城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心:生方▲志賀BBQ&【高梨氏館&高梨氏の歴史】&真田丸89『高梨氏&真田昌幸&真田信綱】

<<   作成日時 : 2016/04/24 05:42   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

中野小館=高梨氏館は長野県中野市にあった高梨氏の居館で
ある。戦国時代、高梨氏は高梨政高→高梨政盛→高梨政頼と
続いた。高梨政頼は上杉謙信の義兄弟に当たる。天文22年
(1553)頃、高梨政頼の妹か娘(有力説)が真田信綱の妻:於北
の方となった。高梨内記は高梨政頼一族であるが、この時、
人質代わりに真田昌幸の家臣になった。そして、高梨内記は
真田昌幸・幸繁に従って高野山まで行って、大坂の陣で死ん
だ。『真田丸』では、高梨内記の娘「きり」が真田幸繁の最愛
のお妾さんということになっている。
永禄2年(1559)武田晴信の家臣:高坂昌信が中野小館に侵攻
すると、高梨政頼は長尾景虎を頼った。天正10年(1582)武田
氏滅亡後、上杉景勝の信濃侵攻で本領の一部を回復した。
慶長3年(1598)上杉景勝の会津移封に同行したため、城は
廃城となった。
画像



◆訪問日・・・平成20年(2008)4月29日
中野市は志賀スキーの通り道だが高梨氏館には寄れなかった
志賀横手山スキー&BBQのおまけで、高梨小館&替佐城に
行ってみた。私は高梨氏館には3回行っている。
平成28年(2018)4月24日、今日も志賀横手山スキー&
BBQなのだ。12〜3人は集まるだろうか?
画像

画像

画像

画像

画像

画像



●高梨小館は国史跡である。
画像


●空堀には3ヶ所の土橋が設けられ、南の大手口、西の虎口には土
塁の裾の部分に石垣が築かれている。

●南の大手口
画像

画像

土塁に囲まれた館内部入った。
画像

東西約130m、南北約100mの規模である。
高梨氏館は、長方形をした単郭の縄張りで、周囲に空堀と土塁を廻
らした典型的な豪族の居館様式だ。

★中世・戦国時代の居館に遺された貴重な遺構である。
 
一遍上人の鎌倉時代の「伴野氏館」を想像しながら、歩いた。
土塁、堀などが残る史跡公園として整備されている。
画像

※発掘調査では、門跡一棟、礎石建物跡5棟、掘立柱建物7棟、
 庭園跡等が確認されている。

●復元庭園跡
画像
 
●居館から東を見ると、比高300mの鴨ヶ嶽城を見える。
画像

富岡武蔵さんから、
「高梨氏の詰めの城の鴨ヶ嶽城は凄いよ。堀がでかいよ。」
と聞いていた。・・・・でも、未だに登ってはいない。

【高梨氏館&詰め城:鴨ヶ嶽城】
千曲川支流:夜間瀬川(よませがわ)と松川に挟まれた中野盆地
高梨氏城=「中野小館」(なかのおだて)がある。鴨ヶ岳城との
 間には如法寺の曲輪群、七面山砦の高梨城砦群がある。
大平山の頂部に「鴨ヶ岳城」、南に「鎌ヶ岳城」、菅の山城。
北には箱山城、夜間瀬がある。中野ICを降りた100円志賀トン
ネルの上にも家臣団の城砦がある。



▲中野陣屋
画像

画像





◆◆  高梨氏の歴史 ◆◆
●高梨氏の出自
@清和源氏頼季流の井上氏の一族説
A奥州安倍氏の一族
B越後高梨(小千谷市)氏説

・平安時代
  清和源氏:源頼信の第3子:頼季流井上氏とされる。
  源頼季は京に官任していた。 
・長元元年(1028)平忠常の乱 
源満仲(多田満仲)の子源頼信が乱を平定して東国に勢力を
 持った。3男:源頼季&嫡男:源満実が信濃国高井郡井上を
 本貫とした。井上氏の祖となった。
(★ 『尊卑分脈』)
源満実だけが信濃高井郡に入国したのかもしれない。 
  井上満実は信濃に最も早く入ったので、信濃源氏の祖と云われる。
 

・治承4年(1180) 8月17日 源頼朝の挙兵
 9月〜12月 木曾義仲は上野多胡(吉井)でメンバー集め
12月 横田河原の戦い
 井上光盛が保科党を率いて木曾義仲に参陣して活躍した。
(★『平家物語』
  
