城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心生方▲真田●69【林城】:小笠原長時の生涯詳細版

<<   作成日時 : 2016/03/13 08:52   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

★5年前の3,11に1分間、黙祷をした。
・天文14年(1545) 武田晴信は伊那郡へ出兵。4月17日に武田勢は
高遠頼継の高遠城を陥落させる。さらに、小笠原長時の娘婿:福与
城の福与頼親を攻撃。小笠原長時は龍ヶ崎城(辰野町)で武田晴信
に対抗した。武田勢は甲斐や今川・北条の援軍を得て、6月1日、
武田晴信の家臣:板垣信方が龍ヶ崎城を陥落させた。小笠原長時は
敗退した。武田晴信は上伊那を制圧すると佐久侵攻を進め、小県郡
の有力国衆である村上義清と対立した。
画像



◆訪問日・・・?
画像

画像

画像


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

箕輪初心★小笠原長時の波乱の人生&会津
http://53922401.at.webry.info/201304/article_27.html

箕輪初心★会津:新島八重ゆかりの地を巡る旅
http://53922401.at.webry.info/201304/article_21.html
★会津の大龍寺:新島八重の先祖が眠る山本家の菩堤寺
信濃:松本の林城(松本深志城は支城)の小笠原長時の墓もあった。

箕輪初心■世界遺産:小笠原@「歴史」
http://53922401.at.webry.info/201108/article_18.html
信濃小笠原長時→3男:貞慶→本家:秀政の弟:忠知吉田城
 →長政→長氏→小笠原宗長弟:小笠原長頼
・・・・三河吉田藩主:忠知系小笠原家3代目。小笠原長矩が別名。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




【1】林城・・・ (左は林大城・右は林小城。簑型である。)
画像

 左は林城大城・右は林城小城

 (林城の本郭)
※松本城=深志城は林城の支城に過ぎなかった。
回りに家老クラスの城があった。
@南・・・埴原城=第一家老:埴原の館&砦はでかい。
村井館(=小屋城館)
      さらに先に娘婿の福与城
A東・・・・桐原城(家老)・山家城(家老)・・美ヶ原
B北東〜北・・・早落城・井深砦など
C北西・・・犬甘城・井川館・早P城
D西・・・・蟻ヶ崎城(アルプス公園)・深志城(坂西氏)
さらに、中塔城(仁木氏:安曇野市)
E南西・・・洗馬城(家老:三村駿河守長親)




【1】小笠原長時1『信濃時代』
・永正11年(1514) 10月23日
小笠原長時は生まれた。
父:小笠原長棟、母:浦野弾正忠の娘
※村上義清は正室:小笠原長棟の娘&側室:高梨澄頼の娘
つまり、小笠原長時と村上義清は義兄弟である

・大永6年(1526) 11月5日、13歳で元服した。

 武田晴信(信玄)は信濃侵攻を開始する。

・天文10年(1541) 父:小笠原長棟が出家した。
小笠原長時は家督を継いだ。
※小笠原長棟〜長時は守護大名から戦国大名への道を歩んだ

・天文11年(1542) 小笠原長棟の死去。


・天文14年(1545)
 4月11日、武田晴信が伊那の高遠に向かって出陣。
  武田晴信は高遠頼継・藤沢頼親の討伐を行うため伊那郡へ
向かった。
4月17日 高遠城主:高遠(諏訪)頼継は 降参した。
4月20日  福与城:藤沢頼親を攻めた。
    福与城は堅城のため陥れるのに時間がかかっていた。
    府中小笠原長時が娘婿:藤沢頼親救援のため出陣し、竜ヶ崎城
    (辰野町)に入った。武田軍の背後に迫った。

5月22日 今川義元、北条氏康の出した援兵各300人が到着した。
6月1日、板垣信方の軍が 竜ヶ崎城(辰野町)を陥れた。
6月10日 藤沢頼親も和議に応じた。
6月11日 藤沢頼親は弟を人質に提供して晴信に降服 した。
6月13日 武田軍は箕輪を発って塩尻に兵を進めた。
6月14日・15日には桔梗ヶ原に押し出た。
      小笠原氏の本城:林城の近くまで侵入した。
     林城周辺を焼き払った。
6月17日 武田晴信は甲府へ帰った。

天文14年頃には上伊那地方はほとんど武田氏の勢力下に入り、府中へ
 も侵入したのであった。


・天文17年(1548) 武田晴信(信玄)信濃に侵攻。
  小県郡上田原の戦い・・・
   村上義清 YS 武田晴信
   村上義清は武田勢を撃破。

  村上義清や仁科氏、藤沢頼親らと諏訪郡へ侵攻。

*天文17年(1548) 上田原合戦
2月14日、武田晴信と村上義清による上田原合戦が起き、地
元情報を持っている真田幸隆が武田晴信の作戦に深く関わったの
であろう。しかし、武田晴信の重臣:板垣信方・甘利虎泰・初鹿
野伝右衛門、才間河内らが戦死した。武田晴信本人も負傷し、武
田方は村上方に大敗退した。

3月6日 武田晴信は甲府に帰還した。
3ヶ月の湯村温泉での療養

●武田晴信が 上田原の戦いにおいて村上義清に敗れると、武田の占
領地 には、大きな動揺が起きた。
上田原の戦いから1ヶ月後、小笠原長時は村上義清らと呼応した。

4月5日  村上義清の軍が武田領の佐久郡に逆侵攻し、内山城を焼き
   討ちした。
4月5日 信濃守護:小笠原長時は、好機到来と見て、
  安曇郡の仁科盛能と連合して諏訪に攻め入った。
  諏訪大社下社へ攻め込み放火した。、諏訪下社を占領した。
 
  武田晴信は板垣信方・甘利虎泰などを失っていたので、軍の再編成
  が急務であり、村上軍・小笠原軍の南下を抑えられなかった。

4月?日 小笠原長時・村上義清や仁科盛能、藤沢頼親らと諏訪郡
     へ侵攻する
     (★「神使御頭之日記」:守矢頼真著)
★村上義清が諏訪下社を攻めたかどうか不明である。

6月10日 小笠原長時は再び塩尻峠を越えて諏訪大社下社に討ち入った。
  しかし、下社の配下・地下人たちに反撃された。


6月中旬 小笠原長時は諏訪西方衆らを迎合して諏訪侵攻
     を行った。
     (★「神使御頭之日記」:守矢頼真著)
7月10日 小笠原長時は武田家に臣従していた花岡氏や矢島満清ら
 諏訪西方衆を寝返らせた。
 諏訪西方衆は諏訪郡宮川以西の西方衆と呼ばれる諏訪神家の一族
 で矢嶋(諏訪上社本宮の三之鳥居)、花岡(諏訪湖の取水口の
山上)小坂(花岡南東)らが、小笠原長時に通じ、 反旗を翻した。
南の有賀城などの攻撃態勢に入った。

そのため、武田方の神長官:守矢頼真や有賀城:千野靱負尉
 (ゆきえのじょう)らは 上原城へ 逃げ込んだ。
 (★神使御頭之日記:守矢頼真著)  

7月11日 小笠原長時は花岡・矢嶋・小坂の応援するため塩尻峠へ
 出陣した。小笠原長時は諏訪郡代・板垣信方を失ってしまって、動揺
 の激しい上諏訪に押し寄せた。
武田晴信に知らせが入った。 
  武田晴信は反乱の情報が甲府に届くとすぐに出馬した。
  @武田晴信は甲斐の大井森(現北杜市長坂町)に軍勢を集結させた。
  しかし、軍事指揮権の両輪を失った武田晴信は動こうとしなかった。
先の上田原の戦いの敗戦が尾を引いていた?
「風林火山」作戦だったのかもしれない?
    A小笠原長時軍は兵力的にも戦況でも優位にあったが、小笠原長時
   は武田晴信に対抗するための寄せ集め軍団で結束力が難しかった
  途中、小笠原長時の舅:仁科盛能が作戦方針をめぐって小笠原長時
  と対立して軍を率いて退去した。
  家老:山家氏や三村氏などの武将らは武田晴信の調略で内応した。
三村駿河守長親の離反は小笠原長時の大敗の原因となった。

小笠原軍は内部分裂で塩尻峠まで撤退せざるを得なかった。

  武田晴信の行動は慎重で18日まで甲斐に留まっていた。
本来なら甲府〜諏訪までは2日間あれば行ける。
  8日もかかっても来ないので、小笠原方が油断していた。
 

7月18日 武田晴信がようやく軍勢を動かした。  
  大井の森(現北杜市長坂町)より上原城に入った。
  深夜、上原城を密かにを発った。
武田晴信は奇襲を敢行した。

  
7月19日 塩尻峠の戦い=塩尻:勝弦峠〜桔梗ケ原の戦い
 未明、武田晴信は「風林火山」のごとく隠密裏に軍を移動させた。
 塩尻峠の嶺上にいる小笠原軍5000余を急襲した。
 小笠原軍勢は昨日まで甲斐にいた武田軍が、まさか来襲するとは
思ってもいなかった。
 小笠原軍は寝込みを襲われ、完全に意表を突かれた。  
 不意をつかれた小笠原勢は具足も満足につける間もなく、散々に
 打ち負かされた。
 しかし、小笠原長時は崩れかかる自軍を立て直して防戦につとめた。
 小笠原長時と埴原・桐原ら旗本衆は狭い峠道を強引に攻め登ろうと
 する武田軍を押し返した。
 当然、武田晴信に反旗を翻したかつての花岡・矢嶋・小坂ら「諏訪
 西方衆」も加わっていた。
 武田晴信は同母弟:武田信繁に別働隊を与えて勝弦峠越えで小笠
 原軍の背後に移動させた。そして、小笠原軍の背を急襲させた。
 また、武田晴信に内応の約束を交していた西牧・三村・山家らも
 小笠原勢の後方にいて、背後から襲いかかったのである。 
 はさみ撃ちにされた小笠原軍は総崩れとなった。
   (★小和田哲男)
結局、小笠原軍は将兵1000余人が戦死した。
 小笠原長時の家老:村井氏は村井館(=小屋城館)を拠点に府中の
 防衛拠点としていたが、塩尻峠の村井氏は討ち死にした。
小笠原長時は居城の林城に逃走した。
武田軍は府中:松本へ侵入し、林城付近を焼き払い引き上げた。

小笠原長時は敗戦の傷跡は深かった。武田晴信に恐怖心を抱いた。

  武田晴信は小笠原長時に大勝。武田氏は再び優位を回復した。
  武田晴信は上田原の大敗をこの大勝で埋め合わせることになり、
本人自身、少し自信を回復した、。

9月6日 武田晴信は諏訪から佐久へ侵攻した。
 村上義清に従っていた前山城はじめ13の城を落とした。

9月25日 武田晴信は上原城に帰陣した。


10月2日 筑摩郡に入った。
「十月朔日癸卯二日甲辰酉刻向巳ノ方村井ノ城ノ鍬立致高白候。
  鍬五具。四日御普請初」
(★『高白斎記』)
「鍬立致高白候」
  ※読み下し文
  「鍬立高白致し候」
  ※意味・・・鍬立(地鎮祭)の儀式を高白斎=駒井政武、
  自分が行わせていただいた。

10月4日  武田晴信は村井城(松本市芳川小屋)の鍬立普請を
  指図した。

村井城は村井氏平時の館で、埴原城を詰め城としていた。
  村井氏は滅亡していたので、簡単に武田晴信のものとなった。
  小笠原長清の本城:林城からわずか1里半(実際は6km)
  程の地点であった。
  しかし、小笠原長時には築城を阻止する力はなかったのだ。
  大幅な修築を行ったものとみられる。

10月?日  武田晴信は村井城(松本市芳川小屋)を築城した。
  林城攻略の前進拠点となった。

▲小屋城=村井城・・・現在、遺構は残っていない。標柱だけである。
完全な平城である。

▲埴原氏館

▲埴原城・・・・写真は消滅してない。



・天文18年(1549)

・天文19年(1550)
・?月 京都の小笠原稙盛(秀清の父)を介して将軍:足利義輝に
  太刀・馬を献上。・・・信濃国衆への下知を約束された。

5月23日 甲斐一宮浅間神社に願文を捧げて戦勝祈願
      信濃制圧を決意した。

・7月3日 甲府を出発した。

・7月10日 武田晴信は村井城に到着。
   武田晴信(信玄)は
   「軍門に降れば本領安堵する。」
 小笠原長時は
  「小笠原は代々京都にいて武田より上だった。今さら、どうして
   武田に属せようか。」
と考えた。
加賀美遠光の子:小笠原長清系嫡流であった。
加賀美遠光の甥:武田信光系の武田晴信・・・
結局、小笠原長時は武田晴信(=信玄)に対抗した。

・7月15日
 夕刻 小笠原領の筑摩郡に侵攻した。
     林城に近い出城:埴原城を攻め取った。
     村井城に引き上げた。
画像

 深夜、武田晴信は再び出陣した。
  武田晴信は林城を攻撃した。
  
 小笠原長時は本拠林城を捨てて逃亡した。
小笠原長時は平瀬城(安曇野IC近く)に入ったが、塩田城の
 村上義清を頼ることになった。 やがて葛尾城に移った。
 宇田源氏:村上義清(正室は信濃守護・小笠原長棟の娘。
 (つまり、妹の夫)を頼って葛尾城(現千曲市)に行った

結果・・・流浪の道を選んだのだった。

 武田晴信は追撃の手をゆるめず、村井城に先陣を置いて小笠原
 一族&家老クラスの城を攻撃した。

小笠原氏の属城は大城、深志城、岡田城、桐原城、山家城
の5ヶ城が相次いで自落した。
林城・・・大城・小城
深志城・・・後、松本城
岡田城・・・伊深城
桐原城・・・(林城から美ヶ原の途中)
山家城・・・(林城から美ヶ原の途中、桐原城の先)
5城は 戦わずして城兵が逃亡した。
島立(荒井館)、 浅間(早落城)の2城は降参した。
落城・・・信濃小笠原氏は没落
  (★『高白斎記』)
   
★小笠原長時と村上義清は本格的に
 手を結んでいたら、武田信玄の侵入は無理だったのだ。

武田晴信は小笠原氏を一掃した。
林城を破却し、坂西氏の居城であった深志城を修築した。

・7月19日、深志城の鍬立式を行った。

・7月23日 深志城(現松本城)の総普請を開始した。
馬場信春が縄張りをした。

・?月?日 馬場信春・工藤(内藤)昌豊が深志城代になった。

8月 砥石崩れ
 武田晴信は上田原の戦いの雪辱を果たすべく、村上氏の支城の
 戸石城を包囲するが、村上義清の反撃を受けて再び大敗を喫した。

10月 村上義清は佐久地方に侵攻した。
    
10月21日 小笠原長時は村上義清の援助を得て平瀬城を奪還した。
  小笠原長時&村上義清は平瀬城に入った。
 ※平瀬城は松本トンネルの北に梓川に面した場所。安曇野SA反対。
  筑摩郡の小笠原氏の旧臣が結集した。
  深志城将:馬場民部少輔信房、日向大和守是吉は籠城の態勢
  を整えて甲府に知らせを送った。

10月23日 武田晴信は甲府躑躅ヶ崎館を出陣した。
  村上勢は動揺した。
  武田軍が諏訪→佐久・小県の村上領に侵攻するという噂が
  流れた。
  村上義清は平瀬城から撤退した。

11月8日村上義清は小諸城に入った。
小笠原勢も動揺した。
 武田軍出馬と村上軍離脱により旧臣諸将の脱落が相次いだ。

 小笠原長時は平瀬城を出た。
▲野々宮の合戦(松本市の野々宮神社近く)
  小笠原長時は武田の前進部隊:飯富虎昌、馬場民部信房を
破った。
  武田軍は300の戦死者を出して退却した。

 小笠原長時は中塔城(安曇野市)に立て籠もった。
 その後、小笠原長時は中塔城に半年以上?いたらい。

その後も何度か失地回復を企てたが、失敗した。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
小笠原長時の動静は明らかではない。

@中塔城(安曇野市):二木氏を頼り越後へ逃れた説
 ・天文19年(1551) 2〜3年立て籠もった。
・天文22年(1553)の大晦日の夜に中塔城を落ち延び、
草間(中野市)を経て越後春日山城主長尾景虎(上杉謙信)
を頼ったという説
(★『二木家記』)
城主の二木氏は武田氏に仕官し、武田氏滅亡後は信濃松本城
 に復帰した小笠原貞慶(長時の子)に仕えた。

 
B実弟:信濃飯田の鈴岡城:小笠原信定のもとへ逃れた説
天文21年(1552)弟の鈴岡城主小笠原信定のもとへ下り、
 天文23年(1554) 鈴岡城の落城によって没落、
 伊勢を経て上洛し、同祖の三好長慶をたよったという説
  (★『溝口家記』)


・天文21年(1552)
?月 小笠原長時は京都建仁寺に戦勝祈願の寄進をした。
6月 小笠原長時は 中塔城(安曇野市梓川近く)に籠った。
 
 武田晴信に包囲されて進退窮まっていた。
  小笠原長時もこれが最後の決戦と考えていた。
  武田晴信は小笠原長時に投降を勧めた。
  しかし、小笠原長時は拒否した。

・天文22年(1553)の大晦日の夜に中塔城を落ち延び、
草間(中野市)を経て越後春日山城主長尾景虎(上杉謙信)
を頼ったという。
(★『二木家記』)

  再興を期して中塔城を脱出し、越後の長尾景虎(上杉謙信)
  を頼り景虎に信濃進攻を懇願した。

  8月村上義清も塩田城・葛尾城を放棄し、長尾景虎(上杉謙信)
  を頼って越後に落ち延びていった。
  信濃の小笠原長清&村上義清の越後への逃亡→失地奪還・回復
   が契機となって、戦国史上、名高い上杉謙信と武田信玄によ
  る「川中島の戦い」が、繰り広げられることになる。

・天文23年(1554) 小笠原長時は嫡男:小笠原貞慶を越後に残
  して、飯田の実弟:小笠原信定のいる鈴岡城に入った。
   松尾小笠原は深志小笠原長時に対抗していたので、武田晴信
   松尾は小笠原を傘下にしていたのだった。
 
・弘治元年(1555) 鈴岡城は武田軍に攻められ落城した。

〜〜◆◆井伊直虎は井伊直政の父の婚約者だった。◆◆〜〜〜〜
※信濃の松岡城主:松岡(小笠原)貞俊が亀の丞
   (井伊直親=井伊直虎の婚約者)を12年間、庇護した・
※信濃の鈴岡城主:小笠原信定
→この2つの城はくっついている。   
・弘治元年(1555) 亀之丞、井伊谷へ帰った。
   井伊直親と名乗る。井伊直盛の養子となる。
・永禄3年(1560) 桶狭間の合戦 今川義元 VS 織田信長
  桶狭間の合戦で井伊直盛が戦死。
 井伊直盛の法名から龍泰寺を龍潭寺と改名。
 同族の奥山朝利の娘を妻にした。
  23代:井伊直親が井伊家を継いだ。
・永禄4年(1561) 2月9日 井伊直政(幼名虎松)が生まれる。
・永禄5年(1562) 井伊直親が今川氏真により呼び出され、
   遠州掛川にて朝比奈泰朝に誅殺。供18人も抹殺。
理由・・井伊直親が松平元康(徳川家康)と仲良しだった。
・・・江戸時代も小笠原家が存続の遠因に井伊直政との関わりが
関与している。
平成29年のNHK大河ドラマ「井伊直虎」に出てくるだろう。
*****井伊直政シリーズ*******************************
◆◆ 箕輪初心●箕輪城「井伊直政」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201010/article_40.html

http://53922401.at.webry.info/201011/article_25.html

◆◆ 箕輪初心●井の国千年物語前編 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_3.html

◆◆ 箕輪初心●井の国後編:「井伊直政」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_4.html

◆◆ 箕輪初心●井伊直政の箕輪城時代の家臣団 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_15.html

◆◆ 箕輪初心●静岡:井伊直政の井伊谷城 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_5.html

◆◆ 箕輪初心●井伊直政の造った町:高崎&彦根 ◆◆
高崎高校 VS 近江高校
http://53922401.at.webry.info/201203/article_28.html

◆◆ 箕輪初心●中村達夫氏の「井伊軍志」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_14.html

◆◆ 箕輪初心●小和田哲夫氏の「井伊直政」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_13.html


箕輪初心●群馬の城「和田城→高崎城」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201012/article_16.html
  (★高崎城の畝堀:発掘調査)

箕輪初心★箕輪城140【秋本太郎先生の箕輪城→高崎城+城下町】
http://53922401.at.webry.info/201410/article_9.html

箕輪初心▲箕輪城153【長野氏の箕輪の寺社→井伊直政の
高崎移転の寺社】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_15.html

箕輪初心★箕輪城103川野辺寛「高崎誌」&井伊直政
http://53922401.at.webry.info/201310/article_8.html

箕輪初心★西田美英【高崎素奈子】&川野辺寛【高崎志】
http://53922401.at.webry.info/201410/article_14.html

箕輪初心:生方▲【長野堰を語り継ぐ会の絵図展】&【高崎城の桜】
http://53922401.at.webry.info/201504/article_5.html

箕輪初心:生方「箕輪城159&【中嶋宏氏主催の長野堰を語りつぐ会
の絵図展】
http://53922401.at.webry.info/201504/article_4.html

箕輪初心:生方▲箕輪城174・井伊直政18『箕輪城→高崎城」復刻版
http://53922401.at.webry.info/201510/article_9.html


★井伊直政シリーズは18回書いている。
4月からは井伊谷の歴史・井伊直政・井伊直虎・松下嘉平・松下
景清・徳川家康などは、住んだ城・戦った場所などを紹介しながら、
井伊直政シリーズ詳細編を10回程度紹介したいと思っている。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 

小笠原長時は三河国境の新野を経て、伊勢の外宮御師:
   榎倉武国を頼った。
★新野氏は井伊直政の親戚一族である。かつて、井伊直政の
幼少の時、松尾小笠原は井伊直政をかくまっていたのだ。

・弘治元年(1555) 遠い同族の摂津国芥川城主:三好長慶を頼った。
小笠原長時は京都に上り、三好長慶のもとに寄宿した。
  三好氏は阿波小笠原氏の裔であり、三好長慶は本家筋:惣領
  家にあたる小笠原長時を丁重に迎えたものと思われる。

 三好長慶氏は、京都を制圧する勢いであった。
 小笠原長時は将軍:足利義輝の礼法指南になった。
  河内の高安に領を賜った。

※信濃では、上田の砥石崩れで2度も武田信玄に勝った村上義清で
 あったが。武田信玄の家臣:真田幸隆の砥石城調略から・・・
 葛尾城から逃亡する結果になった。
 村上義清は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼った。
 川中島の5回の戦い
  武田信玄 VS 上杉謙信
 
・永禄2年(1559)
  三好長慶の仲介で将軍義輝と対面
  足利義輝は上杉謙信に「小笠原長時の信濃復帰への助力を
  命じた。

・永禄7年(1564) 三好長慶が病死。
 
・永禄8年(1565) 松永久秀と三好三人衆が将軍義輝を暗殺した。
小笠原長時は京都の政変を避けて再び越後に下向した。
  小笠原長時は上杉謙信のもとへ移った。
  上杉謙信のもとに寓居した。


・永禄11年(1568) 織田信長の攻撃。
   三好敗戦。

・天正5年(1577) 上杉謙信が死去。
     「御館の乱」

・天正6年(1578) 小笠原長時は越後を離れた。

・天正6年(1578) 会津→久川城主:河原田氏のもとに滞在。

・天正8年(1580) 織田信長に信濃の名義上の旗頭として利用
された。織田信長の京都御馬揃えにも参加した。
織田信長に仕えていた三男:小笠原貞慶が信濃に所領を
  与えられている。

・天正10年(1582)
3月 武田氏が織田信長に滅ぼされた。 
6月 本能寺の変・・・織田信長が死亡。

会津黒川城主:蘆名盛氏の食客。

 (★城は黒川城後の会津若松城)
  ※三男:小笠原貞慶は信濃に残った。
    →弓矢=礼法の師範となった(伝)。
  蘆名盛氏の軍師として戦略面で支援も担当した(伝)。

・天正11年(1583)2月25日 会津で病死した。享年70。
小笠原長時は波瀾の生涯を閉じた。
 小笠原長時は信濃に復帰することはかなわず、流浪のまま客死
 したのである。

※会津大龍寺・・・小笠原長時の墓。
 飯盛山と武家屋敷の間に臨済宗妙心寺派の寺である。

 境内に入ると、「小笠原長時と室・息女の墓」と立札がある。
 2つの墓が小笠原長時&妻。
画像

 長時の戒名は「長時院殿麒翁正麟大居士」
 妻は「仙操院殿梅実春光大姉」 
 息女(長女or三女)は「雲霄院殿心清智浄大童女」とある。
画像

※山本覚馬&新島八重の祖先の墓もある。


★明日は、諏訪の城、茅野の城、岡谷の城か砥石崩れか?

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心生方▲真田●69【林城】:小笠原長時の生涯詳細版  城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる