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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田●60【佐久平根白岩城:平尾氏館】&真田の本

<<   作成日時 : 2016/03/04 10:35   >>

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白岩城は長野県佐久市上平尾=平根にあった城である。平尾氏館、
里古城とも言われている。湯川の侵食谷の河岸段丘の上の比高
30〜40mの断崖上に築かれた城である。現在の平根小学校
・校庭〜平根児童館〜裏の北西の畑(主郭部)までの範囲である。
土塁は『の形で湯川に添って100m続き、20m程の畑の真ん
中に飛び出している。「平根村誌」・「平根小学校の歩み」、それに、
佐久市史、御代田町誌などを参考にまとめてみた。平尾小学校の
教頭:大工原先生、資料ありがとうございました。 
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(★白岩城土塁)



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◆訪問日・・・平成28年(2016)3月3日
・佐久パラダスキー場に行った。目的は佐久平尾城の写真が欲し
 かったからである。スキー場内に平尾城があるからである。
 小田井城→小田井宿→御代田役場→エコール→蕎麦屋→住吉屋
→スキー&平尾城→白岩城・・・
●JA/GS前
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●平根小学校付近で県道が不自然なカーブを描いている。
白岩城の名残だろうか?・・・堀跡かもしれない。
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●平尾児童館・・城内である。
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●校庭〜平根児童館〜裏の北西の畑(主郭部)までの範囲である。
土塁は『の形で湯川に添って100m続き、20m程の畑の真ん
中に飛び出している。
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左から
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●児童館の方が
「教頭先生が大変よくご存じなので、お聞きください。」
と教えてくださった。



●平尾小学校教頭:大工原先生に会った。


●教頭先生は主郭部を教えてくださった。
児童館の裏だった。
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●「平根村誌」・「平根小学校の歩み」をいただいた。
 「役に立ててください。」
 ★この地区はなんと親切な方が多いのだろうか。
 気候もいいし、穏やかだ。
感謝しています。
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●白岩城の南端部
 道は堀を利用したのだろう。


昭和63年の発掘調査では、館の正面に掘られた空堀や土塁、
石積み、石臼、古銭などの出土品が出た。
(★『信州の山城』:宮坂武雄著)


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(相木昌朝子孫宗家:依田武勝氏)

●真田の本
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◆◆ 白岩城の歴史 ◆◆
・治承4年(1180)
8月 源頼朝の挙兵
12月 木曽義仲の挙兵
木曽四天王:根井行親は根々井に移り住んでいた。
※根井行親の出自
@依田一族説・・・・・・上田市史?・依田武勝説?
A滋野系望月国親説・・・旧佐久郡志
根井行親が大井(大きな用水の意味)荘を開拓し、
八条院に寄進した?

・文治元年(1185) 加賀美遠光は源頼朝の推挙で信濃守に任じられ
 た。のちに嫡男:小笠原長清も信濃守に補任された。
※「弓馬四天王」・・小笠原長清・武田信光・海野幸氏・望月重隆

・文治2年(1188) 大井荘(庄)は鳥羽天皇の3女:八条院の
 寄進系荘園であった。

・文治4年(1190) 大井荘(庄)の地頭は北条時政であった。
大井朝光が大井荘地頭代であった。

・元久3年(1202) 北条時政は北条義時に伊豆に追放され、
失脚した。
★小笠原長時・大井朝光はおそらく実質的な支配者になった。

・承久3年(1221) 5月、承久の乱
  小笠原長清・伴野時長・大井朝光達小笠原一族は甲斐・信濃の軍
 勢五万を率いて東山道より上洛した。
 宇治川の合戦
 後鳥羽上皇軍に勝利した。
小笠原長清は信濃守護であったが、安房国の守護も任された。
小笠原長清が阿波国守護として阿波へ行った。
 長男:小笠原長経→小笠原長房と続いた。
小笠原氏嫡流が阿波へ移ったため、伴野時長が小笠原氏の惣領
 となった。
 
