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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田●65【小諸城】:ちょっと文学探訪&歴史

<<   作成日時 : 2016/03/09 09:58   >>

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小諸城は長野県小諸市にあった城である。穴城と呼ばれ、武田信玄の
軍師:山本勘助の縄張りだと言い伝えられている。小諸城の一番の思
い出は「滑り台でのゲロ事件」&「猿のうんこ投げ事件」である。
群馬の松井田の小学生が修学旅行で懐古園に来ていた。その学校
のある小学生が滑り台の上で、寝そべって直経10〜11cmの巨大
おにぎりを食べていた。ところが、滑り台に頭から滑ってしまった。
下に降りたとたん、大きな握り飯がふっ飛んでしまった。そして、口か
ら、さっき食べたご飯を吹き出した。私は「大丈夫か。」と言いながら、
近づいた。平気そうなので起こした。先生が慌ててきた。「大丈夫?」
と先生が汚れた服をハンカチで拭いた。・・・その小学生2年生なのに
体重は60kgだという。・・・その子はめげず、猿の檻の前で、チョ
コレート包み紙を檻の中に投げ入れた。猿は喜んで、丸めてあった
包み紙を開いた。猿は何を思ったのか?何かを掴んで小学生に投げ
つけた。隣にいた先生に当たった。なんとそれは猿の糞だった。」
島崎藤村の「・・・雲白くゆうし悲しむ」なんていうのもあったな?



◆訪問日・・・5〜6回行っているが、ここ、6年は行っていない。
 写真は6年前のものである。

●大手門・・・市街地2回

●懐古園の入り口の三の門
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・徳川家達公の筆の扁額
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※入場料・・・?

●三の丸

●二の丸
若山牧水


『みなかみ紀行』
・大正11年(1922)
10月14日
沼津千本松原の自宅を立った。
   ↓
 東京経由
   ↓
 御代田駅で下車
 自動車
   ↓
 岩村田「佐久ホテル」泊
   
10月15日
 佐久新聞社の短歌会出席
 岩村田「佐久ホテル」泊
   ↓
10月16日
  松原湖を止めて、7〜8人で
 軽便鉄道で小諸駅へ
   ↓
 小諸懐古園を散策・・・・。
 小諸町では駅を出ると直ぐ島崎さんの「小諸なる古城のほとり」
 の長詩で名高い懐古園に入った。そしてその壊れかけた古石垣
 の上に立って望んだ浅間の大きな裾野の眺めは流石に私の胸
 をときめかせた
 昨日から一緒のM-君(宮坂古梁元小諸町長)は
 懐古園に自宅を新築していた。
 そして招かれて其所でお茶代りの酒を馳走にな
 った。
 ★お昼ご飯代わり酒を飲んで、満足した。


「かたわらに 秋草の花 語るらく 
   ほろびしものは  なつかしきかな」
松尾芭蕉と思いは一緒かもしれない。
「夏草や 兵どもの 夢の跡」

   ↓
 小諸駅から汽車で沓掛駅へ、
 下車後徒歩で
   ↓
 星野温泉泊


箕輪初心:生方★西伊豆B【若山牧水と沼津千本松原】
http://53922401.at.webry.info/201510/article_11.html
〜〜〜若山牧水の群馬シリーズ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

◆◆ 箕輪初心★若山牧水の上州旅@水上〜川原湯温泉 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201301/article_23.html

◆◆ 箕輪初心★若山牧水の上州旅A「妙義&磯部温泉」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201301/article_24.html

◆◆ 箕輪初心★若山牧水の上州旅B榛名湖&伊香保温泉 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201301/article_25.html

◆◆ 箕輪初心★若山牧水の上州旅C川原湯温泉&草津温泉 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201301/article_26.html

◆◆ 箕輪初心★若山牧水の上州旅Dロマンチック街道 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201301/article_27.html

◆◆ 箕輪初心★若山牧水の上州旅Eロマンチック『旧六合村」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201301/article_28.html

