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zoom RSS 箕輪初心:生方▲武田信玄痛恨の「砥石崩れ」

<<   作成日時 : 2016/03/23 09:35   >>

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・天文17年(1548)、上田原の戦いで武田信玄は村上義清に大敗
した。天文19年(1550年)9月、武田晴信は村上氏の支城の砥
石城を包囲し、リベンジする。武田晴信にとって、砥石城を落と
せば、村上義清の東信濃における防衛線が大きく後退させる重要
な戦いでもあった。・・・結果、村上義清の反撃を受けて再び大
敗を喫した。
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 (★米山城の村上義清の碑)
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・天文10年(1541) 武田信虎の嫡男:武田晴信(信玄)が父:信虎
の駿河国追放した。
 板垣信方は武田信虎の追放には、武田晴信の苦渋を理解し、
 中心的に活動した。

 武田晴信が家督を継ぐと、板垣信方と甘利虎泰は武田家最高職の
 「両職」に任じられた。
  (★『甲斐国志』)
軍政・民政の中枢を担った。

  武田晴信は父:武田信虎を駿河に追いやり、家督を継承すると
  信濃侵攻を開始し、諏訪郡・北佐久郡を攻略の準備に取りかか
  った。

・天文11年(1542) 諏訪攻撃
6月、武田晴信は諏訪氏庶流:高遠頼継と諏訪領への侵攻した。

7月 諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧し
  た。ついでに、諏訪頼重の娘も側室にした。
@小説では、新田次郎:湖衣姫・・など
A祢津元直の娘→諏訪頼重養女説
 諏訪頼重は板垣郷東光寺で自害させられた。

板垣信方は諏訪(小説では由布姫?湖衣姫)・武田勝頼の後ろ盾と
なった。諏訪の姫にとっては頼もしい武将であった。
 また、板垣信方は、家中の反対する中、山本勘助の才幹を見込み、
武田晴信に推挙した人物とされる。
※NHK大河ドラマ『風林火山』
 山本勘助は板垣信方を「武田一の合戦上手」だが、「苦戦になる
と弱い」と評していた。
家中に心許せる者が少ない山本勘助には、頼もしい味方であった。
そして、山本勘助も由布姫に味方した。

 
9月 諏訪家惣領職を望む高遠頼継が武田晴信に対して挙兵した。
高遠頼継は藤沢頼親と結んで諏訪郡へ侵攻して上原城を落した。
  武田晴信は直ちに板垣信方を先陣とする救援の軍を送った。
 ※安国寺の戦い
   武田晴信の家臣:板垣信方は高遠頼継を撃破して諏訪領を
  掌握した。

・天文12年(1543)
4月 板垣信方を「諏訪郡代(上原城代)」に任じた。
5月  板垣信方は上原城を整備した。 
  ・上原城城将:板垣信方を諏訪郡代「諏方郡司」とした。
  ・桑原城に城将を置いた。  
     (★『高白斎記』)
攻略した諏訪氏の上原城に入り、郡代として諏訪・伊那地方
  を統治した。

9月初旬 武田晴信は大井貞隆の家老?:家臣:芦田(依田)守信
  と芦田(依田)系相木昌朝を味方に引き入れた。
9月17日 長窪城(長和町)を攻囲した。
 大井貞隆は抗戦した。芦田信守と相木昌朝の内応にあい
 長窪城は開城した。
 大井貞隆は捕えられ甲府へ連行された。
 また、大井貞隆に加勢した佐久郡の望月氏も成敗された。
(★『高白斎記』)
岩村田大井氏は弟:大井貞清が継承し、内山城において抵抗した。
※天文15年(1546) 内山城は落城している。

★ちなみに相木昌朝は武田晴信に以後仕えた。
 帰参直後、騎馬80騎持ちで田口城代(佐久市)に任じられた。
(後、相木昌朝の長女は真田幸隆の次男:昌輝に嫁いだ。
 また、相木昌朝の次男:市兵衛は山県昌景の娘婿となった。)

・天文13年(1544) 武田晴信は今川義元と和睦した。
@武田晴信は現千曲市&佐久市の侵攻を考えていたので、
南から甲斐に入られるのが不安だった。
A今川義元は駿東郡(富士市:富士川〜沼津〜三島黄瀬川)
  を北条氏康の支配下にあったので取り戻したいという思惑
あった。