信濃国佐久郡の伴野荘・大井荘は八条院領であった。
 6男:伴野時長は信濃国佐久郡伴野荘地頭職を賜った。
  伴野時長は伴野荘・・伴野24郷+脇18郷を譲られた。
 
 7男:大井朝光は信濃国佐久郡大井荘を地頭職賜った。
 大井朝光は大井荘・・・12郷24邑を譲られた。
 岩村田、耳取、岩尾、与良、塚原、根々井、
 大諸、小諸、平原、平尾、小田井、沓掛、森山、安原、長土呂、
 追分、塩名田、柏木、大沼、塩野、和田、和志、大室、百澤
 である。
(★平根村誌・御代田町誌・ウィキペディアより)
 
3男:円長=横根法眼が横根にいた。(★横根村誌)
小田清家→伊奈三郎長■(高遠にいた?)→円長?
延寿城に隠居した。

★この頃はきっと兄弟仲良くやっていたんでしょうね。
 大井朝光は岩村田郷に大井城を築いた。
伴野時長は伴野館&前山城を築いた。

 佐久地方で伴野時長&大井朝光が勢力を伸ばして、次第に
 分立していった。

・嘉禄元年(1225) 大井朝光が28歳で死去した?
 
・弘安2年(1279) 一遍上人が伴野荘を訪問した。
 伴野光長が自邸に迎え入れた。
  (★『絹本著色一遍上人絵伝』
   ・・・鎌倉時代の武家屋敷が描かれている。)

・弘安3年(1280)大井朝光の子:大井朝氏は亀山上皇の御前で
  流鏑馬を披露した。

・弘安8(1285)
 ・弘安8年(1285)霜月騒動
北条氏の内管領:平頼綱
(北条時宗の死後、執権貞時(14歳)を擁立した。
VS 
 御家人最有力者:安達泰盛&安達宗景父子
 
 霜月騒動で討滅されたものは、
 @安達泰盛&安達宗景父子と分流大曽祢一族
 A安達泰盛の母の実家:小笠原惣領家:伴野出羽守長泰一族
伴野長泰は、弟:伴野泰直、嫡子:伴野盛時、次男:伴野長直
   の4人が殺された。
B三浦対馬前司
C足利上総三郎
D南部孫二郎  守
  自殺者は50人を越え、事件は全国各地に及んだ。
安達泰盛派の有力御家人で討たれた数は500人以上にのぼった。
さらに、評定衆:宇都宮景綱、評定衆・引付衆:長井時秀父子も
失脚した。

  安達氏に連なる500名以上が斬殺された。

小笠原惣領家:伴野出羽守長泰は安達泰盛の母の実家にあたるため、
 伴野一族はことごとく連座して滅ぼされた。
 伴野荘も北条氏に没収され、所領の大半は執権北条氏領となった。
 
 伴野氏支族が三河国や佐久伴野荘周辺で再興の機を伺った。
@伴野長泰の長男:盛時の子:泰房は、安達氏の旧領三河国小野田荘
  に逃れた。三河小笠原氏の祖になった。
  現西尾市役所幡豆(はず)支所から南へ約500m行ったところに
 「寺部(てらべ)城址」がある。標高29.7mの丘陵上にある平山城
 で、頂上の本丸跡からは三河湾が一望できる。正面にアサリで有名な
 梶島、右に吉良温泉が望める。「幡豆小笠原氏」は寺部城を拠点として、
 隣の吉良氏や岡崎徳川氏に服属しながら三河湾で海上活動を展開した。
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箕輪初心●愛知三河【幡豆寺部城】&小笠原貞頼の謎
http://53922401.at.webry.info/201212/article_9.html
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 A伴野長泰の3男:泰行の子:長房は伴野荘に潜んで、父祖伝来の
   伴野荘地頭職奪還の機会をうかがった。
B伴野長盛か伴野長貞?は小笠原家の客分となり、伊那に在住した。

