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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸88【須田満親&真田昌幸】&『福島正則陣屋』上高井郡高山村散策3回

<<   作成日時 : 2016/04/23 07:11   >>

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井上氏庶流須田氏は上高井郡高山村:日滝小学校近くに最初の
居館を構えた。現在の蓮生寺が須田氏居館と伝えられている。
戦国時代、大岩郷に詰め城:大岩城を築いた。支城:月生城も
造られた。江戸時代、福島正則が高山に厳封され、住んだ。
『真田丸』に折角登場したのに、もう晩年の福島正則の話だ。
高山村の訪問は3度・・・@桜見物、A志賀笠ヶ岳と奥山田温泉
B七味温泉&五色温泉等、しかし、写真はほとんどない。
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◆訪問日・・・平成20年(2008)4月19日
≪アクセス≫
須坂市街より県道54号を東に山を目指して進む。本郷交差点を
過ぎつと、八木沢川に架かる橋付近から明覚山の麓に浄教寺が
見える。そして、水中地区となる。


【0】水中のしだれ桜(ミズナカノシダレサクラ)
★桜はまだだった。でも、お祭りだった。
 観光客も多かった。
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★げっ、蛇だ。ジムグリ?だと思う。

【1】須田氏館=蓮生寺



【2】大岩城遠望
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【3】月生城遠望
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月生城は高井水中にある。
   比高220mの山城である。

【4】雨引城遠望=明覚山958m 


【5】城山城遠望


【6】福島正則の館
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【7】「信州高山温泉郷」
志賀高原の横手山を源流とする松川に沿って下っていく。・・・
@▲志賀笠ヶ岳に登って、高山村の温泉に2つ入った。
A浦辺氏と温泉巡り「七味温泉」&「五色温泉:紅葉館」
逆コースであるが、・・・
標高の低い方から・・・松川渓谷沿いに点在する
蕨温泉、子安温泉、山田温泉、松川渓谷温泉、、五色温泉、松川から
離れた笠岳の南斜面にある奥山田温泉、志賀熊の湯温泉、志賀ほたる
温泉となる。・・・・
1)奥山田温泉(山田牧場)「ニュー笠松」・・・1回
標高1,500mの温泉・・・眺めがいい。

2)七味温泉「紅葉館」・・・・1回
  7つの源泉から引かれた乳白色の温泉

3)五色温泉・・・・・・・・・2回
天候によって、5色に変わるといわれている神秘的な温泉
露天風呂の温度はぬるめ・・・
 灰色の温泉。湯の花が大量に舞っている。


4)志賀熊の湯温泉・・・・・・12回?
樅の家にスキー宿泊・・・・透明の湯

5)志賀ほたる温泉
 @「熊の湯ホテル」・・・・・・1回
  子熊が傷を癒したと伝えられる透き通った黄緑色の硫黄泉。

 A「一望閣」・・・・・・・・・2回
「志賀リバーサイドホテル」・・1回
平成28年4月24日(日) 志賀草津高原ルート開通
 B「雪の回廊」・・・BBQ予定なので、ここにしよう。

6)硯川温泉「硯川ホテル」・・・・1回
露天・・・


◆◆ 須田氏&大岩郷の歴史 ◆◆


・戦国時代  
@須田郷:須田信頼→須田信正の系統
  須田信正が井上郷を支配下にした。
  綿内井上氏が須田信正に属していたといわれる。
須田信正が千曲川東岸の交通網を支配していた。
須田城は大岩城の支城として始まり、全盛期に
   須田城が拡大され中心的な城となっていったのであろう。


A大岩郷:須田満信→須田満国&弟:満泰→満国子:須田満親
  須田満信は千曲川西の布野、古野、矢島奥にまで拡大した。


 須田郷信頼の系統は VS 大岩郷:満国の系統 
  互いに対立するようになった。

 一方、北信濃では坂木(坂城)城主の村上氏が勢力を拡大し、
 川中島地方にも侵攻してきた。
 川中島地方に村上氏の勢力が及んだ背景には、国人領主たちが
 保全のためにより強力な勢力のもとに結集したと考えられる。

