不利を悟り、再び八幡(千曲市)に戻り、
 武田晴信のいる塩田城に向かった。

しかし、武田軍の守りは堅かった。

武田晴信本隊は塩田城から本隊を途中まで出陣した
  
 
9月17日
 長尾軍は葛尾城下の坂木南条(坂城:千曲市)に放火したものの
 塩田城には迫れなかった。

9月20日 長尾景虎は撤退した。

武田晴信は塩田城から出陣したものの、撤退の報を聞いて
塩田城に戻り、論功行賞を行った。

●真田幸綱(幸隆)は塩田城での戦後処理でに恩賞として秋
和(上田市秋和:虚空蔵山と上田城の間)350貫文を与え
られた。
※平山優説・・・真田幸綱の忠節と活躍に報いたのであろう。
 また、天文19年に約束していた諏訪方と上之城(御所)
1000貫文も引き渡されたとみられる。

武田晴信は深志城に在陣した。

武田信玄により葛尾城が落城した。
武田晴信に従った屋代政国が屋代城の替え地として、荒砥城に
 移った。
また、稲荷山に砦を造って、川中島への中継地にしたと思われる。
甲州流築城術の「馬出し小路」の地名が残っている。


・天正10年(1582)

3月11日 武田氏が滅亡した。
6月2日 本能寺の変

6月8日 織田家家臣:森長可は海津城から、人質を
 つれて逃げた。
 
6月?日 上杉景勝が川中島統治した。
 海津城将は山浦景国(村上義清の息子:村上康清)であった。
 海津城副将は屋代秀正がなった。
 屋代秀正が上杉景勝に従い海津城の副将として遇された。
 

 しかし、上杉景勝は2年前に、村上氏一族の中で最初に武田方に
 寝返った屋代氏を信頼していなかった。荒砥城の守将:屋代秀正
 が徳川方へ裏切るのを懸念したのだ。

また、少し南にある山沿いの桑原宿が宿場としての役割を果たして
 いた。 ※地名の由来伝説
『天当河原には7戸が住んでいた。上杉景勝はそこにに、三方へ
 出撃できるよう築城の縄張りをした。その最中に白い狐が現れて
 湯の崎山に姿を消した』と伝えられる。

 上杉景勝は稲荷山城を築いて監視していた。
上杉景勝の街の中央部で街道が途中で折れ曲がる「鍵の手」や水路
 などの地割をした。

上杉景勝が稲荷山城が築城した際に、町割及び伝馬制度が布
 かれたことから始ったとするのが定説である。
 町割が善光寺街道(北国西街道、善光寺西街道)
の稲荷山宿の原型となった。
 町割は北から「新町・五日町・横町・柳町」の4町であった。
 横町の位置には枡形「鍵の手:が設けられた。
 後に新町が荒町、五日町が中町、柳町が八日町に改められた。

しかし、北国街道にも通ずる場所を考えた。
@北国西街道(善光寺西街道)洗馬宿から篠ノ井追分宿までの街道
 が成立した。
洗馬城下で木曽街道(後中山道)と分かれた後、松本城下を経て
 麻績城下→青柳城下に入り、街道最大の難所:猿ヶ馬場峠を越え
 て善光寺平の南端:桑原宿となる。稲荷山宿に至り、丹波島で
 北国街道に合流する。上杉景勝は麻績城攻めもやっている。
 もちろん、北国街道で、善光寺→小林一茶のふるさと→
割ヶ岳城→野尻湖城宿→に行ける。
 後に北国西街道と呼ばれた。
A谷街道(千曲川東岸→飯山街道)の稲荷山起点・・・
上杉景勝は海津城→井上城→須田城→壁田城→飯山城→
峠越え・・・飯山のぼくち蕎麦&謙信餅を食って・・・
箕冠城→鳥坂城→鮫ヶ尾城→春日山城に帰った。

 荒砥城は清野・寺尾・西条・大室・保科・綱島・綿内の各氏に
 よる城番管理がなされた。


・天正11年(1583) 屋代秀正は徳川家康と通じた。
★ばらしたのは真田昌幸か?

・天正12年(1584)
4月1日 屋代秀正は上杉景勝の諸将に攻められた。
 落城した。
 屋代秀正は荒砥城に火を放ち、徳川の下へ出奔して旗本となった。
 荒砥城は廃城となった。
箕輪初心★『塙保己一』と【「群書類従」の箕輪城】
http://53922401.at.webry.info/201405/article_33.html
★屋代弘賢(ひろかた)・・先祖は信濃屋代城主→旗本。
       和学講談所の会頭。


・天正13年(1585)
7月15日 坂木庄も真田昌幸の支配下になった。 

8月2日〜 第一次上田合戦
  屋代秀正は依田康国とともに矢沢城を攻撃した。

 屋代氏出奔後の領地の一部は上杉景勝の人質となっていた
 真田信繁(幸村)の領地として与えられ、屋代城に入った。
 荒砥なども支配地であった。


・慶長年間(1596〜1615) 宿場町の様相を呈してきた。

・慶長19年(1614) 松本盆地の郷原宿から麻績宿までの北国西
 街道が整備された。稲荷山宿も正式に北国西街道の宿場となった。


・貞亨5年(1688)  松尾芭蕉が来た。
   松尾芭蕉も通り、田毎の月を眺め、善光寺へ行った。
「姨捨・田毎の月」・・・千曲市大字八幡・・・

・寛政3年(1791) 小林一茶が29歳の時、柏原宿に帰省した。
  俳諧の修行のため近畿・四国・九州を旅した。

・享和元年(1801) 小林一茶が39歳の時、再び帰省した。
北国街道で、姨捨→稲荷山宿→善光寺→柏原宿:小林一茶の故郷


・弘化4年(1847) 善光寺大地震
稲荷山宿は全焼する大被害を受けた。

・嘉永2年( 1849)「善光寺道名所図会」が作られた。
  稲荷山宿は「1ヶ月に九回の市が立ち、商人多く、家数
  も五百軒ある繁盛の地」と記されている。


・安政5年(1858) 稲荷山村検地絵図(千曲市教育委員会所蔵)
 が作られた。
 北から荒町・中町(含旧横町)・下八日町・本八日町・上八日町
 の名が見られる。


・文久2年(1862) 家数436軒、人数1625人の宿場で呉服問
屋の多い町としても栄えた。

・明治時代 繭や生糸・絹織物などを扱う北信濃随一の商都であった。


・平成26年(2014)12月10日、重要伝統的建造物群保存地区として
 選定され、「千曲市稲荷山伝統的建造物群保存地区」となった。
109番目・・・

・現在  「しなの浪漫街道」の分岐点である。



★明日は、武田信玄が第1次川中島の合戦を終え、伊那の
 鈴岡城を攻め、伊那を支配下にした話か第2次川中島の合戦
と旭山城か?

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