 騒動後、小笠原惣領職は京都小笠原氏系の小笠原長氏に移った。
 小笠原長氏の孫:貞宗は南北朝期に信濃守護となって活動し、
 子孫は信濃小笠原氏として繁栄した。

 小笠原家惣領職:伴野氏が没落。
 大井朝光の孫:行光は霜月騒動を契機に佐久郡内に勢力を拡大して
 いった。


・南北朝時代
・建武元年(1334) 中先代の乱
諏訪氏など神氏一党が北条時行を奉じて蜂起した。
足利尊氏が後醍醐天皇の帰京命令に従わなかった。
後醍醐天皇は新田義貞に足利尊氏討伐を命じた。
 足利尊氏 VS 新田義貞
  本家小笠原氏・大井氏は足利尊氏に従った。
 足利尊氏は北条時行から鎌倉を奪回した。
 新田軍は東山道を進んだ。
 大井朝行は小笠原一族や村上氏など信濃の足利方の支援を受けた。
 ▲大井城で戦い
大井朝行の大井城は烈しい攻撃を受けた。
  新田軍により攻め落とされ、大井城が落城した。

  新田軍は鎌倉に向けて進軍した。
  東海道を進んだ
▲箱根・竹ノ下の戦い
  新田義貞軍が箱根で足利軍に大敗した

箕輪初心▲静岡小川町『箱根竹ノ下の戦い』(足利尊氏VS新田義貞)
http://53922401.at.webry.info/201412/article_3.html
足利軍はそのまま西へ進んで京を占領した。
足利尊氏は一時九州へ追われたが、再び京を占領した。
室町幕府を開いた。
大井朝行は大井城を復旧し、以後も北朝方として活動した。

信濃の北条残党や南朝方と戦いを続けた。


・正平5年(1350)大井朝行の甥:大井甲斐守光長が信濃守護:
 小笠原政長の守護代を勤め、信濃国太田荘大倉郷の地頭職と
 なった。

・応永7年(1400) 大塔合戦
信濃守護の小笠原長秀
VS
信濃諸将・・・滋野一族祢津など、実田(真田)もいた。
  大井光長の子:大井光矩は本家:信濃守護:小笠原長秀に
  加勢しなかった。大井光矩は守護代として小笠原長秀を
  支えていたが、国人衆達との関係もあり、微妙な立場だ
   った。兵は出したももの中立を保った。

  小笠原長秀は戦いに敗れた。
  小笠原長秀は塩崎城(篠ノ井市)に籠城した。
  大井光矩は小笠原長秀の救出した。
しかし、守護方が大敗して大勢が決した後、両者の和睦の
 仲介した。

・永享10年(1438) 永享の乱
室町幕府に足利持氏は自害を命じられ、遺児が各地に
 逃れた。
 その1人が永寿王丸?万寿王丸が乳母に連れられて
 佐久に逃れて来た。
大井持光は 鎌倉公方足利持氏の遺児:永寿王丸?万寿王丸
(後古河公方足利成氏)を庇護した。
 