 
※北信濃:村上氏・中信濃は守護小笠原氏の2大勢力・・・
 それに諏訪氏・木曾氏らの中小豪族が割拠した。

・永禄2年(1559)
4月 春日虎綱が中野小城を攻撃した。
  武田信玄は北信濃をほとんど占領し、越後境へ乱入した。


・永禄3年(1560) 海津城が完成した。
  海津城には春日弾正忠(春日虎綱)が初代海津城将になった。

武田信玄によって、北信濃を逐われた村上・井上らの領主らは、
 旧領回復のため長尾景虎に出馬を依頼した。

 須田氏は内部分裂を起こしていた。
大岩郷:須田満親は嫡男:須田満国も長尾景虎を頼って大岩郷を
退去した。
 

・永禄4年(1561)
▲第4次川中島の戦い
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8月?日 長尾景虎は1万8千の兵を率いて信濃に出陣した。
9月18日 八幡原において激突した。
  武田信玄の軍2万 VS 長尾景虎の軍1万8千

  上杉の先陣は村上義清・高梨政頼・井上昌満・須田満親
 ・島津忠直ら信濃衆であった。
  合戦は初めは上杉方の優勢であったが、やがて武田方が盛り
  返し、ついに上杉軍は越後へ退去した。

結果・・・被害受けたのは両軍ともに先陣だった信州の武士
  であった。ほとんど、代理戦争に近いものがある。

 武田信玄の北信濃制圧は着々と進展した。
 須田氏も戦国大名の領国体制に組み込んでしまった。
 
・永禄5年(1562)4月17日「武田信玄、高井郡仁礼衆に知行を
宛行ひ、戦功を励ましむ。」
 (★『信濃史料』)


・永禄6年(1563) 須田満親は信濃の一向宗と親しかった。
  上杉政虎が須田満親を北陸地方の一向宗との交渉役と
  なった。


〜〜〜中略〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



・天正6年(1578)3月13日 上杉謙信死亡。
▲お館の乱・・・上杉謙信の跡目をめぐる争い
 上杉景勝 VS 上杉景虎
須田満親は、「御館の乱」で上杉景勝に味方した。
 須田満親は上杉景勝に仕えた。信濃衆bPの位置づけと
 なった。

  須田満親は越中国人舟見氏の名跡を継いで舟見宮内
  少輔規泰と名乗っていた。

・天正9年(1561)
 4月 越中松倉城主:河田長親が松倉城で病死した。
   須田満親は河田長親の死後、越中方面の総指揮官となった。
  (★須田満親→直江兼続に送った書状(+含む菅名綱輔の書状)
  宛名は「直江与六殿」。米沢市の上杉博物館所蔵)
富山城主神保長住・佐々成政が上洛中に新川郡小出城を攻め
   たことに対して、菅屋長頼が非難の書状を須田満親・上条
   宣順宛に出したものである。

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 織田軍が加賀一向一揆を制圧し、越中に侵攻した。
   上杉方は今泉城(富山市)は放棄した。

    須田満親は松倉城で佐々成政との戦いに専念した。

 7月 越中砺波郡木船城主:吉江宗信が海路で撤退した。

 越中:魚津城には、中条景泰、竹俣慶綱、三本寺景長ら越中在番
 の越後の諸将が拠点としていた。
 上杉景勝は、松倉城に楠川将綱、吉益清定、山田長秀、廣井忠家、
 黒金景信、松倉・魚津両城の横目付に大石芳綱を派遣した。

 

・天正10年(1582)
3月11日 武田氏滅亡。
3月 織田方の総大将:柴田勝家は、角川の西岸に着陣した。

 上杉軍は、松倉・魚津両城の間に繋ぎの城を築いて連絡を取り合
 っていた。
4月 柴田軍は徐々に魚津城包囲をし始めた。
  
5月4日 上杉景勝は、魚津城救援のため、春日山城から越中に
向かった。
5月6日 織田軍は海津城二の丸を占拠した。

5月19日 上杉景勝は魚津城東側の天神山城に入り後詰の陣を
      張った。
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  織田の部将:森長可が信濃から越後:春日山城近くに陣を敷いた。

