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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田●79信濃:荒砥城:村上→武田→上杉→真田

<<   作成日時 : 2016/04/01 05:26   >>

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荒砥城は、信濃国更級郡(現長野県千曲市)にあった城である。
平成19年(2007)のNHK大河ドラマ「風林火山 」のロケ地で、武
田晴信が攻略したと言われている「海ノ口城」で出ていたのが、印
象に残っている。また、平成22年(2010)NHK大河ドラマ「江〜
姫たちの戦国〜」の小谷城としても出てきた。平成28年(2016)、
『真田丸』真田昌幸&真田信繁にも関係するので、出るだろうか?
天正13年(1585)、7月15日、上杉景勝の家臣になり、坂木庄は
真田昌幸の支配地となった。真田信繁は一時、屋代城に住んだ。
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◆訪問日・・・平成19年(2007)6月17日
 
●葛尾城から坂木宿に行き、千曲川を渡った。
 ついでに河原に行ったけれど、・・・・
 
●上山田温泉・・・1度だけ入った。
 77号線「城山入口」の信号を西へ登れば城址へは近い。

●信号
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●荒砥城駐車場

●石碑
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●復元門
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●荒砥城石積み
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●櫓下
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●門
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北信濃に見られる平たい石を積み重ねた
 技法で再現されている。
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●入場券・・・今はいくらかな?
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●二の郭
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櫓・兵舎が復元されている。
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★中世の史実に基づいた館や見張り台、兵舎、門など
  が復元されている。

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●展示室

・映像ビデオ
・パネル資料
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★当時の様子などを解説している。
 戦国時代の山城を現代によみがらせている。
「平成7年(1995)「ふるさと創生事業」により、城山史跡公園
 として整備された。この地にあった山田氏、その後の屋代氏の
 山城を中世の史実に基づいて復元した戦国期の山城である。」

●主郭に向かった。
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●眺望
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 ★見晴らしがよい。
 荒砥城から対岸には村上義清の居城:葛尾城跡が迫る。
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 葛尾城跡・・・あれが先程行った葛尾城、大手口からの登りで
 なくて良かった。その分、途中が観察できなかったけど・・・
 . 眼下に戸倉上山田温泉の街並みと千曲川の流れ・・・
 狐落城(こらくじょう)、三水城も見える。
 
 遠く北信濃の山々や北アルプスの雄大な景色が楽しめる。

●本郭
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山城ファン向けのテーマパークみたいである。
中世の山城砦を憶測する上で参考になる史跡公園
 である。


▼下山
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 次は屋代城と思いつつ、・・・途中で、稲荷山宿につっこまって
 しまうのであった。




◆◆荒砥城の歴史 ◆◆
・大永4年(1424) 村上氏の一族:山田越中守二郎が荒砥城が築城
 したと言われている。
 村上氏の本城:葛尾城の支城としての役割を果たしていた。

・天文17年(1548)
2月14日  上田原の合戦
    武田軍 VS 村上軍
  決着はつかなかった。
  板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿伝右衛門が討ち死にした。
  武田晴信は実質的に敗北した

・天文19年(1550) 戸石崩れ
笠原清繁の元家臣も頑張った。
戸石城攻めの武田軍の撤退・・・・
  村上義清らが追激戦を行い、武田軍は殿軍の横田高松ら将兵
  1000余が戦死した。

・天文20年(1551)
5月26日 真田幸隆が戸石城を乗っ取った。
真田幸綱(幸隆)は砥石城の足軽大将:矢沢薩摩守頼綱(幸綱の
弟)等の内通により砥石城は攻略された。
真田幸綱は砥石城を1日で攻略した。
その際、城代であった山田国政、吾妻清綱を討伐した。
山田氏は滅んだ。
山田氏滅亡の後は、荒砥城には屋代政国が入城した。


・天文22年(1553)
3月 狐落城は、児島(小島)兵庫三兄弟が守っていた。
  武田晴信の戦略によって落城した。
  武田晴信は荒砥城を猛攻した。
  城将山田政国が奮戦したが、討死した。

4月 村上義清の属将の荒砥城主:屋代越中守政国、塩崎
   城主:塩崎氏、寺尾城主:石川氏、春日氏、室賀氏ら
  が内応し、武田晴信に降伏した。
 
  村上義清の本拠:葛尾城を伺った。

4月9日 村上義清は葛尾城を棄てて逃亡した。
  長年のライバル:高梨政頼を通じて
  越後春日山城の長尾景虎(上杉謙信)を頼った。
  村上義清は再度体勢を整えた。
  北信濃の兵など5000人を借りて・・・・ 

4月22日〜23日 村上・長尾軍は葛尾城を攻撃した。
 武田城将:於曾(おぞ))源八郎が戦死した。
  村上義清は葛尾城を奪還した。
  武田晴信は深志城に後退した。

5月11日 一端甲府に引き上げた。
村上義清は旧領を回復し塩田城に入った。


8月4日  
 村上義清方の16の諸城が1日で攻略された。
   
  武田晴信は塩田城包囲のために進軍した。 

  村上義清は塩田城を脱出して身を隠した。

8月5日 武田晴信は塩田城を攻略した。 
  武田晴信は飫富兵部少輔虎昌を城将とした。


▲第一次川中島合戦

8月?日 長尾景虎は村上義清らの要請により川中島に出陣した。

 
 武田晴信は塩田城を本陣として長尾軍に対峙した。 
 武田晴信は飫富虎昌を先鋒として室賀城に移動させた。
武田晴信の部隊は八幡(千曲市)に陣を張った。


8月22日 ●真田幸綱(幸隆)は3男:真田昌幸を防府に人質に
 出した。・・・(後、武田晴信の小姓となった。)
  

9月1日 長尾景虎は葛尾城、荒砥城などで交戦した。
荒砥城を占領した。

9月3日 長尾景虎は青柳に進んだ。
武田晴信は手薄になった荒砥城に夜襲をかけた。

長尾景虎は麻績で武田軍と対戦した。
 長尾景虎は不利を悟り、再び八幡(千曲市)に戻り、
 武田晴信のいる塩田城に向かった。

しかし、武田軍の守りは堅かった。

武田晴信本隊は塩田城から本隊を途中まで出陣した
  
 
9月17日
 長尾軍は葛尾城下の坂木南条(坂城:千曲市)に放火したものの
 塩田城には迫れなかった。

9月20日 長尾景虎は撤退した。

武田晴信は塩田城から出陣したものの、撤退の報を聞いて
塩田城に戻り、論功行賞を行った。

●真田幸綱(幸隆)は塩田城での戦後処理でに恩賞として秋
和(上田市秋和:虚空蔵山と上田城の間)350貫文を与え
られた。
※平山優説・・・真田幸綱の忠節と活躍に報いたのであろう。
 また、天文19年に約束していた諏訪方と上之城(御所)
1000貫文も引き渡されたとみられる。

武田晴信は深志城に在陣した。

武田信玄により葛尾城が落城した。
武田晴信に従った屋代政国が屋代城の替え地として、荒砥城に
 移った。

・天正10年(1582)
3月11日 武田氏が滅亡した。
6月2日 本能寺の変

6月8日 織田家家臣:森長可は海津城から、人質を
 つれて逃げた。
 
6月?日 上杉景勝が川中島統治した。
 海津城将は山浦景国(村上義清の息子:村上康清)であった。
 海津城副将は屋代秀正がなった。
 屋代秀正が上杉景勝に従い海津城の副将として遇された。
 2年前に、村上氏一族の中で最初に武田方に寝返った屋代氏は
 信頼されず、上杉景勝は稲荷山城を築いて監視していた。

 荒砥城は清野・寺尾・西条・大室・保科・綱島・綿内の各氏に
 よる城番管理がなされた。


・天正11年(1583) 屋代秀正は徳川家康と通じた。
★ばらしたのは真田昌幸か?

・天正12年(1584)
4月1日 屋代秀正は上杉景勝の諸将に攻められた。
 落城した。
 屋代秀正は荒砥城に火を放ち、徳川の下へ出奔して旗本となった。
 荒砥城は廃城となった。


・天正13年(1585)
7月15日 坂木庄も真田昌幸の支配下になった。 

8月2日〜 第一次上田合戦
  屋代秀正は依田康国とともに矢沢城を攻撃した。


 屋代氏出奔後の領地の一部は上杉景勝の人質となっていた
 真田信繁(幸村)の領地として与えられ、屋代城に入った。
 荒砥なども支配地であった。

・現在・・・千曲市城山史跡公園として整備されている。
  館や兵舎、櫓など中世の山城を再現された。

箕輪初心★『塙保己一』と【「群書類従」の箕輪城】
http://53922401.at.webry.info/201405/article_33.html
★屋代弘賢(ひろかた)・・先祖は信濃屋代城主→旗本。
       和学講談所の会頭。





★明日は屋代城かな?

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