・天文14年(1545)
4月 武田晴信は高遠城に侵攻して高遠頼継を滅ぼした。
6月 福与城主:藤沢頼親頼親は信濃守護小笠原長時と結んで
   抵抗した。
   板垣信方は藤沢氏・小笠原氏に与する龍ヶ崎城を攻め落とした。
   孤立した藤沢頼親は降伏した。追放した。


〜〜〜駿東郡(静岡県)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
7月 第2次河東一乱
   ※河東・・・静岡県駿東郡(富士川〜黄瀬川)
今川義元  VS 北条氏康 
7月下旬、今川義元は富士川を越え、善得寺に布陣。
     北条氏康も駿東郡に急行して応戦した。
B北条氏康は危機的状況になった。
 前門の虎・・今川・武田が駿河から・・
 後門の狼ライオン・・山内上杉がせっかく盗った河越城に
 挟み撃ち状態になってしまった。

9月初旬 今川軍+武田軍が合流。
  北条軍は、吉原城を放棄し三島に退却。
  今川軍は北条幻庵・葛山氏元の長久保城(駿東郡長泉町)
  を包囲した。
  河越城を包囲された。
  北条氏康は窮地に陥った。

10月下旬 武田晴信が北条・今川の仲介役として、
   停戦が成立させた。
 武田晴信が仲裁したことで両家に大きな「貸し」を作った。

11月初旬、北条氏は長久保城(静岡裾野)を今川氏に明け渡した。
  (★『高白斎記』)。
  B北条氏康は西方に安堵を得た河越城の救援に向かった
 

・天文15年(1546)
4月 河越夜戦
上杉憲政+上杉定正+古河公方 VS 北条氏康
  河越城を包囲していた関東管領:上杉憲政が北条氏康に惨敗
上野の平井城に逃げ帰った。
上杉憲政の勢力はいまだ健在であった。

※平山優説・丸島和洋説では、この敗戦が、真田幸綱(幸隆)の
臣従時期としている。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

5月 武田晴信は再び佐久郡に侵攻。
 ※武田の佐久内山城(大井貞清)攻め。
   真田幸隆が大井貞清を助命。
(★後、大井貞清は箕輪城城番→高崎根小屋城城代)

10月 碓氷峠の戦い
 上杉憲政 VS 真田幸綱・飯富虎昌・小山田虎満ら
武田軍が撃破した。
(★甲陽軍鑑)
11月 真田幸綱は須野原若狭・惣左衛門兄弟を村上義清
 の元におくり真田の城を乗っ取られた。と嘘をつかせた。
 村上義清500が城奪回に来たが、真田幸綱らが撃退した。
※平山優氏・・・関与していた可能性があるが、事実と認め
 がたい。

 村上義清は真田幸綱を標的にした。
  (★甲陽軍鑑)

*天文16年(1548)
 ※武田晴信は上杉憲政と結んで抵抗するの志賀城(笠原新三郎)
 攻めた。笠原清繁の志賀城を包囲した。
 真田幸隆の名前がある。
 (★甲陽軍鑑)
  真田幸隆が謀略により活躍。
 上杉憲政は後詰の援軍を金井秀景を大将として派遣した。
 小田井の戦い・・・
★NHK大河ドラマ『風林火山』では山本勘助が活躍
※平山優氏・・・脚色されている。

板垣信方・甘利虎泰に率いられた武田軍に撃破される。
※武田軍は志賀城の目前に小田井原の戦いで討ち取った敵兵の首級
3000を晒して威嚇した。士気を喪失した志賀城は陥落し、笠原清
繁は討ち取られた。
捕虜となった城兵は奴隷労働者に落とされ、女子供は売り払われた。
男は黒川金山労働者などである。
女は女郎の可能性が高い。
(★戦国合戦史:吉田隆司著)
※平山優氏・・・根拠がない。

*天文17年(1548) 【上田原の戦い】
2月1日 武田晴信は5000人の兵力を率い北信濃に向けて進軍を開始
  した。武田晴信は上原城で板垣信方の率いる諏訪衆や小山田信有
  の率いる郡内衆と合流した。
  大門峠を越えて長窪城に入った。
佐久内山城の小山田満虎の率いる佐久衆とも合流した。
 ●小山田満虎の配下に真田幸綱(幸隆)がいた。
 さらに、御陣ヶ原に陣を取った。


