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zoom RSS 箕輪初心:生方▲第4次川中島の合戦B『竜虎激突:武田信玄VS上杉政虎』

<<   作成日時 : 2016/04/30 07:21   >>

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・永禄4年(1561)9月10日午前1時、真田昌幸は嫡男・真田信綱
とともに妻女山の上杉本陣への夜襲に加わった。(★『甲陽軍鑑』)
しかし、このことも本当かどうか不明である。第4次川中島の合戦
が八幡原であった。武田信繁・山本勘助・両角(諸角)虎定・初鹿
野源五郎・三枝守直ら多くが討ち死にしたという事実くらいしか分
かっていないようである。長野県史では『甲陽軍鑑』は一級史料
ではないが、ある程度信用できるとしている。
画像


箕輪初心:生方▲第4次川中島の合戦に至るまでの長尾景虎の動向
http://53922401.at.webry.info/201604/article_31.html

箕輪初心:生方▲『第4次川中島の合戦に至るまでの武田晴信
・真田幸綱の動向』
http://53922401.at.webry.info/201604/article_33.html

箕輪初心:生方▲第4次川中島の合戦@『上杉政虎の出陣→本陣:妻女山』
http://53922401.at.webry.info/201604/article_34.html

箕輪初心:生方▲第4次川中島合戦A『武田信玄の出陣→着陣
:茶臼山説&雨宮説』
http://53922401.at.webry.info/201604/article_35.html



【0】余談
「・永禄3年(1560)12月 足利義輝に一字を賜り、(長尾)輝虎と
 名乗った。」
とウィキペディアにあったが、・・・・
「・永禄5年(1562)8月 足利義輝に一字を賜り、上杉政虎から
 上杉輝虎と名乗った。」
と長野県史にあった。
そして、『甲陽軍鑑』では「上杉輝虎」「謙信」を使用している。




◆上杉政虎〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
8月14日 上杉政虎は上杉政虎は1万8千の兵を率いて
  春日山城を出発した。
画像



●出発日諸説
@8月上旬説・・・・・「武家事紀」
A8月8日説・・・・・「松代町史」
B8月14日説・・・・「川中島合戦伝記」「北越軍談」(★通説)
C8月中旬・・・・・・「武田三代軍記」「甲陽軍鑑」
 8月中旬 上杉政虎は1万8千の兵を率いて春日山城を出発し
  信濃に川中島に出陣した。
(★『甲陽軍鑑』)
D8月29日説・・・・「信濃史料」「越佐史料」
★本来は8月29日が有力説となるべきであろうが、・・・・

8月29日付 上杉政虎→長尾政景への書状
1)春日山城留守居:長尾政景(上杉景勝実父)
越中の一揆があれば、出陣せよ。
2)会津衆蘆名・大宝寺衆(山形県)が来たら、蔵田
が面会せよ。・・・・陣は・・・・
(★『激戦川中島』:一ノ瀬義法著)
★8月29日の一番信憑性のある史料を想定すると、
@8月24日の武田信玄の茶臼山着陣より後になり
 妻女山の着陣が疑わしいことになりはしないだろうか?
A妻女山に着いたとすれば、9月3〜4日となる。
 知らせを受けて出発すると、甲斐からでは10日間はかかるので
 9月10日には間に合わない。
既に川中島にいたことになる。
 ★『甲陽軍鑑』が間違った記述をしていることになりはしない
 だろうか?

8月15日 善光寺に着陣し、荷駄隊と兵5000を善光寺に残した。
 自らは兵13000を率いて更に南下を続け、犀川・千曲川を渡り
 長野盆地南部の妻女山に陣取った。
■▲●上杉政虎の布陣諸説●▲■
★妻女山は本当に良い位置だったかどうか?

