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zoom RSS 箕輪初心:生方▲松平輝貞の『榛名するす岩下:右京の泣き堀』3回目・榛名湖畔

<<   作成日時 : 2016/04/20 08:56   >>

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松平右京太夫輝貞は新田開発のため、榛名山のするす岩の下の
岩盤をくり抜いて、松の沢から高崎方面に用水路を引こうと考
えた。榛名湖の現自然観察センター→するす岩直下のトンネル
水路約400m→箕郷松の沢→高崎長野→高崎)17〜20km
?もある壮大な計画だった。結果的には「右京の泣き堀=むだ堀
=馬鹿堀」と語り継がれている。案内人がいなければ、探すのに
大変な場所である。
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箕輪初心★高崎藩8代・10代松平輝貞&「右京の泣き堀」
http://53922401.at.webry.info/201310/article_14.html
★松平右京太夫輝貞は徳川綱吉の「生類憐れみの令」を推進し、鳥
獣の肉を食べなかった。「右京の泣き堀=馬鹿堀」でも有名である。
★永禄8年(1695)高崎藩に下野壬生より8代目:松平大河内輝貞が
52000石で入封した。5代将軍:徳川綱吉に仕えた。6代:徳川家
宣の代になると、宝永7年(1710)に越後村上に転封させられた。
8代将軍:徳川吉宗の代になると、享保2年(1717) 間部詮房と
村上城主を交代し、松平輝貞が高崎城主に返り咲いた。


◆訪問日@・・・平成22年(2008)8月15日
※群馬:榛名するす岩の「右京の泣堀」探検
@村の仲間3人と榛名の「右京の泣堀」に向かった。
 榛名沼の原に車を停めた。
 沼の原・・・ユウスゲの最盛期。
  ヨツバヒヨドリ・こうりんか・オミナエシ
    ススキ・ゴマナ・マツムシソウを見ながら〜〜
 相馬山方面に向かった。
 まわりに、榛名富士、かもんが岳1449m、相馬山1411mが見えた。
 相馬山のするす岩は修行場であった。
A相馬山とするす岩の中間のするす峠に出た。
するす峠を南に雨が降ると沢になる所を150m程下る。
右に尾根が見える。
尾根の切れた所を右に回り込む。遊歩道がある。
といっても、人はめったに来ない。
Bするす岩直下の塩ビパイプのある水飲み場で水を飲んだ。
 冷たかった。
Cこの5m上が目的地だった。水は泣堀から流れ出ているものだった。
D看板はチョーさんが親戚の元高崎市史編纂委員の中村先生に聞いて、
鉄板に書いた物だった。
チョーさんは4回目でやっと、この冬探したという。
「享保年間・・1723年徳川吉宗の許可を得た)高崎藩主:松平右京
輝貞は引水計画を再開。でも、高崎の村同士の争いで未完成に終わ
った。」
「右京の泣堀」・・・高さ1m20cm。幅1m20cm。の穴。
空気がひんやりしている。どこまで続いているのだろうか?
「冬、来たときは、懐中電灯をもって、膝上までの洞窟水路を途中
まで行った。」
と、チョーさん・マーちゃんは話していた。
道のない坂道を200m程登って、するす峠に戻った。
薄暗くなった沼の原には、曇っている三日月がほほえんでいた。
満足だった。

◆訪問日A・・・平成28年(2016)4月8日
※箕輪城語り部の会下見・・・案の定、間違った。
 オレンジ色のスズランテープを20ヶ所以上、くくりつけた。
 デレーケの堰堤は見つからなかった。
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・沼ノ原・・・ユウスゲの元湿原
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・するす峠・・・
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どなたかの黄色・青スズランテープがあった。
 私はオレンジ色のスズランテープを付けながら
・案の定、間違った。
結果、摺るす峠を100m下って、右に張り出し
尾根を右に巻くようにさらに50m・・・
・右京の泣き堀
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・長さんの案内板
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・戻って、行人窟
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・摺るす岩
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◆訪問日B・・・平成28年(2016)4月8日
箕輪城語り部の会榛名湖周辺の「右京の泣き掘」等の文化財を訪ねて
(計画案)




【1】目的
  榛名湖周辺(旧榛名町・箕郷町)の埋もれてしまいそうな文化財
:右京の泣き掘・竹久夢二句碑・長野堰の取水口・御沼靇(おかみ)
神社&木部姫伝説・竹久夢二アトリエ・塩原太助寄進の常夜灯・鷹
留城を訪ねることで、箕輪城の歴史や高崎の歴史の理解を深める。

