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zoom RSS 箕輪初心:生方▲茅野の城7分の4【上原城&千沢城&粟沢城&鬼場城】

<<   作成日時 : 2016/03/22 08:07   >>

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上原城には、NHK大河ドラマ『風林火山』の影響で訪問した。
千沢城&粟沢城&鬼場城には茅野市の諏訪中央病院に友達の
怪我見舞いついでに訪問した。病院から5分もかからないの
で、寄ってみた。千沢城&粟沢城&鬼場城は諏訪頼重の家臣
団の城であった。茅野のルーツは千野村あるいは千野氏、ま
たはイネ科の茅がルーツなのであろう。信濃は甲斐より米の
収穫量が多かった。武田信虎も武田晴信も食料:米の確保の
ためには信濃が欲しかった。とはいえ、戦えば、味方も敵にも
多くの死傷者が出る。できれば。血を流さずに信濃をゲットした
い。また、敵兵を自分の配下にしたい。武田信虎は武田晴信の
妹:禰々を嫁がせて信濃に侵攻しようとした。武田晴信は諏訪
に侵攻→脅し→ごまかしの和睦→諏訪頼重の自害→懐柔策
:頼重の娘との攻略結婚→諏訪の家臣団ゲット→中信濃侵攻
と繋がっていく。
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 (★諏訪中央病院の御柱祭の縄)






【1】上原城(県史跡) 茅野市茅野上原
≪アクセス≫
上原城はJR中央本線茅野駅からバスで「頼岳寺」バス停
で下車する。茅野駅の北約2.5km程のところにある。

車だと中央道諏訪ICより国道20号線経由で約3qである。
●板垣平
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●旗
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●地図
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●看板
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●神社
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●説明板
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●水の手
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●郭
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●主郭
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●頼重寺
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◆上原城の歴史 ◆
1)諏訪氏時代
諏訪信満→諏訪政満→諏訪頼満→諏訪頼隆→諏訪頼重

2)武田郡司(郡代)時代。
初代:板垣信方→2代:室住虎登(信方の実弟)→長坂虎房(光堅)


・文正元年(1466) 頃 築城説・・有力説
諏訪信満が中腹に居館(板垣平)を建てた。

・文安6年(1449年)諏訪氏内訌
  惣領家 VS 大祝家の対立
惣領家の諏訪信満(安芸守)が大祝諏訪頼満は対立した。
 諏訪信満は上原に居館を移転した。
 上原城下町には諏訪大社上社と別当寺:神宮寺の門前町を
 含まれていた。

・天文11年(1542)
7月 武田晴信(信玄)が高遠頼継と諏訪頼重を滅ぼした。
  諏訪郡は武田晴信の領国となる。
西側は高遠頼継の領国となる。
9月 武田晴信(信玄)は高遠頼継を滅ぼした。

・天文12年(1543)
  武田晴信譜代家老の板垣信方が諏訪郡代となった。

・天文17年(1548)
2月 上田原の戦い
  板垣信方が戦死した。
  弟。室住玄蕃充虎登が郡代になった。
8月  長坂虎房(光堅)が郡代になった。

・天文18年(1549)
 長坂虎房(光堅)が上原城に代わり茶臼山高島城を築城した。
 長坂虎房は高島城へ移り、諏訪郡の政治的拠点は高島城になった。

・天正10年(1582)
3月  織田・徳川連合軍による武田領侵攻
3月11日 武田氏は滅亡。
      上原城は廃城となった。

・江戸時代 諏訪高島城が築城された。
      上原城の町宿は移転され消滅する。


【2】朝倉山城(市史跡) 茅野市北山381−1


【3】千沢城(市史跡) 茅野市宮川字安国寺2491−1
●遠望
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●入り口
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【4】駒形城 茅野市宮川字西茅野