◆◆ 箕輪初心★若山牧水Fロマンチック『四万温泉』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201301/article_29.html

◆◆ 箕輪初心★若山牧水Gロマンチック『法師温泉』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201301/article_30.html

◆◆ 箕輪初心★若山牧水Hみなかみ紀行『猿ヶ京&湯宿温泉』
http://53922401.at.webry.info/201301/article_31.html

◆◆ 箕輪初心★若山牧水Iみなかみ紀行「沼田〜老神温泉」◆
http://53922401.at.webry.info/201301/article_32.html

箕輪初心:生方『老神温泉&若山牧水』復刻版&「老神の伝説2」
http://53922401.at.webry.info/201504/article_3.html


種田山頭火
箕輪初心:生方▲山口『紅葉が美しかった防府天満宮』
http://53922401.at.webry.info/201512/article_13.html

種田山頭火は防府生まれ・・・平戸城にも句碑がある。 
昭和11年、雲水姿で山梨県小淵沢から小海線を線路つたいに
長野県佐久岩村田まで歩いて来た。佐久ホテルへ泊った。
小諸城にもやってきた。若山牧水歌碑に触れ、文や俳句
を残した。

●馬場

高濱虚子
「紅梅や 旅人我に なつかしき」

       
臼田亜浪
「雪散るや 千曲の川音 立ち来り」

永六輔・・・小諸に疎開していた。
 「上を向いて歩こう」は懐古園での思い出から作詞した
 という。


●本丸
島崎藤村
明治32年、島村藤村が小諸にやってきた。

『千曲川旅情のうた』の歌碑


千曲川旅情の歌      島 崎 藤 村

   一
小諸なる古城のほとり 
雲白く遊子(いうし)悲しむ
緑なす繁蔞(はこべ)は萌えず
若草も藉くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡邊
日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど
野に滿つる香(かをり)も知らず
淺くのみ春は霞みて
麥の色わづかにし
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ

暮れ行けば淺間も見えず
歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて
草枕しばし慰む

   二
昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪(あくせく)
明日をのみ思ひわづらふ

いくたびか榮枯の夢の
消え殘る谷に下りて
河波のいざよふ見れば
砂まじり水巻き歸る

嗚呼古城なにをか語り
岸の波なにをか答ふ
過(いに)し世を靜かに思へ
百年(もゝとせ)もきのふのごとし

千曲川柳霞みて
春淺く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて
この岸に愁(うれひ)を繋(つな)ぐ
(★http://www.geocities.jp/sybrma/292chikumagawaryojounouta.html
 より引用)




●天守台、石垣など

●南丸

●黒門橋

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
●小諸市動物園
●小諸市児童遊園地
●小諸市立小山敬三美術館
●小諸市立郷土博物館
●小諸市立藤村記念館
●懐古神社
●徴古館

近くに
●小諸寅さん記念館
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●鹿嶋神社

●小諸義塾記念館

●外から見た小諸城南郭
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◆◆ 小諸城&近隣の城の歴史 ◆◆
長享元年(1487) 大井光忠によって築城されたと考えられている。


・天文12年(1543) 武田晴信の佐久侵攻。
大井貞隆の家老だった芦田守信&芦田(依田)系の相木昌朝は
 武田晴信に内応し、岩村田城:大井貞隆を降伏させた。

・9月9日、申刻、光台退治のため、千塚まで御出陣。
・10日、若神子に御着。
・12日海野口。
・15日宮ノ上。
・16日前山。
・17日御着陣。申刻、長窪の城、攻めなさる。
・19日、光台(大井貞隆)生け捕る。
・20日、望月一族生害なさる。
  (★『高白斎記』)
 
   
 しかし、大井貞隆は長窪城で反旗を翻した。
 長窪城(現長和町)を攻撃となった。
 武田晴信は諏訪から新東山道・・・和田峠を越えて・・・
武田家臣:芦田信守と相木昌朝は元主家:大井貞隆を攻撃した。
 長窪城主:大井貞隆を攻めて自害に追い込んだ。