 井上光盛は木曾義仲の上洛には従軍せずに、途中から、
  源頼朝に従った。


・元暦元年(1184)
7月 井上光盛は源頼朝に鎌倉に召喚される途上の駿河国蒲原
    で誅殺された。
★甲斐源氏:一条忠頼と信濃源氏:井上光盛は源頼朝に
  危険視されたのだ。


・建久元年(1190) 源頼朝が上洛
須田小太夫がいた。
(★『吾妻鑑』)
井上氏は保科・米持・村山・高梨(3説あり)・須田氏らの支族を
 分出した。

・建久3年(1192)藤原(中野)助広が中野西条地頭職に補任された。
  中野氏が中野に勢力を持った。


南北朝時代 
・建武2年(1335) 7月 中先代の乱
  新田義貞に自害に追い込まれた執権:北条高時の遺児:北条時行
  が、御内人の諏訪頼重・滋野氏らに擁立され、鎌倉幕府再興の
  ため挙兵した。
 (★『梅松論』)
 小笠原貞宗は足利高氏に味方した。
 北条政権打倒の戦功で新たに信濃守護に任ぜられた。
 埴科郡船山郷(千曲市小船山)に守護所を置いていた。
▲青沼の合戦・・・八幡河原の青沼(千曲市杭瀬下)
  小笠原貞宗+市河氏 VS 川中島の四宮左衛門太郎や保科弥三郎
   保科、四宮勢は敗走した。
   福井河原や篠ノ井河原、四ノ宮河原と転戦した。
  
  北条時行を擁する諏訪氏、滋野氏(含禰津・望月・海野)らは
  信濃府中(松本市惣社)国衙を焼き討ちし、建武政権が任命し
  た国司:清原真人を自害させた。
   (★」『太平記』)

・建武3年(1336) 6代目:香坂心覚が南朝方として牧城(後牧之島城)
   で挙兵した兵を挙げた。
  小笠原氏・市河氏・高梨氏など北朝方が牧城は攻撃をした。
  しかし、落城しなかったと伝えられる
   (★『市河文書』・『高梨文書』・・・信濃史料)

    
・正平6年(1351) 南朝方:香坂美濃介が北朝方:小笠原氏と争った

・正平8年(1353)南朝方:香坂美濃介が北朝方:小笠原氏と争った

 高梨氏は北朝に味方し、「くぬぎ原荘」を中心に信濃北部各地に
 広大な所領を持った。


・元中4年・嘉慶元年(1387)
5月 ▲漆田原(長野市中御所)の戦い
 高梨経頼・村上頼国:小笠原清順、長沼太郎らと挙兵した。
  平柴(長野市安茂里)の守護所を攻めた。
8月 ▲横山城の戦い
  守護代:二宮氏泰が篭城する横山城を攻め落とした。
  続いて生仁城(千曲市雨宮)も攻めた。

・嘉慶2年(1388)
▲牧城の戦い
 
  高梨五郎・高梨時綱・村上頼国:小笠原清順、長沼太郎らは
  北信濃の南朝方滋野系禰津一族:香坂心覚(牧城)+越後の
  南朝方上杉兵庫助との抗争・・・・
最後は北朝方の村上氏や高梨氏や市河氏らにより鎮圧された。



・応永7年(1400) 大塔合戦。(おおとうがっせん)
善光寺平南部:更級郡篠の井で争った。
信濃守護:小笠原長秀 
   VS
村上・井上・高梨・島津(長沼城)仁科などの国人衆
そして、滋野系の海野&根津など一族
滋野系の根津遠光を盟主とした「大文字一揆」のメンバー
大将は小県郡の大塔城:根津遠光であった。
一族の桜井・別府・小田中・実田・横尾・曲尾の諸氏が従った。
「実田」、「横尾」、「曲尾」の名前が登場。
根津=祢津(ねつ)は東御市の祢津。群馬では「ねづ」。
  大塔城=祢津下城&祢津上城の可能性が大きい。
桜井・別府・小田中は東御市旧東部町に地名が残っている。
実田(真田)・横尾・曲尾は上田市真田町の地名として残っている。
横尾・・・尾引城=横尾城&打越城=内小屋城付近
曲尾・・・根小屋城付近

結果・・小笠原長秀が大敗。
信濃国は中小の有力国人領主が割拠する時代が続くことになった。
  (★大塔合戦記)
実田(=真田)氏の名の最初。
★大塔物語:文政元年(1818)の作成・信憑性は不明。

●高梨朝高&高梨朝高の嫡子:樟原次郎の名が見える。
 次男:高梨上条介四郎は善光寺の在庁官人の介職を名乗った。

高梨一族や井上一族など北信濃衆は500騎を動員している。
信濃国人衆の筆頭:村上氏と同数である。
東信濃の海野一族の300騎を上回る。



・享徳4年(1455) 享徳の乱
第5代鎌倉公方:足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代
  古河公方 となった。
足利成氏と結んでいた高梨政高も討伐目標の一人であった。

・寛正4年(1463)足利幕府は信濃南半分を小笠原光康に、信濃北半分
  を越後守護職の上杉房定に守護職を与えた。
  上杉房定らは足利成氏と同盟を結んで反抗する高梨政高を討つた
  め、上杉右馬頭を信濃に攻め込ませた。
  高梨政高は高橋の地?で迎え撃ち、上杉右馬頭を討ち取り勝利し
  た。
  上杉房定に味方した大熊高家、新野朝安らの土豪も滅ぼされ、
  高梨氏の中野進出が進んだ。

・応仁3年(1469)
井上政家 VS 高梨政高
  狩田郷の領有を巡って争奪戦をした。

・応仁の乱以後、
  井上氏は近郷の国人・土豪層との戦いや一族間の内紛で
  勢力を失った。

・明応4年(1495)善光寺の戦い
  村上政清 VS 高梨政盛
善光寺を巡って争った。

・永正年間(1503〜) 高梨政盛は、現小布施町周辺を本領としてい
  たが、勢力を現中野市に拡大していった。
  高梨政盛が中野小館を築いた。(有力説)

※築城年代や築城者については諸説があり定かではない。
****************************
※長尾能景の妻:高梨政高の娘?(上杉謙信の祖母)
※長尾為景の正室:高梨政盛の娘(上杉謙信の母)
※長尾為景の娘:高梨澄頼の正妻(高梨澄頼と上杉謙信は従兄弟)
*****************************

・永正4年(1507) 永正の乱
8月2日 越後守護:上杉房能は守護代:長男為景(上杉謙信父)
  に館を急襲され、実兄の関東管領:上杉顕定を頼って落ち延
  びようとした。
  しかし、上杉房能は天水越まで逃げたところで上杉定実の
  主力長尾為景軍に追いつかれ自刃した。
  越後は守護代:長尾為景と守護:上杉方反為景派による内乱
  となった。

・永正6年(1509)
7月 上杉顕定は養子:上杉憲房と共に越後に攻め入り、長尾為景
   (上杉謙信の父)と上杉定実を越中(富山)に追放した。


・永正7年(1510)
 4月 長尾為景は越中から佐渡に逃れていた。
    蒲原津に上陸した。
    長尾為景は佐渡の娘婿:本間氏の元で勢力を盛り返した。
  
  高梨政盛は信濃から北上し、長尾為景に味方して越後に攻め入
  った。長尾為景軍と挟み撃ちにし、越後椎谷城(柏崎)などで、
  上杉顕定軍と交戦した。
  高梨政盛は苦戦に陥っていた長尾為景軍の再起に貢献した。

  上杉顕定は形勢不利を悟った。
  上杉顕定、嫡子憲房は上野国へ撤退しようとした。
  しかし、越後長森原で長尾為景・高梨政盛軍に追いつかれた。

6月20日 長森原の戦い(八海山の麓)
上杉顕定 VS 長尾為景+本間(為景の娘婿)+高梨政盛
高梨政盛に上杉顕定が敗北し自刃した。享年57。

上杉憲房は上野白井城へと撤退した。

●高梨政頼は後、長尾為景の嫡子:晴景と景虎(上杉謙信)が
相続を争った際には、長尾景虎を擁立した。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

箕輪初心:生方▲【関東管領:上杉顕定の戦いの人生】
http://53922401.at.webry.info/201512/article_2.html

箕輪初心:生方▲箕輪城179●20151126森田真一先生講演会
『上杉氏・長野氏・里見氏』
http://53922401.at.webry.info/201512/article_1.html
★森田先生、使わせていただきました。
 森田先生、掲載許可もありがとうございます。

