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zoom RSS 箕輪初心:生方▲保科氏館跡&霞台城&保科温泉→高遠城

<<   作成日時 : 2016/04/21 09:58   >>

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保科家は川田郷保科(長野市若穂保科)に保科氏館・霞台城を
居城とする豪族であった。保科氏館跡は現広徳寺にあったと言
われている。高遠城主:保科弾正忠正俊は武田信玄の信濃先方衆
で騎馬120騎持ちの侍大将を務めた。長男は保科正直で、次男は
保渡田城主(箕輪城代):内藤昌明である。保科正直の嫡男は保
科正光である。保科正光の正妻は真田昌幸の娘であり、養子は
徳川秀忠の子:保科正之(会津藩主)である。残念ながら、保
科氏館跡(広徳寺)&霞台城、保科温泉:永保荘(現若穂の湯)
の写真もない。


【1】保科氏館跡(広徳寺)


【2】霞台城


【3】永保荘泊
みかちゃん・さやかちゃん・岡部氏と泊まった。


【4】高遠城
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★★ 保科氏の歴史前編  ★★
保科氏は、信濃国高井郡保科に発祥した土豪である。
出自・・・
@清和源氏井上系保科氏説(有力説)・・・・
A他田部氏の系統とする説・・・保科荘
  保科氏の祖は長田御厨の庄官を勤めたとされる。
B諏訪氏庶流高遠氏系保科氏説

・長元元年(1028) 平忠常の乱
源満仲(多田満仲)の2男:源頼信が乱を平定して東国に勢力を
 持った。
  源頼信の3男:源頼季&嫡男:源満実が信濃国高井郡井上に住し、
  井上姓を名乗った。
  源頼季が井上氏の祖となった。
(★ 『尊卑分脈』)
 ★源満実だけが信濃高井郡に入国したのかもしれない。 
  
 井上満実は信濃に最も早く入ったので、信濃源氏の祖と云われる。
 井上氏は保科・米持・村山・高梨(3説あり)・須田氏らの支族を
 分出した。


・治承4年(1180) 8月17日 源頼朝の挙兵
 9月〜12月 木曾義仲は上野多胡(吉井)でメンバー集め
12月 横田河原の戦い
 井上光盛が保科党を率いて木曾義仲に参陣して活躍した。
(★『平家物語』)
 星名党が越後の城軍に星名権八の名がある。  
 
 井上光盛は木曾義仲の上洛には従軍せずに、途中から、
  源頼朝に従った。

・治承4年(1180)〜 治承・寿永の乱
   保科氏は井上光盛に従い源頼朝方として活躍した。
   「保科党三百余騎」とある。
(★『平家物語』)


・元暦元年(1184)
7月 井上光盛は源頼朝に鎌倉に召喚される途上の駿河国蒲原
    で誅殺された。
 ※甲斐源氏一条忠頼と井上光盛は源頼朝に危険視された。

 井上光盛が源頼朝に誅殺された際に捕らわれた家人に
 保科太郎がいた。
 しかし、保科太郎は許されて御家人に取り立てられた。

・承久3年(1221)承久の乱
仁科盛遠に従って、井上光盛の次男:井上光清(正光)が後鳥羽
 上皇側に立って参戦した。
 保科次郎も出陣した。


・文永2年(1265) 井上正頼が在庁官人として信濃大掾を称した。
  (★『鎌倉遺文』)

・文永5年(1268) 井上盛長が善光寺を焼き払い、誅殺された。
  (★『尊卑文脈』)

・元弘元年(1331) 元弘の乱
小笠原貞宗は新田義貞に従い足利高氏らとともに後醍醐天皇
 の討幕運動を鎮圧に加わった。
 足利尊氏・直義(ただよし)が鎌倉幕府に反旗を翻すと鎌倉攻め
 に参加した。

・建武元年(1234) 小笠原貞宗あは功績により信濃守守護に任ぜら
 れた。
 小笠原貞宗は埴科郡船山郷(千曲市小船山)に守護所を置いた。


・建武2年(1335) 中先代の乱
諏訪氏や滋野氏が北条時行を擁立した。
▲青沼合戦
 保科弥三郎が四宮左衛門太郎らと共に室町幕府の守護所を襲
 った。守護所の守備していた市河氏らと近くの八幡河原青沼
 (千曲市杭瀬下)周辺で合戦となった。
  保科、四宮勢は敗走し福井河原や篠ノ井河原、四ノ宮河原と
  転戦した。小笠原勢は追撃を重ねた。
  
