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zoom RSS 箕輪初心:生方▲信濃:【葛尾城】:村上義清の詰め城

<<   作成日時 : 2016/03/30 06:45   >>

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戦国時代、北信濃で最大勢力を誇った村上氏の詰め城であった。武田信玄
と激戦を繰り広げた村上義清の居城跡である。葛尾城は五里ヶ峰から南
に伸びた葛尾山頂が本郭で、南の尾根続きには出城の姫城がある。高速
から地形を生かして本郭、二の郭などを深い空堀で区切り、筋状に伸び
た竪堀が何本も見える。村上義清は真田幸綱(幸隆)とはライバルであ
った。
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箕輪初心:生方▲村上氏館跡:満泉寺&村上義清の墓&坂木ふるさと歴史館
http://53922401.at.webry.info/201603/article_30.html



◆葛尾城跡の位置
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◆訪問日・・・平成19年(2007)6月17日
●村上氏館
●村上義清の墓
●坂木宿
●坂木ふるさと歴史館
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 (坂木ふるさと館で購入)
●博物館

●麓の坂城神社から遊歩道が通じている。
 神社の右がかつての大手道である。 
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でも、遠そうだった。


●地元の人に聞き、裏側から進んだ。
 搦め手口である。
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●未舗装の道を車で10分程進む。

●駐車場5台?

●案内板
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●3分・・・遺構
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●空堀
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●郭

●堀切
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●本郭
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・山頂には桜の木が植えられたミニ公園が整備されている。
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・案内板
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●二の郭?
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・坂城・戸倉上山田の街並みや千曲川の雄大な流れが
 一望できる。
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・葛尾城跡から上田方面を望む
●大手道を行く
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▼戻った。

●町中から眺めた。
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●荒砥城から眺めた。
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◆◆ 葛尾城の歴史 ◆◆
・建武2年(1335) 足利直義は倒幕の軍功として執権:北条氏の
 遺領:塩田領を村上信貞に与えた。以後、村上領となった。
 しかし、中先代の乱が塩田で始まった。
 ・・・・・・
 やがて勢力を現千曲市まで伸ばして行った。
村上氏の館が千曲川左岸に造られた。
 村上氏館は千曲市坂城町大字村上字島入にあった。
  村上小学校の西の上平地区の出浦沢川の南にあった。
 福沢氏館は千曲市坂城町大字綱掛字福沢にあった。

・戦国時代(応仁の乱以降・・・)
・村上義国(義次)が村上郷から本拠を坂城郷に移した。
 村上氏は館を千曲川右岸に移った。
 村上氏の居館跡は葛尾城の南の麓の現満泉寺一帯にあった。
南北170m×東西170m程の大きな方形館であったという。
 水路がめぐり、内側には土塁跡が残っている。

 同時に、葛尾城・狸落城・三水城などが造った。
 塩田城には城代として福沢氏らが置かれた。
 
村上氏の基盤は、塩田平と坂城以北の埴科である。

満泉寺は村上氏代々の菩提寺であった。
もちろん、現在の場所ではない。
・永正元年(1504) 曹洞宗:満泉寺と改められた。
・建武2年(1335) 足利直義は倒幕の軍功として塩田領を村上信貞に与
えた。以後、村上領となった。城代として福沢氏らが置かれた。

・南北朝時代〜室町時代を通して村上氏の支配となる。


・天文10年(1541) 海野平の戦い
  村上義清・武田信虎・諏訪頼重と謀って海野平に侵攻した。
  滋野一族を追って小県を領土に治めた。

 父・武田信虎を駿河に追放した、

 武田晴信は諏訪・伊奈・佐久に侵攻した。
 武田晴信(信玄)と村上義清は次第に対立した。

 村上義清についた国人衆は武田氏の傘下に入った諏訪大社の御頭
 (祭礼役)を拒否し、塩田城の福沢顕昌らの支配下に集まった。

・天文17年(1548)
2月14日  上田原の合戦
    武田軍 VS 村上軍
  決着はつかなかった。
  板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿伝右衛門が討ち死にした。
  実質的に敗北した

・天文19年(1550) 戸石崩れ
笠原清繁の元家臣も頑張った。
戸石城攻めの武田軍の撤退・・・・
  村上義清らが追激戦を行い、武田軍は殿軍の横田高松ら将兵
  1000余が戦死した。

・天文20年(1551)
3月11日 武田氏滅亡。
6月2日  本能寺の変
 ・・・・?上杉景勝が信濃平・川中島一帯は領有した。
 村上義清の子:山浦景国(国清)が29年振りに海津城代とし
 て復帰した。
 根知城主:山浦景国が村上氏館跡に満泉寺を再建した。
・現在  村上山満泉寺である。