★足利持氏は小笠原氏・大井氏に恩を売っといたんだろうな?
永寿王丸?万寿王丸は鎌倉公方→初代古河公方となる人物であった。

・永享11年 (1439)
●大井持光の「持」は足利持氏の「持」である。
大井持光は戦功により、信州・上州・武州に6万貫、
参勤1000騎、在国6000騎と言われる程になった。
●家臣
@芦田・・・・依田一族
A相木・・・・依田一族
B志賀
C平尾・・・・依田一族 依田為泰=平尾良信
D平原・・・・依田一族
E板鼻・・・・依田一族
F後閑・・・・依田一族
G手代塚
近習:依田
(★平根村誌)
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箕輪初心●群馬【後閑城@】&長源寺&満行寺
http://53922401.at.webry.info/201211/article_19.html
◆◆ 後閑城の歴史 ◆◆
・嘉吉元年(1441) 信濃の芦田城主・御嶽城主:
      依田(あしだ)内匠頭忠政が築城開始。
  ※結城の合戦に、信濃小笠原正透3000の同心として
   芦田右衛門佐=依田光玄(=忠政=満春)
 結城氏朝と合戦。
  勝利の証として、後閑に定住した説
  (★富岡武蔵氏の調べ)
・文安4年(1447)後閑城が7ヶ年で完成。
     (★坪井家文書)
・文安5年(1448) 依田政友(=昌朝)が長源寺を創立。
(★立科町史・重田家文書)
・文明2年(1470) 依田信濃守全棟が長源寺に、
   三ツ木(中後閑)・下郷(下後閑)に所領を寄進。
      (★安中市史:長源寺文書)
   芦田光玄=忠政→政友=政知→光慶
   →全真→全賀(弟)→全真の子:信盛→虎昌
   →昌忠→将監(弟)→盛繁
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・嘉吉元年(1441) 結城合戦
結城氏朝が足利持氏の遺児:春王丸と安王丸を奉じて挙兵した。
 大井持光も兵を率いて結城に向かおうとしたが、関東管領:上
 杉清方軍に阻まれた。
大井持光はなんとか結城氏朝に永寿王丸?万寿王丸を送り届けた。
 
結果・・関東管領方が勝利した。
    春王丸・安王丸は殺害されてしまった。

・文安3年(1446) 大井政光が平賀氏・小諸氏を滅ぼした。
  佐久のほぼ全域を手中に収めた。
  大井一族は全盛期を迎えた。

●享徳年間(1452〜1454)依田為泰は小県依田より佐久平尾に移り、
 平尾氏初代:平尾良信となった。
 平根に居館を構えた。
 (平根村誌・『信州の山城』)

・享徳4年(1455) 享徳の乱
  足利成氏が鎌倉を追われて下総古河に移座した。
  古河公方と称した。
  後ろ盾であった足利成氏が遠くに離れたことにより、
  大井政光にも影響が及んだ。
  大井政光が上野・武蔵に持っていた所領の維持が困難にな
った。
  
  村上政清は勢力拡大を目論み、小県郡の海野氏と戦っていた。

・応仁元年(1467)
  大井城は村上政清1万の軍勢で攻められ落城した。

・応仁年間(1467〜)頃
  その後、大井政光は大井城に戻ったらしい。
 ●依田修理亮為泰が大井持光に降伏し、平尾に移住した。


 
・文明元年(1468) 大井政光が甲斐へ侵攻した。

・文明4年(1472) 大井政光など佐久国人衆が甲斐へ侵攻し、
   花鳥山で武田軍と戦った。

・文明9年(1477) 甲斐勢が佐久に侵攻して敗北した。
  武田軍が佐久に攻め込んで来た。
  大井政光の重臣:相木氏(芦田一族)が撃退した。

・文明10年(1478)大井政光が没し、大井政朝が家督を継いだ。

・文明11年(1479)
伴野氏と大井氏は諏訪上社御射山祭で左頭役・右頭役を務めた
  1ヶ月後に大きな戦さをした。
  甲斐武田氏が伴野軍を援護した。
  同族:伴野氏との戦いに大敗した。
  大井氏の執事:相木氏が討死を遂げた。
  大井政朝が生け捕りとなった。 
  和議が成立し、大井政朝は解放された。

・文明15年(1483) 大井政朝が失意の内に没した。
  大井政朝の弟:安房丸が家督を継いだ。

・文明16年(1484)
  この機に乗じて、村上顕国が攻め込み、大井城は落城。
  安房丸は小諸城へ逃れた。 
  ▲大井氏宗家が滅んだ。
  大井支族は村上氏に仕えた。
  大井城は甲斐大井氏系?甲斐武田氏系?長窪大井氏の
  大井玄慶が継いだという。
大井玄慶(安房丸の子・政信との説)が大井城を継ぎ、
  岩尾・耳取・芦田・相木など一門も存続した。