※@説・・・通説:妻女山説
  『甲陽軍鑑』位しか、まともな史料がないという。
これを信じるしかないのであろうか?
 ※上杉政虎の妻女山の本陣が現招魂社付近と伝わっている。
斎場山の尾根上の頂(「赤坂山」)は殿(しんがり)の甘粕近江守
  景持が陣を敷いた場所と伝わっている。

※A説・・・私見:雨宮付近〜妻女山の一部。妻女山に見張り。
  川中島の武田の勢力を打破するのが、4回目の出兵である。
  個人的には、海津城に2千の兵がいるので、本当に
妻女山に1万3千人全員が登ったか疑問である。
妻女山に・・・登っていないので、分からないけれど
周りから妻女山を見ると、1万3千人は無理みたい?
雨宮付近に半分以上の兵を待機させたかもしれないなあ。
 各所に配置したであろうが・・・・。
当然、村上義清・高梨政頼・井上昌満・須田満親・島津忠直
 ら信濃衆は雨宮の付近ということになる。

※B説・・・斎場山説・・・妻女山の尾根続き。
※C説・・・西条山説
「甲陽軍鑑」 「武田三代軍記」
    南に10kmほど離れた全く異なる山である。
ただし、長野県史では西条(妻女)山としている。

※D説・・・妻女山に行っていない説
妻女山布陣は定説となっているが「史実にはない」
  と否定する説である。
 ・天正10年(1582) 織田軍の森長可が撤退後、天正壬午の乱
の川中島に北条氏直軍の北上に備え、上杉景勝は長沼城を
  経由して海津城に入って妻女山・鞍骨城一帯に布陣した。
  という史実との「混同」であると理由付けしている。
※越後軍 1万8千
 ※武田軍 1万6千
(★『上杉年譜』)


◆武田信玄〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
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8月16日 海津城の高坂昌信から政虎が出陣したという知らせ
      を受けた。
「輝虎が信濃に出陣して、海津城の向かい西条山に陣を取りま
 した。必ず海津城を攻め落とそうという決心をみます。その勢
 1万3000ばかりです。」
(長野県史通史編第3巻)
「8月16日 信州川中島より飛脚詣りて申し上げる。
 信玄公は同月18日に甲府を御立ちなされ、同24日に川中島
 に御著あり。」
    (★『甲陽軍鑑』)

8月16日 甲府を出発した。(★ウィキペディア)
8月24日 兵2万を率いて川中島に着いた。
 ★説がおそらく10ヶ所ある。   
 (★『甲陽軍鑑』には茶臼山に陣取ったという記述はない。)   
  茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。
  茶臼山布陣は『甲陽軍鑑』以後の軍記物語による。
●▲■武田信玄の本陣諸説
;;;茶臼山説;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
※@説・・・★通説:茶臼山頂上説
    (★「北越軍談」「武田三代記」等)
※A説・・・有旅(うたび)=信里の茶臼山説 (★通説に同じ)
 戦国時代、茶臼山は北峰と南峰があった。
 武田信玄は北峰の有旅(うたび)=信里の茶臼山に本陣を構えた。
 弟:武田信廉を南峰の石川茶臼山に砦を築き、脇備えとした。
 大正時代、茶臼山南峰が崩れた。
  (★「石川村誌」)
※B説・・・武田信玄は石川茶臼山に本陣を置いた説
※C説・・・塩崎城説 (★ウィキペデアの説)
※D説・・・布施山城説:茶臼山は塩崎城のすぐ西の稲荷山付近説
※E説 稲荷山小坂に茶臼山があったとする説
※F説・・・茶臼山は現森将軍塚古墳跡付近とする説
(★「北越軍談」)★上杉政虎に対応できる。
※G説・・・石川茶臼山5日間→雨宮への移動説
(★「河中島古戦場地理誌」)
 茶臼山→雨宮の陣→海津城への移動説
(★「甲越信戦録」→茶臼山の看板史料)
※H説・・・雨宮の橋を焼き→茶臼山説
(★「武田三代記」)
;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
※G説・・・雨宮の渡し西岸付近説 
  「甲陽軍鑑」・「川中島五戦記」「上杉年譜」「続本朝通鑑」
「北越軍記」「松隣夜話」「日本外史」「上杉謙信日記」等
★兵を2〜3に分け、ささっと挟み撃ちにできる。
妻女山に上杉政虎がいなかったとすれば・・・・
 (★『激戦川中島』:一ノ瀬義法著などを参考に・・・)
★通説だとされる茶臼山城説の方が圧倒的に少ないが、・・・
 個人的には郷土史研究は我が故郷大好き感のある間違った
 歴史研究や政治的・行政的・教育的な圧力によりゆがめ
 られてしまった。
 高崎経済大学:西沢教授の正しい地域史を学ぶべき・・・
 という考えが分かる気がした。