結果・・長窪城は武田氏の御料所(直轄地)となり、長窪城は東信濃
・北信濃侵攻の前線基地として重要視された。


さらに、武田晴信は望月城を攻撃した。
望月盛昌の子:望月昌頼は小諸城に逃げた。
しかし、弟?の望月源三郎(望月信雅)&望月新六は武田晴信に
最後まで抵抗した。
『天文十二年九月二十日、望月一族為生害』
(★『高白斎記』)

●天文13年(1544)
 小田井氏は大井氏を滅ぼした村上氏に属していた。
@長倉城・・・小田井城の北の大手口(1つしかない)
 を監視していた。
  長倉猿助(★おそらく依田一族)が守っていた。
★「相木市兵衛依田昌朝と武田信玄」では、
 「長倉城」は依田の城とある。
  小田井長倉城説&軽井沢長倉城説がある。
A戸谷城は小田井城の西(小田井宿西)を守っていた。
B金井城は小田井城の南を守っていた。

冬、 武田晴信軍が小田井城を攻めた。
 小田井城主:小田井又六郎信親・二郎左衛門(又七郎)信治は
 武田信玄が佐久に進行した際に佐久の諸城がことごとく落城す
 る中で孤軍奮闘した。
 武田晴信は武勇を惜しみ、臣下になるように勧めたが、徹底抗
 戦の構えを崩さなかった。
 12月15日 板垣信方を先鋒として再び城を攻めた。
 小田井又六郎は弟・次郎左衛門とともに城を枕に討死した。
 (★甲陽軍鑑・御代田町誌)
小田井城主:小田井又六郎信親の長男:小田井弾正は遠江の
渥美郡市村に逃げて、市村姓を名乗った。

真田幸綱(幸隆)も志賀城から小田井城に行ったのであろう。
 真田幸綱(幸隆)は内山城の小山田虎満の配下にいたので、
 小田井城にいても、不思議はないが、平山説・丸島説・
 黒田説では真田幸綱はまだ武田家臣になっていない
 説を採っている。 20ヘクタールある。でが過ぎるもんね。
曽根館も近いし、曽根昌世が一時入ったとみるべきであろう。
古東山道の要所:小田井・・・20haは北信濃・上野国攻めの
駐屯地になったのであろう。。




・天文14年(1545)4月 武田晴信は小諸城にいた。
 岩尾城代:真田海幸綱(幸隆)を使者として派遣し、望月城主:
 望月遠江守盛時に太刀・馬を下賜した。
望月盛時は武田晴信の甥
 で6ヶ城の守将であった。妻:望月千代は、望月分家甲賀望月一
 族で女忍者(くノ一)とされる。武田信玄の命で甲斐・信濃の巫
 女の統帥「甲斐信濃二国巫女頭領」を任され、祢津村(現長野県
 東御市祢津)の古御館に「甲斐信濃巫女道」の修練道場を開いた
 という。
(★ウィキペディアより)

平山説では天文13年〜17年まで村上義清の支配下だった。
 武田晴信はいた可能性はないとしている。


・天文15年(1546)
4月 河越夜戦
上杉憲政+上杉定正+古河公方 VS 北条氏康
  河越城を包囲していた関東管領:上杉憲政が北条氏康に惨敗
上野の平井城に逃げ帰った。
上野国を中心とする上杉憲政の勢力はいまだ健在であった。