【2】事前準備
1)会員の生方がコースの下見をする。
2)4月11日の例会で参加者を確認する。

【3】日時・日程
平成28年(2017)4月15日(金)
@集合場所集合時刻08:50 :箕郷中央公民館
A開会行事 08:55〜
B見学時間  09:00〜15:00  ※コースは下記参照
D解散時刻  15:10前後


【4】当日
1)持ち物・服装
お金(昼食代程度)・携帯電話(ある方)・カメラ(必要な方)
寒くない支度・ジャンバー・登山靴または長靴それに準ずる履き物
手袋・帽子等・傷薬等

2)開会行事   司会:副会長
@会長挨拶(会長)
A注意事項
B諸連絡(副会長)

3)交通手段・・・車2台

4)コース
箕郷中央公民館===善地===唐松===沼ノ原駐車場
・・・徒歩・・・・・・

参加者:岡田・私・永井・吉田
     生方・竹内・西原・・・

@右京の泣き掘
★宝永5年(1708)松平右京輝貞は榛名湖からの引水計画を開始。
★享保8年(1723)松平右京輝貞は引水計画を再開。徳川吉宗の
許可。でも、高崎の村同士の争いがあり、未完成に終わった。
・・失敗し、 「右京の馬鹿堀」と呼ばれた。
・沼ノ原分岐
・」上田の真田bPガイド:吉田美由紀さん
<iv align="center">画像
・摺るす峠
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・泣き掘
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・湖面との標高差約50m
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・水がわき出ている。
高さ1,3m・幅1m・・・
20mまで掘り進んだという。

・行人窟
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★泣き堀の行き先は箕輪城脇になる。



A竹久夢二句碑
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B長野堰の取水口
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C御沼靇(おかみ)神社&木部姫伝説
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榛名湖の「木部姫伝説」&「腰元蟹の伝説」・・・
榛名の山郷に古くから語り継がれてきた物語である。
木部姫は箕輪城:長野信濃守業政の4女・・成長して
木部城主木部駿河守範虎に嫁いだ。
※説@・・木部宮内少輔彈正室
※説A・・木部宮内之輔定朝(貞朝)室・貞朝は範虎の長男。

D竹久夢二アトリエ
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・竹内さんの先輩作だって。
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●昼食・・・湖畔亭
★岡田会長、ごちそうさまでした。
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★★★★超旨かった。
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・佐藤惣之助・・・萩原朔太郎の親戚だって・・・
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E塩原太助寄進の常夜灯
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天神峠====榛名神社前====榛名第2小手前を左折=====
F鷹留城
 長野業政は長男:吉業が死んだ。
 長野業政には12人の娘がいたが、男の子はいなくなった。
 長野業政は養子として、2男:里見義樹【里見義堯の息子】
 を迎えた。安房里見の実堯→義堯→義弘の弟:義樹
 長野業政の嫡子:長野吉業=福田吉業(菅谷)・・死亡
 長野業政の養子:里見義樹が成立した。
 里見義堯の娘と結婚=妾とし、3男:長野氏業=業盛を産んだ。
 長野業政の次男:長野氏業=義盛が産まれた。
 石井左京太夫讃岐守信房・・鷹留城主に抜擢した。


〜〜〜松平輝貞〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
高崎城主1回目:松平(長沢・大河内)輝貞・・15年
・寛文5年(1665)松平(長沢・大河内)輝綱の6男として生まれた。
  祖父:松平伊豆守信綱=「知恵伊豆」   
  父:武蔵川越藩主:松平輝綱の六男。
  母:板倉重宗の11女→龍泉院
・延宝2年(1674) 松平武綱と名乗った。
・延宝3年(1675) 元服。
・天和2年(1682) 6月23日松平輝貞と改名。
  (★高崎市史&ウキペディアでは年が違う。)
・元禄元年(1688) 徳川綱吉の中奥小姓。
・元禄2年(1689) 徳川綱吉の側衆・・初代側用人に昇った。
・元禄4年(1691) 松平輝貞が家督を相続。
常陸国:土浦城主3万2,000石を相続。
 (★高崎市史)
徳川綱吉の紹介で、柳沢吉保の娘を妻にした。
  (★高崎市史)
    松平輝貞は叔父:松平斐章の弟である輝規を
         養子とした。
・元禄5年(1692) 松平輝貞が下野国:壬生に転封。

※山本勘助晴道子孫:山本菅助十左衛門幸道が壬生城の
 縄張りを計画した。(縄張り図あり。)


・元禄6年(1693) 松平輝貞が徳川綱吉の側用人となった。
●元禄8年(1695)5月10日 高崎に転封。
・宝永元年(1704) 加増でトータル7万2,000石
武蔵の野火止も所領となった。
・宝永6年(1709) 側用人を免職
・宝永7年(1710) ※徳川家宣が6代将軍になった。
 徳川家宣は綱吉側近を排除した。
 当然、松平輝貞も側用人を免職され
 越後国村上に転封された。つまり、左遷された。
※徳川綱吉は20数回、松平輝貞宅に行ったという。
時には、徳川綱吉は「論語」、松平輝貞は「論語」を
講義したという。
(★高崎人物伝:吉永哲朗著)

※山本勘助晴道子孫:山本菅助十左衛門幸道が【高崎城大意】
表した。(縄張り図あり。)

 
→村上に転封で高崎は不在。
※間部詮房が高崎藩の城主になった。


高崎城主2回目:松平(長沢・大河内)輝貞・・15年
※徳川吉宗が8代将軍になった。

・享保2年(1717) 再び高崎に復帰した。
   同時に家格も溜詰格に昇格した。
・享保15年(1730) 老中に任命された。

・*** 渡辺武左衞門を長崎に派遣。

・延享2年(1745) 隠居
・延享4年(1747) 死去。享年83
墓地は東叡山明王院(東京都台東区)
→平林寺に改葬された。






箕輪初心●高崎8代松平輝貞&右京の泣き堀
★宝永5年(1708)松平右京輝貞は榛名湖からの引水計画を開始。
★享保8年(1723)松平右京輝貞は引水計画を再開。徳川吉宗の許可。
でも、高崎の村同士の争いがあり、未完成に終わった。・・失敗し、
「右京の馬鹿堀」と呼ばれた。(榛名湖の自然観察センター→する
す岩直下のトンネル水路約400m→箕郷松の沢→高崎長野→高崎)
17〜20km?もある壮大な計画だった。






●▲■ 右京の泣き堀=右京の馬鹿堀 ■▲●
・宝永4年(1707)
10月30日
松平右京輝貞は榛名湖からの引水計画を開始。
(榛名湖の自然観察センター→沼の原→するす岩直下のトンネル水路
約400m→箕郷松の沢→東明屋・・・高崎藩領@上芝村・A下芝村
(高崎市箕郷町)・B井出村・C保渡田村(旧群馬町)、
→D楽間村・E行力村・F北新波村・G浜川村・H南新波村・I上
小鳥村・J上小塙村(高崎市)の11ヶ村の水不足を解決しようと
する計画であった。
するす岩隊道=するす岩直下のトンネル水路約400m・高さ1m
・横3m・深さ4m50mと記録されている。

松平右京輝貞は榛名山社=榛名神社に申し込んだ。
「吾妻郡東村岡崎新田のように榛名湖の水を利用したい。」という
ものである。」
榛名神社は天領の吾妻郡東村岡崎新田の代官:岡上景能に願い書を
提出した。
が、岡上景能は断った。
岡崎新田は飲水に使っていて余水はない。
榛名湖の水を分水されては人馬に差し支える
・田畑が枯れてしまう等々・・・である。

11ヶ村は幕府に訴訟が出した。

11月 幕府評定所より裁決書(★群馬県史)
@拾壱ヶ村へ余水を引く分には岡崎新田の障りとはならない
A新たに堤を築く。岡崎新田村の取水口は一ッ岩頭より九丈壱尺二寸
 五分とし、・・・・岡崎側の取水が困らないようにする
B普請はすべて11ヶ村側、岡崎新田側の立ち会いだけとする。
C負担は自分たちが負担する。
以上のような裁決が下された。

宝永5年(1708) 工事開始?

・宝永7年(1710) 5月 
大河内右京太夫輝貞は、越後の村上藩へ転封。
  工事は中止された。


・享保22年(1717) 2月 松平大河内右京は再び高崎藩主に復帰。
松平大河内右京は工事の再開を考えた。
 @藩領11ヶ村の内、上芝村、下芝村、保渡田村、行力村の4ヶ
 村が天領となっていた。・・・再開は断念したようである。
 A祭戸用水は、保渡田村(★私の先祖達)・井出村が使用していた。
榛名白川→箕輪城の西で3つに分水→かつての箕輪城下町→
井野川を横切り→大清水川を横切り→保渡田村・井出村へ
B早瀬川=12堰は9村の用水路だった。
 ※上手くいかなかったのだ。
 ★この付近の水争いが、戦争後まで続いていた。〜〜〜〜
 (★高崎市史)
  かつて、私の実家は保渡田で1町5反の田んぼ、畑・桑畑を持っ
 ていた。 

★松平右京太夫輝貞は「右京の泣き堀」「馬鹿堀」と言われながらも、
関東平野の北西隅に広がる高崎で、広大な水田を持ちながら、水
不足に苦しむ農民を大事にしたのだ。名君であったと思われる。

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