◎『甲陽軍鑑』における合戦の経過(★長野県史通史第三巻P252〜)
「輝虎が陣を取っている西条山のこちら、雨の宮の渡しを取り、
 輝虎の軍の越後への連絡を絶ち切った。上杉軍は袋の鼠のような
 形になり、部下は皆心配していたが、一人輝虎は平気な顔をして
 いた。信玄公はここに5日間滞在し、越後軍の動かないのを見て
6日目の8月29日に広瀬の渡しを渡って海津城に入った。」

★武田信玄は
@長尾景虎は上洛し、足利将軍の権威を後ろ盾としたこと、
A関東の諸将を率いて小田原城まで攻撃したこと、
B関東管領に就任したこと等
武田信玄は上杉政虎を今のうちに叩いておかねばならぬと危機感を持ち、
慎重に行動したのだろう。
   武田信玄は妻女山にいる上杉政虎の出方を観察した。
   
 上杉政虎は兵を動かさなかった。

 上杉政虎は動揺に
 「信玄が越後を攻めるというなら、こっちは甲斐を攻めるまでの
 こと。」
 と涼しい顔で言って安心させた。
 そして、笛を吹き、琵琶を鳴らして過ごしたとさ、・・・
(★なんかの小説)

 5日間、にらみ合いが続いた。
武田信玄は戦線の硬直状態を避けるため、・・・・
長居は無用と・・・・

8月29日 海津城へ移動・・・・



▲茶臼山説
妻女山を、茶臼山・海津城と共に包囲する布陣となった。
 武田信玄は茶臼山を降り、海津城へ入ったことになる。
 これによりそのまま睨み合いが続いた。
8月29日 川中島の八幡原を横断して海津城に入城した。
 上杉政虎は武田信玄よりも先に海津城に行けるはずである。
 信玄到着前に海津城(2000)を攻めることもできたはずである。
 海津城を落とせば、戦局は圧倒的に有利に進めることもできたが、
 攻めることはなかった。
  攻めなかった理由は不明・・・・
 妻女山から海津城へは目と鼻の先・・・約1.5〜2km程しか
 離れていなかい。
 
★蛇の様な隊列の縦長の横腹を見せて進むのであるから、武田信玄
 の移動は妻女山の上杉政虎から丸見えだったはずである。
 普通なら攻撃のチャンスだと考えるが・・・。
 上杉政虎は武田信玄の陽動作戦の可能性があると考えたのではない
 だろうか?
 後の三方ヶ原戦いで、武田信玄が徳川家康の浜松城を無視
 したふりをする【空城の計】ように・・・。

 
●武田信玄は海津城に全軍を集めた。
 兵はを2万となった。
更に睨み合いが続く。・・・・
 武田重臣たちは、士気の低下を恐れ、上杉軍との決戦を主張した。
 武田信玄は上杉政虎の強さを知ているので慎重にならざるを得な
 かった。

◎『甲陽軍鑑』における合戦の経過(★長野県史通史第三巻P252〜)
「上杉軍の家老は攻撃を進めたが、輝虎は動かなかった。
 信玄公に飯富兵部・馬場民部助が決戦を進言した。
 信玄は山本勘助を召し、明日の決戦を尋ねた。勘助は
 次のように進言した。
 『二万の味方のうち、1万2千を西条山に向かわせ、明日卯の刻
 (午前6時頃)合戦をしかけます。敵は勝っても負けても、川を
 越して退くでしょうから、そこを旗本で支え、前後から挟み撃ちに
 なさるとよいでしょう。・・・』
 信玄公は勘助の策を採用した。
 