箕輪初心◆2013群県博:新潟県「上杉氏」関興寺・瀧澤寺
・雲洞庵・坂戸城・管領塚
http://53922401.at.webry.info/201310/article_21.html

箕輪初心◆2013年スキーbP【宝台樹スキー】&【水上石倉城】
http://53922401.at.webry.info/201301/article_5.html

箕輪初心★本間家の歴史;佐渡本間→酒田本間家日本一の地主へ
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201307/article_20.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・永正12年(1515) 3月15日 村上義清が元服した。

◆北信濃・・・村上顕国は、越後長尾氏と関係の深い
  井上氏や水内郡の高梨氏と争っていた。


◆東信濃・・・村上顕国は関東管領上杉家を後ろ盾とする小県
 郡の海野氏を押さえ込み、信濃守護代:佐久郡の大井氏を下
 して甲斐の武田氏と抗争を続けていた。
 村上義清は佐久郡を武田氏に奪われた。

・永正14年(1517) 父:村上顕国より葛尾城を譲られた。

・永正17年(1520) 父:村上顕国が病没した説
  村上義清が家督を相続したという説がある。

・大永4年(1524) 長尾為景の援助で高梨澄頼の子:政頼が
 高梨氏の勢力を拡大した。
****************************
後、@高梨政頼の娘:於フ子は村上義清の側室となった。
  A高梨政頼の娘:娘:於北は真田信綱正室となった。
B高梨政頼の子か孫が高梨内記をとする説
   C高梨内記は高梨政頼の娘(妹)が真田信綱に嫁いだことを
   縁に真田家へ仕えたという説
  D高梨内記の娘は真田信繁の妻になり、阿梅を生んだ。
  ※丸島和洋説ではB、Cとも信憑性は薄いとしている。
★後日、高梨氏館・飯山城を掲載予定。
*****************************

・天文年間  高梨政頼は葛尾城主:村上義清と対立した.
*天文17年(1548)
2月1日 武田晴信は5000人の兵力を率い北信濃に向けて進軍を開始
  した。武田晴信は上原城で板垣信方の率いる諏訪衆や小山田信有
  の率いる郡内衆(岩殿:大月市)と合流した。
  大門峠を越えて長窪城に入った。
佐久内山城の小山田満虎の率いる佐久衆とも合流した。
 ●小山田満虎の配下に真田幸綱(幸隆)がいた。
 さらに、御陣ヶ原に陣を取った。

2月14日  上田原の合戦

 村上義清は居城:葛尾城(千曲市)との支城:戸石城(上田市)
 に拠点に陣を置いた。
 村上義清の砦上田原を一望できる天白山に本陣を移した。
須々貴神社〜天白山が砦であった。
 天白山本陣→岩鼻まで南下して上田平に兵を進めた。

 千曲川支流:産川を挟んで村上方と武田方と対陣した。
 
※上田原の戦い
武田晴信8000? VS 村上義清5000余?とも7000?
●真田幸綱(幸隆)が 武田軍は先陣を願い出た。
武田晴信は板垣信方を先陣とした。
真田幸綱(幸隆)は板垣信方の脇備えであった。
 (★甲陽軍鑑)
★真田幸綱で、考えられることは
@真田幸隆は小山田虎満の配下だったが地の利を得ていたので、  
 小山田虎満に板垣の参謀格に抜擢された?
 (★箕輪初心私見)
 真田幸綱(幸隆)は板垣信方のbQ脇備えとして命令された。
A板垣信方に「わしの戦い方を見とけ。」と言われた。
B真田幸綱は小山田虎満の配下にいたので、記述間違い?

