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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田●66【布引観音&布引城】:望月源三郎と真田幸綱

<<   作成日時 : 2016/03/10 05:55   >>

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高速の小諸付近から見ると、千曲川が布引の岩盤で蛇行していて、
ちょっと突きだした場所である。そこが、布引古城群である。釈尊寺や
&布引観音も平時の城構造をしている。松井田城や坂本城でご一緒
させていただいた武蔵の五遁さんは釈尊寺&布引観音の裏山で新し
い城を発見=探し当てたそうである。そうすると、望月源三郎が籠も
って、武田晴信に最後まで抗戦したという説は信憑性を増してくる。
従来の、布引山:標高756m楽巌寺=布引城説は違っていることに
なる。釈尊寺&裏山の新=真布引城を中心に枡形城&楽巌寺城&
堀の内城などの布引古城群があることになる。
画像




◆参考サイト
@松井田城や坂本城でご一緒させていただいた「武蔵の五遁さん」
布引観音北尾根遺構群(1) 〜 布引城か?
http://tutinosiro.blog83.fc2.com/blog-entry-1733.html

@丹生城などをご一緒させていただいた「北緯37度さん」
布引城砦群(長野県小諸市)
http://blogs.yahoo.co.jp/xym92373/54418121.html

◆訪問日・・・
小諸市内から布引観音を目指して、県道153号を進む。
大久保地区「中山団地」バス停付近の西に向かう車道へ曲がる。

【1】布引山釈尊寺&布引観音
・布引山釈尊寺
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・岩をくりぬいた道は迫力がある。
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・布引観音
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・崖
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【2】楽巌寺城
布引観音方面に分岐する。
道なり山頂を目指し、登りきった別荘地に楽巌寺城がある。
★でも、写真が消滅。


【3】武田信繁の墓






◆◆ 布引山釈尊寺&布引山古城群の歴史 ◆◆

・神亀元年(724) 行基開山説
・天平20年(748) 行基開山説。

・天文年間(1532〜)初期? 
  楽巌寺が楽巌寺雅方によって築かれた(伝)。
  楽巌寺雅方は楽巌寺の僧で武勇に優れていた。
楽巌寺雅方・仁兵衛雅朝は望月昌頼と友好関係を結んでいた。
  村上義清の影響下にあった。 
 (★『戦史ドキュメント 川中島の戦い』平山優著)


・天文12年(1543) 武田晴信の佐久侵攻。
・9月9日、申刻、光台退治のため、千塚まで御出陣。
・10日、若神子に御着。
・12日海野口。
・15日宮ノ上。
・16日前山。
・17日御着陣。申刻、長窪の城、攻めなさる。
・19日、光台(大井貞隆)生け捕る。
・20日、望月一族生害なさる。
  (★『高白斎記』)
 
@長窪城攻め
大井貞隆の家老だった芦田守信&芦田(依田)系の相木昌朝は
 武田晴信に内応し、岩村田城:大井貞隆を降伏させた。
 相木昌朝は帰参直後から騎馬80騎持ちで田口城代に任じられた
 と言われている。
 ★つまり、この時、既に芦田&相木は独自性をもっていたかもし
  れない。相木昌朝の勢力範囲も現北相木村〜清里に及んでいた。  
 (★相木昌朝の子孫の書かれた本「相木市兵衛依田昌朝と武田信玄」
  
 しかし、大井貞隆は長窪城で反旗を翻した。
 長窪城(現長和町)を攻撃となった。
 武田晴信は諏訪から新東山道・・・和田峠を越えて・・・
武田家臣:芦田信守と相木昌朝は元主家:大井貞隆を攻撃した。
 長窪城主:大井貞隆を攻めて自害に追い込んだ。

結果・・長窪城は武田氏の御料所(直轄地)となり、長窪城は東信濃
・北信濃侵攻の前線基地として重要視された。

A望月城攻め
さらに、武田晴信は望月城を攻撃した。
望月城主:望月盛昌の子:望月昌頼は一端、布引城に避難した。
 (★『高白斎記』)。
その後、岩村田大井氏の大井高政を頼って小諸城に逃げた。
しかし、弟説?の望月源三郎(望月信雅)&望月新六は
布引城に逃げ、武田晴信に最後まで抵抗した。
『天文十二年九月二十日、望月一族為生害』と記されている。
(★『高白斎記』)