 ※武田信玄は山本勘助と馬場信房に上杉軍撃滅の作戦立案を命じた。
  山本勘助の戦略を簡単にいうと。
山本勘助と馬場信房は、兵を2手に分けて行動する作戦であった。
 深夜こっそりと別働隊の兵を海津城から出して、上杉軍に気付かれ
 ないように妻女山の後ろに回り込む。翌朝、背ろから上杉軍を襲撃
 して、追い出す。・・・上杉軍が驚いて慌てて妻女山から下って
 八幡原に向かって逃げだす。そこへ、信玄公本陣が待ち伏せしてい
 て、前と後ろから上杉軍を挟に撃ちにする。そして、壊滅させる
これは啄木鳥(きつつき)が嘴(くちばし)で虫の潜む木を叩き、
 驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ていることから、「啄木鳥戦法」
 と名づけられた。
武田信玄も「朝霧の可能性が高い。」と考えたであろう。
移動が上杉から発見されにくいふんだのであろう。
※NHK大河ドラマ『風林火山』では、・・・・
武田信玄は上杉軍が動かないことを前提とした作戦計画を立てた。



9月9日の亥の刻(午後10時頃)
◎『甲陽軍鑑』における合戦の経過(★長野県史通史第三巻P252〜)
 (★『甲陽軍鑑』が話の順序を入れ替えた。)
「輝虎は西条山から海津城に炊事の煙の多く立ち上るを見て、信
 玄公の計略を見破り、
 『今まで信玄と何度も合戦したが決戦の機がなく、いつか戦場を
 信玄にとられ、遅れをとっているのは残念だ。明日は必ず決戦し
 て信玄を討ち取ろう』
 と9月9日の亥の刻(午後10時頃)山を下り、雨宮の渡しを渡
 った。」
 上

杉政虎は海津城からの炊事の煙がいつもより多いことから、武田信
 玄の動きを察知した。上杉政虎は一切の物音を立てることを禁じて、
 夜陰に紛れて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に
 渡った。
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 (★雨宮から見た妻女山)
 頼山陽の漢詩『川中島』の一節・・・・
 「鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく) 夜河を渡る」
画像

画像

 上杉政虎は、甘粕景持、村上義清、高梨政頼に兵1000を与えて渡河
 地点に配置し、武田軍の別働隊に備えた。 
 上杉政虎は八幡原に布陣した。


※NHK大河ドラマ「風林火山」
GACKT:上杉謙信は、女占い師にあって、
「霧予想」を聞いていた。
「明日の朝は濃霧の可能性が高い。」
と認識していた。
★夏、川中島付近など盆地地形は川霧が発生することが多い。
 川中島も濃い霧が発生する。
上杉政虎は霧を考慮した作戦を立てたはずである。


●上杉の陣立て
上杉軍(13000人) 総大将:上杉政虎
@先陣・・・・・・村上義清・高梨政頼・井上昌満・須田満親
      ・島津忠直ら信濃衆。
A二陣・・・・・・河田貞政 ほか
B後備え・・・・・柿崎景家 ほか
C遊軍・・・・・・本庄実乃(繁長)ほか
D遊軍2軍・・・・黒川清実 ほか
E旗本前備え・・・小島貞興 ほか
F旗本左備え・・・山吉豊守 ほか
G旗本右備え・・・桃井義高 ほか
●総大将:上杉政虎
H軍奉行・・・・直江実綱(後小荷駄護衛)
I旗本先手・・・宇佐美定満
Jお手廻・・・・北条高広・安田長秀・斎藤朝信・色部勝長
        
  不明・・・五十公野治長・加地春綱・中条藤資・荒川長実
        ・志田義時等
K殿・・・・・・甘粕
とはいうものの・・・途中で車掛かりに変更している。
最後はぐちゃぐちゃになって戦ったと思われるが、
・・・・・

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・永禄4年(1561)9月10日(新暦10月27日)

・01:00 卯の刻(午前1時頃)妻女山別働隊10隊1万2千
@大将:春日虎綱(高坂昌信)、A馬場信房、B飯富虎昌、
C小山田信有?、D甘利昌忠、E真田幸綱、F相木昌朝、
G芦田信守、H小山田虎満(昌辰)、I小幡憲重
(★ウィキペディアより引用)
真田昌幸は嫡男・真田信綱とともに妻女山の上杉本陣への夜襲
に加わった。
(★『甲陽軍鑑』)