  上杉景勝は知らせを聞き、春日山への退却を決意した。
  松倉城:須田満親は殿となった。須田満親は、
松倉城の撤退戦を指揮した。


5月26日 須田満親は柴田軍の包囲をかいくぐり、松倉城を撤退
 した。天神山城で上杉景勝と合流した。
 その夜、上杉景勝が越後に引き上げたのである。

『天地人』では、直江兼続が海津城に忍び込むストーリーだった。

 織田軍は大砲を用いて魚津城を攻めていた。
(6月2日、本能寺の変・・・織田信長が死亡。)
6月3日、魚津城は落城し、大将分の13名は討死した。
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6月2日 本能寺の変
   
清洲会議で佐々成政に松倉城を明け渡して退去した。

6月10日頃 織田軍:森長可が人質1000人を
 とって、信濃から撤退した。
 松本で春日信達の子どもなどの人質を殺した。


 ▲天正壬午の乱

7月 上杉景勝が北信濃を支配下においた。
北信濃諸将は旧領を与えられた。
  井上満達は井上城主に復帰した
須田信正も須田城を安堵された。



・天正11年(1583) 須田満親は上杉領の北信濃
 4郡(高井・水内・更級・埴科)の押さえを任された。


徳川家康は北条氏直を協定していた。(信濃侵攻のため)
 徳川家康は娘を北条氏直に嫁がせた。

   

・天正13年(1585) 真田昌幸40歳
徳川家康は真田昌幸に「上州沼田領の北条氏への明け渡し」を命令。             
→真田昌幸は明け渡しを「いやだ。」と拒否し、
豊臣秀吉に言いつける。徳川家康と対立。 


5月  須田信正は真田昌幸に徳川方の寝返りを誘われ
    ていた。
   
 福島城(須坂市福島)にいた須田信正は上杉景勝より
   千見城(大町市)への移動を命ぜられた。
  須田信正は真田昌幸と通じた。
  海津城将:上條宣順に誅殺された。

6月 海津城将:上條宣順→須田満親となった。
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   須田満親は海津城将となった。
   検断権を含めた幅広い権限を委譲された。
  (★「天地人」・真田昌幸:芝辻俊六著)
   
  須田信正一族:須田左衛門尉が福島城に入城した。

  
  真田昌幸は徳川配下から上杉景勝に接近した。
取り次ぎは須田満親であった。


7月?日 次男:真田信繁(幸村)は海津城に行った。
須田満親は真田信繁(幸村)&矢沢頼幸を春日山城に
連れて行った。配下かもしれないが、・・・・
  真田昌幸は2人を人質に出して上杉景勝に従属した。

7月15日 9ヶ条の起請文
 @上杉に忠節を尽くせ
 A敵が攻めてきたら援軍をよこせ
 B噂や密告を信じないで、密接な関係でいようね。
C信濃国の知行は海津城将:須田満親が行う。
D小県(上田)、吾妻(岩櫃)、利根(沼田)・坂木の庄を安堵する。
E佐久甲州のどこか、長野一跡(★箕輪城)を与える。
F屋代秀正の一跡(荒砥城&屋代城)を与える。
G真田昌幸に禰津昌綱の処遇も一任した。
平山説・・・真田昌幸の配下にすること
H???


夏、須田満親は羽柴秀吉との交渉役になった。
越後・越中の国境:勝山城で上杉&羽柴が会見する
下準備をした。
上杉景勝+直江兼続⇔羽柴秀吉+石田三成
結果・・・同盟を結んだ。
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徳川・北条連合 VS 上杉・羽柴秀吉連合

 同時に、徳川家康にも手紙を出した。
 「・・上杉景勝につく・・・」
 徳川家康は激怒した。

★徳川家康は自分が造った上田城攻撃をすることになった。
そして、北条氏邦を沼田城に侵攻させた。
 (★『真田三代』:平山優著)

▲第1次上田合戦 
  徳川軍来攻、上田城頭の激戦
 ・徳川家康は真田昌幸を攻めるために小県に出兵。
  徳川軍・・・大久保忠世・大久保彦左衛門・鳥居元忠
  ・平岩親吉など+保科正直(家康異父兄弟:箕輪城明け渡し)
  +屋代+諏訪+依田玄蕃
   VS 
  真田騎馬200余騎馬+雑兵1500余人・・
  国分寺〜神川・・・(加沢記)
 
★平山優説・黒田基樹説を使って
 小国は大国に勝つ3つの作戦とは?
閏8月 第一次上田合戦
真田昌幸2000人弱程 VS 徳川家康勢7000余
真田方は約1200人であった説もある。(伝)?