2月14日上田原の戦い
 武田晴信は小県郡南部に侵攻した。
  倉升山の麓、御陣ヶ入畑に陣を置いた。
(御陣ヶ入・御陣ヶ原・御陣ヶ窪・物見山・兵糧山
加美畑神社→信玄道→石久摩神社→上田古戦場(現公園)が残る。

一方、村上義清は居城:葛尾城(千曲市)との支城:戸石城(上田市)
 に拠点に陣を置いた。
 村上義清の砦上田原を一望できる天白山に本陣を移した。
須々貴神社〜天白山が砦であった。
 天白山本陣→岩鼻まで南下して上田平に兵を進めた。

 千曲川支流:産川を挟んで村上方と武田方と対陣した。
 
 ※上田原の戦い
武田晴信8000? VS 村上義清5000余?とも7000?
1)甲陽軍鑑
  真田幸綱(幸隆)が 武田軍は先陣を願い出た。
武田晴信は板垣信方を先陣とした。
真田幸綱(幸隆)は板垣信方の脇備えであった。
 (★)
★真田幸綱で、考えられることは
@真田幸隆は小山田虎満の配下だったが地の利を得ていたので、  
 小山田虎満に板垣の参謀格に抜擢された?
 (★箕輪初心私見)
 真田幸綱(幸隆)は板垣信方のbQ脇備えとして命令された。
@板垣信方に「わしの戦い方を見とけ。」と言われた。
B真田幸綱は小山田虎満の配下にいたので、記述間違い?

  板垣信方・栗原左衛門尉・飯富兵部少輔・上原昌辰(小山田虎満)
  ・小山田信有・武田典厩信繁らが村上義清軍に攻撃をしかけた。

  村上義清は武田方の初鹿野伝右衛門を討ち取った。

先陣の板垣勢は村上勢を撃破して敵陣深く突進した。
緒戦では村上軍を撃破した。
  しかし、板垣信方は気を緩めてしまい、勝鬨をあげた。
  板垣信方は備から離れて馬を下り、敵前で首実検を始めた。
村上勢は反撃に出た。板垣勢は混乱状態に陥った。
  板垣信方は馬に乗ろうとしたところを村上方の安中一藤太の一槍で
  倒れた。板垣信方は上条織部に討ち取られた。
(★『甲陽軍鑑』)
  また、退却を始めた村上軍に対し、信方の隊が深追いしすぎたため
  孤立していまった。村上軍の将:上条織部によって討たれた説も
ある。

  先陣の板垣衆が崩れると、村上勢は勢いに乗って猛攻をしかけた。
  武田軍は先陣が敗れたことで後続の武田軍は突き崩された。

村上義清が武田晴信の本陣に攻めかかった。
  武田晴信の旗本衆は後退した。
  脇備の工藤祐長(内藤昌秀)と馬場信房(信春)が横槍を入れて
  これを打ち払った。
   しかし、武田晴信は2ヶ所に薄手の傷を負った。
    (★『甲陽軍鑑』・『勝山記』)
武田軍は小山田信有の郡内衆が奮戦した。

  甘利虎泰、才間河内守らが討ち死にした。

@武田軍は重臣の板垣信方、甘利虎泰を失う大敗を喫した。
『甲陽軍鑑』での戦死者は武田軍は700人(1200人?)、
 
 A村上軍も屋代基綱・小島権兵衛・雨宮刑部正利らが戦死した。
   損害も多く追撃する余力はなく退陣した。  
  『甲陽軍鑑』での戦死者は村上軍は300人(1700人?)
    としている。
※平山優氏・・・何らかの関与があったとしている。

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箕輪初心:生方▲真田○45:【諏訪の上原城】&板垣信方と真田幸綱
http://53922401.at.webry.info/201602/article_21.html

箕輪初心:生方▲真田●68【上田原の戦い】&4つ小説
http://53922401.at.webry.info/201603/article_13.html
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  →武田晴信は村上義清に敗戦。
   家老・板垣信方、甘利虎泰・初鹿野伝右衛門、才間河内ら
     が戦死した。
   
甘利虎泰の子:藤蔵(後の甘利昌忠)が家督を継承し
   軍事指揮権を持った。武田晴信を支援した。
武田晴信も負傷。
★真田幸隆も7年ぶりの村上義清との戦いなのに、旧領
回復が遠のいてしまったと悔しい思いをしていたので
あろう。