でも、平井優説・丸島和洋説ではこの時期に真田幸綱
 (幸隆)は武田晴信に臣従したと説を採っている。



5月 武田晴信は再び佐久郡に侵攻。
■内山城攻撃

5月3日 海ノ口に着陣。
5月6日 前山城に布陣した。
     ※伴野助十郎の居城である。宗家は拙宅から50m。
     内山城の大井貞清・貞重父子を攻めた。
大井貞清が立て籠もる内山城を包囲した。
5月10日 内山城の水の手を断った。
5月14日 主要な曲輪をほとんど陥とした。
  大井貞清は本城で抵抗した。武田軍は総攻めをしかけて
5月20日 大井貞清は内山城を開城した。
大井貞清は捕えられた。
真田幸隆の口利きで大井貞清は助命された。
      大井貞清は野沢城に蟄居した。
?月?日  大井貞清は内山城代を任された。
7月18日 上原伊賀守昌辰(小山田備中守昌辰・小山田虎満)
      が内山城代を任じられた。
長窪城(現長和町)の大井貞隆&内山城の弟:大井貞清の
  大井一族が壊滅状態になったことで佐久郡の大半が武田晴信
  に制圧された。

・天文16年(1547)
5月4日 大井貞清父子は翌躑躅ヶ崎館への出仕した。
  駒井高白斎を仲介として武田晴信に臣従した。
(★『高白斎記』)

大井貞清は上野国の上杉憲政や信濃小県郡の村上義清に通じた。
・天文16年(1547)・閏7月から8月 小田井原の戦い
(長野県佐久市)
閏7月、武田晴信は大井三河守貞清を先手として甲府を出陣した。
『高白斎記』をベースすると

7月24日 武田晴信は志賀城の包囲を開始した。
「卯の刻から午の刻まで志賀の城に取り詰められる」
7月25日 金堀衆が城の水の手を断った。
     志賀城は窮地に陥った。
「25日未の刻、水の手取りなさる」
 関東管領:上杉憲政は志賀城救援の軍勢の派遣を決めた。


長野業正
 「北条氏康のほか、武田晴信まで敵にすることはできない。」
と、出陣しなかった。
 (★大河ドラマ「風林火山」)

 上杉憲政は重臣:長野業正の諫言を無視して、倉賀野党16騎
 を先陣に金井秀景を大将とする西上野衆の大軍を派遣した。
(★『関八州古戦録』→大河ドラマ「風林火山」)

※エピソード
 金井秀景の先陣はくじ引きで決まった。

関東管領軍は東山道の入山峠(バス事故現場と軽井沢プリンスス
キー場山頂の間)を越えて信濃へ入った。
一般的に碓氷峠とあるが、当時の碓氷峠は軽井沢に入る碓氷バ
イパスの道ではない。
碓氷峠の戦いや笛吹峠の戦いという言い方で書いてある本もある

武田晴信は志賀城を包囲中であったが、重臣:板垣信方、甘利虎泰
(甘利元経済復興大臣先祖)に別動隊を編成させて迎撃に向
かわせた。

 高田憲頼らの援軍もあって包囲は10日にもおよんだが志賀城は
 落城しなかった。

8月6日 小田井原で合戦
 甲斐守護武田晴信 VS  関東管領上杉憲政
「8月卯の刻、板垣駿河其の外働き、関東衆数多討ち取らる」
板垣、甘利率いる武田軍は関東管領軍を一方的に撃破して敵将
 14〜5人、兵3000を討ち取る大勝利を収めた。
★小田井原の戦い
  武田軍と関東管領山内上杉氏の軍勢が小田井城の近くで
  激突したとされるが、小田井の戦いに小田井城が関わっ
  ていたかは不明である。

その夜・・・
武田晴信は、首級のうち、名のある武将の首は槍先にかざし、
その他の首は棚に並べて志賀城下にに晒したの。
担当者は山本勘助だった。
(★大河ドラマ「風林火山」)

武田軍は討ち取った敵兵3000の首級を志賀城の目前に並べて晒
して威嚇した。

ところが、金井秀景を総大将とする上杉軍2万が小田井原で大敗する
と形勢は逆転した。

ところで、3000もの首を一度の戦で実際に討ち取ることができ
るのであろうか。関東管領上杉憲政軍が大軍勢だったとしても、本
当に可能なことなのだろうか?