  板垣信方・栗原左衛門尉・飯富兵部少輔・上原昌辰(小山田虎満)
  ・小山田信有・武田典厩信繁らが村上義清軍に攻撃をしかけた。

  村上義清は武田方の初鹿野伝右衛門を討ち取った。

先陣の板垣勢は村上勢を撃破して敵陣深く突進した。
緒戦では村上軍を撃破した。
  しかし、板垣信方は気を緩めてしまい、勝鬨をあげた。
  板垣信方は備から離れて馬を下り、敵前で首実検を始めた。
村上勢は反撃に出た。板垣勢は混乱状態に陥った。
  板垣信方は馬に乗ろうとしたところを村上方の安中一藤太の一槍で
  倒れた。板垣信方は上条織部に討ち取られた。
(★『甲陽軍鑑』)
  また、退却を始めた村上軍に対し、信方の隊が深追いしすぎたため
  孤立していまった。村上軍の将:上条織部によって討たれた説も
ある。

  先陣の板垣衆が崩れると、村上勢は勢いに乗って猛攻をしかけた。
  武田軍は先陣が敗れたことで後続の武田軍は突き崩された。

村上義清が武田晴信の本陣に攻めかかった。
  武田晴信の旗本衆は後退した。
  脇備の工藤祐長(内藤昌秀)と馬場信房(信春)が横槍を入れて
  これを打ち払った。
   しかし、武田晴信は2ヶ所に薄手の傷を負った。
    (★『甲陽軍鑑』・『勝山記』)
武田軍は小山田信有の郡内衆が奮戦した。

  甘利虎泰、才間河内守らが討ち死にした。

@武田軍は重臣の板垣信方、甘利虎泰を失う大敗を喫した。
『甲陽軍鑑』での戦死者は武田軍は700人(1200人?)、
 
A村上軍も屋代基綱・小島権兵衛・雨宮刑部正利らが戦死した。
   損害も多く追撃する余力はなく退陣した。  
  『甲陽軍鑑』での戦死者は村上軍は300人(1700人?)
    としている。

  
★真田幸隆も7年ぶりの村上義清との戦いなのに、旧領
回復が遠のいてしまったと悔しい思いをしていたので
あろう。

 武田軍は晴信の指揮のもと態勢を立て直して20日余の間
 上田原に留まった。
     (★『勝山記』)
  ※戦場に留まった理由
  @武田晴信が初めての負けを認めたがらなかった。
  A武田晴信は家臣に自分の指導力を示す必要があった。
  B退却までの時間かせぎをする必要があった。
C引くに引けない状況であった。
(★名城と合戦の秘密:二宮博志著)

  駒井高白斎は今井信甫と相談し、武田晴信生母:大井の方に働き
  かけた。大井夫人は野村筑前守・春降出雲守を使者として派遣
  し、武田晴信を説得した。

3月4日 武田晴信は撤退を指示した。

3月5日  武田晴信は上原城へ到着した。
3月14日 甘利藤三が上原城へ到着した。
3月26日 武田晴信は甲府へ帰還した。
   武田晴信は甲府の「嶋の湯」(甲府市湯村の湯村温泉)で
   30日間の湯治をおこなった。

結果・・・
@武田晴信にとって初めての敗戦であった。
A村上義清・小笠原長時を中心に結束して反撃に出た。
  諏訪郡でも西方衆が反乱を起こした。
A武田晴信の信濃支配は危機に陥った。
 決着はつかなかった。
 


・天文18年(1549)3月
「【真田幸綱の初見の史料:『高白斎記』】
3月14日
「14日土用、七百貫文の御朱印望月源三郎方へ仰せ下せし
候。真田に渡す。依田新祭文請取」
武田に味方することにした望月源三郎に武田晴信が700貫文の
領地を与えるとの朱印状を出したが、その使者を真田幸隆が務めた。

真田幸綱が望月源三郎に紹介し、武田晴信に帰属させた。
(★真田三代:平山優著)



◆砥石城
砥石城は村上義清が小県郡の押さえとして築いたと言われる城で
ある。、砥石城は米山城・砥石城・本城・枡形城からできている。
小県郡の最大の堅城であった。東西は崖に囲まれている。
村上軍の城兵は500人程でしかなかった。半数はかつて天文16
年(1547)武田晴信の志賀城攻めの残党であり、士気は高かった。
楽巌寺入道雅方&布下仁兵衛雅朝も村上義清を頼って砥石城に
入っていた。


*天文19年(1550) 村上義清が高梨政頼と戦っていて本領を
留守にした隙に、武田晴信が小県の砥石城に侵攻した。

7月2日 武田晴信は、真田幸隆に文書を与えた。
   其の方年来の忠信、祝着に候
   然らば本意の上に於いて
   諏訪方参百貫并びに横田遺跡上条
   都合千貫の所これを進し候
       恐々謹言
      天文十九庚戌
      七月二日 晴信
              真田弾正忠殿
(『真田文書』)
「私の本意(砥石城の攻略のこと)になった上には、諏訪形(上田市)
 300貫と横田遺跡上条・・合計1000貫をあてがう=くれる」