●永正年間(1504〜1520)
2代:平尾守弘は早死にしたらしい。
  3代:芦田(依田)信守(守信)が平尾城を築城したとされる。
  (★『山城探訪』)
(★その後、村上氏に滋野芦田氏を滅ぼし、芦田城を築城した。
   ちなみに芦田守信→依田信蕃→依田(松平)康国と続く)

 大井氏に従属していた諸族の多くは村上氏の下に移っており、
  実質的に佐久郡は村上氏の影響下に置かれた。

大井氏と伴野氏の争いはさらに続いた
・永正6年(1509) 将軍:足利義尹が関東管領:上杉顕定に
  伴野六郎と大井太郎の和解を命じた。


・永正16年(1519) 甲斐の武田信虎が佐久郡平賀城を攻めた.
武田信虎 VS 村上政清

・享禄2年(1527) 伴野信是が武田信虎とともに大井政朝を攻めた。
   撃退している。

●享禄2年(1527)初代:平尾良信が没した。享年90?
平尾雄誓は追分の諏訪神社に般若心経を奉納した。

●享禄8年(1533)3代:平尾守信(芦田信守)は正八幡宮
 (後の平尾大社)に十貫文の土地を寄進した。
(★棟札あり)
正八幡宮はを改名した。

●天文元年(1532) 3代:平尾守信(芦田信守)は皎月庵
 (後の守芳院)を建立した。開山は道雲禅師?平尾雄誓か?


・ 天文4年(1536) 武田信虎が海ノ口城を攻め、大井一族の平賀玄信
  が初陣の武田晴信に討たれた。

・天文9年(1540) 武田信虎は佐久郡・小県郡への本格的な侵攻を
 はじめた。
  武田軍は佐久郡の海ノ口城・海尻城など諸城を陥れ、前山城に
 入った。

 武田信虎は伴野助十郎信是と同盟を結んでいた。
 前山城を前進拠点とした。
 前山城の改修工事を行った。
●板垣信方は1日36城攻略したと伝わる。
 平尾4代:平尾為信&為守・信芳も降伏した。
●平尾為信・・・妻:神官武者氏の娘
●平尾為守・・・妻:小田井又六郎の娘
●平尾信芳・・・妻:

・天文10年(1541)
5月 海野平の戦い
 武田信虎と諏訪頼重・村上義清氏とともに信濃佐久郡・小県郡へ
 侵攻した。
海野棟綱&真田幸隆は上野国の羽尾幸全を頼った。
 真田幸隆は箕輪城:長野業正を頼った。
 海野棟綱&真田幸隆は平井城:上杉憲政に小県の復権を依頼
した。

武田信虎は諏訪頼重とともに大井貞隆の本拠:長窪城を陥れ
 諏訪領とした。


6月14日 甲斐で武田信虎は嫡男武田晴信により今川氏の駿河へ
 追放され、武田晴信が家督を継承した。

関東管領:上杉憲政が海野棟綱&真田幸綱(幸隆)の要請を利き、
信濃佐久郡・小県郡へ侵攻した。

@黒田基樹説では、大将は長野業正で、海野棟綱&真田幸綱(幸隆)も
同行したと思われるとしている。
諏訪頼重は独断で山内上杉憲政と和睦を結び、芦田郷を支配地と
して割譲した。
A平山優説では、大将は不明だが、・・・
★諏訪頼重が長野業正との和睦で芦田城・長窪城を支配地とした。

上杉憲政の意向で佐久は武田の支配が弱まった。
再び、大井一族が勢力を盛り返した。
この間隙をぬって、佐久の岩村田大井城にいた大井貞隆は本拠地:
長窪城を奪い返した。
芦田(依田)守信(信守)芦田信守&芦田(依田)系の相木昌朝は
大井貞隆に帰参した。

