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zoom RSS 箕輪初心:生方▲諏訪:有賀城:鎌倉街道を守る城

<<   作成日時 : 2016/03/17 15:05   >>

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諏訪:有賀城は長野県諏訪市豊田にあった城である。有賀城は諏訪湖
の南西岸の江音寺の裏の尾根先端を使った城である。鎌倉時代から
鎌倉街道の有賀峠の要衝を押さえる城で、諏訪湖沿岸から高遠を経
て伊那谷へと抜ける有賀峠の入り口に当たる交通の要衝である。諏
訪一族の有賀氏が築城した。
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◆訪問日・・・平成22年(2010)3月29日
諏訪中央病院に中ちゃんの怪我見舞い・・・・
上原城、桑原城・高島城(2回)は既に行っていた。
鬼場城→干沢城→粟沢城→有賀城→大熊城→諏訪大社上宮前社
→守矢資料館(寄っただけ)→神宮寺・法華寺・上社本宮
→小坂城遠望→花岡城→高尾山城遠望・・・和田峠・・・
群馬に帰った。

●江音寺に車を停めた。
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●鎌倉街道・・・農道はかつての鎌倉街道だったという。
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●登り口・・・江音寺の赤い屋根が目印。
  有賀峠に面した有賀城・・・・
●丹波屋敷
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 江戸時代の諏訪氏の家老:千野丹波守の館跡(丹波屋敷)
江音寺墓所脇の畑は「丹波屋敷」あったと言われている。 

●谷戸の坂を10分程登る。・・・
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 道なりにつづら折の急坂を登る。

●堀切1・・・大きい。
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  ★歓喜・・・。
●堀切2

●堀切3 

●5の郭・・・馬出し?
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●堀切4
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●4の郭
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●3の郭


●2の郭
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●横堀
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●堀切
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●1の郭=主郭の虎口
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主郭は整備されている。
 土塁・・・石積みがある。
 神氏:有賀氏と関連があるのかも・・・?
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★主郭からの諏訪湖の眺めもいい。
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●主郭北東に伸びる尾根には数段の削平地がある。
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 堀切・・・竪堀。
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●案内板
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▼江音寺に戻った。


◆ 有賀城の歴史 ◆
・鎌倉時代   築城時期は不明である。
    諏訪氏の一族である有賀氏が築き、代々居城とした。






・天文11年(1542)
 6月 武田晴信は諏訪惣領家:諏訪頼重を討った。
  諏訪領は武田晴信と高遠頼継に分割された。
  高遠頼継は西半分を支配していた。

7月2日 高遠頼継は武田晴信の取った諏訪(東半分)に侵攻し、
    諏訪頼重の本拠上原城(長野県諏訪市)へ攻撃した。

7月21日 諏訪頼重は甲府へ護送され自刃した。
    (『高白斎記』・『守矢頼真書留』)。
  ★諏訪頼重の母は武田信虎の3女・・・つまり、武田晴信の
妹婿であった。

9月 高遠頼継は諏訪氏惣領の座を狙っていた。
   つまり、諏訪惣領家乗っ取りである。
   高遠頼継は伊那郡福与城の藤沢頼親らと武田領諏訪へ侵攻
    した。
   有賀氏ら諏訪西方衆は諏訪頼重の近習衆と争いとなり、
   合戦寸前となったが、福与城主・藤沢頼親の取成しで調停
   された。
小坂氏は高遠頼継の野心を嫌って、武田晴信に組した。
●有賀備前守昌武は武田晴信(信玄)に味方した。
(★『高白斎記』)


9月25日 安国寺門前の戦い
  高遠頼継は諏訪宮川端において武田晴信に敗退し、諏訪から
  退去した
(★『高白斎記』)

 諏訪の真志野城(真志野氏)・有賀城(有賀氏)と岡谷の小坂城
 (小坂氏)・花岡城(花岡氏)・高尾山城(三沢氏)・諏訪神社
 上社の社家:「権祝(ごんのほうり)」は矢島城(矢島)を拠
 点とした「諏訪西方衆」が結成させた。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・天文13年(1544) 10月28日 高遠頼継との諏訪をめぐる抗争
「在(有)賀へ酉刻御着陣」
武田晴信は、酉の刻(暮六つ=午後6時)諏訪の南西部の有賀城に
 着陣された。
   (★『高白斎記』)
杖突峠から高遠へ到る道筋である。





