城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心生方▲真田丸71【諏訪上社前宮〜上社本宮&「信長と光秀&真田信繁?因縁の法華寺」

<<   作成日時 : 2016/03/16 06:50   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

戦国時代、諏訪大社上社前宮には大祝諏訪頼重が居館として住んで
いた。前宮&本宮1,5kmの間には神長官神:守矢頼真、本宮の前の
神宮寺には諏訪一族分流:矢島満清が住んでいた。天文11年
(1542)武田晴信が諏訪攻略に成功してから諏訪大社を手厚く保護
した。真田丸第4話で、天正10年(1582)3月法華寺で、瞬間湯
沸かし器で虐待偏執狂?の織田信長は明智光秀をいじめていた。
真田信繁は法華寺でのいじめシーンを見ていた。
その時はどこ
の法華寺か分からなかったが、昨日、諏訪大社上社本宮の隣の
法華寺であったのが分かった。「本能寺の変」は明智光秀の堪
忍袋の緒が切れた結果なのだろう。

画像




【1】諏訪大社上社前宮・・・長野県茅野市宮川2030
上社大祝(おおほうり):諏訪氏(神氏)の居館
 諏訪頼重も住んでいた。
画像

画像

画像

画像

・古代〜 諏訪氏は上社の大祝を代々務めた。
・中世  大祝を中心として武士団化した。
・室町時代 上諏訪の祭政の権を握っていたが
      兵馬の惣領家・祭祀の大祝家に分かれた。
      のち惣領家に統一された。
詰め城は上原城かな?



【2】神長官:守矢家・・・長野県茅野市宮川389-1
1)神長官守矢史料館
  @守矢家の文書を保管・公開。
A武田信玄の古文書も展示。
B武田信昌、武田信縄、村上義清、真田昌幸の文書もある。

2)看板
  天文11年、9月24日 守矢頼真は祈祷殿に籠もって、武田晴信
  の戦勝祈願をした。

3)大祝諏訪氏墓所
  諏訪大社大祝を務めた諏訪氏の墓所を頼岳寺から移転した。

4)上社五官
@神長官(じんちょうかん)守矢氏・・・上社五官の筆頭。
A禰宜(ねぎ)大夫:小出氏
B権祝(ごんのほうり):矢島氏・・・居館は諏訪市中洲神宮寺。
C擬祝(ぎのほうり):小出氏→伊藤氏
D副祝(そいのほうり):守矢氏



【3】諏訪大社上社本宮 諏訪市中洲宮山1


神宮寺=武居城・・・
・鎌倉時代・・・諏方五郎時重が築城した。
・戦国時代・・・諏訪一族:手島満清の関係した居館?
画像

画像



鷺峰山法華寺・・・諏訪市中洲宮寺856

・平安時代 天台宗
・鎌倉時代 臨済宗妙心寺派
・天文10年(1582)
3月  織田信忠軍は武田勝頼攻略のため信濃に攻め込んだ。
  高遠の仁科盛信を攻略したのちに、諏訪に侵攻。
  諏訪大社上社本宮はこの時に焼き討ちにあった。
3月19日 織田信長はに諏訪入りし、本宮隣の法華寺に本陣を
  置いた。
  論功行賞を行った。
織田信長の明智光秀への仕打ち・・・→本能寺の変へ
4月2日まで 法華寺滞在していた。
  

●吉良上野介の養嗣子:吉良義周の墓
 本堂の裏には赤穂浪士で有名な吉良上野介義央の養嗣子:義周の
お墓がある。
画像

画像

・元禄15年(1702)12月14日 赤穂浪士討ち入り
吉良義周は手傷を負った。
・元禄16年(1703) 吉良義周は幕府の評定所に呼び出され、仕方不届
として、咎めを受けて領地を没収された。諏訪高島藩にお預け 
  の身となった。・・・高島城南の丸に幽閉された。
・宝永3年(1706) 病気のため死去。
諏訪家は吉良義周に対して儀礼を尽くした。