8月7日
一夜明けて・・・太陽の光が降り注ぐ。
志賀城内の城兵が目の当たりにしたのは、見下ろす城下に、おびただ
しい数の生首が並ぶという悲惨な」光景であった。
首3000はオーバーかもしれないが、相当数の首を並べて見せたと
思われる。
援軍の到着を今か今かと待待ちわびていた志賀城兵・・
これで、一気に戦意を失なってしまった志賀城兵たち・・・ 

志賀城では救援の望みが全く立たれた城兵の戦闘意欲も削がれ、
大きく士気消沈した。

8月10日、武田軍は総攻めをしかけた。
 外曲輪、二の曲輪が焼き落とした。
  「10日午の刻、外曲輪を焼く。子牛の刻、二の曲輪焼く」

8月11日、武田軍は本曲輪を攻めた。
  城主笠原清繁と高田憲頼は討ち取られ落城した。
「11日、午の刻、志賀父子・高田父子打ち捕らる」
もはや命運は尽きたと覚悟を決めた笠原清繁以下300余名は、
  決死の突撃を決行し、壮絶な討死を遂げた。
   笠原清繁、笠原清仲父子は討死。
   援軍に駆けつけていた高田憲頼、高田繁頼(笠原繁頼)
   父子も討死した。
志賀城は落城。

志賀城を落とした武田晴信は佐久郡の制圧を完了した。

 
・天文17年(1548)
2月1日  武田晴信は5000人の兵力を率い躑躅が崎から北信濃
  に向けて進軍を開始した。武田軍は上原城で板垣信方の率いる
  諏訪衆らと合流し、大門峠を越えて長窪城に入った。
  小県郡南部に侵攻した。

  村上義清は葛尾城(現千曲市)と戸石城(上田市)を拠点に陣
  を敷いた。
  村上義清はさらに岩鼻まで南下して上田平に兵を進めた
  産川(千曲川支流)を挟んで、村上義清と武田晴信が対陣した。

 2月14日 上田原の合戦
板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿伝右衛門が討ち死にし
  敗北した。


天文18年(1549)【真田幸綱の初見の史料:『高白斎記』】
「14日土用、700貫文の御朱印望月源三郎方へ仰せ下せし
候。真田に渡す。依田新祭文請取」
 望月源三郎は望月城から布引城にいて抵抗していたが、
真田幸綱が武田晴信に帰属させた。
(★真田三代:平山優著)
同族の滋野系海野系真田幸綱(幸隆)の仲介
による説得で降伏したという。
望月源三郎が武田晴信の配下となった。


 

・天文19年(1550) 戸石崩れ
笠原清繁の元家臣も頑張った。
戸石城攻めの武田軍の撤退・・・・
  村上義清らが追激戦を行い、武田殿軍の横田高松ら将兵
  一千余が戦死した。

・天文20年(1551) 武田晴信→飯富・上原への手紙
「・・・・真田方に物語りあるべく候。内々直ちに申し
  届くべく候といれども、用筆・・・」
 と砥石城を調略させよとある。
  (★真田三代:平山優著)
「真田幸綱の砥石城乗っ取り」
  (★『高白斎記』)
5月26日 真田幸隆が戸石城を乗っ取った。

・天文22年(1552)
4月初旬 村上義清の属将の荒砥城主:屋代越中守政国、塩崎城主:
 塩崎氏らが武田晴信に内応した。
  村上義清の本拠:葛尾城を伺った。
4月9日 村上義清は葛尾城を棄てて逃亡した。
  越後春日山城の長尾景虎(上杉謙信)を頼った。


天文23年(1554) 小諸城が竣工した。
武田信玄の軍師:山本勘助&馬場信房の縄張りだと言い
伝えられている。

@通説・・・ 小諸城主は武田家一門衆:武田信豊であるとしている。
A黒田基樹氏は「武田信豊が小諸城主であったことを示す確実な記録
 はないことを指摘している。」
B平山優氏は、「大井高政が小諸城で上杉憲政の命に従い、最後まで
 抵抗した。」