・天文17年(1548) 2月、上田原の戦い
武田晴信が敗れた。
4月5日 信濃守護:小笠原長時は、好機到来と見て、
  安曇郡の仁科盛能と連合して諏訪に攻め入った。
  諏訪大社下社へ攻め込み放火した。
  諏訪下社を占領した。
 
  武田晴信は板垣信方・甘利虎泰などを失っていたので、軍の再編成
  が急務であり、村上軍・小笠原軍の南下を抑えられなかった。

4月?日 小笠原長時・村上義清や仁科盛能、藤沢頼親らと諏訪郡
     へ侵攻する
     (★「神使御頭之日記」:守矢頼真著)
★村上義清が諏訪下社を攻めたかどうか不明である。

6月10日 小笠原長時は再び塩尻峠を越えて諏訪大社下社に討ち
 入った。
 しかし、下社の配下・地下人たちに反撃された。

6月中旬 小笠原長時は諏訪西方衆らを迎合して諏訪侵攻
     を行った。
   (★「神使御頭之日記」:守矢頼真著)

7月10日 小笠原長時は武田家に臣従していた岡谷の三沢氏・花岡氏、
 小坂氏・有賀氏・諏訪矢島氏の「諏訪西方衆」に内通した。
 「諏訪西方衆」は小笠原長時の傘下になった。
 諏訪西方衆は諏訪郡宮川以西の西方衆と呼ばれる諏訪神家の一族
 で矢島満清(諏訪上社本宮の三之鳥居)、花岡(諏訪湖の取水口の
 山上)小坂(花岡南東)らが、小笠原長時に通じ、 反旗を翻した。
南の有賀城などの攻撃態勢に入った。


 そのため、武田方の神長官:守矢頼真や有賀城:千野靱負尉
 (ゆきえのじょう)らは 上原城へ 逃げ込んだ。
 (★神使御頭之日記:守矢頼真著)
★有賀城:千野靱負尉(ゆきえのじょう)、本当は大熊城:
  千野靱負尉(ゆきえのじょう)であろう。
  

7月11日 小笠原長時は花岡・矢嶋・小坂の応援するため塩尻峠へ
 出陣した。小笠原長時は諏訪郡代・板垣信方を失ってしまって、動揺
 の激しい上諏訪に押し寄せた。
武田晴信に知らせが入った。 
  武田晴信は反乱の情報が甲府に届くとすぐに出馬した。
  @武田晴信は甲斐の大井森(現北杜市長坂町)に軍勢を集結させた。
  しかし、軍事指揮権の両輪を失った武田晴信は動こうとしなかった。
先の上田原の戦いの敗戦が尾を引いていた?
「風林火山」作戦だったのかもしれない?
  A小笠原長時軍は兵力的にも戦況でも優位にあったが、小笠原長時
   は武田晴信に対抗するための寄せ集め軍団で結束力が難しかった
  途中、小笠原長時の舅:仁科盛能が作戦方針をめぐって小笠原長時
  と対立して軍を率いて退去した。
  家老:山家氏や三村氏などの武将らは武田晴信の調略で内応した。
三村駿河守長親の離反は小笠原長時の大敗の原因となった。

小笠原軍は内部分裂で塩尻峠まで撤退せざるを得なかった。

  武田晴信の行動は慎重で18日まで甲斐に留まっていた。
本来なら甲府〜諏訪までは2日間あれば行ける。
  8日もかかっても来ないので、小笠原方が油断していた。
 

7月18日 武田晴信がようやく軍勢を動かした。  
  大井の森(現北杜市長坂町)より上原城に入った。
  深夜、上原城を密かにを発った。
武田晴信は奇襲を敢行した。

  
7月19日 塩尻峠の戦い=塩尻:勝弦峠〜桔梗ケ原の戦い
 未明、武田晴信は「風林火山」のごとく隠密裏に軍を移動させた。
 塩尻峠の嶺上にいる小笠原軍5000余を急襲した。
 小笠原軍勢は昨日まで甲斐にいた武田軍が、まさか来襲するとは
思ってもいなかった。
 小笠原軍は寝込みを襲われ、完全に意表を突かれた。  
 不意をつかれた小笠原勢は具足も満足につける間もなく、散々に
 打ち負かされた。
 しかし、小笠原長時は崩れかかる自軍を立て直して防戦につとめた。
 小笠原長時と埴原・桐原ら旗本衆は狭い峠道を強引に攻め登ろうと
 する武田軍を押し返した。
 当然、武田晴信に反旗を翻したかつての花岡・矢嶋・小坂ら「諏訪
 西方衆」も加わっていた。
 武田晴信は同母弟:武田信繁に別働隊を与えて勝弦峠越えで小笠
 原軍の背後に移動させた。そして、小笠原軍の背を急襲させた。
 また、武田晴信に内応の約束を交していた西牧・三村・山家らも
 小笠原勢の後方にいて、背後から襲いかかったのである。 
 はさみ撃ちにされた小笠原軍は総崩れとなった。
   (★小和田哲男)
結局、小笠原軍は将兵1000余人が戦死した。
 小笠原長時の家老:村井氏は村井館(=小屋城館)を拠点に府中の
 防衛拠点としていたが、塩尻峠の村井氏は討ち死にした。
小笠原長時は居城の林城に逃走した。
武田軍は府中:松本へ侵入し、林城付近を焼き払い引き上げた。

小笠原長時は敗戦の傷跡は深かった。武田晴信に恐怖心を抱いた。

 武田晴信は小笠原長時に大勝。武田氏は再び優位を回復した。
★武田晴信は上田原の大敗を塩尻峠の大勝で埋め合わせることに
 なり、本人自身、少し自信を回復した。

小笠原長時が大敗北し、小坂城・花岡城・高尾山城も廃城となった。

有賀氏ら「諏訪西方衆」武田氏に対する叛乱に加担して没落した。 
●諏訪氏の一族:千野山城入道も反武田に身を投じて没落、
しかし、千野一族:千野靭負尉は武田晴信に味方していた。

「鬼美濃」こと原美濃守虎胤が有賀城に入った。


10月  原虎胤は小笠原氏の残党への押さえとして、平瀬城将に
 任じられた?


・天文18年(1549) 千野靭負尉が有賀城を与えられた。
 千野氏が居城とした。
 武田に与して諏訪の安定化に心がけた。

・天文22年(1553) 第一次川中島合戦
 千野靭負尉は先方衆として、八幡の合戦で負傷した。

・弘治3年(1557) 第三次川中島合戦
千野靭負尉は先方衆として、長尾政虎(上杉謙信)軍の裏を
  ついて北安曇郡へ侵攻した。

〜〜〜諏訪頼水〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
3月 徳川家康配下とした諏訪頼水は父:頼忠と共に従軍した。
7月5日 小田原城開城
 徳川家康が関東に移封。
 諏訪頼忠父子は諏訪を後にし、武蔵国奈良梨に入った。
・天正20年(1592) 上野国総社へ移封された。蒼海城主になった。
  諏訪頼忠から家督を譲られた。
・慶長5年(1600)、関ヶ原の戦い
  諏訪頼水は徳川秀忠軍に従った。
第二次上田合戦・・・
真田昌幸に敗北。
  徳川秀忠から信濃国や上野国の守備を命じられた。
  
  →井伊直政が高崎藩の井伊直政が近江:佐和山城に移封された。
  諏訪頼水が城番として高崎城に入城した。
  
・慶長6年(1601) 10月 諏訪頼水は信濃:高島藩=先祖の地に戻った。
  関ヶ原の戦いの功績により、高島2万7,000石へ復帰を許された。
  高崎城は3年間、城主が不在であった。
●千野丹波守房清が諏訪頼水について来た。
  そして、「丹波屋敷」を有賀城の麓に構えた。
(江音寺の墓地脇の畑)
千野頼房は江音寺を建立した
    寺の裏手には千野家の墓所がある。
※有賀城はこの頃にはすでに機能停止していたであろう。


 

◆参考文献
・現地解説板
・岡谷市史
・「日本城郭大系」:新人物往来社
・『図解 山城探訪』:宮坂武雄著
・「信州の山城」:信濃史学会編
・真田三代:平山優著
・真田四代:丸島和洋著
・「戦史ドキュメント 川中島の戦い」:平山優著
・武田信玄の本など・・・・

◆参考サイト
・ウィキペディア






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