【5】埴原田城 茅野市米沢字埴原田


【6】粟沢城・・・茅野市玉川粟沢
≪アクセス≫
@JR茅野駅から県道192号線を東へ進み上川を渡った丘上にある。
 粟沢観音が目印となる。
A茅野市街より県道188号を東に行く。
●遠望・・・上川東岸の崖端に築かれた城である。
東背後に小泉山があり、北は上川が流れて断崖になって
いる。
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 粟沢橋を渡り・・
●物見櫓?・・粟沢観音も城域であると思われる。
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●粟澤観音の案内板
「・・・粟沢氏は武田氏に属したが、天正10年(1582)の織田氏の
来襲により諏訪頼豊が討死し粟沢一族も滅んだ。」
●坂の途中
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・約600m先左側に城跡看板があった。
坂を登った所を左折すると館跡の碑がある。
●駐車場・・・館跡に10台程
●主郭・・・城址碑が建つ。
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●案内石柱
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★粟沢城は眺望が開けている

●石垣で補強された土塁?
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●堀の痕跡
★宅地化や農地化が進んでいる。
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▲上川の向かい側には鬼場城がある。
西は開けて諏訪盆地を一望できる位置7


◆粟沢城の歴史 ◆
・鎌倉時代・・・諏訪氏の一族:粟沢氏が居館を構えたことに始まる。
・天文年間(1532〜1555) 諏訪頼重の従兄弟:諏訪頼豊が居を構えた。

・天文11年(1542) 諏訪攻撃
6月 武田晴信は諏訪氏庶流:高遠頼継と諏訪領への侵攻した。

7月 諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧し
  た。ついでに、諏訪頼重の娘も側室にした。
 @諏訪頼重の娘説
●小説では、「武田信玄」新田次郎著:湖衣姫・・な
「風林火山:井上靖著」

B祢津元直の娘→諏訪頼重養女説
B諏訪頼重の娘(諏訪御料人)→禰津元直の養女(禰津御寮人)
 

9月 諏訪家惣領職を望む高遠頼継が武田晴信に対して挙兵した。
高遠頼継は藤沢頼親と結んで諏訪郡へ侵攻して上原城を落した。
  武田晴信は板垣信方を先陣とする救援の軍を送った。
▲安国寺の戦い
  板垣信方は高遠頼継を撃破して諏訪領を掌握した。

・天文12年(1543)
4月 板垣信方を「諏訪郡代(上原城代)」に任じた。
5月  板垣信方は上原城を整備した。 
・上原城城将:板垣信方を諏訪郡代「諏方郡司」とした。
・桑原城に城将を置いた。  
     (★『高白斎記』)
 ※粟沢城は田中淡路守が城将となったとされる。
 ※粟沢城には諏訪氏支族粟沢氏の末裔と称する沢重信が居城
   した(伝)。 
  
・天正10年(1582)の織田氏の来襲により諏訪頼豊が討死し、
 粟沢一族も滅んだ。 



【7】鬼馬城・・・茅野市ちの城山
●遠望
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●搦め手口?
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●大手口?
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●堀&郭
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●主郭
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◆ 茅野の武田晴信に支配の経過 ◆
・天文11年(1542)
6月 武田晴信は惣領諏訪頼重に不満を抱く諏訪庶流の高遠頼継、
 諏訪下社の金刺昌春らを調略により味方に付けた。

諏訪郡・北佐久郡を攻略の準備に取りかかった。

まずが、諏訪頼重が武田信虎・村上義清と勝手に和睦した
したことを盟約違反として打つことにした。

6月24日 武田晴信は諏訪頼重を攻撃するために甲府躑躅ヶ崎館
 を出立した。

  (★「武田信玄」:新田次郎著では700騎:3000の兵)

 武田晴信は甲府躑躅ヶ崎→「中?の棒道」→若神子(現北杜市)
 →(長坂町)→大井ヶ森→小淵沢→葛窪(現長野県富士見町)

6月?日 諏訪頼重は武田晴信の侵攻の情報を信じなかった。
     偵察を出した。

6月28日 諏訪頼重は上原城に軍を召集した。
(★「武田信玄」:新田次郎著では350騎:800の兵
     ・・千野伊豆入道が用意した兵であった。)
(★ウィキペディア:諏訪軍の兵力は150騎、歩兵
   700〜800人。)