徳川家康と北条氏直は、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約
 7000の兵力を昌幸の居城・上田城に侵攻させた。
 
 徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地の信濃国分
 寺付近に兵を着陣した。
 ※国分寺は上田城の東4km?に押し寄せたのであった。


●真田の作戦・・・少人数で大群を討つ作戦
1)真田昌幸は築城の途中である上田城に籠城した。
・上田城本郭に500余を待機させた。
・上田城の横郭・町中に見張り兵を配置した。
・神川(かんがわ)に200余の遊撃前衛部隊を配備した。

2)長男:信幸を支城:戸石城に籠城させた。
伊勢山(戸石城)の800余説
伊勢山(戸石城)の300余説・・・有力説

3)従兄弟:矢沢三十郎頼康&上杉の援兵:須田満親を支城:
 矢沢城に籠城させた。
 300余説?+500余説?=800余説?
※平山説では上杉の援兵は少なかった。
合計・・・総勢2000余を配置した。

●家臣
祢津長右衛門・祢津志摩守・望月主水・小泉源五郎・矢野・
日置・原・春原・石毛・荒木・高槻・金井・上原・三輪
板垣信形・来福寺(忍者元締め)・成沢・松崎・田中・窪田
・堀田・車・高野・塚本
上州衆・・・・池田・市場・白倉・吉田・・・・など。


4)上田城下には互い違いの矢羽根のような千鳥掛けの柵
===ウナギのびんどうのような逆矢羽根型の柵を
造らせた。★説明が難しい。
======塀・柵======================
/ / / / / / / / / / / / / / / /
 \ \ \ \ \ \ \ \ \ \ \ \ \ \
======塀・柵======================

5)複雑な並びの町家・山野に約3000の武装した百姓兵を
 伏兵とした。

6)橋の構造を工夫した。


●上田城の門の2階の「第一次上田合戦」のいシュミレーション
・閏8月1日 
  真田信幸は支城の戸石城に兵300余名で着陣した。
  徳川軍の主力部隊を奥地に誘き寄せる作戦だった。
  結果・・巧みに奥へ誘い込み、大手口で勝利した。

・閏8月2日
徳川勢の先手が上田城の南東の神川(かんがわ)に差し掛かった。
200の真田前衛部隊が迎え撃ち、槍での争いを数回あわせた。
作戦通り、後退し始めた。
真田昌幸は城門を閉ざし、櫓の上で甲冑もまとわず、家臣と囲碁を
打っていた。★塚本という家臣らしいことが載っていた。
  
 徳川勢は真田勢が小勢で弱いと思い、一気に上田城を落とそうと
上田城内になだれ込んだ。
真田昌幸の『空城の計』とも知らず、・・・・。
真田昌幸は諸葛亮孔明が琴を奏でて司馬仲達を退けた『空城の計』
による心理作戦を展開した。
★徳川家康が三方ヶ原の敗戦でうんこを漏らしながら?引き上げて、
浜松城の大手門を開け、内と外に篝火を焚かせ、太鼓を叩かせた
た。警戒した武田軍山県昌景・馬場信房は兵を引き挙げさせた。
そして、浜松城は落城を免れたという『空城の計』のように・・・

徳川軍に攻め寄せられた際に上田城の門を開け放ち徳川勢を引き入
れようとすれば、用心深い指揮官ほど逆に警戒する。徳川勢に見破
られた場合は全滅の危険性があるが・・・鳥居元忠・大久保忠世は、
功績を焦って、突入した。

真田昌幸は家臣と囲碁を打ち続けた。
そして、真田昌幸は家臣に手鼓を打たせて『高砂の謡』を謡った。

徳川勢は挑発に乗った。鳥居元忠・大久保忠世は上田城に楽に入れた。
徳川勢は大手門も突破しようとした。・・・
 
真田昌幸はようやく甲冑を着け、櫓台に立った。眼下には戦功を焦る
鳥居元忠・大久保忠世らの主力兵が狭い二の郭(二の丸)にうじゃ
うじゃひしめきあっていた。門に取り付いたり、城壁
をよじ登っていたり・・・と攻めあぐんでいる。