・松平忠輝・・・諏訪の地は処罰者の流刑の地だった。


●山門
平成11年7月放火・・・本堂をはじめ建物が失われた。
  残ったのはこの山門だけだった。
画像



●鳥居
画像


画像

●「上社本宮」
・入口御門・・・文政12年(1830)再建。
画像


入口御門から、かつては大祝しか通行できなかったという長廊
 を通る。
・回廊・・・約70m。
画像

  左は木々に覆われた御神域で奥に神体山である。
  回廊を抜けると急に明るくなり、広々としてくる。
・参拝所
・御宝殿
画像

・片拝殿
画像


●山門
画像


●案内板
画像


●門前町






◆ 上社の歴史
・古代〜 
   皇族・武将の信仰が厚かった。

・天正10年(1582) 織田信長の諏訪侵攻。
  織田信忠の兵火のため、神輿は以外は焼失した。
・慶長13年(1608) 徳川家康が大久保石見守長安に命じ、国家の
安泰を祈願して四脚門(勅使門)を造営寄進した。
・元和3年(1617) 社殿が完成した。
・天保2年から9年(1838) 社殿が建築された。〜現在まで
 幣拝殿と片拝殿のみで本殿を持たない、諏訪造りという様式
 だそうである。
・現在 6棟は国重要文化財。指定
    貴重な建造物が数多く残っている。
    全国1万有余の諏訪神社の総本社である。



◆◆ 武田晴信→織田信長の諏訪侵攻 ◆◆

・天文11年(1542)
 6月 武田晴信は諏訪惣領家:諏訪頼重を討った。
  諏訪領は武田晴信と高遠頼継に分割された。
  高遠頼継は西半分を支配していた。
7月2日 高遠頼継は武田晴信の取った諏訪に侵攻した。
    諏訪頼重の本拠上原城(長野県諏訪市)へ侵攻した。

7月21日 諏訪頼重は甲府へ護送され自刃した。
    (『高白斎記』・『守矢頼真書留』)。
  ★諏訪頼重の母は武田信虎の3女・・・つまり、武田晴信の
妹婿であった。

9月 高遠頼継は諏訪氏惣領の座を狙っていた。
   つまり、諏訪惣領家乗っ取りである。
   高遠頼継は伊那郡福与城の藤沢頼親らと武田領諏訪へ侵攻
    した。
小坂氏は高遠頼継の野心を嫌って、武田晴信に組した。

9月25日 安国寺門前の戦い
  諏訪宮川端において武田方に敗退し、諏訪から退去した
   (★『高白斎記』)
  諏訪の真志野城(真志野氏)・有賀城(有賀氏)と岡谷の小坂城
 (小坂氏)・花岡城(花岡氏)・高尾山城(三沢氏)・諏訪神社
 上社の社家:「権祝(ごんのほうり)」は矢島城(矢島)を拠
 点とした「諏訪西方衆」が結成させた。


・天文17年(1548) 2月、上田原の戦い
武田晴信が敗れた。
4月5日 信濃守護:小笠原長時は、好機到来と見て、
  安曇郡の仁科盛能と連合して諏訪に攻め入った。
  諏訪大社下社へ攻め込み放火した。
  諏訪下社を占領した。
 
  武田晴信は板垣信方・甘利虎泰などを失っていたので、軍の再編成
  が急務であり、村上軍・小笠原軍の南下を抑えられなかった。

4月?日 小笠原長時・村上義清や仁科盛能、藤沢頼親らと諏訪郡
     へ侵攻する
     (★「神使御頭之日記」:守矢頼真著)
★村上義清が諏訪下社を攻めたかどうか不明である。

6月10日 小笠原長時は再び塩尻峠を越えて諏訪大社下社に討ち
 入った。
 しかし、下社の配下・地下人たちに反撃された。

6月中旬 小笠原長時は諏訪西方衆らを迎合して諏訪侵攻
     を行った。
   (★「神使御頭之日記」:守矢頼真著)

7月10日 小笠原長時は武田家に臣従していた岡谷の三沢氏・花岡氏、
 小坂氏・有賀氏・諏訪矢島氏の「諏訪西方衆」に内通した。
 「諏訪西方衆」は小笠原長時の傘下になった。
 諏訪西方衆は諏訪郡宮川以西の西方衆と呼ばれる諏訪神家の一族
 で矢島満清(諏訪上社本宮の三之鳥居・神宮寺)、花岡(諏訪釜口
 の山上)小坂(花岡南東)らが、小笠原長時に通じ、反旗を翻した。
 