5月26日 真田幸隆が戸石城を乗っ取った。
真田幸綱(幸隆)は砥石城の足軽大将:矢沢薩摩守頼綱(幸綱の
弟)等の内通により砥石城は攻略された。
 屋代政国・吾妻景綱が討ち死にした。

・天文21年(1552) 常田の戦い
  村上義清が勝利した。


・天文22年(1552)
1月28日 武田晴信は内山城代:小山田虎満に
 「閏1月6日に出陣する。砥石城を再建する。
 悟られないように・・・」
 と手紙を送った。
※平山優説・・・砥石城に小山田虎満・真田幸綱が入ったで
 あろう

3月? 武田晴信に通じていた大須賀久兵衛尉が謀反を起こした。

深志城→塔原城→刈谷原城→虚空蔵山城→麻績(おみ)城
 →青柳城などの小笠原勢力を駆逐した。


・天正10年(1582)



4月初旬 村上義清の属将の荒砥城主:屋代越中守政国、塩崎城主:
 塩崎氏、寺尾城主:石川氏、塩崎城主:塩崎氏、春日氏、室賀氏ら
 雨宮氏が真田幸隆らの調略により内応し、武田晴信に降伏した。
  村上義清の本拠:葛尾城を伺った。
背後の戸倉方面からの攻撃を受けた。
武田軍が千曲川左岸の支城:狐落城・荒砥城が相次いで落城した。
 葛尾城も守将:滝沢能登守が城門から撃って出た隙に、武田晴信
 に内通していた重臣の計略で自落した。


4月9日 村上義清塩田城にいたかもしれないが?
村上義清は葛尾城を棄てて逃亡した。
葛尾城は南から攻める敵を想定して築城されている。
逃げ道
@北には真田から海津城・善光寺方面に行く往還道があった。
A搦め手の北を通り、刈屋原と磯部の境に下り、坂木の渡し(現笄橋
:こうがいばし)から千曲川の左岸に出られる。
@を使って逃げたのであろう。

村上義清は仇敵の間柄であった高梨氏を通じて越後春日山城の長尾
景虎(上杉謙信)を頼った。
  村上義清は再度体勢を整えた。
※12年にわたり、5度に及ぶ川中島の戦いのきっかけになった。

 
 葛尾城には武田一族の於曾(おぞ)源八郎が入った。
 刈谷原城には今福石見守が入った。
ついに、武田晴信は川中島に進出した。

4月12日 村上義清は長尾軍の支援を受け、村上義清は北信濃の国人衆
と景虎からの支援の兵5000を率いて八幡(千曲市)に来襲した。
▲布施の戦い=八幡の戦い (現千曲市八幡地区:武水別神社付近)
村上義清は、上杉景虎(謙信)の5千の援軍を得、葛尾を奪還した。
武田先鋒隊は村上・長尾軍5000と遭遇し、撃破された。
八幡の戦いで勝利。
武田晴信は一旦兵を引いた。

4月22日〜23日 村上・長尾軍は葛尾城を攻撃した。
 武田城将:於曾(おぞ)源八郎が戦死した。
  村上義清は葛尾城を奪還した。
  武田晴信は深志城に後退した。

5月11日 一端甲府に引き上げた。
村上義清は旧領を回復し塩田城に入った。

6月1日 武田晴信は軍議を催し、村上義清の籠る塩田城攻撃を
  決定した。

7月25日 武田晴信は陣立てを再考し出陣した。
  若神子城→内山城を経て・・・・

8月1日 村上・長尾に内通した和田信定の籠る和田城を陥とした。

8月3日 高鳥屋へ物見に登った。

8月4日 高鳥屋城を攻撃して落城させた。
 「4日戌寅、高鳥屋籠城衆、悉く打ち取り、同内村落居、申の刻勝利」
  高鳥屋の城=鳥屋城のことである。
  (★『高白斎記』  
 
 村上義清方の16の諸城が1日で攻略された。
 (旧武石村〜丸子町の城)
〜〜〜富岡武蔵さんのブログ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
テーマ「長野県丸子周辺の城」のブログ記事
http://tomioka.at.webry.info/theme/7fbc8dc88f.html

  武田晴信は塩田城包囲のために進軍した。 

  
再び葛尾城は武田軍が攻め落とした。
 村上義清は塩田城を脱出して身を隠した。
 景虎を頼って越後に逃れた。
8月5日 武田晴信は塩田城を攻略した。 
  武田晴信は飫富兵部少輔虎昌を城将とした。

8月?日 武田晴信(信玄)は葛尾の出城:岩崎城を川中島攻略の
 拠点にした。


▲第一次川中島合戦

8月?日 長尾景虎は村上義清らの要請により川中島に出陣した。
長尾景虎(上杉謙信)は約8000の兵を率いて春日山城を出陣
 信濃の豪族たちの求めに応じて川中島に出兵した。
8月下旬 犀(さい)川を渡り、布施(長野市)一帯に陣取った。

