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zoom RSS 箕輪初心:生方▲【葛山城】&第3次川中島合戦

<<   作成日時 : 2016/04/13 05:49   >>

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葛山城は長野の善光寺の裏山:葛山にあった城である。落合備中
守治吉を宗家とする葛山衆は芋井地区に住んでいた。天文24年
(1555) 武田晴信に帰順した栗田鶴寿が旭山城に籠城したため、
長尾景虎が裾花川対岸に葛山城を修築して落合備中守治吉、
援軍の将:吉窪城主:小田切駿河守幸を籠城させた。弘治3年
(1557) 真田幸隆は静松寺の僧を通じて落合一族の落合遠江守、
落合三郎左衛門尉が寝返えらせた。牧之島城:馬場信春が水の
手を切り、葛山城は落城させた。落合治吉、小田切幸長は戦死
した。吉窪城は小田切幸長の子:民部少輔が守っていたが、落
城した。富岡武蔵さんには大変お世話になりました。
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長野市茂菅



◆訪問日・・・平成19年(2007)10月29日
(善光寺→横山城)→葛山城→大峰城→葛山城→吉窪城→茶臼山陣城

≪アクセス≫
国道406号より県道76号に入り2km程行く。


●葛山全景
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静松寺(じょうしょうじ)近くの空き地?に路駐した。
静松寺入口が右にある。

◎案内板
静松寺などから登山道が整備されているようだ。
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●静松寺の墓地上が登山口
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●登山道
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●空堀〜竪堀
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●葛山城主郭・・・葛山山頂:標高822m
・虎口手前
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葛山城跡から旭山城を望む
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●副郭
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主郭へ
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●案内看板
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◆◆ 葛山城の歴史&第3次川中島合戦 ◆◆ 

・室町時代
・天文10年(1541) 村上義清の佐久侵攻
滋野一族落合氏は佐久の落合から芋井に移住し、飯縄山一帯:
 裾花川流域を所領とした。
 葛山城を本城とした。
◎滋野一族小田切氏は佐久の小田切から移住し、据花川の
 上流:吉窪(葛山城の奥)吉窪に住んだ。裾花川流域を領した。
吉窪城を本城とした。
★村上義清の葛山城の大町方面の支城となった。



・天文22年(1553)
4月 武田信玄は塩田城を攻略した。
   真田幸綱らの調略により、屋代秀正・塩崎氏などの村上義清
   の家臣らが寝返った。。
   村上義清は葛尾城を放棄して、長年のライバル高梨政頼を通じて
   越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃れた。
  
  小笠原長時・村上義清・高梨政頼の要請を受けた長尾景虎
  (上杉謙信)は村上義清に北信濃の兵を貸した?

6月28日 長尾景虎(宗心・謙信)が出家隠遁を図る事件が起きた。
  長尾景虎は姉の夫:長尾政景らの諫言を聞き入れた。そして、
  家臣団は忠誠を誓った。
  長尾景虎は隠遁を引き止め、出家は取りやめにした。
※『風林火山』
高野山に行こうとした。
 
8月?日  大井信広の反乱。
   大井信広が上杉景勝の支援を受け、身内の大井信広が
   武田晴信に反旗を翻した。
  ※大井信広は、大井婦人(武田晴信の実母)の身内である。
   武田晴信は直ちに鎮圧した。
8月22日 ●真田幸綱(幸隆)は3男:真田昌幸を防府に人質に
 出した。・・・(後、武田晴信の小姓となった。)

▲第一次川中島合戦
8月?日 長尾景虎は村上義清らの要請により川中島に出陣した。
長尾景虎(上杉謙信)は約8000の兵を率いて春日山城を出陣
 信濃の豪族たちの求めに応じて川中島に出兵した。