〜〜〜中略〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・天正10年(1582)
 3月 織田・徳川連合軍の甲斐侵攻
 武田勝頼の時代には御一門衆の下曾根浄喜が城代を務めていた。
 武田信豊は小諸城に逃れてきた。
 下曾根浄喜が武田信豊を打ち取り、首を織田信長に進上した。
 しかし、下曽根浄喜も誅殺されたという。


・3月11日 武田氏が滅んだ。

・3月23日 織田家臣の滝川一益は上野国と信濃佐久郡・小県郡を
      賜った。小諸城代は道家正栄が務めた。

・4月上旬 真田昌幸は織田信長に臣従した。
滝川一益の麾下として、沼田城・岩櫃城を明け渡した。
真田昌幸は黒葦毛馬を織田信長に送った。

・4月8日 織田信長から真田昌幸への礼状が届いた。




3月11日武田氏が滅亡。

3月23日 滝川一益は上野国・信濃小県・佐久を織田信長
 より賜った。
 小諸城には道家正栄を城代とした。 

 
6月2日 本能寺の変
  信濃はパニック状態となった。

6月18日・19日神流川の戦い
  滝川一益が北条氏直に敗れた。

その夜、滝川一益は倉賀野城を経て厩橋城に戻り、城下の
長昌寺において戦死者の供養を行った。

6月20日 滝川一益は人質であった北条高広の次男を返した。
 (★『石川忠総留書転記』・群馬県史・大江一族と北条家)

箕輪初心:生方▲【大江広元→越後毛利氏〜北条(きたじょう)高広】
http://53922401.at.webry.info/201512/article_16.html
 
 その夜、上州衆を箕輪城に集め別れの酒宴を開いたという。
 (★『依田記』『北条五代記』)
 滝川一益は太刀、長刀、金銀、秘蔵の懸物等を上州勢に与え、
 箕輪城を旅立った。
 (★ウィキペディア)


津田秀政(滝川一益の娘婿&織田信長一族)の守る松井田城を
経て・・・津田秀政の城兵1,500騎を殿に加え、2000騎以上の兵で、
碓氷峠を越えた。
6月21日 道家正栄の守る小諸城に入った。
この時、佐久・小県の人質を伴っており、依田康国や真田昌幸の
老母が加わっていたという
(★信濃史料)

 6月20日  滝川一益が小諸城に入った説もある。
6月21日  滝川一益が小諸城に入った流力説もある。


・6月21日 佐久郡の国衆:依田信蕃(のぶしげ)が小諸城で
  滝川一益と面会した。
@依田信蕃は小諸城をもらい受けた説
 A依田信蕃は人質として依田康国・昌幸母を人質に差し
  出した説
 B真田丸・・・昌幸の母は沼田からの人質説
 滝川一益は木曽郡の木曽義昌とも交渉した。

・6月27日 滝川一益は小諸城を退去した。
小諸に5日間?滞在した
後、滝川は道家と共に西の織田領を 
  目指した。松井田城から殿だった津田秀政も合流した。
  佐久・木曽両郡を通過して本国の伊勢国長島へ帰還した。
  小諸城主は武田の旧臣:依田信蕃となった。
道家に代わって小諸に入城した。

▲天正壬午の乱
 徳川氏・後北条氏・上杉氏の勢力が信濃に伸び、大井氏一族も
 巻き込まれていく。


 
7月上旬 北条氏直が佐久・小県を支配した。
●小田井弾正=市村弾正は北条氏直についた。
 小田井弾正=市村弾正は谷地城に入った。
 北条軍:大道寺政繁が一時小田井城に滞在したと伝えられる。


・7月9日  真田昌幸が日置(へき)五左衛門を送り、帰属を
      北条氏直に申し入れた。
上野吾妻の有力者:真田昌幸がついたことにより、
      背後の憂いがなくなった。
※真田丸・・・北条は真田昌幸など気にしていなかったが・・