01:00 高坂昌信・馬場信房らが率いる別働隊1万2千が妻女山に
 奇襲をかけるべく、山の尾根をつたいに妻女山の背後へと向か
 った。朝まで待機となった。


04:00 武田信玄は海津城を出立した。
◎『甲陽軍鑑』における合戦の経過(★長野県史通史第三巻P252〜)
「(信玄公は)10隊を西条山に向かわせ、旗本8千を率いて寅の刻
 (午前4時頃)に出発、広瀬の渡しを渡って陣をとった。・・・・」
『啄木鳥(きつつき)戦法』により妻女山から追い出された上杉軍を挟
 み撃ちにするべく、武田本隊旗本隊約8千が海津城を出た。

06:00 武田信玄は八幡原に着いた。
・卯の刻(午前6時頃)武田軍 旗本本隊8千出陣
総大将:武田信玄
武田信繁、武田義信、武田信廉、武田義勝(望月信頼)、穴山信君、
飯富昌景(山県昌景)、工藤祐長(内藤昌豊)、諸角虎定、跡部勝資、
今福虎孝、浅利信種、山本勘助、室賀信俊
武田信玄が率いる本隊8千は八幡原に布陣した。

★深い霧におおわれ、わずかな先も見えない・・・・。
すぐ先に上杉軍がいるのに、武田軍は気づかないのだ。


両軍の深い霧晴れて激突
08:00頃・・・・・。
★新暦10月27日の日の出は6時ちょっと前頃・・・
  明るくなって来ているが濃霧である。
◎『甲陽軍鑑』における合戦の経過(★長野県史通史第三巻P252〜)
「信玄公は明け方に広瀬の渡しを渡り、陣とって先手の守備を待つう
ち、霧がようやく晴れてみると、輝虎の軍が近くに迫っている。」
★濃霧の中で、偵察を出さなかったのであろうか?
川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に
布陣している。武田信玄&武田軍本隊は愕然とした。
上杉政虎は柿崎景家を先鋒に、車懸りの陣で武田軍に襲いか
かった。 
※車縣の陣・・・上杉政虎本陣を中心に車輪のスポークのよう
に円形で部隊を組み、風車のように回転しながら攻める陣形で
ある。回転することで、最初の部隊が敵に当たり、その隊が一
旦引くと、次の新しい部隊で武田軍に当たなければならない。
次々攻撃する波状攻撃タイプなので、武田軍はは常に新しい部
隊を相手にしなければならなくなり、休みはない。しかし、
上杉軍は次に順番が回ってくるまで休めるのである。


武田軍は完全に裏をかかれてしまった。
武田信玄はすぐに陣形を整えた。鶴翼の陣を敷いて応戦した。
※鶴翼の陣・・・武田信玄を中心に横長で鶴が翼を広げたような陣形
 で、中央に来た上杉に部隊を翼を包むように包囲することができる。
 人数が多ければ上杉軍全体を包み込む陣形であるが人数が足りな
 かった。
上杉軍は濃霧のため陣形がすぐに整わない武田軍に攻めかけた。
上杉軍は浮き足立つ武田軍に猛攻撃をかける。
上杉政虎としては、武田別働隊が来る前に決着をつけなければなら
なかった。武田別働隊が来ると、上杉軍が挟み撃ちになってしまう
からだ。


◎『甲陽軍鑑』における合戦の経過(★長野県史通史第三巻P252〜)
「乱戦の最中、萌葱色(もえぎいろ)の胴肩衣を着た武者が、
 白布で頭を包み、月毛の馬に乗り、三尺ばかりの刀を抜いて、
 信玄公は床机にかけている所に一文字にのり寄せ、3太刀浴び
 せた。信玄公は立ち上がって軍配扇子で受け止めた。あとで見る
 と、団扇に刀傷は8つあった。原大隅という中間頭が槍で馬上の
 武者を突いたが、突きはずしたので、具足の肩上を叩いて、馬から
 落とそうとして、馬の三頭(後ろ足の上の部分)を叩いてしまった。
 馬は竿立ちになって、そのまま走り去った。後に聞くとその武者は
 輝虎だったという。・・・略・・・・」