   武田軍は晴信の指揮のもと態勢を立て直して20日余の間
   上田原に留まった。
     (★『勝山記』)
  ※戦場に留まった理由
  @武田晴信が初めての負けを認めたがらなかった。
  A武田晴信は家臣に自分の指導力を示す必要があった。
  B退却までの時間かせぎをする必要があった。
C引くに引けない状況であった。
(★名城と合戦の秘密:二宮博志著)

  駒井高白斎は今井信甫と相談し、武田晴信生母:大井の方に働き
  かけた。大井夫人は野村筑前守・春降出雲守を使者として派遣
  し、武田晴信を説得した。

3月4日 武田晴信は御陣ヶ原でようやく武田勢は撤退を指示した。


3月5日  武田晴信は上原城へ到着した。
3月14日 甘利藤三が上原城へ到着した。
3月26日 武田晴信は甲府へ帰還した。
   武田晴信は甲府の「嶋の湯」(甲府市湯村の湯村温泉)で
   30日間の湯治をおこなった。

結果・・・
@武田晴信にとって初めての敗戦であった。
A村上義清・小笠原長時を中心に結束して反撃に出た。
  諏訪郡でも西方衆が反乱を起こした。
A武田晴信の信濃支配は危機に陥った。

そして、この合戦は、やがて武田信玄と小笠原長時の塩尻峠の戦い
→武田信玄の林城奪取→武田信玄のの戸石崩れ→真田幸隆の戸石城
奪取→葛尾城争奪(村上義清の越後逃亡)を経て、上杉政虎
(→上杉謙信)の川中島への出陣を呼ぶことになる。


●武田晴信が 上田原の戦いにおいて村上義清に敗れると、武田の占
領地 には、大きな動揺が起きた。
上田原の戦いから1ヶ月後、小笠原長時は村上義清らと呼応した。

4月5日  村上義清の軍が武田領の佐久郡に逆侵攻し、内山城を焼き
   討ちした。
   
   武田軍は軍隊の再編成が急務であり、村上軍の南下を抑えられ
    なかった。

4月5日 信濃守護:小笠原長時は、好機到来と見て、
  安曇郡の仁科盛能と連合して諏訪に攻め入った。
  諏訪大社下社へ攻め込み放火した。、諏訪下社を占領した。
 
4月?日 小笠原長時・村上義清や仁科盛能、藤沢頼親らと諏訪郡
     へ侵攻する
     (★「神使御頭之日記」)
★村上義清が諏訪下社を攻めたかどうか不明である。

6月10日 小笠原長時は再び塩尻峠を越えて諏訪大社下社に討ち入った。
  しかし、下社の配下・地下人たちに反撃された。


6月中旬 小笠原長時は諏訪西方衆らを迎合して諏訪侵攻
     を行った。
     (★「神使御頭之日記」)
7月10日 小笠原長時は武田家に臣従していた花岡氏や矢島満清ら
 諏訪西方衆を寝返らせた。
 諏訪西方衆は諏訪郡宮川以西の西方衆と呼ばれる諏訪神家の一族
 で矢島(諏訪上社本宮の三之鳥居)、花岡城(諏訪湖の取水口の
山上)らが、小笠原長時に通じ、 反旗を翻した。
南の有賀城などの攻撃態勢に入った。

そのため、武田方の神長官:守矢頼真や有賀城:千野靱負尉(
ゆきえのじょう)
らは 上原城へ 逃げ込んだ。
 (★神使御頭之日記:守矢頼真)  

7月11日 小笠原長時は諏訪郡代・板垣信方を失ってしまって、動揺
  の激しい上諏訪に押し寄せた。

武田晴信に知らせが入った。 
  武田晴信は反乱の情報が甲府に届くとすぐに出馬した。
  @武田晴信は甲斐の大井森(現北杜市長坂町)に軍勢を集結させた。
  しかし、軍事指揮権の両輪を失った武田晴信は動こうとしなかった。
先の上田原の戦いの敗戦が尾を引いていた。
 
  A小笠原長時軍は兵力的にも戦況でも優位にあったが、小笠原長時
   は武田晴信に対抗するための寄せ集め軍団で結束力が難しかった
  途中、小笠原長時の舅:仁科盛能が作戦方針をめぐって小笠原長時
  と対立して軍を率いて退去した。
  家老:山家氏や三村氏などの武将らは武田晴信の調略で内応した。
小笠原軍は内部分裂で塩尻峠まで撤退せざるを得なかった。

 
  武田晴信の行動は慎重で18日まで甲斐に留まっていた。


7月18日 武田晴信がようやく軍勢を動かした。  
  大井の森(現北杜市長坂町)より上原城に入った。
  深夜、上原城を密かにを発った。

   
7月19日 塩尻峠の戦い=塩尻:桔梗ケ原の戦い
 未明、武田晴信は「風林火山」のごとく隠密裏に軍を移動させた。
 塩尻峠の嶺上にいる小笠原軍5000余を急襲した。
 小笠原軍勢は昨日まで甲斐にいた武田軍が、まさか来襲するとは
思ってもいなかった。
 小笠原軍は寝込みを襲われ、完全に意表を突かれた。
 しかし、小笠原長時と埴原た旗本は狭い峠道を強引に攻め登ろうと
  するから武田軍は5度、押し返された。
 武田晴信は同母弟:武田信繁に別働隊を与えて勝弦峠越えで小笠原軍
 の側背に移動させた。
  そして、別働隊に小笠原軍の側背を急襲させた。
  6度目の戦いではさみ撃ちにし、小笠原軍は裏崩れを起こして諸隊
  は逃げ、自滅した。
   (★小和田哲男)
結局、小笠原軍は将兵1000余人が戦死した。
 小笠原長時の家老:村井氏は村井館(=小屋城館)・詰め城:埴原城を
 拠点に府中の防衛拠点としていたが、塩尻峠の村井氏は討ち死にした。
小笠原長時は居城の林城に逃走した。
武田軍は府中:松本へ侵入し、林城付近を焼き払い引き上げた。

しかし、小笠原長時は敗戦の傷跡は深かった。武田晴信に恐怖心を
 抱いた。

  武田晴信は小笠原長時に大勝。武田氏は再び優位を回復した。
  武田晴信は上田原の大敗をこの大勝で埋め合わせることになり、
本人自身、少し自信を回復した、。

9月6日 武田晴信は諏訪から佐久へ侵攻した。
 村上義清に従っていた前山城はじめ13の城を落とした。

9月25日 武田晴信は上原城に帰陣した。


10月2日 筑摩郡に入った。
村井城は村井氏平時の館で、埴原城を詰め城としていた。
  村井氏は滅亡していたので、簡単に武田晴信のものとなった。
  小笠原長清の本城:林城からわずか1里半(実際は6km)
  程の地点であった。
  しかし、小笠原長時には築城を阻止する力はなかった。
 
10月4日  武田晴信は村井城(松本市芳川小屋)の鍬立普請を
  指図した。
  村井城を築城した。林城攻略の前進拠点となった。

▲小屋城跡・・・現在、遺構は残っていない。標柱だけである。
完全な平城である。

▲埴原城・・・・写真は消滅してない。



・天文18年(1549)3月
「【真田幸綱の初見の史料:『高白斎記』】
3月14日
「14日土用、七百貫文の御朱印望月源三郎方へ仰せ下せし
候。真田に渡す。依田新祭文請取」
武田に味方することにした望月源三郎に武田晴信が700貫文の
領地を与えるとの朱印状を出したが、その使者を真田幸隆が務めた。

真田幸綱が望月源三郎に紹介し、武田晴信に帰属させた。
(★真田三代:平山優著)
※そうすると
 望月源三郎はずうっと村上義清方になったいた。
★同族の滋野系海野系真田幸綱(幸隆)の仲介による説得で降伏し
たという。
望月源三郎が武田晴信の配下となった。
望月源三郎は望月氏惣領を正式に武田晴信に認められ継承した。
望月源三郎は武田晴信の「信」を与えられ、望月信雅と名乗った。


?月?日 望月盛昌の娘(望月信雅の姉?妹?)は武田信玄の
 弟:典厩信繁の嫁となった。

4月3日 春日城に反武田方の芦田信守軍勢が拠る。
    武田軍、春日城を落とす。

4月?日 真田幸隆は同族の望月一族、海野一族を
   武田家臣に推挙した。

布引氏や楽厳寺氏は城に拠って頑強な抵抗を継続していた。

5月29日 望月新六は兄:望月源三郎の武田氏臣従後も布引山に
 あって武田勢に抗していた。
 しかし武田晴信に降って、布引山を出た。
 望月新六は武田家臣:駒井高白斎に同道した。

5月30日 甲府に着き、武田晴信に出仕した。

6月5日 武田晴信は望月左衛門佐信雅 を望月氏宗家の名跡を継ぐ
 者として認めた。

8月5日 武田晴信は布引の攻撃をした。
 (★『高白斎記』)
楽巌寺城=布引城、堀ノ内城は落城した。
布引城:楽巌寺入道雅方&堀之内城:布下仁兵衛雅朝は
村上義清を頼って逃げた。
武田晴信によって、釈尊寺&布引観音堂も焼亡した。

楽巌寺入道雅方&布下仁兵衛雅朝は村上義清を頼って砥石城に
入り、武田氏に最後まで屈しなかった。
 (★『甲陽軍鑑』戸石城の戦い)
箕輪初心:生方▲真田●66【布引観音&布引城】:望月源三郎と真田幸綱
http://53922401.at.webry.info/201603/article_11.html

・天文19年(1550)
・?月 京都の小笠原稙盛(秀清の父)を介して将軍:足利義輝に
  太刀・馬を献上。・・・信濃国衆への下知を約束された。

5月23日 甲斐一宮浅間神社に願文を捧げて戦勝祈願
      信濃制圧を決意した。

7月3日 甲府を出発した。

・7月10日 武田晴信は村井城に到着。
   武田晴信(信玄)は
   「軍門に降れば本領安堵する。」
 小笠原長時は
  「小笠原は代々京都にいて武田より上だった。今さら、どうして
   武田に属せようか。」
と考えた。
加賀美遠光の子:小笠原長清系嫡流であった。
加賀美遠光の甥:武田信光系の武田晴信・・・
結局、小笠原長時は武田晴信(=信玄)に対抗した。

・7月15日
 夕刻 小笠原領の筑摩郡に侵攻した。
     林城に近い出城を攻め取った。
     村井城に引き上げた。

 深夜、武田晴信は再び出陣した。
  武田晴信の林城攻撃
   大城(林城)、深志(松本城)、岡田(伊深城)、桐原(桐原城)、
  山家(山家城:林城から美ヶ原の途中)の5城は 戦わずして
  城兵が逃亡した。
   島立(荒井館)、 浅間(早落城)の2城は降参した。
   落城・・・信濃小笠原氏は没落
  (★『高白斎記』)
  
 小笠原長時は本拠林城を捨てて逃亡した。
小笠原長時は平瀬城(安曇野IC近く)に落ち、 やがて葛尾城に
  村上義清を頼ることになった。
 結果・・・流浪の道を選んだのだった。
 
★小笠原長時と村上義清は本格的に
 手を結んでいたら、武田信玄の侵入は無理だったのだ。

・7月19日、深志城の鍬立式を行った。

・7月23日 深志城(現松本城)の総普請を開始した。

・?月?日  工藤(内藤)昌豊が深志城代になった。


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◆砥石城
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砥石城は村上義清が小県郡の押さえとして築いたと言われる城で
ある。、砥石城は米山城・砥石城・本城・枡形城からできている。
小県郡の最大の堅城であった。東西は崖に囲まれている。
村上軍の城兵は500人程でしかなかった。半数はかつて天文16
年(1547)武田晴信の志賀城攻めの残党であり、士気は高かった。
楽巌寺入道雅方&布下仁兵衛雅朝も村上義清を頼って砥石城に
入っていた。


7月2日 武田晴信は、真田幸隆に文書を与えた。
   其の方年来の忠信、祝着に候
   然らば本意の上に於いて
   諏訪方参百貫并びに横田遺跡上条
   都合千貫の所これを進し候
       恐々謹言
      天文十九庚戌
      七月二日 晴信
              真田弾正忠殿
(『真田文書』)、
★「本意(砥石城の攻略)になった上には、諏訪形(上田市)
 300貫と横田遺跡上条・・合計1000貫をあてがう=くれる」


7月25日 武田晴信→飯富虎昌・上原(小山田虎満)
「・・・真田方に物語りあるべく候・・・」

★後から出陣するから、真田幸綱にも伝えよ。
※平山氏・・・飯富虎昌・上原(小山田虎満)・真田幸綱が一緒に
 行動していた。真田幸綱が高い位置にいることがうかがえる。


8月28日 小笠原長時は葛尾城(千曲市)の村上義清を頼った。
  武田晴信 は小県郡に入った。
  戸石城(上田市)攻略を目指して7000とも言われる兵を率い
て城下に迫った。
  村上義清が高梨政頼と争いを起こしていたのでその隙に乗じた。