  諏訪氏、滋野氏らは信濃府中(松本市)の国衙を焼き討ちし、
  建武政権が任命した国司:を自害させた。
 
  保科弥三郎らは清滝城(長野市松代清滝)に篭城して抵抗した。
 
・建武3年(1336) 村上信貞らが清滝城を攻略した。
保科弥三郎は討ち死にした。
 村上信貞らが牧城の香坂氏に攻撃を加えた。



・戦国時代


・延徳元年(1489) 保科弾正忠正利が円覚山広徳寺を開基した。


・永正10年(1513) 保科氏 VS 村上氏との戦い
広徳寺が消失した。
 
※村上氏との抗争に破れて@村上氏従属派とA高遠への逃亡派に分
  裂したという説が有力である。
  しかし、保科氏が南信濃に移った時期や系統性は不明である。 
※保科一族の大槻頼重→保科実重と続く保科家は、高遠近くの
  小豪族となった可能性がある。 
  しかし、保科氏は諏訪神党の1党であることから、諏訪氏と
  何らかの関係があったと考えられている。

*天文17年(1548) 上田原合戦
2月14日、武田晴信と村上義清による上田原合戦が起き、地
元情報を持っている真田幸隆が武田晴信の作戦に深く関わったの
であろう。しかし、武田晴信の重臣:板垣信方・甘利虎泰・初鹿
野伝右衛門、才間河内らが戦死した。武田晴信本人も負傷し、武
田方は村上方に大敗退した。
4月5日 信濃守護:小笠原長時は、好機到来と見て、
  安曇郡の仁科盛能と連合して諏訪に攻め入った。
  諏訪大社下社へ攻め込み放火した。、諏訪下社を占領した。
 
●高遠城主:諏訪頼継の家老として「保科弾正忠正則」(筑前守)
 が登場する。
 

・天文21年(1552)
7月2日 高遠城主:高遠頼継が武田晴信に呼応に応じて杖突峠から
     諏訪に侵攻して安国寺附近に放火した。
(★「武田信玄」:新田次郎著では、兵2000)

諏訪頼重は高遠頼継が裏切ったのを初めて知った。
(★「武田信玄」:新田次郎著)
諏訪頼重は千野入道に高遠頼継を討つように命じた。
夜、千野入道は夜襲をかけた。しかし、戦死した。
武田晴信は「惜しい男をなくしたな。」・・・・。
(★「武田信玄」:新田次郎著)
その後、神長官:守矢頼真や有賀城:千野靱負尉
   (ゆきえのじょう)は武田晴信の家臣になっている。

   諏訪頼重は挟み撃ちを恐れて上原城を焼き払った。
★武田晴信や高遠頼継に上原城を使われないように
 するためである。
   
   夜、諏訪頼重は桑原城に移った。
       そして、桑原城に立て籠もった。
   
  
7月3日 武田晴信は桑原城下に兵を進めた。
高遠頼継も桑原城下に兵を進めた。
   3方から桑原城を包囲し攻撃した。
    
  しかし、追い詰められた諏訪軍は激しく抗戦した。
  折からの雨で、城攻めを中止した。
  武田晴信は包囲を解いて後退した。
★武田晴信の作戦であった。思った通り、
   諏訪兵の逃亡が始まった。・・・・・
「これで、兵が減れば、・・・桑原城は落ちる。」


 夕方、諏訪頼重は城の警備を検分をしに出かけた
     諏訪頼重を見た家臣が頼重が城を捨てたと思い込み
     逃げて始めた。
夜、諏訪頼重が陣に戻ってみると、大部分の兵は逃亡していた。
    
     桑原城で諏訪頼重と一緒に夜を過ごしたのは僅か20名
     程だった。
 (★NHK大河ドラマ「風林火山」などでは・・・)
桑原城に残ったのは諏訪一門とわずかな城兵だけとなった

★7月3日の夜、諏訪頼重&武田晴信は何を想ったのだろうか?
 頼重「武田晴信の妹は我が妻・・・降伏して命乞いをしようか?」
晴信「明日になれば、兵も食料ないので、降伏するだろう。
    禰々もいるので、攻撃したくはない。・・・
   それに、無駄に配下を死なせたくはない。・・」

7月4日 武田晴信は和睦の申し入れをした。
 板垣信方は降伏を勧めに行った。
(★「武田信玄」:新田次郎著)


  諏訪頼重は武田晴信の妹婿である縁を利用して、晴信に和睦を
  申し入れた。晴信はこれを受け入れた。
和睦の条件として諏訪頼重の生命は保障されていた。

(★ウィキペディアの説)
7月5日 桑原城を開城した。
諏訪頼重・弟:大祝頼高を甲府へ連行した。
しかし、2人は甲府の東光寺に幽閉された。
★騙されたと思ったが、後の祭りであった。
7月21日 武田晴信は約束を反故にして、諏訪頼重と実弟:
  大祝頼高を切腹させた。
 諏訪惣領家は事実上滅亡した。


8月16日 高遠頼継 死去(自害?)している。死去(自害か)
武田晴信(信玄)が 諏訪における名声の増大を恐れ自害させた説
 もある。
高遠頼継の死後、保科正俊以下の旧家臣団は武田氏の傘下とな
 った。
保科正俊は、高遠氏家臣団では筆頭の地位にあったとされる。
★甲陽軍鑑では「武田の三弾正」保科正俊・真田幸隆・香坂
 槍の弾正・・・保科正俊

保科正俊は軍役120騎を勤める高遠城将として数々の戦いで軍功
 を挙げた。

〜〜〜中略〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

※保科正直は保科正俊の後を継いだ。


・天正10年(1582)
2月12日 本隊の織田信忠は岐阜城を出陣した。
      軍監の滝川一益が長島城を出陣した。

2月14日 織田信忠は岩村城に兵を進めた。

2月14日 松尾城主:小笠原信嶺も織田軍河尻に寝返った。

●保科正直は飯田城に籠城した。織田信忠による攻勢を受けて
  坂西織部亮、小幡因幡守らとともに高遠城へ逃亡した。


2月16日 木曾の鳥居峠の戦い
  今福ら武田軍は藪原から鳥居峠に兵を出した。
  織田軍は奈良井坂を登った。
  織田信忠の支援を受けた木曾義昌軍に敗北を喫した。

2月17日 織田信忠は平谷:滝沢に陣を進めた。
 (★『信長公記』

2月18日 織田信忠は飯田に侵攻した。
     飯田城主:保科正直(保渡田城主&箕輪城代)は飯田城を
     捨てて仁科盛信の高遠城へと逃亡した。

     武田信廉(勝頼の叔父)らは飯田城放棄を聞いて戦意喪失
     した。
    武田信廉(勝頼の叔父)は大島城(下伊那郡松川町)から
    逃亡した。
    ※武田軍は戦わずして南信濃を失った。

2月28日 河尻秀隆は織田信長から高遠城の攻略のために陣城を築け
      との命を受ける。

 織田信忠率いる3万の兵が、武田勝頼の弟:仁科五郎盛信が
 籠もる高遠城に押し寄せた。

3月1日 飯田城から逃げ帰った保科正俊の後を継いだ嫡男:正直も
  高遠城将として高遠城主:仁科盛信と共に奮戦した。 
  高遠城(伊那市高遠町)主:仁科盛信(信盛)は籠城した。
  佐久郡内山城(長野県佐久市)の城代:小山田昌成・大学助も
  副将として高遠城に入っていた。
      
  織田信忠は高遠城を包囲した。
     (★『甲乱記』『信長公記』)
 保科正直もいた。
  元々、高遠城は諏訪一族の高遠氏代官:保科家の城であった。

 織田信忠は仁科盛信に黄金と書状を送り、開城を促した。
  しかし、仁科盛信は要求を拒絶した。


3月2日 織田軍3万余は総攻撃を開始した。
   仁科盛信は籠城し、織田軍と激闘を繰り広げた。

   織田方の織田信家が戦死するなど大きな被害を受けた。
   織田軍に城門を突破されるに及び、ついに仁科盛信・小山田昌成
   ・大学助らは戦死し、高遠城は落城した。
(★ 『信長公記』)
保科正直は降伏した。
小山田兄弟は二の丸を捨て、本丸へ逃げた。