画像


★上杉政虎は乱戦中で、武田本陣が手薄になったとみて、単身で放生
 月毛に跨がり、武田信玄の元へと向かい、本陣で床机(しょうぎ)
=椅子に座っている武田信玄に馬上から名刀小豆長光を3太刀あ
 びせた。武田信玄は軍配で受け止めた。肩先を負傷し、信玄の供
 回りが駆けつけ、馬を刺したので、惜しくも討ちもらした。
 川中島の戦いでの超有名な謙信と信玄の対決シーンであるが、後世
 の創作と考えられてる。
 上杉家御年譜では、斬りかかったのは「荒川伊豆守である。」と
 している。
 頼山陽は「流星光底長蛇を逸す」と詠じた。
個人的には上杉謙信は瞬間湯沸かし器タイプの性格があり、
  最前線に出て戦うこともあるタイプの戦国武将であった。
  私もかつては「一騎打ちなんて嘘だー・・。」と信じてきてが、
あり得るかもと思うようになってきた。
 ・永禄6年(1563)2月 松山城将:上杉憲勝は上杉政虎の援軍を
  待たずに開城した。上杉政虎は激怒し、人質として預かって
  いた上杉憲勝の子を斬り捨てたといわれる。そして、腹いせに
  騎西城の3000人虐殺した等のように・・・・、
  武田信玄を憎んでいたとしたら、この手でと自ら刀を振るったと
  考えられなくもない。ただし、単身ではないと思うが、・・・
上杉軍が武田別働隊が来る前に攻めなければならない状況を考え
 れば、一騎打ちは絶対になかったとまでは言い切れないものがあ
 る。

画像

画像

08:30頃?
武田別働隊1万2千は、上杉政虎に裏をかかれたことに気づき、
すぐに妻女山を降り八幡原に行こうとするが、上杉隊の殿:
甘粕隊1000に邪魔され、すぐには行けななかった。

09:00 ?
◎『甲陽軍鑑』における合戦の経過(★長野県史通史第三巻P253)
「典厩御討死、諸角豊後守討死、旗本足軽大将では、山本勘助入道
 道鬼、初鹿野源五郎の両人討死、信玄公は胸にかすり傷2ヶ所、
 長男義信も薄手2ヶ所。」

@武田信玄が頼りにしていた弟:武田信繁が討ち死に。
 (★明日、掲載予定)

A諸角豊後守討死
(★墓の写真消滅。八幡原公園から南西に500m程
 セブンイレブンの手前を曲がった気がする。
 富岡武蔵氏もびっくりして、拝んだ後に、写真を
 とった。)

B山本勘助入道道鬼=信玄の軍師・・「啄木鳥戦法」を立案
 した山本勘が討ち死に。

(★明日、掲載予定)

C初鹿野源五郎

★武田信玄の弟:武田信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死
するなど、前半は劣勢であったと言われる。

10:00時頃?
『甲陽軍鑑』における合戦の経過(★長野県史通史第三巻P253)
「この合戦、おおかた信玄公の負けとみえたところ、西条山にお
 攻めた10隊は謙信に出し抜かれ、はるかかなたに鉄砲の音
 やときの声が聞こえるので、我先にと千曲川を越し、上杉軍の
 後から攻めかかる。流石の謙信も、和田という侍一人だけ連れ
 高梨氏らに守られて、退いた。・・・・中略・・・・
 この合戦、卯の刻(午前6時頃)始まった前半はおおかた輝虎の
 勝ち、巳の刻(午前10時頃)から始まった後半は信玄公の勝ち
 であった。越後衆を討ち取った数は317、その日、申の刻(午
 後2時頃)信玄公は勝ち鬨の式を行った。」
 