真田昌幸はこの時を待ってましたとばかりに「攻め太鼓」を打ち鳴
らした。
「ドン・ドン・ドン・ドドドドド・・・」
合図で城門上に隠し、繋いでおいた縄を切らせ、大木や大石を
徳川勢の頭上に落下させた。

「撃てえ・・・」
同時に、堀狭間から鉄砲や弓矢を一斉に撃ちかけた。


鳥居軍・大久保軍は大混乱になり、撤退した。
勝機と見た真田昌幸は城門を開かせ、総攻撃を命じた。
「出撃・・・。」
真田昌幸は上田城内の500の兵を追撃させた。
真田勢の怒涛の勢いに、徳川勢は浮き足立ち、逃げ惑うばかり
となった。
★袋のネズミ状態になったのだ。

上田城下には互い違いの矢羽根のような千鳥掛けの柵===ウナギの
びんどうのような逆矢羽根型の柵で、徳川勢はなかなか逃げられない。
★行きはよいよい帰りは怖い。通りゃんせ、通りゃんせ、ここは
ど〜この細道じゃ・・・状態になってしまった。

上田城外にいた200の遊撃前衛部隊は横郭に後退し、集結していた。
遊撃前衛部隊の200の兵を横から攻撃した。
 
 それから、上田城の町家に撤退した徳川勢に火を放った。
強風にあおられて、鳥居勢はまたまた大混乱となった。

 また、町家や山野に伏兵していた武装した百姓軍が火を合図に徳川勢
に打ちかかった。百姓兵は石礫を投げた。

 さらに、真田信幸は300?800?の兵で戸石城より討って出た。
徳川勢の退路を遮断し、真田信幸軍が襲いかかった。
真田勢は追撃の手を緩めなかった。

徳川勢の先手:鳥居・大久保勢は@城内軍、A遊撃前衛部隊、B百姓軍、
C真田信幸軍の四方から攻められた。・・・はさみ撃ちにされてしまった。

その上、千鳥掛けの柵{{{{{{くくくく《《・・・ハの字形に互い違いに
配置した柵で、塀・柵に突き当たってしまうと逃げにくい。
行きはすんなり行けるが、帰りが逃げにくい。
 (★和根崎剛氏・平山優氏の説明)
======塀・柵======================
/ / / / / / / / / / / / / / / /
 \ \ \ \ \ \ \ \  \ \ \ \ \ \
======塀・柵======================

複雑な町家のトラップに引っかかり、退路を見失った。
真田勢に、弓に刺さったり・鉄砲に撃たれたり・槍に突かれたりと
徳川勢は大混乱に陥いった。
 
 上田城に戻った徳川軍は鉄砲隊に次々と撃ち落とされた。

北国街道に撤退する徳川勢は、戸石城から討って出ていた真田信幸の
突撃で崩された。
真田軍は巻狩りのコの字状態にして、東方向に逃げ場を作った。
徳川軍主力隊はやっとのことで上田城の東方3km程の神川まで敗走
した。

徳川勢の多くが神川(かんがわ)を渡るに及んだ。
そこで、真田昌幸は最後の作戦に取りかかった。
真田昌幸は上流に築いておいた堰を切って落とすことを命令した。
雨による増水の上、さらなる増水=====
徳川勢を溺死させた。
これが最後の仕上げとなった。

須田満親は15歳〜60歳までの寄せ集め兵約100を連れて
真田根小屋城に入った。
矢沢城でも真田昌幸従兄弟:矢沢頼康が上杉の援兵:須田満親
軍と共に篭城した。
800余の守兵で依田康国・屋代秀正勢1500を退けた。

※矢沢頼幸は沼田城に父:矢沢頼綱の救援に上杉景勝から
 許可を貰って出かけていた。
 (★『矢沢家文書』)
 

上田城・神川の戦いは徳川軍の犠牲者は300余名?
一説には1,300名
にも上ったという。真田勢は40人程であったという。
●真田信幸の書状
徳川方の死者は1300余、真田方の死者は40余。
●大久保忠教の記録
徳川方の死者は300名余。