8月下旬 犀(さい)川を渡り、布施(長野市)一帯に陣取った。

武田晴信は塩田城を本陣として長尾軍に対峙した。 
 武田晴信は飫富虎昌を先鋒として室賀城に移動させた。
武田晴信の部隊は八幡(千曲市)に陣を張った。

9月1日 長尾景虎と武田晴信は葛尾城、荒砥城などで交戦した。
荒砥城を占領した。

9月3日 長尾景虎は青柳に進んだ。
武田晴信は手薄になった荒砥城に夜襲をかけた。

長尾景虎は麻績で武田軍と対戦した。
 長尾景虎は不利を悟り、再び八幡(千曲市)に戻り、
 武田晴信のいる塩田城に向かった。

しかし、武田軍の守りは堅かった。

武田晴信本隊は塩田城から本隊を途中まで出陣した
  
9月13日 武田晴信は夜陰にまぎれて奇襲作戦を決行した。
      荒砥城に放火して反撃した。

9月17日
 長尾軍は葛尾城下の坂木南条(坂城:千曲市)に放火した。
 しかし、塩田城には迫れなかった。

9月20日 長尾景虎は撤退した。
  村上義清は武田信玄に追われ、越後へと逃れた。
上杉軍が越後に帰陣した。

★互いが売り出し中の強敵と大決戦をするつもりではなく、
「まずは、小手調べ。敵の強さを知りたい」という気持ちでの出陣で
あったようである。稲刈り準備かもしれないが、・・・・

武田晴信は塩田城から出陣したものの、撤退の報を聞いて
塩田城に戻り、論功行賞を行った。

●真田幸綱(幸隆)は塩田城での戦後処理でに恩賞として秋
和(上田市秋和:虚空蔵山と上田城の間)350貫文を与え
られた。
※平山優説・・・真田幸綱の忠節と活躍に報いたのであろう。
 また、天文19年に約束していた諏訪方と上之城(御所)
1000貫文も引き渡されたとみられる。

10月7日 武田晴信は塩田城をあとにし、深志城に在陣し、
 甲斐に戻った。

・天文23年(1554) 『下諏訪秋宮造営帳』
 落合領中、広瀬之庄七郷
「入山・上野・広瀬・上屋(あげや)・桜・鑪(たたら)・吉澤新曾
(あらそ)」の地名が見える
  (★『信濃史料』12巻)
 宗家落合氏一族に鑪(たたら)氏・広瀬氏・上屋氏など葛山衆が
いる。長尾景勝に臣従していた。

※この年、武田晴信が伊那攻めをしている



12月 北条高広の乱
 武田晴信は長尾景虎の有力家臣:柏崎の北条城城主の
 北条高広(きたじょう)に密使を送り、誘いをかけた。
 北条高広(後、厩橋城)に反乱を起こさせた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方▲【大江広元→越後毛利氏〜北条(きたじょう)高広】
http://53922401.at.webry.info/201512/article_16.html 
★柏崎北条城→前橋:厩橋城(前橋城:現県庁)→
 滝川一益が来たので、片貝城(前橋)に移動→厩橋城。
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・天文24年(1555) 2月 
  長尾景虎は北条高広を降し、乱は鎮圧した。
そして、許した。

 武田晴信は、さらに切り崩しを図ろうと、今度は善光寺別当:
 栗田鶴寿(かくじゅ)に誘いをかけた。
 粟田一族の内紛があったからである。
 善光寺を取り込めば、信濃の領民たちの心を掴めると
 考えた。

 長尾景虎が北条高広の件で、小手調べでは済まされなくなった。
 善光寺の栗田鶴寿が武田方に寝返って、善光寺の南(現松代町
 を除く)南半分が武田晴信の勢力下に置かれた。
 つまり、武田晴信の影響力が犀川以北に及ぶようになった。 
 
  善光寺以北の長尾景虎方の国衆へのプレッシャー
 ・緊張感が高まった。


・天文24年・弘治元年(1555) 第2次川中島の戦い:犀川の戦い
3月 武田晴信が出陣した。
    武田晴信は木曽の木曾義康・義昌の攻略に
    取りかかった。

4月 長尾景虎は、8千の兵を率いて、善光寺奪回のため善光寺平
   北東部に出陣した。善光寺東隣:横山城(城山)を本陣とした。

栗田鶴寿が善光寺の南西にある旭山城に籠り、籠城態勢に入った。
 武田晴信は木曽に出陣中であったが、
 鉄砲300挺、弓800張を含む3000を援軍として派遣し、
 自分も一部の兵を残して、出陣の準備を始めた。

 援軍兵3000は、栗田氏の善光寺の西の旭山城に籠城した。
  (★『勝山記』)
※この時、武田晴信は初めて鉄砲を使用した。

長尾景虎は旭山城の鉄砲隊・弓隊の機能を封じ込める
ため、、裾花川の対岸に葛山城を築いた。
そして、落合備中守一族や吉窪城主:小田切駿河守幸長らを
 籠らせて旭山城を牽制した。
 葛山城築城により両軍が五分五分状態になった。
★吉窪城も近いうち、紹介できるかも?