6月29日 諏訪郡に侵攻し、御射山(現富士見町)に布陣した。


7月1日  諏訪頼重が出撃した。
   矢崎原(茅野市)で武田軍と対峙した。


 『千野伊豆入道が兵を率いて、御射山に向かった。
  しかし、小笠原長時は塩尻峠で固まっていた。
  高遠頼継は「ご安心くだされ、応援に出陣し申す。」
  と頼重に書状を送った。・・・』
(★「武田信玄」:新田次郎著)


 武田軍と対峙した。

7月2日 高遠城主:高遠頼継が武田晴信に呼応に応じて杖突峠から
     諏訪に侵攻して安国寺附近に放火した。
(★「武田信玄」:新田次郎著では、兵2000)

諏訪頼重は高遠頼継が裏切ったのを初めて知った。
(★「武田信玄」:新田次郎著)
諏訪頼重は千野入道に高遠頼継を討つように命じた。
夜、千野入道は夜襲をかけた。しかし、戦死した。
武田晴信は「惜しい男をなくしたな。」・・・・。
(★「武田信玄」:新田次郎著)
その後、神長官:守矢頼真や有賀城:千野靱負尉
   (ゆきえのじょう)は武田晴信の家臣になっている。

   諏訪頼重は挟み撃ちを恐れて上原城を焼き払った。
★武田晴信や高遠頼継に上原城を使われないように
 するためである。
   
   夜、諏訪頼重は桑原城に移った。
       そして、桑原城に立て籠もった。
   
  
7月3日 武田晴信は桑原城下に兵を進めた。
高遠頼継も桑原城下に兵を進めた。
   3方から桑原城を包囲し攻撃した。
    
  しかし、追い詰められた諏訪軍は激しく抗戦した。
  折からの雨で、城攻めを中止した。
  武田晴信は包囲を解いて後退した。
★武田晴信の作戦であった。思った通り、
   諏訪兵の逃亡が始まった。・・・・・
「これで、兵が減れば、・・・桑原城は落ちる。」


 夕方、諏訪頼重は城の警備を検分をしに出かけた
     諏訪頼重を見た家臣が頼重が城を捨てたと思い込み
     逃げて始めた。
夜、諏訪頼重が陣に戻ってみると、大部分の兵は逃亡していた。
    
     桑原城で諏訪頼重と一緒に夜を過ごしたのは僅か20名
     程だった。
 (★NHK大河ドラマ「風林火山」などでは・・・)
桑原城に残ったのは諏訪一門とわずかな城兵だけとなった

★7月3日の夜、諏訪頼重&武田晴信は何を想ったのだろうか?
 頼重「武田晴信の妹は我が妻・・・降伏して命乞いをしようか?」
晴信「明日になれば、兵も食料ないので、降伏するだろう。
    禰々もいるので、攻撃したくはない。・・・
   それに、無駄に配下を死なせたくはない。・・」

7月4日 武田晴信は和睦の申し入れをした。
 板垣信方は降伏を勧めに行った。
(★「武田信玄」:新田次郎著)


  諏訪頼重は武田晴信の妹婿である縁を利用して、晴信に和睦を
  申し入れた。晴信はこれを受け入れた。
和睦の条件として諏訪頼重の生命は保障されていた。

(★ウィキペディアの説)
7月5日 桑原城を開城した。
諏訪頼重・弟:大祝頼高を甲府へ連行した。
しかし、2人は甲府の東光寺に幽閉された。
★騙されたと思ったが、後の祭りであった。
7月21日 武田晴信は約束を反故にして、諏訪頼重と実弟:
  大祝頼高を切腹させた。
 諏訪惣領家は事実上滅亡した。

◆桑原城案内板〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
天文11年(1542)7月4日、諏訪頼重は武田信玄に攻められて
上原城からのがれ、ここ(桑原城)で敗れた。
頼重は甲府に送られた。

「 おのずから 枯れ果てにけり 草の葉の
 主あらばこそ またもむすばめ 」

の時世を残して割腹し、諏訪惣領家は一旦滅亡したという
悲史を伝えている。
  今、東光寺に、頼重と弟の大祝頼高(おおほうり)を祀る
小さな五輪塔二基が建っており、また志賀神戸の頼重院
(らいじょういん)には頼重を祀る供養塔がある。
(★桑原城案内板:昭和58年)
★頼重院にも行ったが、写真が消滅している。