 
 武田晴信は塩田城を本陣として長尾軍に対峙した。 
 武田晴信は飫富虎昌を先鋒として室賀城に移動させた。
武田晴信の部隊は八幡(千曲市)に陣を張った。

8月22日 ●真田幸綱(幸隆)は3男:真田昌幸を防府に人質に
 出した。・・・(後、武田晴信の小姓となった。)
  

9月1日 長尾景虎と武田晴信は葛尾城、荒砥城などで交戦した。
荒砥城を占領した。

9月3日 長尾景虎は青柳に進んだ。
武田晴信は手薄になった荒砥城に夜襲をかけた。

長尾景虎は麻績で武田軍と対戦した。
 長尾景虎は不利を悟り、再び八幡(千曲市)に戻り、
 武田晴信のいる塩田城に向かった。

しかし、武田軍の守りは堅かった。

武田晴信本隊は塩田城から本隊を途中まで出陣した
  
9月13日 武田晴信は夜陰にまぎれて奇襲作戦を決行した。
      荒砥城に放火して反撃した。

9月17日
 長尾軍は葛尾城下の坂木南条(坂城:千曲市)に放火した。
 しかし、塩田城には迫れなかった。

9月20日 長尾景虎は撤退した。
  村上義清は武田信玄に追われ、越後へと逃れた。
上杉軍が越後に帰陣した。

★互いが売り出し中の強敵と大決戦をするつもりではなく、
「まずは、小手調べ。敵の強さを知りたい」という気持ちでの出陣で
あったようである。稲刈り準備かもしれないが、・・・・

武田晴信は塩田城から出陣したものの、撤退の報を聞いて
塩田城に戻り、論功行賞を行った。

●真田幸綱(幸隆)は塩田城での戦後処理でに恩賞として秋
和(上田市秋和:虚空蔵山と上田城の間)350貫文を与え
られた。
※平山優説・・・真田幸綱の忠節と活躍に報いたのであろう。
 また、天文19年に約束していた諏訪方と上之城(御所)
1000貫文も引き渡されたとみられる。

 
10月7日 武田晴信は塩田城をあとにし、深志城に在陣し、
 甲斐に戻った。


〜〜〜中略〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
※天文22年(1553)〜永禄7年(1564)までのあしかけ12年、
5回に及ぶ川中島の戦い・・・・・・
•天文22年(1553)4月22日第1次:埴科:八幡(千曲市)の戦い
 
•弘治元年(1555)7月19日〜閏10月15日第2次:犀川の戦い
 
•弘治3年(1557)8月29日〜10月第3次:上野原の戦い
 
•永禄4年(1561)9月10日 第4次:八幡原の戦い
  村上義清が武田信繁を討った?
  
•永禄7年(1564) 8月3日〜10月1日 第5次:塩崎の対陣 


・永禄8年(1565) 村上義清は上杉謙信から姫川流域の信越国境を警備
 する根知城を宛がわれた。
★後日、掲載予定

・元亀3年(1572) 村上義清が根知城で死去した。
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〜〜〜中略〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・天正10年(1582) 3月11日、武田氏が滅亡した。

6月2日 本能寺の変
 上杉景勝は荒砥城の守将:屋代氏が徳川方へ裏切りを懸念し、
 稲荷山城が築城した。

8月5日 村上国清は海津城代に任命され、村上氏は旧領に復帰した。

10月 ●塩田城は真田昌幸の支配下に入った。
    ●屋代城には真田信繁が入った。

・天正11年(1583) 上田城築城により塩田城は廃城となった。

・慶長5年(1600) 徳川秀忠が 関ヶ原へ進軍中・・・
 烏川の氾濫で高崎で2万人が寺などに泊まった。
 徳川家忠は高崎城に泊まったため、井伊直政が
 怒ったとか?・・・・ 



▲第2次上田合戦
 徳川秀忠が途中の小諸城を拠点にして上田城への攻撃を加えた。
 砥石城で
 真田幸繁 VS 真田信幸
 真田昌幸の真田信幸に花を持たせる作戦のため、
 真田幸繁が撤退・・・

 しかし、撃退された。
 ★詳細は既に掲載済・・・・
 

 徳川方の海津城将:森忠政は葛尾城代:井戸宇右衛門の配下の兵
 を葛尾城や地蔵峠付近に置いて上田城の動きを監視させていた。

9月18日 真田信繁は上田城から出撃して夜討した。

9月23日 真田信繁は上田城から出撃して 朝駆けした。
  井戸宇右衛門は門を開いて真田軍を城内に入れた。
  真田信繁は二の丸まで攻撃した。



・現在・・・あまり整備されていない?

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




★明日は、村上義清の生涯の復習をしようと思う。

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