 両軍とも決め手がないまま対陣を続けた。
・・・50日・・・100日・・・150日・・・と、長期のにらみ合い
 や小競り合いが続いた。

7月  武田晴信も旭山城の後詰として川中島へ出陣した。
 武田晴信は犀川の南岸:大塚(大堀館)に陣を敷いた。

  武田晴信1万2千 VS 長尾景虎8000
  犀川を挟んで対峙した。

7月19日 長尾景虎が犀川を渡って戦いをしかけた。
 (★詳細は不明・・・史料がない。)
 しかし、決着はつかなかった。

その後、武田晴信が旭山城の防御体制がさらに強化した。
    長尾景虎はうかつに動けない状況となった。


◆武田針信の状況〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
武田軍は、甲府〜諏訪〜長窪〜塩田〜荒砥〜川中島まで行程
 が長い上、人数も多いので兵糧の調達に苦しんでいた。
 つまり、3月〜7月の4ヶ月も戦い、移動、戦いであった。
 小荷駄隊だって疲れているし、・・・・
武田晴信は麾下の将に「勝ったら、高井郡高梨を与える。」
 と空手形を発給した。
 ★後、天正10年(1582)徳川家康は依田信蕃に信濃のある場所
  をあげると約束してあったのに、「真田昌幸にあげる。」と言った。
 
 後、天正13年(1585) 上杉景勝は真田昌幸に
 「箕輪城をあげる。」と言った。
 武将はまだ勝ち取ってない場所に空の約束手形を発給して
 いるのだ。


◆長尾景虎の状況〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
長尾軍がやや人数的に不利なので、北信濃衆の不安が募った。
麾下の離反・麾下同志の争いなどに苦慮した。
 長尾景虎は北信濃衆に忠誠を確認する五箇条の誓紙を書か
 せた。
 兵糧も少なくなってきた。
 そして、北陸戦線も不安だし、・・・・。


〜〜〜北陸戦線〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
7月21日 加賀一向一揆
長尾景虎に呼応して一向宗を討つべく越前朝倉から加賀に
 出陣した。

7月23日 朝倉教景(宗滴)は加賀に入って南郷・津葉・千足
  (石川県加賀市)の3城を攻撃して1日で全て落とした。

7月24日 朝倉教景(宗滴)は大聖寺近くの敷地山に本陣を
 敷いた。

8月 加賀一向一揆軍も朝倉軍に反撃した。
  なかなか勝負はつかなかった。
  朝倉教景(宗滴)は陣中で病に倒れ、朝倉景隆に任せて一乗谷
  に帰還した。

9月8日 朝倉教景(宗滴)は一乗谷で病死した。
★長尾景虎は焦っていた。

箕輪初心●福井:一乗谷朝倉館=朝倉5代の栄華
http://53922401.at.webry.info/201105/article_5.html
★2回行ったよ。

箕輪初心★松尾芭蕉35『奧の細道24』【那谷寺〜全昌寺】&九谷焼
http://53922401.at.webry.info/201208/article_19.html

箕輪初心◆青木ツアーA2014石川『九谷焼の博物館』&金沢城
http://53922401.at.webry.info/201404/article_23.html

★大聖寺城を書いたつもりなのに、見つからない。
大聖寺には3回行っている。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


閏10月15日 駿河の今川義元の仲介で和睦が成立した。
和議の条件の一つに旭山城の破壊が盛り込まれた。
 武田晴信は須田氏、井上氏、島津氏など北信国衆の
 旧領復帰を認め、旭山城を破却することになった。

結果・・長尾景虎の勢力は犀川以北の北半分を確保した。
武田晴信の勢力は犀川以南の南半分を確保した。

両軍は撤兵した。

★長尾景虎は信心深いので、善光寺の保護を考えた。
★武田晴信は甲斐善光寺を建てることにした。

こうして、第2次川中島の合戦=犀川の戦いは終わった。
*****************************
しかし、武田晴信は合戦の最中に、別働隊を木曽に派遣して
 いた。
武田晴信は木曽郡の木曾義康・義昌父子を降伏させ、南信
濃平定を完成させた。
 ★木曾義昌への勝利で飛騨・美濃に足がかりができた。
  まあいいかという感じであったろう。
 