・天文11年(1542)諏訪頼重を盟約違反とした武田晴信は高遠
頼継と結び諏訪郡へ侵攻し、諏訪氏を滅ぼした。
次いで決裂した高遠頼継を打ち破った。
諏訪頼重の居城だった上原城に家臣・板垣信方を城代として配置し、
諏訪郡代としてを諏訪・伊那を領国化した。


・天文12年(1543) 武田晴信の佐久侵攻。
・9月9日、申刻、光台退治のため、千塚まで御出陣。
・10日、若神子に御着。
・12日海野口。
・15日宮ノ上。
・16日前山。
・17日御着陣。申刻、長窪の城、攻めなさる。
・19日、光台(大井貞隆)生け捕る。
・20日、望月一族生害なさる。
 (★ 『高白斎記』)
 
大井貞隆の家老だった芦田守信&芦田(依田)系の相木昌朝は
 武田晴信に内応し、岩村田城:大井貞隆を降伏させた。
   
 しかし、大井貞隆は長窪城で反旗を翻した。
 長窪城(現長和町)を攻撃となった。
 武田晴信は諏訪から新東山道・・・和田峠を越えて・・・
武田家臣:芦田信守と相木昌朝は元主家:大井貞隆を攻撃した。
 長窪城主:大井貞隆を攻めて自害に追い込んだ。

結果・・長窪城は武田氏の御料所(直轄地)となり、長窪城は東信濃
・北信濃侵攻の前線基地として重要視された。

 大井貞隆の弟:」大井貞清が家督を継ぎ、内山城で抵抗を続けた。
 その後の大井城主は不明であるが、武田晴信に改修されたという。

さらに、武田晴信は望月城を攻撃した。
望月盛昌の子:望月昌頼は小諸城に逃げた。しかし、弟の
望月源三郎(望月信雅)&望月新六は武田晴信に最後まで抵抗した。



武田晴信の配下に芦田信守・相木昌朝・望月源三郎がなった。
@芦田信守→依田玄蕃(信蕃)+跡部勝資の娘 →依田康国

A相木昌朝→相木市兵衛+山県昌景の娘→
 帰参直後から騎馬80騎持ちで田口城代に任じられた。
 後、相木昌朝の長女は真田幸隆の次男:真田昌輝に嫁いでいる。
 相木昌朝の次男:相木市兵衛は武田信玄より依田能登守の名を
 与えられた。


・天文15年(1546)
4月 河越夜戦
上杉憲政+上杉定正+古河公方 VS 北条氏康
  河越城を包囲していた関東管領:上杉憲政が北条氏康に惨敗
上野の平井城に逃げ帰った。
  上野国を中心とする上杉憲政の勢力はいまだ健在であった。

5月 武田晴信は再び佐久郡に侵攻。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
■内山城攻撃

5月3日 海ノ口に着陣。
5月6日 前山城に布陣した。
     ※伴野助十郎の居城である。宗家は拙宅から50m。
     内山城の大井貞清・貞重父子を攻めた。
大井貞清が立て籠もる内山城を包囲した。
5月10日 内山城の水の手を断った。
5月14日 主要な曲輪をほとんど陥とした。
  大井貞清は本城で抵抗した。武田軍は総攻めをしかけて
5月20日 大井貞清は内山城を開城した。
大井貞清は捕えられた。
真田幸隆の口利きで大井貞清は助命された。
      大井貞清は野沢城に蟄居した。
?月?日  大井貞清は内山城代を任された。
7月18日 上原伊賀守昌辰(小山田備中守昌辰・小山田虎満)
      が内山城代を任じられた。
長窪城(現長和町)の大井貞隆&内山城の弟:大井貞清の
  大井一族が壊滅状態になったことで佐久郡の大半が武田晴信
  に制圧された。

・天文16年(1547)
5月4日 大井貞清父子は翌躑躅ヶ崎館への出仕した。
  駒井高白斎を仲介として武田晴信に臣従した。
(★『高白斎記』)