8月29日 武田晴信は矢入れをした。(戦いの宣言)
画像

(★坂木ふるさと館)
・9月3日 武田晴信は信濃北部・東部の平定を目指して、北信濃の
 村上義清の出城:砥石城攻略に乗り出した。
 武田晴信は総攻撃に向けて陣を城の南西部へと移した。
武田軍の兵力は7000人・・・・


9月9日 武田軍の横田高松の部隊が南西部の砥石のような崖を登
  ることで総攻撃が開始された。
  しかし村上軍城兵は石を落としたり煮え湯を浴びせたりして
  武田軍を撃退した。
先陣大将:横田高松は戦死した。

 武田軍は兵力においては圧倒的に優位であったであったが、
自然の要害で堅城の上、城兵の果敢な反撃の前に苦戦した。
わずか500の城兵の士気は高く、城は容易に落ちない。

その間、幸隆の活躍で村上義清方の海津の城:清野清寿軒&
高井郡の須田城:須田信頼(武田の信)、寺尾城の寺尾氏を寝返
らせることに成功した。

砥石城が攻められていることを知った村上義清は、高梨政頼と
急遽和睦を結んだ。

9月?日 村上義清が2000人の本隊を率いて葛尾城から救援に
駆けつけて来た。後詰めとして救援しにきたのである。
村上義清は直ちに武田方の寺尾城(長野市)へ攻め掛かった。

9月28日 村上義清は寺尾城攻撃を中止した。

武田晴信は真田幸綱(幸隆)&今井信甫(のぶすけ:勝沼氏)
に寺尾城救援を命じた。
しかし、間に合わなかった。

9月29日 真田幸綱が戻ってきた。
砥石城は攻撃開始より20日が経過しても城はびくともしなか
った。武田晴信はこれ以上城攻めにこだわるのは不利と見た。

9月30日 武田晴信は真田幸綱(幸隆)を交えて軍議を開いた。
 結局は退陣と決定した。
武田晴信は戦況不利を判断し、撤退を決断した。

10月1日 武田勢は退却を開始した。
しかし、村上義清がこの機を逃すはずはなかった。
武田軍は砥石城兵と村上軍本隊に挟撃された。
村上義清は退却する武田勢に追撃戦を挑み、終日激戦が展開された。
酉の刻(午後6時)村上義清が諦めるまで続けられた。

武田晴信は影武者を身代わりにして窮地を脱した。


結果・・・武田勢の大敗であった。
村上軍の追撃は激しく、武田軍は1000人近い死傷者を出した。
横田備中守高松(たかとし)という有能な武将や小沢式部・渡邊
出雲守らを始め、1000人に及ぶ兵を失った。
 (★『妙法寺記』)
村上方の死者は200人弱と伝えられている。
横田高松をはじめ約1200人もの将兵を失った説もある。


「十月小辛酉卯刻被入御馬。御跡衆終日戦フ。酉刻敵敗北」
(★『高白斎記』)
@「被入御馬」・・・「退陣なされた」の意味である。
A「御跡衆」・・・・「殿軍(しんがり=最後尾隊)」の意味である。
B「敵敗北」・・・・「村上軍が負けた。」の意味である。
 武田方の記録なので、武田びいきに書かれている。

どう見ても砥石城の戦いは武田軍の完敗であった。 
砥石城の戦いは武田家中では「戸石崩れ」と呼ばれた。
(★甲陽軍鑑)
夜、武田軍はようやく望月城にたどり着いた。

10月2日 大門峠を越え、湯川(諏訪市)に陣を張った。

10月3日 上原城に移った。
武田晴信は対策を練った。

10月6日 上原城を出た。

10月7日 甲府に戻った。
 小山田信有は4月から病床にあり、砥石城攻めの際には参陣して
 いなかったと考えられている。
  (★『甲陽軍鑑』・真田四代:丸島和洋著)

・天文20年(1551) 武田方の信濃先方衆の真田幸隆の調略によっ
て、兵を動かすことなく砥石城は武田軍の手に落ちた。

村上義清の勢力は衰退していった。

・天文22年(1553) 村上義清は長尾景虎を頼り、越後へ落ち延びた。
 村上義清、高梨政頼等の信濃北東部の国人が越後の長尾景虎を頼っ
 たことから、川中島の戦いへと発展していく。


◆参考文献
・『真田三代』平山優著
・『戦史ドキュメント 川中島の戦い』平山優著
・『真田四代』丸島和洋著
そのた多数・・・












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