●大久保彦左衛門の『三河物語』
「徳川勢は悉く腰がぬけて、・・。」
戦意喪失状態であった。


真田幸村は徳川方の屋代秀正の旧領をもらって、
諏訪久三に安堵させた。
        (★千曲市諏訪家文書)
   
・真田昌幸は上杉景勝を通じて豊臣秀吉に接近。
・豊臣秀吉は上杉景勝に上田城の援助命令を出した。
 ・上杉景勝援軍が海津城→地蔵峠→真田の根小屋城
   (上田市真田・・砥石城北)に到着。
でも、須田の援軍の到着は遅く、自力で動くしかなかった。
(★平山優・黒田基樹説)

 
 ・徳川軍は丸子城に矛先を変え、東側の八重原に布陣。
 ・真田昌幸は手白塚(塩川)に出て牽制。

8月19日 諏訪頼忠が丸子城を攻撃開始。
  合戦が開始。「丸子表の戦い」で、
 ・丸子城主丸子三左衛門(三右衛門)らが少兵力で城を死守。
●丸子城

8月20日  真田昌幸は長瀬河原へ出て、鉄砲で諏訪軍の背後
  を急襲。
  徳川方の岡部長盛は軍を三手に分けて出撃し、河原町に放火。
  真田軍を退破。
  辰ノ口側から丸子城に攻撃。→結局落城せず。 
  真田昌幸・信幸父子が国分寺で徳川軍を撃破

8月26日 井伊隊5000到着。→すぐに撤退命令。
★徳川家康は真田昌幸が上杉景勝や豊臣秀吉に根回ししていた
とは知らず、上田を攻めていた。石川数正・小笠原の離反。
上杉方:須田の救援に来た事を知った家康は撤退命令を出した。 

結果・・・天下に勇名→有名人なった。
※昌幸、信之(当時は信幸)・上杉の援軍、武装農民など
  総数3000人が徳川勢10000人を破った。
次男・信繁(幸村)は春日山城に人質で、参加していない。
「上田軍記」では信繁が参戦したと書いてある。

8月29日付 
海津城代:須田満親→矢沢三十郎頼幸(矢沢頼綱の子)宛ての書状
「未だ申し通せず候と雖も一翰啓せしめ候 
今度御証人(★人質)として御幼若の方(★信繁=幸村)
御越し申し痛み入り存じ候
その口に於いて御稼ぎの由是非なき次第に候
先日曲尾筋(★真田根小屋城)へ助勢申し候ひき、
重ねて今日人数さし遣わし候 
御用等御隔心なく仰せ談ぜらるべく候 
洪水にて路次自由ならざる故、吾等遅参所存の外に候 
何様面談を以って申し承るべく候    
               恐々謹言
尚々其元昼夜の御苦労察し入り候 
御稼ぎの段並びに御証人指し越され候 
則ち春府(★春日山城)へ申し達し候 」

※真田信繁(幸村)が人質として上杉へ来たことへの感状
  (★『須田満親書状』:真田宝物館)


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【2】『真田四代と信繁』丸島和洋著
@真田幸繁は第一次上田合戦に参加していなかったはずである?
同時代の史料から確認できない。人質なのに怪しい。
しかし、山之手殿を代わりに人質に出した説もある。
A北条氏政は北条氏邦に吾妻に侵攻させたが、千葉氏とも争って
 いて余裕はなかった。
B徳川家康は井伊直政の救援
 丸島説・・引き上げる為のデモンストレーション?
C真田昌幸は10月〜秀吉の応援にこぎ着けた。
丸島説・・籠城し、秀吉の救援を待とうとしたと考えられる。
C徳川bR石川数正の出奔は秀吉の取次役
丸島説・・・家康と数正の関係悪化説・・・秀吉に傾いていった。