9月 諏訪家惣領職を望む高遠頼継が武田晴信に対して挙兵した。
高遠頼継は藤沢頼親と結んで諏訪郡へ侵攻して上原城を落した。
 
 武田晴信は寅王を諏訪総領家をして宣言し、諏訪一族を結束
 させた。 
 武田晴信は板垣信方を先陣とする救援の軍を送った。
 ※安国寺の戦い
  板垣信方は高遠頼継を撃破して諏訪領を掌握した。

・天文12年(1543)
4月 板垣信方を「諏訪郡代(上原城代)」に任じた。
5月  板垣信方は上原城を整備した。 
  ・上原城城将:板垣信方を諏訪郡代「諏方郡司」とした。
  ・桑原城に城将を置いた。  
     (★『高白斎記』)
・天文11年(1542) 武田信玄は本格的な信濃攻略を始めた。 
最初のターゲットは諏訪の豪族:諏訪頼重だった。
上原城は躑躅ヶ崎から近かった。
現甲府→北杜→若神子→小渕沢→県境→富士見→茅野である。

桑原城で発表したが・・・・
〜〜〜「禰津御寮人」&「諏訪御寮人」〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・正室:扇谷上杉朝興の娘
・継室:三条の方
・側室:諏訪御料人
・側室:禰津御寮人
・側室:油川夫人
・ほか・・・・・?
 
説@:「禰津御寮人」=「諏訪御寮人」同人物説:猪坂直一説
諏訪頼重の娘(諏訪御寮人)→禰津元直の養女(禰津御寮人)→

説A「禰津御寮人」は「諏訪御寮人」別人物説・・通説
 ・天文11年(1543)禰津元直  武田晴信の家臣となる。
 12月15日 禰津元直の娘が武田信虎の嫡男:武田晴信(信玄)
 の側室として「禰津より御前様」が輿入れした=嫁いだ。
 「禰津御寮人」と呼ばれた。
  (★『高白斎記』)
 
諏訪市史は桑原城が本城である可能性が高いという説を述べて
いるが、埋もれた古城:H氏のおかげで分かる気がした。
行ってみて分かる風光明媚で哀愁を感じさせる城なのだ。
つまり、私は禰久・諏訪御料人が桑原城で過ごしてのではないか
と思ったのだ。
杖突峠から見ると、同じ山系で、茅野に上原城&諏訪に桑原城
がある。当時は諏訪市と茅野市の区別はなかった。

1)禰久御料人
*天文9年(1540)11月29日
 武田信虎は3女:禰々を政略結婚により諏訪頼重に嫁がせた。
   (★『神使御頭之日記』)
 ★数え13歳であった。

・天文11年(1542)
4月4日 諏訪頼重は禰々御料人との間に男子が誕生した。
      寅王である。
7月5日  諏訪頼重&大祝頼高 ・禰々&寅王丸は甲府へ
連れてこられた。
★禰々は安心していた。
7月21日 
武田晴信は約束を反故にして、諏訪頼重と実弟:大祝頼高
を切腹させた。
禰々御寮人は
信頼しきっていた兄に裏切られ・・・★殺さない約束が。
愛する夫を殺され
諏訪を奪われ・・・。
・・後、武田晴信は、禰々&諏訪頼重の遺児(寅王丸=千代宮丸)を
高遠攻めの際、諏訪氏後継者として担ぎ出し、諏訪諸勢力の結集に
利用した。
・天文12(1543) 1月19日、禰々御寮人がなくなった、享年16。
兄晴信を恨みつつ、失意の内にわずか16年の短い人生を終えた。
残された千代宮丸:寅王の処遇は不明である。
(★埋もれた古城:H氏の原文修正)


2)諏訪御料人
◆諏訪御料人の名前
1)「天と地と」:観音寺潮五郎著・・・「諏訪御料人」
2)「武田信玄」:新田次郎著・・・・・「湖衣姫」
3)「風林火山」:井上靖著・・・・・・「由布姫」
歴史上での実名は不詳のため、作家が勝手に名前をつけた。◆◆


●「武田信玄」新田次郎著:湖衣姫・・
禰津御寮人:里美様であった。

●「風林火山:井上靖著」
・天文11年(1542)
7月21日 
武田晴信は約束を反故にして、諏訪頼重と実弟:大祝頼高
を切腹させた。
由布姫は
愛する父:諏訪頼重を殺され・・・★殺さない約束が。
諏訪を奪われ・・・。

板垣信方は板垣信方は、家中の反対する中、山本勘助を
武田晴信に推挙した。山本勘助は諏訪の姫:由布姫の説得
に当たった。
★井上靖は湯布院で小説を書いていたので「由布姫ゆうひめ」
にし、岡谷の小坂城にいることになっている。


武田晴信は諏訪領を制圧した。ついでに、諏訪頼重の娘
:由布姫も側室にした。
武田晴信は由布姫の美しさに心奪われた。
板垣信方や甘利虎泰らの重臣はこれをを諌めた。
★ここで説が分かれる
@諏訪頼重の娘説
A祢津元直の娘→諏訪頼重養女説
B諏訪頼重の娘(諏訪御料人)→禰津元直の養女(禰津御寮人)


@諏訪頼重の娘説
  武田晴信は禰々御寮人の子の叔父として、旧諏訪氏
  家臣団を支配するより、自分と諏訪の娘との間に
  できた子を使う方が支配しやすいと考えた。
  事実、諏訪四郎と名付けた。
  ★しかし、武田晴信は美人好きだった。
   新田次郎や井上靖は・・・
 諏訪頼重と武田信虎の娘:禰々御料人の子:千代宮丸を擁立
 したが、やがて、自らが頼重の娘を側室に迎え、生まれた男子に
 諏訪惣領家を継承させる路線を選択した。
(★平山優説)
A祢津元直の娘→諏訪頼重養女説
★両方との諏訪神社の関係で親戚であった。
  諏訪頼重が養女にしていた説である。
B諏訪頼重の娘(諏訪御料人)→禰津元直の養女(禰津御寮人)
★板垣・甘利は「一端は、禰津の娘とした方いい。」と
進言した説である
猪坂直一説・小林計一郎説
 天文10年(1541)海野平の戦いで、祢津元直は諏訪頼重・武田
 信虎の小県侵攻に破れた。しかし、同じ神氏の諏訪頼重を
 通じて知行を安堵された。
 猪坂直一氏は諏訪頼重の娘(諏訪御料人)が禰津元直の養女
 となり、武田晴信の側室となった。
 禰津元直が真田幸隆を推挙したと推測した。
 従って、真田幸綱の武田氏臣従は天文12年説であると提唱した。
 真田幸綱は武田氏に臣従した後は、信濃先方衆として軍役を務
 め、村上方の望月源三郎の調略などを開始した。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

山本勘助が重臣の説得に当たった。
「尋常隠れなき美人」と伝えられる美貌の「由布姫」・・
武田晴信は、14歳の由布姫を側室へと望んだのだった。
板垣・甘利など重臣たちは揃って反対したが、山本勘助が
諏訪への懐柔策になると進言し、説き伏せた。
 (★風林火山)
 
諏訪頼重の娘:諏訪御料人を迎えることには武田家中に反対論が
あり、山本勘助が家中を説得した。
 (★『甲陽軍鑑』)

・天文14年(1545)諏訪の姫が輿入れした。
   (★『甲陽軍鑑』)
※武田信玄が諏訪攻略で得たもの・・・
諏訪の土地=米:食料&諏訪頼重の娘「由布姫」であった。

由布姫は父を殺した武田晴信の寵愛(ちょうあい)を受けた
・天文15年(1546) 武田勝頼が生まれた。
やがて由布姫は身ごもり、父の仇:晴信との間に子を設けた。
諏訪四郎(後、武田勝頼)であった。

しかし、その後に病にかかった。

・弘治元年(1555)説・・
由布姫は武田勝頼の成長を待つことなく25歳で没した。



★明日は、・・・武田信玄を時代ごとにだいたい追っている
ので、上田平の戦いか?そうすると、真田に行き当たる。

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