・7月25日 武田晴信→飯富虎昌・上原(小山田虎満)
「・・・真田方に物語りあるべく候・・・」
・・・後から出陣するから、真田幸綱にも伝えよ。
※平山氏・・・飯富虎昌・上原(小山田虎満)・真田幸綱が一緒に
 行動していた。真田幸綱が高い位置にいることがうかがえる。


・8月28日 小笠原長時は葛尾城(千曲市)の村上義清を頼った。
  武田晴信 は小県郡に入った。
  戸石城(上田市)攻略を目指して7000とも言われる兵を率い
て城下に迫った。
  村上義清が高梨政頼と争いを起こしていたのでその隙に乗じた。

・8月29日 矢入れをした。(戦いの宣言)

・9月3日 武田晴信は信濃北部・東部の平定を目指して、北信濃の
 村上義清の出城:砥石城攻略に乗り出した。
 武田晴信は総攻撃に向けて陣を城の南西部へと移した。
武田軍の兵力は7000人・・・・

9月9日 武田軍の横田高松の部隊が南西部の砥石のような崖を登
  ることで総攻撃が開始された。
  しかし村上軍城兵は石を落としたり煮え湯を浴びせたりして
  武田軍を撃退した。先陣大将:横田高松は戦死した。

 武田軍は兵力においては圧倒的に優位であったであったが、
自然の要害で堅城の上、城兵の果敢な反撃の前に苦戦した。
わずか500の城兵の士気は高く、城は容易に落ちない。

その間、真田幸隆は村上義清方の海津の城:清野清寿軒&
高井郡の須田城:須田信頼(武田の信)、寺尾城の寺尾氏を寝返
らせることに成功した。

村上義清は砥石城が攻められていることを知った。
村上義清は高梨政頼と急遽和睦を結んだ。

9月?日 村上義清が2000人の本隊を率いて葛尾城から救援に
駆けつけて来た。後詰めとして救援しにきたのである。
村上義清は直ちに武田方の寺尾城(長野市)へ攻め掛かった。

9月28日 村上義清は寺尾城攻撃を中止した。

武田晴信は真田幸綱(幸隆)&今井信甫(のぶすけ:勝沼氏)
に寺尾城救援を命じた。
しかし、間に合わなかった。

9月29日 真田幸綱が戻ってきた。
砥石城は攻撃開始より20日が経過しても城はびくともしなか
った。武田晴信はこれ以上城攻めにこだわるのは不利と見た。

9月30日 武田晴信は真田幸綱(幸隆)を交えて軍議を開いた。
 結局は退陣と決定した。
武田晴信は戦況不利を判断し、撤退を決断した。

10月1日 武田勢は退却を開始した。
しかし、村上義清がこの機を逃すはずはなかった。
武田軍は砥石城兵と村上軍本隊に挟撃された。
村上義清は退却する武田勢に追撃戦を挑み、終日激戦が展開された。
酉の刻(午後6時)村上義清が諦めるまで続けられた。

武田晴信は影武者を身代わりにして窮地を脱した。


結果・・・武田勢の大敗であった。
村上軍の追撃は激しく、武田軍は1000人近い死傷者を出した。
横田備中守高松(たかとし)という有能な武将や小沢式部・郡内衆
の渡辺雲州(渡邊出雲守)らを始め、1000人に及ぶ兵を失った。
 (★『妙法寺記』)
村上方の死者は200人弱と伝えられている。
村上方の死者は193名ほどであった。(★ウィキペディア)

横田高松をはじめ約1200人もの将兵を失った説もある。


「十月小辛酉卯刻被入御馬。御跡衆終日戦フ。酉刻敵敗北」
(★『高白斎記』)
@「被入御馬」・・・「退陣なされた」の意味である。
A「御跡衆」・・・・「殿軍(しんがり=最後尾隊)」の意味である。
B「敵敗北」・・・・「村上軍が負けた。」の意味である。
 武田方の記録なので、武田びいきに書かれている。