武田晴信は木曾義昌16歳に3女?:真理姫を娶らせ、武田家
 の親族衆として木曽谷を安堵した。しかし、実際には千村備前守や
 山村新左衛門の真理姫の付け人とし、さらに、父:木曾義康・母
 や重臣の妻子を甲府に人質として、武田晴信の監視下に置いた。
 やがて、木曾は武田晴信の美濃や飛騨への侵攻における前線
 基地となった。


・弘治2年(1556)
  武田晴信は北信国衆や川中島方面の国衆への調略を進めていた。

7月 香坂筑前守、井上左衛門尉、市川信房、西条治部少輔らに
   知行を宛がった。

8月8日付、武田晴信は真田幸隆に
「東条城、その後いかに候や。片時にも早く攻め落と
 すよう相勤めらるべく候。ここもとのことは、両日人馬を安め
 候あいだ、いっそう次第相勤めらるべく候。いよいよ方々の遠
 慮なく、御計策肝要に候」
 と尼飾城攻略を督励した。

長尾景虎の家臣の箕冠(みかぶり)城主:大熊朝秀が武田晴信
に内通し挙兵した。

8月13日 越後の駒帰(糸魚川市青梅)の戦い
  長尾景虎に敗れて、武田晴信の家臣となった。


8月?日 真田幸綱(幸隆)・小山田備中守虎満らが武田晴信に
  催促されながら、やっとのことで東条氏の籠もる尼飾城を攻略
  した。

  武田晴信は尼飾城を修理普請させた。
  総指揮官に高坂弾正忠昌信が城将とした。


****************************
武田晴信はまもなく葛山城に籠る落合一族の切り崩しに
 着手した。

・弘治3年(1557)
正月 長尾景虎は武水別神社=更科八幡宮(千曲市)に願文を捧げ
 て、武田氏討滅を祈願した。

?月?日 真田幸隆の調略により、静松寺を通じて落合
     一族の落合遠江守、落合三郎左衛門尉が寝返った。
(★静松寺は現在地と違うらしい。)

2月?日 武田信玄は上杉景勝軍が雪で出陣できないのをを見計
 らい、牧之島城(信州信濃町)馬場美濃守信房に命じ、大軍で
 葛山城を急襲した。
馬場信春は元々水の少ない「水の手」を絶った。
※籠城戦では水に苦労した城だけあって、米で馬を洗う水に見せ
  かけたという白米伝説が残っている。また、今でも落城の際の
  焼米が出土するという。
  (★主郭説明板)
★探しても見つからなかった。土の中だもんね。

2月15日   主郭を攻撃した。
 落合備中守治吉は死力を尽くし奮戦した。
 武田軍は城に火をかけた。
 城将:落合備中守治吉、援軍の将:小田切駿河守幸長は戦死した。
 室賀兵部の家臣:山岸清兵衛が小田切駿河守を討ち取った。
城兵もほとんどは戦死した。 
 
 武田軍のあげた城兵の首は夥しい数にのぼった。

 落城する火勢の中で逃げ場を失った女達は峯の上から北側の谷に
 身を投げ全滅した。女達が身を投げた姫谷を呼ばれる谷底からは、
 後の世まで哀しい鳴き声が聞かれたという。(伝)
 (★現地案内板)

葛山落城の裏には、@武田晴信に内通していた静松寺の僧侶と
 @真田幸綱の調略の落合遠江守・三郎左衛門の存在があった。

 
 吉窪城は吉窪城主小田切幸長の子:小田切民部少輔が守った。
 しかし、葛山城の落城と共に吉窪城も落城した。

 長沼城の島津月下斎は葛山城の落城が伝えられると。北の大倉城に
 難避した。
 武田氏の配下となった葛山衆は長沼城に移された。
 (※天正年間、葛山衆は上杉景勝の管理下に置かれた。)
割ヶ岳城も脅威にさらされた。
 戸隠山の人々も武田側と上杉側とに分裂して、多くが遠く越後に
 逃れた。

?月?日 武田晴信は高梨氏館(中野市)にいた高梨政頼に攻撃の目を
  向けた。
  長尾景虎の北信濃衆の援護で飯山城に入った。
  ※高梨政頼から飯山城(飯山市)へと追われたと考えるべき
   なのだろう。

?月?日 武田晴信は高梨政頼の支城:飯山城に迫った。
高梨政頼は大将として地元衆とともに武田軍に備えた。

3月11日付 武田晴信→静松寺への書状
「落合遠江守・同名三郎左衛門尉、最前より筋目替わらず忠心
を抽(ぬ)きんずべきの旨申され候か。なおもって感じ入り候。
たとえ惣領二郎左衛門尉方、当方手当に属され候と雖も、両所
に対しいよいよ懇切に申すべく候。この趣仰せつけらるべく候」
とある。
  (★『信濃史料』)


3月14日 北信国衆への褒賞を行った。
3月20日付 武田晴信→室賀兵部への感状
 室賀兵部の家臣山岸清兵衛が小田切駿河守を討ち取ったこと
 への感謝の書状である。
「去る十五日信州水内郡葛山の城において、その方被官清兵衛首壱、
小田切駿河守を討ち捕らえの条、戦功感じ候。いよいよ忠信ぬきん
ずべき旨、仰せ含められ候。恐々謹言」
  (★『信濃史料』)。


4月17日 顕如は六角定頼の猶子(実父:三条公頼):如春尼と
 結婚した。
 如春尼の実の姉は武田信玄の正室:三条夫人である。
 武田晴信と顕如は義兄弟となった。
★武田晴信の三条夫人の義弟:顕如の越前の一向宗(浄土真宗)
 の反乱を指示することに繋がった。
白山平泉寺城・鳥坂城・二曲(ふとげ)城などで一向宗の反乱
 
いつか、鳥坂城・二曲(ふとげ)城は紹介できると思う。
 


第3次川中島合戦:上野原の戦い
4月?日 長尾景虎は雪解けを待って出陣した。
4月18日 信越国境を越えた。
山田要害・福島城を落とした。


4月21日 長尾景虎自身が善光寺に着陣した。
★気合いが入っている。
葛山城を攻め、城下に放火した。
★平山説では武田晴信をおびき出そうとした。

4月25日 長尾景虎は武田軍によって破却された旭山城を再興して
      陣所とした。旭山城に守備兵を置いた。
★第2次の時、どうにもできなかったので
 和睦の一つに旭山城の廃城の項目があった。

     
4月〜 長尾景虎は北信濃の武田方になってしまった諸城を
      奪い返した。
5月末  坂木・岩鼻を放火して、挑発した。

6月11日 長尾景虎は高梨政頼を派遣して高井郡の計見城(
      木島平)市河藤若(信房)へ侵攻した。
 
6月16日 武田晴信は市河藤若に対して援軍を約束した。
「塩田城の原与左衛門尉の足軽衆・真田幸綱を派遣させ
 るので安心された。もうすぐ到着するから持ちこたえ
 られよ」
   塩田城の飯富虎昌は原与左衛門尉の足軽衆を派遣させて
   いるが間に合わなかった。
 (★『真田三代』:平山優著)

6月18日 甲相駿同盟に基づき、北条氏康の家臣:北条綱成が
      上田に着陣じた。

6月23日 長尾景虎は飯山城へ撤退した。
武田晴信→市河藤若への書状
「すぐ塩田城から出撃できるようにしたので、
       安心してよい。」
  * 書状は山本勘助が持って行って、口でも伝えた。
*武田晴信は塩田将城:飯富虎昌に
  「自分の判断で出撃してよい。」
   ことを命じた。
(★『真田三代』:平山優著)

7月?日  長尾景虎は尼飾城を攻めようとした。
      長尾景虎は飯山城に引き揚げた。

7月5日 武田晴信の別働隊は安積郡小谷城(白馬村)を攻略した。
@白馬3城・・・写真消滅。
      鬼無里に侵攻した。
A鬼無里3城・・・写真消滅。
中条に侵攻した。
中条5城・・・・・写真消滅。

 (★富岡武蔵さんと登ったのに・・・
   ・・・川中島へと侵攻した。

8月?日 武田晴信は深志城から塩崎城に入った。

8月29日 ▲上野原(長野市上野カ)の戦い
    決定的な戦闘は行われなかった。
決着は付かなかった。
     武田晴信は後方の深志城で指揮を執るに留まった。
武田晴信は直接決戦を避けたというべきか?

9月5日  長尾景虎は春日山城に撤退した。
稲刈りが始まるし、・・・疲れたし・・・

 長尾景虎は旭山城を再興したのみで大きな戦果もななかった。

10月16日 武田晴信も甲府に撤退した。
わしも稲刈りをさせなくちゃだし、・・・・・

10月27付 武田晴信→幸綱への書状 
「(尼飾城の普請をしっかりしておいてね。」
(★『信濃史料』)


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