 保科正直は火の手上がる本丸を呆然と見つめるしかなかった。
高遠城では仁科盛信とともに籠城していたが城を退去した。
 実弟:内藤昌月を頼って上野の箕輪城へ逃れた。
※ちなみに保科正直の実弟は箕輪城主:内藤昌月である。
 後、保科正直の長男:保科正光は真田昌幸の娘と結婚する。

森長可はこの功績により、信濃川中島四郡と海津城20万石を
与えられた。
その後、信濃入領統治、越後侵攻と続いた。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方▲真田丸43:第6話【迷走】のあらすじ
&「森長可の撤退」
http://53922401.at.webry.info/201602/article_19.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


6月19日・20日 神流川の戦い  
北条氏邦が箕輪城主になった。
  弟:内藤昌月・兄:保科正直は北条氏邦に帰属し、
  北条氏政に臣従した。
  

 保科正直は後北条氏を後ろ盾に高遠城奪還に成功した。
 


7月 ▲天正壬午の乱 
北条氏政・氏直 VS 上杉景勝
信濃の旧織田領を巡って対立した。

保渡田城代:内藤昌明から500を借り、高遠城を
奪還を図った。

保科正直・内藤昌月兄弟は小諸城から甲斐に向けて進軍した。
 
8月  北条氏政・氏直 VS 徳川家康
   甲斐の旧織田領を巡って対立
北条氏直軍の別働隊として高遠城を奪取することに成功した。

▲甲斐黒駒合戦
徳川家康が優勢に経つと、依田信蕃、木曾義昌ら他の信濃国衆と共に
徳川家康に臣従した。

10月29日 和議
  徳川家康は北信濃を除く武田遺領を確保した。

●保科正直も徳川家康に臣従した。
   高遠城主としての地位を2万5,000石を領した。


・天正12年(1584) 小牧・長久手の戦い
保科正直の子:正光は徳川家臣として出陣した

・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
  保科正光が出陣した。


***************************
真田昌幸&真田幸繁(幸村)が箕輪城:北条氏からの受け取り
※箕輪町誌・鉢形城博物館冊子などは、保科正直は箕輪城に
 いることになっている。つまり、北条氏家臣である。
 もしかして、箕郷町誌・高崎市史・榛名町誌などか、違って
 いる可能性もある。



●▲■ 後北条氏の城配置 ■▲●
@倉賀野城・・垪和(はが)伯耆守康忠&垪和信濃守? 
A厩橋城・・・垪和(はが)伯耆守康忠&垪和信濃守?
B箕輪城・・・北条安房守氏邦(鉢形城と兼任)→猪俣邦憲
    ( 後、→多米出羽守平長定
         →垪和(はが)伯耆守康忠か垪和信濃守?)
C沼田城・・・猪俣邦憲(富永主膳助盛)
D平井城・・・多米周防守元忠&多米出羽守平長定
E西牧城(多野郡西牧藤井の塁)・・多米周防守元忠
 青木城(横浜鶴見区)には、山中主膳正(後北条家二十将の一人)
  を城代に配置。
F松井田城・・・大導寺政繁(川越城主と兼任)

*近藤義雄先生説・・・北条氏が籠城手配は4城
1)白井城
2)松井田城
3)西牧城
4)館林城

3月 豊臣秀吉の小田原攻撃
豊臣軍約200000騎?VS 北条軍34250騎    
 (★秀吉が調べた北条家人数覚書:毛利家文書)
*北条氏邦・・・・・5000騎
 (鉢形城・深谷城・倉賀野城・厩橋城・箕輪城・沼田城)
*大導寺政繁・・・1500騎(川越城・松枝城)
*波賀駿河守・・・見失      
 (★毛利家文書・・・鉢形城博物館の本)


A、秀吉軍の北国軍(前田・上杉・真田昌幸ら)が北条の城を攻撃。
3月?日 前田利家が福井経夕→東山道木曽→佐久郡へ到着。
        上杉景勝と真田昌幸が合流、北国軍。

3月?日  北国勢の前田利家・上杉景勝は碓氷峠を越えて上野
       に入った。 

3月15日 真田氏先兵が碓氷峠で大導寺政繁と交戦。
上杉景勝軍所属の真田昌幸3000は愛宕山城
      (松井田坂本)から出撃した。

3月18日 北国軍が碓氷峠で北条先兵を破る。 
   
3月28日 松井田城を包囲攻撃、落ちず。

 北国軍:前田利家&上杉景勝
  真田昌幸3000は上杉景勝所属

 上杉軍は松井田の愛宕山城に入った。
 ※松枝城(松井田城)攻撃
  霧積川の戦い
  真田昌幸・幸繁3000 VS 大導寺政繁1500
真田昌幸の勝ち・・・

大導寺政繁の兵力1500(★毛利家文書)
  北国軍の前田氏・上杉氏に35000人に迫られ
  松井田城が落城。開城・・・

箕輪初心●群馬松井田:坂本城&愛宕山城=武田信玄の築城か?
http://53922401.at.webry.info/201210/article_4.html

箕輪初心●群馬【松井田城】=安中忠政→大導寺政繁の城
http://53922401.at.webry.info/201112/article_2.html


**************************
4月?日 西牧城(多米元忠?)への攻撃→多米元忠が西牧砦で討死。

4月?日 厩橋城(?)を攻略。・・・・浅野長政ら
   
4月7日  真田昌幸が松井田に付城普請を命じられる。
   
4月12日 真田昌幸が手勢を連れて碓氷峠で80人を討取る。
   
4月20日 松井田城(大導寺政繁+子直繁1500騎)落城
           →大導寺政繁は前田の道案内。
   
4月?日 和田城(和田信業」)も落城。
   
4月?日 倉賀野城(併和信濃守)も落城
   
4月24日 →大導寺政繁は前田の道案内した。
      が箕輪城へ・・。
    (★鉢形城開城:鉢形城博物館)
    ・箕輪城(垪和康忠)も闘わずに降伏開城・・・・
 
 
 箕輪城は北条氏邦家臣:垪和伯耆守康忠・旧武田家臣保科正直
(内藤昌月実兄)がいたらしい?。

 真田昌幸・真田幸繁が入城。
 @北条氏の垪和氏・保科氏が守備
   (★新編高崎市史の資料)
 A北条氏の芳賀信濃守・保科正直が降伏。
   (★漫画みさとの歴史)
 B芳賀信濃守は逃亡し、保科正直が降伏。
   (★近藤先生:箕輪町誌の松城通記)
 C4月24日、垪和信濃守は北国勢に降伏。
   (★近藤先生:箕輪町誌の「箕輪城と長野氏」)
 D去弐四日書状今日弐九披見候箕輪城之儀羽賀信濃守追出
   保科居残城相渡候付て羽柴孫四郎・・・
     
4月24日 真田昌幸からの箕輪城についての手紙
         →石垣一夜城の豊臣秀吉への報告


4月29日 秀吉から真田昌幸は、箕輪城の武具受領や百姓環住など
  の仕置きを指示。人身売買の禁止。  
 (★近藤先生:箕輪町誌の4月29日の秀吉書状4月24日の
  真田の報告に答え、箕輪城で在城処理。)


7月5日 小田原城開城

8月  徳川氏の関東入府
 保科正光は総国多胡で1万石を与えられ大名に列した。

・天正19年(1591) 九戸城の戦い
保科正光は九戸政実の乱鎮圧にも参加した。


・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い
保科正光は高遠城主として2万5千石を領した。

・慶長6年(1601) 9月29日 保科正直は高遠城で死去した。
  享年60。
武田信玄が箕輪城を攻略した32年後であった。

・慶長19年(1614) 大坂冬の陣
真田幸繁 VS 真田幸繁妹の夫:保科正光

・慶長20年(1615) 大坂夏の陣 
大坂の陣での戦功により3万石に加増された。

・元和3年(1617) 保科正光は見性院の縁で2代将軍徳川秀忠の
  庶子:保科正光の養嗣子預かり、正光の子として養育した。 
  
・寛永8年(1631) 保科正之は家督を相続し、高遠藩3万石の藩主
  となった。

・寛永13年(1636) 保科正之は出羽20万石を与えられた。
  
・寛永20年(1643) 会津23万石となり、幕末まで続くことになる。


★明日は上高井郡の須田氏かな?

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