【3】『真田三代』:平山優著
@真田信幸と矢沢頼幸を海津城将:須田満親に送った。
 須田満親は春日山城に連れて行った。
  平山説・・真田信繁は参加していなかったと考えているようだ。
◎矢沢頼幸は矢沢城に入った。
  ★真田丸のストーリーでは遊撃隊
※「矢沢家文書」では沼田城に行った。
A北条氏政は吾妻に侵攻したが、北条氏邦に委ねていた。
北条氏照は皆川城攻めに行っていた。
B徳川家康は井伊直政の救援
平山説・・・解説なし
C真田昌幸は10月〜秀吉の応援にこぎ着けた。
平山説・・・徳川家康は窮地に陥った。
D徳川bR石川数正の出奔は秀吉の取次役
 平山説・・・家康と数正の関係悪化説。秀吉に傾いていった。
11月28日 家康は使者:織田信雄の講話拒否した。
E徳川家康は秀吉に軍制がばれたので、武田遺臣に文書・記録を提出
 させた。
 ★井伊直政も武田流に変えた。
天正18年(1598)以降、北条氏政に仕えていた上泉流軍法
継承者:熊井土(後、岡本半介宣就)を中心に井伊軍法
と作らせた。
E徳川家康は地震によって秀吉の攻撃から救われた。
11月29日〜12月23日 天正の大地震
F豊臣秀吉の徳川への懐柔策
・天正14年
 2月 秀吉は尾張に出兵すると通達した。
   織田信雄はは家康の説得に出かけた。
   岡崎城で会見し和睦を承諾させた。
  4月 秀吉妹:旭姫を家康に嫁がせた。
臨戦態勢を解除した。  
6月14日 上杉景勝の上洛謁見。
秀吉は景勝に「所領安堵・官位を与えた」
真田昌幸・小笠原貞慶・木曾義昌を家康の
与力大名にすることを景勝に話した。
しかし、昌幸は上洛していなかった。
8月3日、真田昌幸を「表裏比興の者(ひょうりひきょうのもの)」
「豊臣秀吉が真田家の庇護者:上杉景勝に、真田が徳川に攻めら
  れても助ける事は無用であるという通達を出した。」
9月 真田昌幸は上洛・・・徳川家康の与力大名へ 
★徳川家康の与力大名
真田昌幸・小笠原貞慶・木曾義昌であった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



・天正14年(1586)

6月14日 上杉景勝の上洛謁見。
豊臣秀吉は上杉景勝に「所領安堵・官位を与えた」

  豊臣秀吉は真田昌幸・小笠原貞慶・木曾義昌を家康の
与力大名にすることを上杉景勝に話した。

 しかし、真田昌幸は上洛していなかった。

 ※須田満親は豊臣秀吉との交渉に知略を巡らした。
 

・天正16年(1588) 5月 上杉景勝、直江兼続、色部勝長、
 須田満親の4人で豊臣秀吉に聚楽第で謁見した。
 豊臣の名を名乗ることを許された。
 

・天正17年(1589) 10月
 須田満親が上高井郡高井村の高杜神社に願文奉納した。
 須田満親は、豊臣秀吉との謁見が上手くいき、上洛の大任を果た
 した。

 12月30日 須田満親は豊臣秀吉から従五位下・相模守に
   叙任された。



・文禄3年(1594) 須田満親の海津城での知行高は12,086石
  であった。
   (★『文禄三年定納員数目録』)
  ★1万2千余石・・・
  ・・・上杉家中で信濃衆の筆頭であった。
  直江兼続に次ぐ大身=bRであった。
直江兼続は須田満親は妹「きた」を須田満親の嫡男:満胤に嫁
  がせていた。
   

・慶長3年(1598)
 正月 上杉景勝の会津移封が正式に通達された。
 2月 須田満親は海津城にて自害した。享年73。
    (一説には病死)
須田満親の長男:須田満胤(光義)は直江兼続の妹「きた」
  娘婿となっていたため、須田家の家督は次男:長義が継いだ。

上杉景勝は会津に移封。

  信濃衆:井上氏・須田氏・高梨氏・岩井氏も同行した。 
  

  須田長義は上杉景勝の会津移封に従い、陸奥梁川城で2万石
  となった。
 
8月 豊臣秀吉が死去
  徳川家康と石田三成との対立が表面化していった。

  上杉景勝は徳川家康から再三の上洛命令を受けたが、
  無視し続けた。

・慶長5年(1600)
 「直江状」
上杉景勝は徳川家康の討伐を受けることになった。
関ヶ原の合戦の引き金となったのである。

7月 伊達政宗は徳川家康に呼応し、上杉領に出兵した。
   甘粕備前守:白石城を不意に攻め寄せた。
   白石城は落城し、伊達政宗の手におちた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●宮城:白石城&城下町
http://53922401.at.webry.info/201307/article_23.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
8月 須田長義は伊達政宗が梁川城を襲うであろうと思い、
   戦闘準備をしていた。
   ところが、伊達政宗は桑折西山城方面から大仏城(福島城)
   に向かった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●福島『桑折西山城』=伊達政宗の先祖の城
http://53922401.at.webry.info/201305/article_9.html