●志賀城に平尾4代:為信の弟:為守が加勢に加わった。
武田信玄の志賀城攻め

・天文17年(1548)
2月 上田平の戦い
 村上義清 VS 武田信玄
結果・・・武田信玄の大敗。
3月 村上義清の佐久侵攻・・・
9月 武田信玄の佐久侵攻・・・
9月15日 田口城の戦い
●平尾為信・為守も平尾昌朝(相木昌朝)・相木頼房に加勢した。
再び、武田配下となった。
@平根村誌では
3代:平尾信守=芦田信守→4代:平尾為信
→5代:平尾昌朝=平尾守芳=相木(依田)昌朝となっている。
★芦田信守&相木昌朝は祖父&孫関係になる。
 依田信蕃&平尾為信は兄弟ということになる。

A一般的
芦田信守→依田信蕃→依田(松平)康国となっている。

B『相木市兵衛依田昌朝と武田信玄』依田武勝著
相木貞康→相木行朝→相木光貞(兼長倉城)→相木昌朝→相木頼房
相木昌朝の娘:真田昌輝(昌幸兄)の妻になっている。
そして、上野後閑城は6親等の依田政知となっている。

・弘治3年(1577) 平尾守芳=相木(依田)昌朝は
 上野国菅谷村(旧妙義町:★高田憲頼の菩提寺)から、
 住持を呼び、守芳寺の本堂を造った。
 ★高田憲頼の養子は笠原清繁の子どもであった。
そうすると、平根村誌・相木武勝氏説から判断して
、志賀城主:笠原清繁や内山城主:大井貞清も親戚
関係となってしまうようだ。

●永禄2年(1559) 平尾守芳=相木(依田)昌朝と平尾
 源次郎は上野国:松井田城の安中忠政の館に身を寄せた。

・永禄9年(1566) 武田信玄の 箕輪城攻撃
 大井貞清&伴野助十郎は箕輪城城番になった。

・永禄11年(1568)根小屋城築城
 狼煙の集積の城となった。
 やがて、大井貞清&伴野助十郎が城代になった。


〜〜〜中略〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・天正10年(1582) 3月11日武田氏が滅亡。

 6月2日 本能寺の変
  信濃はパニック状態となった。

天正壬午の乱
 徳川氏・後北条氏・上杉氏の勢力が信濃に伸び、大井氏一族も
 巻き込まれていく。

 6月18日・19日神流川の戦い
  滝川一益が北条氏直に敗れた。

 6月20日  佐久一帯を領有していた滝川一益が
  小諸城に入った。

 7月上旬 北条氏直が佐久・小県を支配した。
7月9日 真田昌幸は北条氏直に臣従する手紙をだした。
 7月13日 佐久・小県の真田昌幸・大井雅楽助などは
北条氏直に面会した。
  徳川家康の後ろ盾を得た依田信蕃が勢力を拡大した。
  大井氏や伴野氏らは抵抗した。

   
 岩村田大井城主大井雅楽助は徳川家康麾下の依田信蕃に下り、
 大井城を明け渡した。
やがて、廃城となった。

 ●平尾城に依田信蕃は伴野子隼人を置いた。


7月26日 依田信蕃は徳川家康より諏訪・佐久を賜った。


岩尾大井行吉はかつて春日弾正の元で海津城を守っていたが、
北条氏政:家臣の松井田城主:大導寺政繁に属した。
岩尾大井行吉は反旗を翻した。
佐久の大井一族で唯一残った後北条方の岩尾大井氏 (大井朝光
 の孫:大井光泰が祖)の大井行吉が岩尾城に籠城した。

・天正11年(1583)2月 依田信蕃は岩尾城攻めにかかった。
★岩尾城は武田信玄が真田幸隆が手をかけた縄張りである。
 丸馬出や三日月堀も残っている。写真があれば、後日、紹介
 できると思う。5年分の写真が消滅したので凄さは紹介でき
 ないかも?

1日目、依田信番は力攻めを強行した。
 岩尾大井氏の軍勢は寄せ集めの烏合の衆であったが、木の柵
を隙間なく並べ、依田軍に鉄砲・矢の集中攻撃を行った。
 
依田軍は多くの犠牲者を出た。
 
軍監の柴田康家は
「力攻めをやめて家康流の気長な戦術をしたらいかがか?」
と勧めた。 依田信蕃も攻めあぐんだ。

2日目 再び強気に力攻めをした。
 岩尾城の大手門を破り、三の郭の前手前の郭に突入した。

 乱戦となった。

 大井軍は三の郭櫓の上から狙い撃ちした。
 依田勢はまたまた撃ち倒された。
 
 依田信番は次々と兵を繰り出した。

3日目 頭にきた依田信蕃は陣頭に立って攻撃を仕かけた。
 大井方の淺沼平兵衛は鉄砲隊に依田信蕃を狙撃させた。
 弾丸は依田信蕃、弟:依田信幸に当たった。
 
 依田信蕃、依田信幸が戦死した。

 大将を失った依田勢は大混乱に陥った。
 依田信蕃の末弟:依田信春は兵を引き揚げた。

 大井行吉の父:大井行頼が戦死した。

 軍監:柴田康家は開城降伏の使者を送った。
 大井行吉は父が死んだこともあり、和睦した。
 大井行吉は柴田康家に城を明け渡した。

 大井行吉は上野国松枝(松井田)城主:大導寺政繁に会い、
 保渡田村(高崎市旧群馬町)に幽居した。
 
 ★保渡田村には起請文にある武田遺臣:内藤昌月(保科正直
 の弟)、塚越半七(My母先祖)や友松子孫・土屋一族(金丸
 虎義)の子孫などがいた。
 もしかしたら、相木昌朝・伴野貞長も保渡田に
 いたと考えられる。依田武勝氏が依田信蕃に田口城を攻めら
 れ、(大導寺政繁?・北条氏邦を通じて、)上野国に逃げたと
 ある。
 ★伴野氏宗家は上野国にHしゃんに繋がったのだろうか?

 天正12年(1584) 大井行吉は2年後、保渡田村で死んだ。
 享年43。

・天正17年(1589) 伴野貞長・相木頼房は北相木で
 1000人集めた。田口城で蜂起した。
 しかし、依田康国に破れた。
 伴野貞長が戦死した。
 (依田武勝氏の説)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
●天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
 小諸城主:依田(松平)康国は徳川家臣であるが、前田利家の
 先導役となった。
 @佐久白岩城→
(★ウィキペディア)


H3月12日?
  北相木の白岩砦で依田能登守(頼房)と伴野貞長は蜂起した。
  3月14日、依田康国は小諸城を出発した。
3月15日 依田康国は勝間城(稲荷山城)に陣取った。
 
家臣:伴野小隼人・平尾平三・依田長右衛門等が相木
  頼房・伴野貞長の隊を槍をついた。
  相木勢は廃止して、380余名の戦死者を出した。
伴野貞長は戦死した。相木能登守は上州に逃れた。
(★平根村誌)
  
 ●4月5日 平尾平三は高野山蓮華定院に1貫文の地を寄進した


 大道寺政繁の松井田城→多米元忠の西牧城などの攻略に参加した。
 寺尾左馬助(石倉治部)の上野国石倉城を攻略中、戦死。
 寺尾左馬助から依田康国への降伏の申し入れにより、一旦は開城
 となったが、疑心暗鬼に陥った寺尾左馬助が依田康国を殺害、
 弟:依田康勝が左馬助を討ち取った、という話もある。

●依田(松平)康勝は藤岡の芦田城(藤岡城)に移った。
 平尾平三も移った。平尾平三は庚申山に出城を築いた。
子ども:平尾快英は上州に残った。


・慶長5年(1600)芦田城廃止。
 平尾平三は徳川家忠に付き、本多佐渡守に属した。
 平尾平三は死んだ。享年61。
 




明日は佐久平尾城だな?

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