 武田別働隊1万2千が武田信玄の本陣まで危うくなってきた時、
 甘粕隊を蹴散らして八幡原にやってきた。

★武田信玄・・・「」と思った。
★上杉景虎・・・「」と思った。

『甲陽軍鑑』における合戦の経過(★長野県史通史第三巻P253)
「流石の上杉も和田という侍を一人だけ連れ、高梨らに守られた。」
D和田・・・★和田城(高崎)の和田一族で唯一上杉についた
 和田喜兵衛であろう。
 

立場は逆転した。
予定より遅れたが、武田軍の隊は上杉軍の攻撃に耐えていた。
武田別働隊の到着によって上杉軍は挟撃される形となった。

 上杉政虎は、形勢不利になったので、兵を引き犀川を渡河し
 て善光寺に敗走した。

◎ 軍神:上杉政虎は越後春日山城へと退却していった。


Q武田信玄と上杉謙信の唯一の直接対決・・・第四次川中島の合戦。
八幡原の戦いの勝者はどちらだったのだろうか。

『甲陽軍鑑』では「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」
と記載されているが、・・・

◎武田信玄は八幡原で勝ち鬨をあげた。
  越後衆を討ち取った数は317
後、戦勝の御礼として京都清水寺に寺領を1ヶ所寄進した。

◎上杉政虎も首実検を行った上で越後へ帰還している。
 近衛前嗣は書状で
 「自身太刀討におよばれたのは比類のないこと、天下の名誉
  です。」
 と上杉政虎に賛辞を送った。
第1次関東出兵について行った関白:近衛前久の合戦後に送っ
 た書状である。


 両方が合戦後の書状で勝利を主張している。
 明確な勝敗がついた合戦ではなかった。

結果・・・死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えら
 れている。お互いに多数の死者を出した激戦であった。

◎武田信玄は信濃の大部分を武田領とした。
 その後、棒道のような専用道路を造った。替佐城も築城した。
◎上杉政虎は飯山城&野尻城を残すだけとなった。
その後、壁田城を造った。
さらに信濃をめぐる戦いは続いた。

※『甲陽軍鑑』での川中島の合戦の内容がどこまで正しいのかは
はっきりとしないが 、八幡原で代合戦があったのは事実である。


・元亀元年(1570) 上杉輝虎→上杉謙信を名乗った。
  川中島の戦いを描いた絵画や銅像では、上杉謙信が行人僧に
  描かれているが、実際は9年後であった。







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***真田の城********************
箕輪初心:生方▲真田丸41【米山城・戸石城・本城・枡形城】
真田幸隆乗取&真田兄弟対決
http://53922401.at.webry.info/201602/article_15.html

箕輪初心:生方▲真田丸42真田の里【真田氏館&真田本城
&支城群一覧】
http://53922401.at.webry.info/201602/article_18.html

箕輪初心:生方▲真田丸3【真田本城】新名所:堺&長沢の腰掛け椅子
http://53922401.at.webry.info/201601/article_5.html

箕輪初心:生方▲真田丸4【真田氏館&真田氏歴史館】
http://53922401.at.webry.info/201601/article_6.html

箕輪初心:生方▲真田丸35【松尾古城】角間館の詰め城
http://53922401.at.webry.info/201602/article_8.html

箕輪初心:生方▲真田丸37【真田天白城】真田昌幸長男
:真田信綱の築城?
http://53922401.at.webry.info/201602/article_10.html

箕輪初心:生方▲真田丸38【矢沢城】&真田昌幸の叔父:矢沢頼綱の生涯
http://53922401.at.webry.info/201602/article_11.html

箕輪初心:生方▲真田●75【真田横尾城=尾引城】
:横尾氏→真田信綱の居城?
http://53922401.at.webry.info/201603/article_26.html

箕輪初心:生方▲真田丸39【真田:洗馬(せば)城】:横尾氏の詰め城
→真田氏の城
http://53922401.at.webry.info/201602/article_12.html

箕輪初心:生方▲真田丸40【真田根小屋城】:真田氏の支城
http://53922401.at.webry.info/201602/article_14.html

箕輪初心:生方▲真田丸5【真田長谷寺】真田幸綱・正妻:河原隆正妹
・真田昌幸の墓
http://53922401.at.webry.info/201601/article_7.html


*****************************

箕輪初心:生方▲真田●75『塩田城と第一次川中島の戦い』
→真田幸綱の本領回復
http://53922401.at.webry.info/201603/article_27.html

箕輪初心:生方▲村上氏館跡:満泉寺&村上義清の墓&
坂木ふるさと歴史館
http://53922401.at.webry.info/201603/article_30.html

箕輪初心:生方▲信濃:【葛尾城】:村上義清の詰め城
http://53922401.at.webry.info/201603/article_31.html

箕輪初心:生方▲真田丸78【村上義清&上杉謙信VS武田晴信&
真田幸綱・昌幸】
http://53922401.at.webry.info/201603/article_32.html

箕輪初心:生方▲真田●79信濃:荒砥城:村上→武田→上杉→真田
http://53922401.at.webry.info/201604/article_1.html

箕輪初心:生方▲信濃:屋代城:村上一族:屋代氏の城→真田信繁在城
http://53922401.at.webry.info/201604/article_2.html

箕輪初心:生方▲千曲市の名所35選:稲荷山城&森将軍塚古墳等
http://53922401.at.webry.info/201604/article_4.html

箕輪初心:生方▲真田丸82『飯田長姫城の歴史』と
真田丸第1話「船出」
http://53922401.at.webry.info/201604/article_7.html

箕輪初心:生方▲【伊那:松尾城】小笠原氏の分裂&武田晴信〜
織田信長の伊那侵攻
http://53922401.at.webry.info/201604/article_8.html

箕輪初心:生方▲【鈴岡城】:武田晴信の第一次川中島合戦後の伊那侵攻
http://53922401.at.webry.info/201604/article_9.html

箕輪初心:生方▲【信濃:旭山城】&第2次川中島の合戦:犀川の戦い
http://53922401.at.webry.info/201604/article_12.html

箕輪初心:生方▲【尼飾城】真田幸綱(幸隆)の攻略→城番へ
http://53922401.at.webry.info/201604/article_15.html

箕輪初心▲長野:松代▲大室城前→奇妙山砦&尼飾山城ハイキング
http://53922401.at.webry.info/201412/article_17.html

箕輪初心:生方▲【葛山城】&第3次川中島合戦
http://53922401.at.webry.info/201604/article_16.html

箕輪初心:生方▲吉窪城:武田晴信に滅ぼされた小田切氏の城
http://53922401.at.webry.info/201604/article_18.html

箕輪初心:生方▲【信濃:大峰城】:武田VS長尾争奪戦の城
http://53922401.at.webry.info/201604/article_19.html

箕輪初心:生方▲【信濃牧之島城】:香坂氏→馬場信春の武田流の丸馬出
&三日月堀
http://53922401.at.webry.info/201604/article_20.html

★鬼無里3城&中条村5城は写真消滅のため、掲載できず。

箕輪初心:生方▲信濃:井上氏館&井上城遠望&竹ノ内城
http://53922401.at.webry.info/201604/article_21.html

箕輪初心:生方▲【海津城】:・永禄3年(1560)山本勘助が築城?
http://53922401.at.webry.info/201604/article_23.html

箕輪初心:生方▲信濃大室城=海津城の北西の守りの城
http://53922401.at.webry.info/201604/article_24.html

箕輪初心:生方▲保科氏館跡&霞台城&保科温泉→高遠城
http://53922401.at.webry.info/201604/article_26.html

箕輪初心:生方▲須坂『信濃須田城』&須坂散策
http://53922401.at.webry.info/201604/article_27.html

箕輪初心:生方▲真田丸88【須田満親&真田昌幸】&
『福島正則陣屋』上高井郡高山村散策3回
http://53922401.at.webry.info/201604/article_28.html

箕輪初心:生方▲志賀BBQ&【高梨氏館&高梨氏の歴史】
&真田丸89『高梨氏&真田昌幸&真田信綱】
http://53922401.at.webry.info/201604/article_29.html







★明日は『甲陽軍鑑』に登場した武田信玄の軍師:山本勘助の話?

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