箕輪初心●福島『大仏城→福島城』=伊達政宗が拘った城
http://53922401.at.webry.info/201305/article_10.html  
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
   
  須田長義は阿武隈川を渡って伊達政宗を追った。
  桑折で伊達軍の小荷駄隊に追い付き、壊滅させた。
  さらに摺上川を渡って・・・松川で伊達に追いついた。
  渡河中の伊達軍に襲い掛かった。
   須田長義は伊達軍を背後から追撃し、ほとんど壊滅させた。
  須田長義は福島城救援に向かった。


10月 伊達政宗は本庄繁長・岩井信能が守る福島城へ兵を進めた。
    本庄繁長(妻は須田長義の姉か妹)・岩井信能は伊達政宗
    の大軍が迫ってくる報を受けて伊達政宗軍を迎え撃った。
   須田長義軍と挟み撃ちにした。
    伊達政宗軍は大混乱に陥った。

    伊達軍は20倍の大軍ながら須田・本庄・岩井軍に敗けた
    のであった。

 
▲奥州の関ヶ原の戦い「長谷堂城の戦い」
直江兼継 VS 最上
直江敗戦・・・前田慶次郎&上泉泰種(上泉伊勢守
 信綱の孫)も討ち死にした。
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箕輪初心●山形【長谷堂城の戦い】直江兼続VS最上義光
 http://53922401.at.webry.info/201307/article_9.html  
 
◆◆ 箕輪初心★岡本半助宣就&上泉泰綱 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201301/article_9.html 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
▲関ヶ原の合戦 
 西軍が敗れた

 上杉景勝は会津百120万石を没収され、米沢30万石に
 封じられた。
 須田長義も上杉景勝の転封に従い、米沢に移住していった。
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◆◆ 箕輪初心◆山形旅行12回の概要 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201307/article_3.html

◆◆ 箕輪初心●山形【米沢城】&米沢の秘湯 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201307/article_4.html

◆箕輪初心●山形【米沢城】&上杉家廟所・林泉寺・照陽寺 ◆
http://53922401.at.webry.info/201307/article_5.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・慶長19年(1614~) 大坂冬の陣
▲鴫野の戦い
 須田長義は、上杉軍の先陣を率いて後藤基次軍を相手に
 奮戦した。

・元和元年(1615) 徳川秀忠から直々の感状と短刀を拝領した。  

以後、子孫は米沢藩上杉氏の重臣として続いた。




〜〜〜中略〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『真田丸』に福島正則が登場したと思ったら、減俸された。
・元和4年(1618)福島正則は一国一城令発布後にもかかわらず
  新規に築城を行ったとして、幕府より該当城の破却を命じ
  られた。
  
・元和5年(1619)
福島正則は広島城の修理願いを出していた。
  広島城が台風による水害で破壊された。
  福島正則は広島城の本丸・二の丸・三の丸・石垣等を江戸幕府
  に無断で修理した。
  武家諸法度違反に問われた。
 
  将軍:徳川秀忠は安芸・備後50万石を没収した。
  福島正則は川中島高井郡(高井野藩)と越後国魚沼郡の
  4万5千石に減封された。
画像


  福島正則は嫡男:福島忠勝に家督を譲り、隠居した。
  高井野領内の用水の設置・新田開発、治水工事などを
  行った。

・元和6年(1620) 福島忠勝が早世したため、福島正則は2万5千
  石を幕府に返上した。

・寛永元年(1624) 高井野(高山村)で死去した。享年64。




★明日は第4次川中島関係に戻る?

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箕輪初心:生方▲真田丸88【須田満親&真田昌幸】&『福島正則陣屋』上高井郡高山村散策3回 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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