 南の有賀城などの攻撃態勢に入った。
 そのため、武田方の神長官:守矢頼真や有賀城:千野靱負尉
(ゆきえのじょう)らは 上原城へ 逃げ込んだ。
 (★神使御頭之日記:守矢頼真著)  

7月11日 小笠原長時は花岡・矢嶋・小坂の応援するため塩尻峠へ
 出陣した。小笠原長時は諏訪郡代・板垣信方を失ってしまって、動揺
 の激しい上諏訪に押し寄せた。
武田晴信に知らせが入った。 
  武田晴信は反乱の情報が甲府に届くとすぐに出馬した。
  @武田晴信は甲斐の大井森(現北杜市長坂町)に軍勢を集結させた。
  しかし、軍事指揮権の両輪を失った武田晴信は動こうとしなかった。
先の上田原の戦いの敗戦が尾を引いていた?
「風林火山」作戦だったのかもしれない?
  A小笠原長時軍は兵力的にも戦況でも優位にあったが、小笠原長時
   は武田晴信に対抗するための寄せ集め軍団で結束力が難しかった
  途中、小笠原長時の舅:仁科盛能が作戦方針をめぐって小笠原長時
  と対立して軍を率いて退去した。
  家老:山家氏や三村氏などの武将らは武田晴信の調略で内応した。
三村駿河守長親の離反は小笠原長時の大敗の原因となった。

小笠原軍は内部分裂で塩尻峠まで撤退せざるを得なかった。

  武田晴信の行動は慎重で18日まで甲斐に留まっていた。
本来なら甲府〜諏訪までは2日間あれば行ける。
  8日もかかっても来ないので、小笠原方が油断していた。
 

7月18日 武田晴信がようやく軍勢を動かした。  
  大井の森(現北杜市長坂町)より上原城に入った。
  深夜、上原城を密かにを発った。
武田晴信は奇襲を敢行した。

  
7月19日 塩尻峠の戦い=塩尻:勝弦峠〜桔梗ケ原の戦い
 未明、武田晴信は「風林火山」のごとく隠密裏に軍を移動させた。
 塩尻峠の嶺上にいる小笠原軍5000余を急襲した。
 小笠原軍勢は昨日まで甲斐にいた武田軍が、まさか来襲するとは
思ってもいなかった。
 小笠原軍は寝込みを襲われ、完全に意表を突かれた。  
 不意をつかれた小笠原勢は具足も満足につける間もなく、散々に
 打ち負かされた。
 しかし、小笠原長時は崩れかかる自軍を立て直して防戦につとめた。
 小笠原長時と埴原・桐原ら旗本衆は狭い峠道を強引に攻め登ろうと
 する武田軍を押し返した。
 当然、武田晴信に反旗を翻したかつての花岡・矢嶋・小坂ら「諏訪
 西方衆」も加わっていた。
 武田晴信は同母弟:武田信繁に別働隊を与えて勝弦峠越えで小笠
 原軍の背後に移動させた。そして、小笠原軍の背を急襲させた。
 また、武田晴信に内応の約束を交していた西牧・三村・山家らも
 小笠原勢の後方にいて、背後から襲いかかったのである。 
 はさみ撃ちにされた小笠原軍は総崩れとなった。
   (★小和田哲男)
結局、小笠原軍は将兵1000余人が戦死した。
 小笠原長時の家老:村井氏は村井館(=小屋城館)を拠点に府中の
 防衛拠点としていたが、塩尻峠の村井氏は討ち死にした。
小笠原長時は居城の林城に逃走した。
武田軍は府中:松本へ侵入し、林城付近を焼き払い引き上げた。