★7月10日 北条氏直は上野にいた主力部隊を碓氷峠(入山峠)
    から信濃国佐久郡へと進軍させることにした。
      真田昌幸を先方として北条主力軍4万3000を
      進軍させた説もある。

・7月12日 北条軍は碓氷峠?入山峠?を越えて佐久に入った
 依田信蕃は小諸城を放棄し、春日城に籠城した。

私も春日城説・・・依田信蕃の父:芦田信守の築いた城で堅固
 であった。既に柴田などは徳川家康から派遣されていた。

依田信蕃の誘いを受けて、禰津昌綱、森山豊後守らが徳川に
寝返った。

小諸城は北条家の重臣:松井田城主の大道寺政繁の支配下
に置かれた。

7月12日 北条氏直軍は川中島に着陣した説
 (★『上杉家御年譜』)
  北条氏直 VS 上杉景勝
上野衆・信濃衆など氏直軍は3万を超える大軍であった。
  海津城に拠る上杉景勝は7000〜8000であった。

●7月13日 北条氏直は小諸城にいた。 
※真田昌幸ら信濃衆13人が北条氏直に出仕した説もある。

7月13日 佐久・小県の真田昌幸・大井雅楽助などは小諸城で
北条氏直に面会した。
春日信達もいた説がある。


7月13日 
 春日信達は真田昌幸や北条氏直らと内通したことが発覚して、
 上杉景勝によって誅殺された。
 既に森長可により、春日信達の息子が殺されており、高坂氏嫡流は
 滅亡した。
※真田丸・・・真田信伊が春日信達を殺したことになっている。
した。


さらに、大導寺政繁は徳川方の依田信蕃を攻めた。依田信蕃
 (のぶしげ)は三沢小屋に籠城した。
★実際は「蘆田小屋」(春日城?なと5説)へ退いて籠城した。

北条氏直は大導寺政繁に三沢小屋をせめさせた。
この時、大導寺政繁は小田井城を駐屯地としたのであろう

自分は川中島に向かった。
 
北条2万 VS 上杉8000
しかし、海津城を容易に落とせなかった。

北条氏直は春日信達が味方しているので、勝利を確信していた。
しかし、内通がばれて、春日は処刑された。

北条軍が手詰まりとなった。
昌幸は「対陣が長引けば、士気がさがる」 と進言したという。
氏直が「甲斐・駿河に転進すべし。・・」
昌幸が「なぜ、佐久から甲斐に攻めなかったのか?すでに元同僚
曽根昌世・岡部正綱が徳川家康の命を受けて、調略を進めている。
家康も安堵状を出している。・・もはや手遅れだ。」
と言ったという。
氏直は「・・全軍、甲斐に・・・」
北条氏直は自分は武田信玄の孫であるという自信があった。
 (★真田三代:平山優著)


★7月14日 依田信蕃は徳川家康の援軍:芝田康忠、辻弥兵衛
 と合流した。という文書があるので、平山説は上記の説は、違っ
ているかもしれない。ただ、曽根昌世は既に小田井城に入って周辺
を調略していた可能性がある。小田井城の1〜1,5km西は曽根
館である。しかし、岡部正綱が依田信蕃と合流は9月25日、・・・
若干、日にちにずれがある。

7月19日頃? 北条氏直は真田昌幸&松田憲秀に殿を命じた。
 真田昌幸は残留を申し出た。
 保科正直の子:正光は真田昌幸が預かっていた。

★これは納得する。何故なら、保科正光の妻は真田昌幸の娘だった。

7月20日頃?