・天文13年(1544) 10月5日 
 望月昌頼が高野山蓮華定院へ書状を出し、本拠への帰住の願望を
 述べるとともに、祈願を依頼した。


・天文15年(1546)頃
望月昌頼が没。
 家督は望月一族の望月源三郎が継承した。

望月昌頼と望月源三郎・望月新六兄弟の系譜関係は不明である。
   (★平山優説) 

望月源三郎・望月新六が武田に抵抗していた。
楽巌寺雅方は望月源三郎の旗本となり楽厳寺城を築いて
居城としたという説もあるが、生活はしにくい場所である。

・天文14年(1545)
4月 武田晴信は高遠城に侵攻して高遠頼継を滅ぼした。
6月 福与城主:藤沢頼親を追放した。

7月 第2次河東一乱
   ※河東・・・静岡県駿東郡(富士川〜黄瀬川)
今川義元  VS 北条氏康 
7月下旬、今川義元は富士川を越え、善得寺に布陣。
     北条氏康も駿東郡に急行して応戦した。
B北条氏康は危機的状況になった。
 前門の虎・・今川・武田が駿河から・・
 後門の狼ライオン・・山内上杉がせっかく盗った河越城に
 挟み撃ち状態になってしまった。

9月初旬 今川軍+武田軍が合流。
  北条軍は、吉原城を放棄し三島に退却。
  今川軍は北条幻庵・葛山氏元の長久保城(駿東郡長泉町)
  を包囲した。
  河越城を包囲された。
  北条氏康は窮地に陥った。

10月下旬 武田晴信が北条・今川の仲介役として、
   停戦が成立させた。
 武田晴信が仲裁したことで両家に大きな「貸し」を作った。

11月初旬、北条氏は長久保城(静岡裾野)を今川氏に明け渡した。
  (★『高白斎記』)。
  B北条氏康は西方に安堵を得た河越城の救援に向かった
 
・天文15年(1546)
4月 河越夜戦
上杉憲政+上杉定正+古河公方 VS 北条氏康
  河越城を包囲していた関東管領:上杉憲政が北条氏康に惨敗
上野の平井城に逃げ帰った。
  上野国を中心とする上杉憲政の勢力はいまだ健在であった。

★丸島和洋説・・・上憲政を見限った。
★平山優説・・・・無事信濃に行けるのはこの時か?

*天文15年(1547)
5月 武田晴信は再び佐久郡に侵攻。
 ※武田の佐久内山城(大井貞清)攻め。
   真田幸隆が大井貞清を助命。
(★後、大井貞清は箕輪城城番→高崎根小屋城城代)



*天文16年(1548)
 ※武田の志賀城(笠原新三郎)攻め。
真田幸隆の名前がある。
 (甲陽軍鑑)
 真田幸隆が謀略により活躍。

*天文17年(1548)
2月1日  武田晴信は5000人の兵力を率い躑躅が崎から北信濃
  に向けて進軍を開始した。武田軍は上原城で板垣信方の率いる
  諏訪衆らと合流し、大門峠を越えて長窪城に入った。
  小県郡南部に侵攻した。
  村上義清は葛尾城(現千曲市)と戸石城(上田市)を拠点に陣
  を敷いた。
  村上義清はさらに岩鼻まで南下して上田平に兵を進めた。

  産川(千曲川支流)を挟んで、村上義清と武田晴信が対陣した。

 2月14日 上田原の合戦
  武田晴信 VS 村上義清
     真田幸隆は謀略で活躍。

板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿伝右衛門が討ち死にし
  敗北した。      
 →武田晴信は村上義清に敗戦。
          
 武田晴信も負傷。・・・湯村温泉で療養

 
  武田晴信を破った村上義清は佐久に侵攻した。
  反武田勢の村上勢は楽厳寺城を鍬立、改修した。
  (★『高白斎記』)。
  楽厳寺城など布引古城群は反武田氏の拠点だった。

※平山説では天文13年〜17年まで小諸城は村上義清の支配下
だった。武田晴信はいた可能性はないとしている。


・天文18年(1549)
武田信玄が東信地方に進攻した。
望月源三郎は布引城にいて抵抗していた。
【真田幸綱の初見の史料:『高白斎記』】
3月14日
「14日土用、七百貫文の御朱印望月源三郎方へ仰せ下せし
候。真田に渡す。依田新祭文請取」
武田に味方することにした望月源三郎に武田晴信が700貫文の
領地を与えるとの朱印状を出したが、その使者を真田幸隆が務めた。

真田幸綱が望月源三郎に紹介し、武田晴信に帰属させた。
(★真田三代:平山優著)
※そうすると
 望月源三郎はずうっと村上義清方になったいた。
★同族の滋野系海野系真田幸綱(幸隆)の仲介による説得で降伏し
たという。
望月源三郎が武田晴信の配下となった。
望月源三郎は望月氏惣領を正式に武田晴信に認められ継承した。
望月源三郎は武田晴信の「信」を与えられ、望月信雅と名乗った。


?月?日 望月盛昌の娘(望月信雅の姉?妹?)は武田信玄の
 弟:典厩信繁の嫁となった。




4月3日 春日城に反武田方の芦田信守軍勢が拠る。
    武田軍、春日城を落とす。

4月?日 真田幸隆は同族の望月一族、海野一族を
   武田家臣に推挙した。

布引氏や楽厳寺氏は城に拠って頑強な抵抗を継続していた。

5月29日 望月新六は兄:望月源三郎の武田氏臣従後も布引山に
 あって武田勢に抗していた。
 しかし武田晴信に降って、布引山を出た。
 望月新六は武田家臣:駒井高白斎に同道した。

5月30日 甲府に着き、武田晴信に出仕した。

6月5日 武田晴信は望月左衛門佐信雅 を望月氏宗家の名跡を継ぐ
 者として認めた。

8月5日 武田晴信は布引の攻撃をした。
 (★『高白斎記』)
楽巌寺城=布引城、堀ノ内城は落城した。
布引城:楽巌寺入道雅方&堀之内城:布下仁兵衛雅朝は
村上義清を頼って逃げた。
武田晴信によって、釈尊寺&布引観音堂も焼亡した。

楽巌寺入道雅方&布下仁兵衛雅朝は村上義清を頼って砥石城に
入り、武田氏に最後まで屈しなかった。
 (★『甲陽軍鑑』戸石城の戦い)




*天文19年(1550)
7月 林城攻め
  武田晴信は林(松本市)城主:小笠原長時を破った。

9月 戸石崩れ。
元笠原清繁の家臣も反撃した。
  真田幸隆は謀略で村上義清の将:清野・須原を味方にする。
  →村上義清に反撃され、横田高松ら千兵余が死亡。

*天文20年(1551)
 5月 真田幸隆は村上義清の有力武将:高梨政頼を切り離した。
★真田幸隆家臣:高梨内記は高梨政頼の一族である。
   砥石城隣の矢沢城:矢沢頼綱(幸隆弟)が村上義清の侍大
   将でいたので、真田幸隆が内通し、内側から開城させた。
   という説もある。

   1日で戸石城を無血攻略。
         
   1000貫の領地を賜り、小県を回復した。

*天文22年(1553)
 村上義清が武田信玄に敗れて越後へ落ちのびた。
  楽巌寺雅方は武田信玄に臣従した。

 8月 3男:真田昌幸(→武藤昌幸→真田二代目)を武田晴信
   に人質として送り、350貫の領地を獲得した。


*弘治2 年(1556)
  8月 真田幸隆は雨飾城(尼飾城)を攻め落とし、
     城代となった。
(★現地看板では春日弾正)


  
・永禄元年(1558)
3月7日 望月城主:望月左衛門佐信雅によって布引山釈尊寺
  の堂宇が再建された。
 棟札に、望月信雅・楽厳寺雅方・布下雅朝・直居・依田・諸沢
  の名があるそうである。


・永禄3年(1560)
5月1日 武田信玄が倉賀野城(群馬県高崎市)を守る大熊朝秀に
 「真田・望月等が3日以内に到着する。」
と伝えた。

望月信雅は武田信玄の弟:武田信繁の子・武田義勝(望月信頼)
14歳を養子とした。
望月信頼は「望月太郎」と称した。
武田家臣からは「望月殿」とよばれた。


・永禄4年(1561) 望月信頼が急逝した。 享年18。
 武田信繁の子:望月信頼の実弟:武田信永を養子として家督を
 譲り、望月信雅は出家した。望月印月斎一峰と名乗った。

 望月信永の母は望月盛昌の娘であるので、異母弟である。
 
養子:望月信永(武田信繁の子)が家督を継ぎ、「武田御親類衆」
  として60騎を率いて本陣旗本として活躍した。

???? 武田晴信は小諸城にいた。
 岩尾城代:真田海幸綱(幸隆)を使者として派遣し、望月城主:
 望月遠江守盛時に太刀・馬を下賜した。望月盛時は武田信玄
 の甥で望月6ヶ城の守将であった。

 望月盛時の妻:望月千代は、望月分家甲賀望月一族で女忍者
 (くノ一)とされる。武田信玄の命で甲斐・信濃の巫女の統帥
  「甲斐信濃二国巫女頭領」を任され、祢津村(現長野県
 東御市祢津)の古御館に「甲斐信濃巫女道」の修練道場を開いた
 という。
(★ウィキペディアより)

・永禄10年(1567) 望月信雅・楽巌寺雅方は武田氏に忠誠を誓う起請文
  を生島足島神社に捧げた。



・天正3年(1575)長篠の戦い
望月信永が討ち死した。
  望月家・家臣は望月信永の実兄:武田信豊の管理下に置かれた。
  後に望月信雅が望月氏当主に復帰した。
  望月左衛門佐信雅は望月信永の実兄:武田信豊と共に望月領
 を治めた。

・天正3年(1575) 長篠の戦い
望月信永が戦死した。
 

・天正10年(1582) 武田氏が滅亡。
印月斎(信雅)や望月権兵衛達は、富士川流域の山間(現
   山梨県南部町や身延町、早川町:静岡県富士市。静岡市
   北西部に身を隠し移り住んだ。
 
   真田昌幸は小県郡を領地とした。

6月 跡目は望月昌頼(同名)が継いだ。
   望月昌頼(同名)は北条氏政に攻められた。
   望月城に籠城した。
   北条氏政と講和し傘下に入った。

9月、徳川家康配下の旧武田遺臣の依田信蕃に攻められた。
依田信蕃の春日城から望月城は4〜5kmの距離にあり、
  まっ先に攻撃された。
  一ヶ月に及ぶ攻城戦の末に、望月城は落城した。
  望月昌頼は自刃した。享年18
  望月氏嫡流は絶えた。


・天正11年(1583) 真田昌幸が徳川家康を使って上田城を築いた。
  家臣を上田に呼び集めた。
  
・天正13年(1585) 真田田幸繁が上杉景勝の人質として海津城
 →春日山城に向かう際に矢沢頼幸・小姓海野六郎兵衛が従った。
真田幸隆の家臣に望月太郎左衛門がいるが、一族であろう。
 望月太郎左衛門の子:望月六郎幸忠は真田幸繁の小姓
 だったという。真田忍者とも言われている。

 望月家は53家あるらしいが、甲賀の頭領:望月家の系統かも
 しれない。諜報活動を主にやった。


※真田十勇士の伝説に繋がったのかもしれない。


・現在 山梨県や静岡県に望月氏子孫が多い。
群馬県の吾妻には真田昌幸の家臣になった
望月氏の子孫がいる。


・享保8年(1723)布引観音が野火のため再び焼失した。
 小諸城主牧野周防守康明によって再建された。
  
・現在・・・堂宇の大半が現存している。




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