小笠原長時は敗戦の傷跡は深かった。武田晴信に恐怖心を抱いた。

 武田晴信は小笠原長時に大勝。武田氏は再び優位を回復した。
★武田晴信は上田原の大敗を塩尻峠の大勝で埋め合わせることに
 なり、本人自身、少し自信を回復した。

9月24日 守矢頼真は祈祷殿に籠もって、武田晴信の戦勝祈願を
 した。
(現在、武田信玄の軍旗「諏訪神号旗」は山梨県の雲峰寺、恵林寺
に保存されている。雲峰寺の旗は4回目の訪問で初めて見せていた
だいた。浅利信種直系子孫下条氏系の子孫:かみつけの里の会の
会長黒崎氏の献身的な旅行剪定の玉物であろう。でも写真も撮った
けれど、掲載はできない。何故、「国重文」だからである。
知らねえですがね?おいらも母方塚越半七の血を引くのだ。)
★凄すぎて。。

・天正10年(1582)
3月3日 織田信忠は武田討伐のため高遠城を落とした
 諏訪に入り、武田家の守護神である諏訪大社上社本宮を
 焼き討ちした。隣接する法華寺は類焼を免れた。

 織田信長の嫡男:信忠は、武田家が諏訪明神を篤く信仰し、軍旗も
 「諏訪神号旗」ため、諏訪神社上社の全てを焼き払ったのだった。

3月11日  田野で武田勝頼が自刃した。武田氏滅亡。

3月?日   織田信長は自刃報告を聞いた。

   織田信長は織田信忠が進んで来た道々で首実検をしながら
諏訪に入った。

3月19日  焼き討ちされた諏訪大社上社に隣接した法華寺に
 着陣した。


 織田信長は目と鼻の先の焼け落ちた上社をどのように
 見たのだろうか。
 焼けこげた御柱を見て、「よく、やった。」?
 ライバルの武田信玄が敬った諏訪大社が焼け焦げている様を
 眺められる隣の法華寺を陣所とした。
 織田信長らしいと言えば、織田信長らしいが・・・
 何せ、この後、伊勢長島で2万人の人間バーベキューを
 敢行する人物なのだから・・・。

以後、13日間滞在した。

法華寺・・・織田信長が本陣とした。
織田信長の滞在中、徳川家康など武田討伐に加わった多くの武将が
謁見に訪れた。また、論功行賞も行われた。






******************************
真田丸:第4話「真田VS徳川初対決〜本能寺」
★第4話は天正10年(1582)3月15日〜6月2日まで話である。
真田昌幸はついに織田信長に会えることになった。真田昌幸は真田
信繁を連れて、織田信長に会うために諏訪の法華寺にやって来た。
法華寺は下諏訪神社の一角にある。※高遠城説もあるが、偉い中
山優先生・黒田基樹先生などの法華寺説が正しいのであろう。


●法華寺
・天正10年(158293月15日、真田昌幸・信繁は織田信長に会
いに諏訪の法華寺(諏訪大社の本宮隣)に来た。徳川家康も来て
いた。


●三方ヶ原の思い出
矢沢頼綱は真田幸隆が若き武田信玄の家臣となり、真田家の地位を築いた
ことを思い出す。 幸隆も武田信玄に賭け、真田家の礎を築いた。
真田昌幸は徳川家康と戦った三方ヶ原の戦いを思い出した。
三方ヶ原の戦いでは徳川家康を追い詰め、武田軍を大勝利に導いた。
真田昌幸は武田氏の全盛期を懐かしく思い出す・・・。

真田昌幸は 武藤喜兵衛時代に
「三方原の戦い・・・真田昌幸は徳川家康を追い詰めた。
 家康は泣きわめきながら、逃げる・・・徳川家康の顔。
 今でもしっかり目に焼き付いておる。」

真田信繁は頼もしげに見ている。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★小幡一族&熊井土一族&三方原の戦
http://53922401.at.webry.info/201304/article_10.html

徳川家康は討ち死に寸前まで追い詰められ、夏目吉信や鈴木久三郎
 を身代わりにして敗走した。供は成瀬吉右衛門・日下部兵右衛門
 小栗忠蔵、島田治兵衛などのみで浜松城へ逃げ帰った。
★徳川家康は脱糞=うんこちびり伝説

※徳川家康は浜松城の全ての城門を開めさせた。篝火を焚き、空城の
 計を行った。そして、「しかみ像」を描かせた。後後の教訓にした。
 (★ビデオ「その時歴史が動いた」) 
★この日のことを忘れないように、「苦虫をかみつぶしたような顔」
を絵に描かせた。

浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は、空城の計によって、城内に突入
することなく、そのまま引き上げた。

●室賀の登場
室賀正武が到着した。
室賀は織田信忠から領土を安堵されていた。
織田氏信長に取り入ることに成功した室賀の表情には
自信がうかがえる。

室賀は昌幸の策略による「真田と上杉の嘘の密約」が書かれた
書状を信長に渡していた。
室賀は、
「命が惜しくば、ひたすら詫びるべきである。」
と上から目線で忠告する。そして得意げに去った。

室賀は、書状を信長に渡したのが自分だとは、昌幸にバレてない
と思っている。

昌幸と信繁は、室賀の器の小ささに呆れかえる。
「小さいよいのう。」

●穴山梅雪・・・★3月1日に徳川家康に寝返ったのだった。

 穴山梅雪の怯えていた。
★3月7日〜10日頃、小山田信茂は武田勝頼を裏切って織田信長
 についた。その小山田信茂が処刑された。
 今のところ、咎められてはいないが、信長の気まぐれで領地を没収
 されることもありえる。処刑されることもあるえる

法華寺内には徳川家康の姿もあった。


●諏訪の法華寺の家康の部屋
本多正信は
「真田昌幸という男も信長に呼ばれて法華寺に来ています。」
と徳川家康に告げた。

家康は「真田昌幸」という名前に聞き覚えはない。
しかし「武藤喜兵衛」という名前はしっかりと覚えていた。

●控えの間で信長との対面を待つ真田昌幸
信長への目通りはなかなか叶わない。・・・・。
法華寺には徳川家康も来るという。
昌幸は欠伸をしている。「あ〜あ。」」
★生きるか死ぬかの瀬戸際を迎えるというのに気楽な・・・
なんとも図太い神経である。

●真田信繁の境内散策
時間をもてあました信繁は折角だから、織田の備えを偵察する
ことにした。法華寺の境内をうろつき始める。

境内の一角を見ると、整然と弓が並べられている。
本多忠勝が弓の点検をしていた。
「見事な手入れだ。流石、天下の織田様だ。」と
感心した。

しかし、弓は家康の物で、点検していた武将は本多忠勝だった。
「」
そこに、一人の武将が声をかけてきた。
「そうだろう。」
目の前の男が家康と知らない信繁は、
「几帳面な手入れですね。」
と賛辞を送った。
信繁は
「真田の方がもっと工夫がある。」
と真田軍の弓も負けていないと対抗心をのぞかせる。

真田軍の弓立てには、すばやく大量の弓を運べるように車輪がつけ
てある。・・・信繁アイデアだった。

●真田昌幸&徳川家康
そこへ昌幸&矢沢三十郎綱幸がやってきた。
・・・お互いに知将同士・・・・探り合いが始まった。・・・
「真田昌幸でござる。」
「家康でござる。」
と初対面の挨拶をした。

信繁「徳川様でしたか。」
目の前にいる男が家康だと思っていなかった信繁は驚くが、
家康はそんな信繁を笑い飛ばした。
「誰と思ってはなしておられたのかな?」
「もうちょっと下の人かと・・・」
本多忠勝「無礼な・・・」
「まあまあ、・・・貫禄がないとよく言われ申す。」


●控えの間
昌幸
「信長様への貢ぎ物は何がよいでしょうか?」
家康
「信濃の馬ではどうかと・・・。」
・・・・
「三方原の戦いで、武田軍の武藤喜兵衛という侍大将に痛い目に
 あったが、その武将をしらんか?」

昌幸は
「存じませぬなあ?」
ととぼけた。
徳川家康も武藤喜兵衛=真田昌幸と分かった。
・・・顔が一致した。
「あれほどの武将・・」

●法華寺の控えの間
・織田家重臣:明智光秀がやって来た。

光秀
「信長様は蔵で茶器類を検分している最中である。
 もうしばらく、待たれよ。」

信長と対面するにはまだ時間がかかりそうだ。

●法華寺の大広間
・真田昌幸は滝川一益の案内で大広間に通された。
昌幸は下座に、信繁は廊下で待つ。

●織田信忠&徳川家康の登場
昌幸は信長の嫡男:信忠から2通の書状について聞かれること
になった。
信忠
「一方の書状では織田家に従うと言い、もう一方では上杉氏に助け
 を求めている。いったい如何なることか?申してみよ。」

昌幸
「恐れながら、その上杉宛ての文、もう一度よくお読みいただきたい。
・・・それは上杉への返書でござりまする。上杉に助けを求めたもの
ではなく、上杉が服属を迫ってまいりました。それ故、そこにはそう
かいてあります。ありがたい話だがすぐには決められぬので時間をい
ただきたいと・・・」

来た書状に対する返事だと説明したが、信忠は納得しない。

「織田につく気ならなぜきっぱりと断らなかったのか?」
と問い詰めた。

それに対し昌幸は、
「織田につくと上杉に宣言すれば、こうして自分が真田郷を空けて
いることも知れてしまいまする。留守中に上杉に攻め込まれないた
めの布石の手紙でござる。
と答えた。
信忠
「上杉を欺こうとした。そう申すか?」

昌幸
「乱世を生き抜くにはかゆおうな知恵も欠かせませぬ。四方の力の
 ある国に囲まれた、我らのようなか弱き国衆は、そこまで慎重にな
 らねば、ならぬのです。」

信忠が黙っていると、さらに昌幸は反撃に出る。
「しかるに、そのような大事な書状が上杉に届かず、なぜここにある
のか?これは真田家にとってゆゆしき一大事。かくなる上は、信長公
に上杉から守るぬいていたがかなければ困りますぞ。」
と、信忠に迫る。

昌幸の勢いに圧倒され、信忠は言葉もない。

だが、家康は、
(これは昌幸のハッタリで、書状が織田の手に渡るのは計算ずくの
 偽書だったのではないか、そもそも上杉から誘いなどなかったの
 ではないか)と疑っている。

家康
「大の戦上手である真田安房守昌幸は、上杉からも誘いが来るほどの
大物と我らに思わせようとしたのでは?」

家康は、
「上杉が本当に昌幸に誘いの手紙を出したか、ちょうど上杉の家臣
:直江兼続が来ているので、確かめてみよう。」
とかまをかけた。

家康に見抜かれていたが、
しかし昌幸は平然とした顔で・・・
「確かめたければ、確かめるがよかろう。」
と同意する。

家康
「シラを切ったうえで偽りとわかれば許されませぬぞ。もし、偽りで
あるならば、潔くここで認められよ。」


●迫る家康
昌幸
「偽りであるならば今すぐここで腹を切りましょう。しかし、真のこと
ゆえそうもいきませぬ。」

互いに視線をそらさず、両者一歩は見つめあう。
腹の探り合いが続く。

しばらくの時が流れ、ついに家康が折れた。
家康
「信忠様、とうやら、拙者の読み違いのようでございました。・・・
この書状、しんじてよろしいかと・・・。」


●本田忠勝・・・★びびる&褒める。

★家康は流石、勇名を馳せた武藤喜兵衛だと、昌幸の度胸のよさを
称賛した。

●信長との対面
昌幸がついに信長と対面を果たす時がやってきた。
信長の圧倒的な存在感=オーラに、部屋はみるみる緊張感に包まれた。
皆、頭を下げたまま・・・
言葉を待つ。
・・・長い沈黙・・・・
信長
「真田安房守か?」
昌幸はゆっくり顔をあげた。

信長はじっと昌幸を見つめ、
「よき面構えじゃ。」
と一言だけ残し、部屋を去っていった。


真田家は織田信長に仕えることが決まり、重臣:滝川一益に従う
ことになった。
ここから、真田家と滝川家との腐れ縁が始まった。

●沼田城&岩櫃城・・・めしあげ・・
そして、昌幸の思惑とは裏腹に、上野の沼田城と岩櫃城が織田氏に
没収されることになった。そじて、滝川一益の支配下におかれること
になってしまった。
昌幸は残念でたまらない。無念だが、昌幸もこれには従わざるを得な
かった。

●法華寺の庭
信繁は信長の眼の光に圧倒された印象を話した。
「思いのほか物静かな印象であったが、眼の光はまるで竜のようだ
った。」

寺の庭でそんな話を信繁と三十郎がしていると、
どこからか信長の怒鳴り声が聞こえてきた。

●信長の折檻・・・明智
駆けつけてみると、明智光秀が信長に折檻されている。
欄干に打ち付けられてい。しかし、誰もとめられない。
あまりのむごさに信繁も周りにいた家臣たちも一歩も動けない
でいた。
やがて、信長は血まみれの光秀を残し去っていった。

3月?日 戦勝祝いの席

明智光秀は武田信玄・武田勝頼と強敵であった武田家を滅ぼした
安堵からか、
「これで私も骨を折った甲斐があった。」
と言った。
特別なことを言ってはいないのであるが、この言葉を聞いた信長は
(滅ぼしたのは光秀一人の力だと。・・・信忠の手柄じゃあ。)
と解釈し、信長は
「お前ごときが何をしたというのだ!」 
激怒!
明智光秀は、居並ぶ諸将の前で、殴られ、蹴られ、投げ飛ばされ、
欄干に頭を押し付けられた。・・・光秀はボッコボッコにされた。
・・・本能寺の発端の一因にもなったという。

★「その時、歴史が動いた。」のかもしれない。 
※真田丸では、明智光秀が織田信長に罵倒折檻される場面を、
真田信繁&矢沢三十郎が見ていた。
徳川家康も明智光秀が辱めを受けた場に同席していた。
現場に居合わせた諸将も手が出せず。
「明日はわが身か?」
とドキドキだった?


●真田の郷に戻った昌幸。
「・・・まずは喜べ・・・」
織田の安土城に人質を出すことになった。
昌幸は
「馬場様(とり)を差し出すつもりだ。」
と話をした。

しかし¥、信繁はこれに反対。
「父上、密偵役もできる松がふさわしいかと思いまする。」
と言い出した。


しかし、本当の理由はそれではなかった。
(松の付き人に茂誠を紛れ込ませ、昌幸から隠そう)
と考えたのだ。


昌幸
「・・・・・・」

●馬献上・・★さなだ馬・・・

真田昌幸の母人質説は3説ある
@6月??日 「真田丸」での滝川一益の人質
  沼田→箕輪→小諸→木曽義昌の人質→
   徳川家康の人質・・・翌年、返された説
@6月20日 真田昌幸が箕輪城で人質に出した説
A6月21日 依田信蕃が依田康国・昌幸母を人質に
  に出した説など・・・・



4月2日、織田信長は法華寺を発ち甲府へ向かった。


(4月9日、実際には織田信長から真田昌幸にお礼の手紙が
届いた、}

●安土城
5月末、松は人質として安土城に入った。

荷物運びの家来集の中には茂誠がいた。
・・
「しばらく。ここへ・・セミナリオ・・」

  
6月2日 本能寺の変
  法華寺で折檻した明智光秀によって僅か2ヶ月後に命を落とした。
 
 ★諏訪明神の神罰と、織田信長に殺された人々の怨念か?
神罰・仏罰の類は論外だが、・・・・。
いずれにしても諏訪上社には、現近畿・中部(愛知・静岡・
 岐阜)&関東(現山梨・信濃)など名だたる武将・織田信長
・織田信忠・明智光秀・徳川家康・・・そして、真田昌幸&
 真田信繁などが集まっていた場所だったのだ。


・慶長13年(1608) 徳川家康が大久保石見守長安に命じ、国家の
安泰を祈願して四脚門(勅使門)を造営寄進した。
徳川家康は26年前、明智光秀が辱めを受けた法華寺にいた。
 天下を取った今、どのような思いで四脚門を造らせ、また、ど
んな思いで完成の報告を受けたのか?
真田丸では、寺社の再建や墓の整備に尽力して、武田遺臣の
気を引こうとした徳川家康の姿が映し出されていた。


★明日は、有賀城かな?

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心生方▲真田丸71【諏訪上社前宮〜上社本宮&「信長と光秀&真田信繁?因縁の法華寺」 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる