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zoom RSS 箕輪初心:生方▲第4次川中島の合戦@『上杉政虎の出陣→本陣:妻女山』

<<   作成日時 : 2016/04/28 11:39   >>

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・永禄3年(1560)8月〜永禄4年(1561)の10ヶ月にも渡る第1
次関東出兵を終えた上杉政虎は武田信玄のため、@北条氏康の小
田原城を攻略できなかったことA海津城の築城→割ヶ岳城・飯山
城の侵攻(春日山まで20数km)、A上野国吾妻侵攻の危惧、
@富山での一向一揆の扇動と神保長職の復活など怒りまくってい
たのであろう。上杉政虎は休む間もなく、8月には川中島に出陣
した。海津城を攻撃することなく、妻女山に陣取ったという。し
かし、史料不足で、分かっているのは、9月10日の八幡原の決
戦で武田信繁・山本勘助・諸角らが討ち死にした事実だけである。
でもm流れに従って書くことにする。



◆◆ 上杉政虎の出陣→本陣:妻女山まで ◆◆
6月下旬 上杉政虎は厩橋城を発ち、春日山城に戻った。
  10ヶ月に及ぶ関東大遠征を終えた。
画像

★留守将:桃井右馬助や長尾小四郎・高梨政頼らから、
内外の情報を聞いたであろう。
信濃では、
@割ヶ岳城が陥落したことの詳細
A海津城を武田信玄が造ったことの詳細
B北信濃の諸侯の情報

※事前準備:陣立て
上杉軍(13000人) 総大将:上杉政虎
@先陣・・・・・・村上義清・高梨政頼・井上昌満・須田満親
      ・島津忠直ら信濃衆。
A二陣・・・・・・河田貞政
B後備え・・・・・柿崎景家
C遊軍・・・・・・本庄実乃(繁長)
D遊軍2軍・・・・黒川清実
E旗本前備え・・・小島貞興
F旗本左備え・・・山吉豊守
G旗本右備え・・・桃井義高
●総大将:上杉政虎
H軍奉行・・・・直江実綱(後小荷駄護衛)
I旗本先手・・・宇佐美定満
Aお手廻・・・・北条高広・安田長秀・斎藤朝信・色部勝長
        
  不明・・・五十公野治長・加地春綱・中条藤資・荒川長実
        ・志田義時等

H小荷駄奉行甘粕景持(殿)

★上杉政虎は北条氏康の小田原攻略を邪魔されたことで、
怒りまくっていたのであろう。
上杉政虎は、4回目で雌雄を決するつもりで出陣した。


8月14日 上杉政虎は上杉政虎は1万8千の兵を率いて
  春日山城を出発した。

疑問1・・・出発日の疑問
@8月上旬説・・・・・「武家事紀」
A8月8日説・・・・・「松代町史」
B8月14日説・・・・「川中島合戦伝記」「北越軍談」(★通説)
C8月中旬・・・・・・「武田三代軍記」「甲陽軍鑑」
 8月中旬 上杉政虎は1万8千の兵を率いて春日山城を出発し
  信濃に川中島に出陣した。
(★『甲陽軍鑑』)
D8月29日説・・・・「信濃史料」「越佐史料」
★本来は8月29日が有力説となるべきであろうが、・・・・

8月29日付 上杉政虎→長尾政景への書状
1)春日山城留守居:長尾政景(上杉景勝実父)
越中の一揆があれば、出陣せよ。
2)会津衆蘆名・大宝寺衆(山形県)が来たら、蔵田
が面会せよ。・・・・陣は・・・・
(★『激戦川中島』:一ノ瀬義法著)
★8月29日の一番信憑性のある史料を想定すると、
@8月24日の武田信玄の茶臼山着陣より後になり
 妻女山の着陣が疑わしいことになりはしないだろうか?
A妻女山に着いたとすれば、9月3〜4日となる。
 知らせを受けて出発すると、甲斐からでは10日間はかかるので
 9月10日には間に合わない。
既に川中島にいたことになる。
 ★『甲陽軍鑑』が嘘の記述をしていることになりはしないだろうか?


8月14日本隊は堀之内→飯山街道・・富倉峠で笹寿司食って
 ・・・飯山城に泊まった。

※伝承「謙信すし」・・・笹寿司は、川中島で武田信玄との
  合戦前、
  上杉政虎が富倉で休んだ時に、富倉の村人が笹寿司献上し、
  上杉軍の勝利を願ったと伝えられている。
  上杉謙信は戦時に笹寿しを携帯して保存食として食べていた
  とされる。笹の上に酢飯をおき、ワラビ・ゼンマイ・しいたけ、
  沢クルミ・鬼グルミ、大根の味噌漬け、油炒めなど季節の具を
  乗せた小判型の笹寿しである。
 ★富倉の笹寿司「謙信ずし」は旨かった。
4回も食べた。富倉のぼくち蕎麦とセットが最高である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心■長野新そば第一弾『富倉そば』&【飯山城】
http://53922401.at.webry.info/201111/article_6.html

箕輪初心◆長野飯山ぼくち蕎麦「はしば食堂」:上杉謙信街道
http://53922401.at.webry.info/201410/article_33.html

箕輪初心▲長野:2014スキー10【野沢】&野沢温泉
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201402/article_26.html


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
8月中旬 上杉政虎は1万8千の兵を率いて春日山城を出発し
  信濃に川中島に出陣した。
(★『甲陽軍鑑』)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 (平山優説・・1万3千)


疑問A・・・コースの疑問
@飯山街道→富倉峠→飯山城→善光寺→妻女山コース(★通説)
8月14日出発説では通過できる。
8月29日出発説では危険性が高い。

D飯山街道→富倉峠→飯山城→千曲川右岸コース→
   海津城の東:斎場(西条)山・妻女山コース
   ※峠越えが多く、大荷汰が運べない。近過ぎる。
のであり得ない。
 
B北国街道→善光寺→雨宮→妻女山コース
2ヶ月前に割ヶ岳城が落ちているので、どうなのか?
一線交える必要がある。
★『甲陽軍鑑』を信じなければ、割ヶ岳城を取り返している
   はずである。重要拠点だからである。 

C北国街道→戸隠→善光寺→雨宮→妻女山コース
割ヶ岳城も近い。4年前、葛山城は武田の手に落ちている。
   ・・・
通れば、戦闘になっている。

疑問B・・・・割ヶ岳城の奪還はしなかったのか?
重傷拠点なので真っ先に奪い返したはずである。
  

★ということで、@の飯山城コース、
 あるいは@・Bコースとなる。

8月14日 別働隊は北国街道を南下、関川を経て信濃
 入りした。


8月15日 善光寺
画像

 上杉政虎本隊は別働隊と合流した。

疑問C・・・善光寺に兵5000を残した?
上杉政虎は小荷駄隊と兵5千を善光寺に残した。(★通説)
 ★上杉政虎は、善光寺に5千の兵を後詰めとして残しておい
 たのは何か意味があったのだろうか?
 挟み撃ちにしようとしたのであろうか?
5千の兵は、川中島の合戦では活躍していないようであるが、
 また、本当に5千の兵が善光寺にいたのだろうか?
 5千の兵が後詰めとしていたのなら、八幡原の合戦に参加してい
 ないのは意味不明・・・疑問である。

8月16日  上杉政虎は1万3千の兵を率いて犀川を渡り、
 海津城を横目で見ながら、(後松代城)の南:雨宮付近で
千曲川を渡り、武田領内へ深く兵を進めた。・・・・
画像
 

疑問D・・・上杉政虎は何故海津城を攻めなかったのだろうか?
海津城には2千の兵がいた(★通説)。
 全軍の1万8千人で先に攻撃できたはずである。
 まず、攻めちゃえばよかったのに・・・高坂なんて。
 海津城を攻める考えはなかったのではないだろうか?
 上杉政虎は海津城の攻略よりも、武田信玄との直接対決で
 雌雄を決しようと考えたのであろうか?
 海津城を圧倒できる場所で、かつ、武田信玄本隊が海津城
 近辺に現れた時にいつでも対応できる場所が妻女山という
 ことになるのだろうか?
 
そして、海津城を見下ろす妻女山に陣を置いた。
 
疑問E・・・・上杉政虎の布陣諸説●▲■
妻女山は本当に良い位置だったかどうか?

※@説・・・通説:妻女山説
  『甲陽軍鑑』位しか、まともな史料がないという。
これを信じるしかないのであろうか?
 ※上杉政虎の妻女山の本陣が現招魂社付近と伝わっている。
斎場山の尾根上の頂(「赤坂山」)は殿(しんがり)の甘粕近江守
  景持が陣を敷いた場所と伝わっている。


※A説・・・私見:雨宮付近〜妻女山の一部。妻女山に見張り。
  川中島の武田の勢力を打破するのが、4回目の出兵である。
  個人的には、海津城に2千の兵がいるので、本当に
妻女山に1万3千人全員が登ったか疑問である。
妻女山に・・・登っていないので、分からないけれど
周りから妻女山を見ると、1万3千人は無理みたい?
雨宮付近に半分以上の兵を待機させたかもしれないなあ。
 各所に配置したであろうが・・・・。
当然、村上義清・高梨政頼・井上昌満・須田満親・島津忠直
 ら信濃衆は雨宮の付近ということになる。

※B説・・・斎場山説・・・妻女山の尾根続き。
※C説・・・西条山説
「武田三代軍記」「甲陽軍鑑」
    南に10kmほど離れた全く異なる山である。

※D説・・・妻女山に行っていない説
妻女山布陣は定説となっているが「史実にはない」
  と否定する説である。
  ・天正10年(1582) 織田軍の森長可が撤退後、天正壬午の乱
の川中島に北条氏直軍の北上に備え、上杉景勝は長沼城を
   経由して海津城に入って妻女山・鞍骨城一帯に布陣した。
   よいう史実との「混同」であると理由付けしている。


8月中旬 香坂虎綱(春日虎綱:高坂昌信)は、武田信玄に上杉軍が
  妻女山に布陣したことを伝えた。

8月18日 武田信玄は甲斐を発った。
  途中で、南信濃・中信濃・東信濃の国衆と合流した。

8月24日 武田信玄は千曲川を渡って川中島に進出した。
      妻女山に相対する茶臼山に布陣した。
上杉政虎の退路を塞いだ。

  武田信玄は妻女山にいる上杉政虎の出方を観察した。
  しかし、上杉政虎は兵を動かさなかった。

10日以上、にらみ合いが続いた。
上杉政虎は動ずることなく、笛を吹き、琵琶を鳴らして
悠々と過ごしていたという。

8月29日 移動説
武田信玄は茶臼山を降り、海津城へ入った。
 武田信玄の移動は妻女山の上杉政虎から丸見えだった。
 
隊列の縦長の横腹を見せて進むのであるから、普通なら攻撃の
 チャンスだと考える。
 しかし、上杉政虎は武田信玄の陽動作戦の可能性があると
 考えたのでは?と思ったかもしれない。
 後の三方ヶ原戦いで、武田信玄が徳川家康の浜松城を無視
 したふりをするように・・・。『空城の計』ちょっと違うか?

 武田信玄は海津城に全軍を集めた。
 兵はを2万となった。

9月9日
明日は霧?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●両軍の作戦と深い霧
※NHK大河ドラマ『風林火山』では、・・・・
前日に、GACKT:上杉謙信は、女占い師にあって、
「霧予想」を聞いていた。
「明日の朝は濃霧の可能性が高い。」
と認識していた。
★夏、川中島付近など盆地地形は川霧が発生することが多い。
 川中島も濃い霧が発生する。
上杉政虎も武田信玄も、霧を考慮した作戦を立てたはずである。

9月10日 ▲第4次川中島の合戦:八幡原の戦い 




★明日は茶臼山かな?

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