依田信蕃は小諸城を奪回するために後方攪乱に徹した。

7月末 北条&徳川の和睦
 
 大導寺政繁に与する大井行吉の岩尾城で反旗を翻した。


7月中旬 北条氏直は小諸城を大導寺政繁を城代として、
  川中島を目指した。

  北条氏直・真田昌幸 VS 上杉景勝  

7月下旬 和解
8月上旬 小諸城主:大導寺政繁が兵を引いて、松井田城に
帰った。
小諸城には依田信蕃が入城した。

 徳川家康の後ろ盾を得た依田信蕃が勢力を拡大した。
 大井氏や伴野氏らは抵抗した。
   
 岩村田大井城主大井雅楽助は徳川家康麾下の依田信蕃に下り、
 大井城を明け渡した。
 伴野信是も伴野館=野沢城を攻撃された。

●12月 小田井弾正=市村弾正は 依田信蕃に破れ、戦死した。
 小田井城も依田信蕃の手に落ちた。
  そして、谷地城・小田井城は廃城となったものと考えられて
  いる。



 〜〜〜中略〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


・天正11年(1581)
2月 依田信蕃の岩尾城攻め・・・
戦死。
大井行吉も柴田康忠の説得を受けて開城した。
大導寺政繁は小諸城から撤退し、松井田城に戻った。

小諸城が徳川家康に引き渡された。
徳川家康より松平姓を許された依田信藩の嫡男:松平康国
が6万石で入った。
依田康国は小諸城に入った。
6万石と松平姓は徳川家臣の中では異例の厚遇であった。
徳川家康は戦死した依田信蕃とその実弟:信幸の功績を
認めていたからである。

依田康国は小諸城3層の天守閣築造が行なわれた。
金箔瓦付きの小諸城2年間で完成したという説もある。


〜〜〜中略〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・天正18年(1590) 豊臣秀吉による小田原攻撃
 松平康国は相木荘:白岩砦の相木房頼・伴野貞長を攻撃した。
 前田利家軍に所属し、北条領の上野に侵攻した。
 大導寺政繁が守る松井田城を真田昌幸・真田信繁や上杉景勝、前田利家
 らと攻めた。松井田落城後、西牧城を攻めた。
 石倉城を攻めた時、開城の際に松平康国は城将:寺尾左馬之介に
 討ち取られた。


仙石秀久が5万石で大名に列せられ、小諸城に入城した。

・安土桃山時代から江戸時代
 仙石秀久が近世城郭に改修した。
 3層の天守には桐紋の金箔押瓦が用いられていたという説もある。

松平康国?仙石秀久?どっちが金箔瓦を用いたのであろうか?



・元和8年(1622) 仙石2代忠政が上田城へ転封となった。
   小諸藩は廃藩となった。
   徳川忠長の甲府藩領になった。

・寛永元年(1624) 松平憲良が入封した。

・正保4年(1647) 松平憲良が死去・・・嗣子なく改易となった。
     松本藩に預けられて廃藩となった。

・正保5年(1648) 青山宗俊が入封した。

・寛文2年(1662) 青山宗俊が大坂城代になった。
         酒井忠能が伊勢崎藩より入封した。

・延宝6年(1679) 酒井忠能の重税悪政→芦田一揆。
         駿河田中藩に移封となった。
         西尾忠成が入封した。

・天和2年(1682) 西尾忠成は遠江横須賀藩へ転封となった。
         石川乗政が入封した。

・天和4年(1684) 石川乗政が死去した。子:石川乗紀が継いだ。

・元禄15年(1702) 石川乗紀が美濃岩村藩へ転封となった。
         牧野康重が入封した。
     牧野康重が移封された後は国替えは行われなかった。

・慶応3年(1867 )牧野氏10代康済の時に明治を迎えた。

・明治2年(1869) 版籍奉還で牧野康済が知藩事になった。

・明治4年(1871) 廃藩置県・・・小諸藩消滅。


・平成18年(2006)4月6日、日本100名城28番に選定された。



★明日は禰津下の城?・布引城かな?

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箕輪初心:生方▲真田●65【小諸城】:ちょっと文学探訪&歴史 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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