どう見ても砥石城の戦いは武田軍の完敗であった。 
砥石城の戦いは武田家中では「戸石崩れ」と呼ばれた。
(★甲陽軍鑑)
夜、武田軍はようやく望月城にたどり着いた。

10月2日 大門峠を越え、湯川(諏訪市)に陣を張った。

10月3日 上原城に移った。
武田晴信は対策を練った。

10月6日 上原城を出た。

10月7日 甲府に戻った。
 小山田信有は4月から病床にあり、砥石城攻めの際には参陣して
 いなかったと考えられている。
  (★『甲陽軍鑑』・真田四代:丸島和洋著)

10月?日 村上義清は佐久地方に侵攻した。
    
10月21日 小笠原長時は村上義清の援助を得て平瀬城を奪還した。
  小笠原長時&村上義清は平瀬城に入った。
 ※平瀬城は松本トンネルの北に梓川に面した場所。安曇野SA反対。
  筑摩郡の小笠原氏の旧臣が結集した。
  深志城将:馬場民部少輔信房、日向大和守是吉は籠城の態勢
  を整えて甲府に知らせを送った。

10月23日 武田晴信は甲府躑躅ヶ崎館を出陣した。
  村上勢は動揺した。
  武田軍が諏訪→佐久・小県の村上領に侵攻するという噂が
  流れた。
  村上義清は平瀬城から撤退した。

11月8日村上義清は小諸城に入った。
小笠原勢も動揺した。
 武田軍出馬と村上軍離脱により旧臣諸将の脱落が相次いだ。

 小笠原長時は平瀬城を出た。
▲野々宮の合戦(松本市の野々宮神社近く)
  小笠原長時は武田の前進部隊:飯富虎昌、馬場民部信房を
破った。
  武田軍は300の戦死者を出して退却した。

 小笠原長時は中塔城(安曇野市)に立て籠もった。
 その後、小笠原長時は中塔城に半年以上?いたらい。

その後も何度か失地回復を企てたが、失敗した。




*天文21年(1552)
●砥石崩れ以後、高梨政頼は武田晴信と対立していた。

5月?日 真田幸綱(幸隆)は高梨政頼を武田晴信に臣従させた。
 ★といっても、独立性を保っていたが、・・・
 (★真田幸隆:江宮隆之著など)
★『真田丸』の高梨内記は高梨政頼の弟であるらしい。
※高梨内記の祖父の妹は上杉謙信の父:長尾為景の妻だった。』


5月26日、「砥石ノ城真田乗取」
  (★『高白斎記』)
真田田幸隆が落城させ、幕を閉じている。
・天文20年(1551)
5月26日 真田幸隆が戸石城を乗っ取った。



・天文22年(1553)

4月初旬 村上義清の属将の荒砥城主:屋代越中守政国、塩崎城主:
 塩崎氏、寺尾城主:石川氏、塩崎城主:塩崎氏、春日氏、室賀氏ら
 雨宮氏が真田幸隆らの調略により内応し、武田晴信に降伏した。
  村上義清の本拠:葛尾城を伺った。
背後の戸倉方面からの攻撃を受けた。
武田軍が千曲川左岸の支城:狐落城・荒砥城が相次いで落城した。
 葛尾城も守将:滝沢能登守が城門から撃って出た隙に、武田晴信
 に内通していた重臣の計略で自落した。


4月9日 村上義清塩田城にいたかもしれないが?
村上義清は葛尾城を棄てて逃亡した。
葛尾城は南から攻める敵を想定して築城されている。
逃げ道
@北には真田から海津城・善光寺方面に行く往還道があった。
A搦め手の北を通り、刈屋原と磯部の境に下り、坂木の渡し(現笄橋
:こうがいばし)から千曲川の左岸に出られる。
@を使って逃げたのであろう。

村上義清は仇敵の間柄であった高梨氏を通じて越後春日山城の長尾
景虎(上杉謙信)を頼った。
  村上義清は再度体勢を整えた。
※12年にわたり、5度に及ぶ川中島の戦いのきっかけになった。

 
 葛尾城には武田一族の於曾(おぞ)源八郎が入った。
 刈谷原城には今福石見守が入った。
ついに、武田晴信は川中島に進出した。

4月12日 村上義清は長尾軍の支援を受け、村上義清は北信濃の国人衆
と景虎からの支援の兵5000を率いて八幡(千曲市)に来襲した。
▲布施の戦い=八幡の戦い (現千曲市八幡地区:武水別神社付近)
村上義清は、上杉景虎(謙信)の5千の援軍を得、葛尾を奪還した。
武田先鋒隊は村上・長尾軍5000と遭遇し、撃破された。
八幡の戦いで勝利。
武田晴信は一旦兵を引いた。

武田信玄は井上氏や市河氏などの周辺の諸侯の調略務めた。

・弘治2年(1557)
7月 高梨政頼は井上左衛門尉の守る綿内要害を攻撃した。

・弘治3年(1558)
▲第2次川中島の決戦の前哨戦

武田晴信家臣:馬場信房の葛山城攻撃により葛山城が落城した。

また、高梨一族で山田城主:山田左京亮が武田晴信に降伏した。
続いて、高梨氏家臣の木嶋城主:木嶋出雲守も武田晴信に転じた。
高梨政頼は中野小館にわずかな兵を置いて、泉氏の居城:飯山
城に籠城し、長尾景虎の援軍を求めた。
この後、高梨政頼の拠点は飯山城に移り、越後長尾氏の庇護下に
入った。

天文22年(1553)頃、高梨政頼の妹か娘が真田信綱
の妻:於北の方となった。
(・井上家→高梨政頼養女説・井上家説・高梨家から井上家の
養女説もある。)
高梨内記は高梨政頼一族であるが、この時、人質代わりに真
田昌幸の家臣になった。そして、高梨内記は真田昌幸・幸繁に
従って高野山まで行って、大坂の陣で死んだ。
『真田丸』では、高梨内記の娘「きり」が真田幸繁の最愛のお妾
さんということになっている。
 
・永禄3年(1560)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 長尾景虎は関東に出兵した。
★詳細は後日?
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・永禄2年(1559)
 2月 武田晴信39歳は出家して、信玄を名乗る。
   (法性院・徳栄軒)
  武田晴信は長禅寺住職:岐秀元伯を導師に出家した。
  「徳栄軒信玄」と号した。
  (★『甲斐国志』)
 
3月 海津城代:高坂昌信(春日虎綱)が中野小館
   (高梨氏館:高井郡)を攻撃した。
    中野小館は陥落した。
    飯山城まで迫った。
高梨政頼は飯山城で高坂昌信を迎え撃った。

    武田信玄は信濃国のほとんどを平定した。
    
 海津城が完成した。
  海津城には春日弾正忠(春日虎綱)が初代海津城将になった。
 香坂宗重は所領が近い関係で在城番を務めた。
 武田信玄から川中島に300貫の所領を与えられた。

8月29日▲第一次関東出兵
 前年、「関東を支配してよい。」という大義名分を得た長尾景虎は
  関東へ出陣した。
●高梨政頼は春日山城の留守の大将に任じられた。

・永禄4年(1561) ▲第4次川中島合戦
8月?日 長尾景虎は1万8千の兵を率いて信濃に出陣した。
9月18日 八幡原において激突した。
  武田信玄の軍2万 VS 長尾景虎の軍1万8千

●高梨政頼は信濃衆として先陣を務めた。
  上杉の先陣は村上義清・高梨政頼・井上昌満・須田満親
 ・島津忠直ら信濃衆であった。
  合戦は初めは上杉方の優勢であったが、やがて武田方が盛り
  返し、ついに上杉軍は越後へ退去した。

結果・・・被害受けたのは両軍ともに先陣だった信州の武士
  であった。ほとんど、代理戦争に近いものがある。

 武田信玄の北信濃制圧は着々と進展した。
 須田氏も戦国大名の領国体制に組み込んでしまった。


〜〜〜中略〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・天正10年(1582))
3月11日 武田氏滅亡。
      織田信長が信濃を領有した。
6月2日 本能寺の変  織田信長が死亡

7月 上杉景勝が川中島を領有した。
中野へ高梨頼親が復帰した。
  高梨政頼の全盛期であった。
 高梨弥五郎頼親は安源寺周辺2000貫を安堵され、再び
  中野小館に復帰した。

・慶長3年(1598) 上杉景勝の会津転封に従い、高梨氏も会津に移り
  中野小館は廃城になった。

・平成19年(2007)2月6日 国の史跡に指定された。




★明日は第3次川中島の合戦以降の長尾景虎かなあ?

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心:生方▲志賀BBQ&【高梨氏館&高梨氏の歴史】&真田丸89『高梨氏&真田昌幸&真田信綱】 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる