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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸32【真田昌幸:空城の計&第一次上田合戦】

<<   作成日時 : 2016/02/04 08:01   >>

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・天正13年(1585)、徳川家康の配下だった昌幸は、上州沼田
領を北条氏直に譲るよう命じられた。しかし、沼田領は昌幸は
命令を拒絶した。徳川家康は自分の造った上田城を攻撃するこ
とになった。第一次上田合戦は、徳川勢7000余VS真田勢は
2000人弱だった。@負けたふりして、城内に誘い狭い場所で
大群を鉄砲で習い撃ち、A城の外に設けた柵で側面攻撃、B増
水した神川に追い込んで溺死、・・・自分の都合のよい戦いに
持ち込む。(★黒田基樹)
「空城の計」がどんぴしゃであった。
真田の名は一躍有名となった。
NHK大河ドラマ『真田丸』の時代考証は平山優・丸島和洋・黒田
基樹の大先生が担当している。
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箕輪初心:生方▲真田丸31【真田幸隆の知恵:徳川家康を利用して
造った上田城】
http://53922401.at.webry.info/201602/article_3.html

箕輪初心;生方▲2015信濃【真田の里:上田巡り1回目】
http://53922401.at.webry.info/201511/article_18.html

箕輪初心:生方▲2015信濃【真田の里:上田巡り2回目】
http://53922401.at.webry.info/201511/article_19.html

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◆◆ 第一次上田合戦への過程&真田昌幸:空城の計 ◆◆

・天正10年(1582)武田家が滅亡。
 真田家が自力で領土を守らなければ、ならなかった。
  上田〜吾妻の周りには北に上杉景勝・南に徳川家康、南東に
  北条氏政がいた。
 
・3月11日〜6月21日
 武田家滅亡後、武田遺臣を家臣とした。
●武田遺臣は、
1)甲斐出身
@小山田壱岐守昌誠(昌幸の娘:村松殿の婿)
A原隼人の子:原三左衛門&原監物
B板垣信方の子:板垣修理亮信形
B内藤修理昌豊の子:内藤五郎左衛門・・・★群馬県保渡田城
I来福寺左京・・・修験者の元締め?
  武田信玄家臣:出浦盛清と共に諜報・工作活動に従事した。
  武田家の謀略担当の真田幸隆・真田昌幸の連絡係であった。
  武田家滅亡後、正式に真田家になった。
  真田昌幸配下として。真田忍者の総元締め:出浦盛清と共に
  忍者の組織化と育成に力を注いだ。
・天正13年(1585)第一次上田合戦
  偽情報を流して徳川軍を誘い出しの作戦を遂行した。
  兵の少ない真田軍の徳川軍撃退に大きく貢献した。

2)信濃出身
@出浦対島守盛清
 坂城出浦の出身。村上義清の弟とも言われている。
 出浦城(上平の城主)となる。
 武田に仕え、素波(忍者)の統領になった。
・天正10年(1182)武田氏滅亡後、海津城主:森長可に仕えた。
本能寺の変で森長可の撤退後、真田家に仕えるようになった。
後、真田忍群の総帥、吾妻郡代、岩櫃城代など勤めた。
・天正18年(1190) 小田原城攻撃
 忍城攻めにて武勲を立てた。
・現在 岩櫃城の「出浦淵」という地名がある。出浦氏の屋敷跡と
 伝わっている。

A室賀兵部少輔・・・★上田市

B青柳清庵・・・・・★青柳村
C桜井勘左衛門
D小泉源五郎・・・・★上田城の小泉曲輪にあった城
E禰津元直:禰津一無斎
  真田氏と同族である。
  禰津城主(東部湯の丸IC北東の富士山のような山)である。
武田信玄の側室:妾1号と言われている。
  武田氏滅亡後、真田昌幸の旗本となった。
  子孫は真田家重臣となる。
  長男:祢津七左衛門主水(後、伊予守)
  次男:祢津志摩守・・・岩櫃城に「志摩小屋」の地名がある。
真田信幸の乳兄弟である。

F丸子三右衛門・・・★上田市丸子町
(天正13年に家臣になった。)


3)上野出身
@瀬下若狭守・・・・内藤昌明が箕輪城代:保渡田城)になるまでの
繋ぎの箕輪城城番→内藤昌明と一緒に行動した。
   ★群馬県富岡市在住
A安中左近・・・・・★安中景繁の子ども
    ★長野信濃守業正の娘婿の子どもか?
     甘利昌忠の娘との間に出来た子ども?
   長篠の戦いでの唯一人の生き残り?

B白倉武助・・・・・★群馬県甘楽町:白倉城主
C浦野源太郎・・・・★長野信濃守業正の娘婿一家。
          ★群馬県大戸城主:大戸真楽齊の子ども?

D羽田筑後守・・・・★長野信濃守業正の娘婿一家。
★東吾妻町大柏木城主:・・・
  父:羽田治部右衛門は武田滅亡後、真田家へ仕えた。
  長野采女→羽田筑後守となり、真田信之に仕えた。
  後吾妻郡代となった。
子孫は羽田孜元総理大臣・・・系図があるそうである。

4)越後出身
@大熊五郎左衛門朝秀
(上杉謙信家臣:越後箕冠城主。→武田信玄家臣:箕輪城勤務
   ・小塙城主→駿河小山城)

5)駿河出身
 木村土佐守・・・今川家臣

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9月25日 真田昌幸は北条氏直に抵抗していた春日城主(望月町)
 :依田信蕃を介して徳川家康方となり、突如、北条氏を裏切った。
 徳川家康の家臣:依田信蕃、叔父:真田信尹らの誘いにより、
  沼田城を北条方から奪還した。   
  真田家は北条氏に敵対する。

9月28日 徳川家康→真田昌幸への手紙
 「味方について忠信をつくせば、上州長野一跡に加え、
  甲州で2000貫文、信州諏訪郡と当知行地を保証する。」
(★新編高崎市史)
★実力で盗れとというものであった。
徳川家康は北条氏の背後を突こうと考えた。

※依田玄蕃は当初北条方であった真田昌幸を徳川方に寝返らせ
  た功績で、佐久・諏訪の二郡を与えられ小諸城代となる。
 しかし、佐久で唯一残った北条方の岩村田大井氏が立て篭もる
 岩尾城攻めで、依田玄蕃は弟:信幸と共に戦死を遂げた。  


10月29日 徳川家康と北条氏直は、織田信長の次男:織田信雄の斡旋を
  受けて、和睦の途を選択した。
  そして、北条氏直が徳川家康の次女:督姫を正室に迎える約束をした。
  徳川家康と北条氏直は同盟を結んだ。
 
  徳川家康は北条氏直に和睦の条件として
@甲斐・信濃は徳川領とする。
A上野は北条領とする。
  上野国の沼田領(吾妻利根2郡)を譲渡するという条件
  を出した。
 
 真田昌幸は自力で獲得した沼田割譲について代替地が
 「信濃で」というだけで、不明だったことに反発した。
真田昌幸は徳川家康から代替地を与えられていない事を理由に
 吾妻領・沼田領の明け渡しを拒否した

 上野国の吾妻領・沼田領を支配していた真田昌幸は、
  徳川家康と北条氏政の領土交換に巻き込まれることになった
 (真田昌幸の沼田領土問題)。

  徳川家康と真田昌幸との関係は険悪になりつつあった。
 ●徳川家康は信濃国部を支配する上杉景勝との対決を目指しており、
 真田昌幸の沼田領土問題を黙認し、信濃北部への侵攻を目指した
 のであった。

 
・天正11年(1583)
上杉景勝 VS 徳川家康
 
 以前は真田昌幸の家臣となった土豪:小泉源五郎の古い城館(現二の
 丸より西側の小泉曲輪)があった尼ヶ淵の断崖に造りたいと思った。
 
 北に太郎山、南に千曲川があり、北と西に矢出沢川を引き込み
 総構えとし、東には蛭沢川や湿地帯がある。
 西を小泉源五郎に守らせ、周りに家臣を置く。
 詰め城は砥石城・・・・
真田昌幸は上田に新城を造ることにしたが、・・
 自力ではなかなか出来ない。

 上杉景勝VS徳川家康の状況から徳川家康を利用することを
  思いついた。(★平山優)
   
真田昌幸は徳川家康に
「上杉景勝を攻めるには上田を通らなければならない。
 上田に城を造って、私が上杉への先陣となれば、浜松を
 空けなくてすむでしょう。・・・」

真田昌幸は上田城の築城に着手した。
徳川家康の家臣はが築城の応援に来た。
つまり、浜松を空け、上田を通るなら、上田に城を築けば、
最前線基地となる。といって、上田城を徳川の援助で上田城を
築城させたのだ。
築城当初は「尼ヶ淵城」と呼ばれた。
★まんまとわしの策に家康は乗ってくれた。やったぜ。
 (★平山優)
おそらく、第一次上田合戦に派兵した鳥居元忠・大久保忠教
が築城を手伝ったのであろう。お馬鹿な家康〜〜〜〜〜〜

工事中は真田氏館に住んだ。
父:真田昌幸は砥石城で死去。
真田昌幸は松尾城(後上田城:現上田高校)と城下町も築いた。
 
上田城は南を千曲川、西・北は千曲川の支流:矢出沢川を控え、
土塁中心の石垣のない簡素な平城であった。
(★『武家事記』)
実際は上田高校の地域であった。
(★現地説明板)
●平成28年(2016)1月2日「ぶらたもり」堺雅人&鶴瓶
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真田昌幸は沼田領や吾妻領を巡り北条氏と争っていた。


 根津城(東部湯の丸ICの北東の富士山?)の禰津昌綱
 屋代城(信濃平長野氏歴史博物館屋隣)の屋代勝永
 室賀城(長野県上田市)室賀満俊
 丸子城(上田市丸子町)の丸子三左衛門
 を調略し配下にした。
 
 真田昌幸は北条氏直と通じていた。

・天正12年(1584)
3月 小牧・長久手の戦い
 徳川家康は主力を率いて尾張に向かった。
 真田昌幸は越後の上杉景勝を牽制するために信濃に残留した。

 真田昌幸は吾妻衆に上野白井城を計略を以て攻めさせた。
 知行宛行状を濫発して沼田・吾妻の所領を改めて確保した。
 
真田家は小県郡を支配する室賀氏と争った。  
 ★信濃小県郡を完全掌握するために謀略を用いて室賀氏を
 滅ぼした。
 小規模戦闘にて勝利を重ね・・・・和睦に持ち込んだ。
 直後に真田信幸は父:昌幸と共謀して室賀義澄を殺害した。
 真田氏は小県を支配下に治めた。
★本当に真田は汚いやり方をするのだ。

 結果・・・真田昌幸は沼田・吾妻・小県を完全に真田領として
  掌握した。

 真田領を狙う北条氏の侵攻に対し、北条氏邦の奇襲を察知した
   真田信幸は吾妻の仙人ヶ窟=千人隠れ陣城(東吾妻町大戸)
  で撃退している。
 (★松城通記)。
★場所が大戸城・手古丸城の川を挟んだ反対の岩山

12月 徳川家康は羽柴秀吉と和議を結んで尾張から撤兵した。
  北条氏直から和議の条件の履行を迫られたためである。



・天正13年(1585)
徳川家康は北条氏政と同盟を結んだ。
徳川家康は娘を北条氏直に嫁がせた。
 条件・・・信濃は徳川・上野は北条・・
4月 徳川家康は甲府に軍を進めた。
   徳川家康が甲斐へ着陣して・・・、
  徳川家康は真田昌幸に対して沼田領を後北条氏に引き渡す
  ように求めた。
  しかし、真田昌幸は
 「沼田は徳川氏から与えられた領地ではない。」
 と拒否した。
  真田昌幸は相応の替地が宛がわれない限りは引き渡しに
  応じない
  と拒否した。
当時徳川家康の配下だった昌幸は、上州沼田領を
 幸隆・昌幸2代にわたり自力・独力で獲得した領地でもあり、
 昌幸はその命令を拒絶したのだった。


  徳川家康はしかたなく浜松城に引き返した

 
●真田昌幸はさらに敵対関係にあった上杉景勝と通じた。
真田幸村は上杉景勝の家臣:松代城の
 河田氏?(大河ドラマでは)
 実際は須田氏である。須田の所に人質として向かった。
 

・7月15日 次男:真田信繁(真田幸村)を人質にして上杉景勝に
  従属した。
  真田信繁(真田幸村)は海津城に行った。
海津城将は須田満親であった。
 (★「天地人」・真田昌幸:芝辻俊六著)

徳川・北条と敵対していた上杉景勝に臣従した。
 徳川・北条連合 VS 上杉・羽柴秀吉連合

 同時に、徳川家康にも手紙を出した。
 「・・上杉景勝につく・・・」
 徳川家康は激怒した。

徳川家康は自分が造った上田城攻撃をすることになった。
そして、北条氏邦を沼田城に侵攻させた。
 (★平山優)



閏8月 第一次上田合戦
真田昌幸2000人弱程 VS 徳川家康勢7000余
真田方は約1200人であった説もある。(伝)?


 徳川家康と北条氏直は、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約
 7000の兵力を昌幸の居城・上田城に侵攻させた。
 
 徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地の信濃国分
 寺付近に兵を着陣した。
 ※国分寺は上田城の東4km?に押し寄せたのであった。


●真田の作戦・・・少人数で大群を討つ作戦
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1)真田昌幸は築城の途中である上田城に籠城した。
・上田城本郭に500余を待機させた。
・上田城の横郭・町中に見張り兵を配置した。
・神川(かんがわ)に200余の遊撃前衛部隊を配備した。

2)長男:信幸を支城:戸石城に籠城させた。
伊勢山(戸石城)の800余説
伊勢山(戸石城)の300余説・・・有力説

3)従兄弟:矢沢三十郎頼康&上杉の援兵:須田満親を支城:
 矢沢城に籠城させた。
 300余説?+500余説?=800余説?
※平山説では上杉の援兵は少なかった。
合計・・・総勢2000余を配置した。

●家臣
祢津長右衛門・祢津志摩守・望月主水・小泉源五郎・矢野・
日置・原・春原・石毛・荒木・高槻・金井・上原・三輪
板垣信形・来福寺(忍者元締め)・成沢・松崎・田中・窪田
・堀田・車・高野・塚本
上州衆・・・・池田・市場・白倉・吉田・・・・など。



4)上田城下には互い違いの矢羽根のような千鳥掛けの柵
===ウナギのびんどうのような逆矢羽根型の柵を
造らせた。★説明が難しい。
======塀・柵======================
/ / / / / / / / / / / / / / / /
 \ \ \ \ \ \ \ \ \ \ \ \ \ \
======塀・柵======================

5)複雑な並びの町家・山野に約3000の武装した百姓兵を
 伏兵とした。

6)橋の構造を工夫した。



【1】上田城の門の2階の「第一次上田合戦」のいシュミレーション
・閏8月1日 
  真田信幸は支城の戸石城に兵300余名で着陣した。
  徳川軍の主力部隊を奥地に誘き寄せる作戦だった。
  結果・・巧みに奥へ誘い込み、大手口で勝利した。

・閏8月2日
徳川勢の先手が上田城の南東の神川(かんがわ)に差し掛かった。
200の真田前衛部隊が迎え撃ち、槍での争いを数回あわせた。
作戦通り、後退し始めた。
真田昌幸は城門を閉ざし、櫓の上で甲冑もまとわず、家臣と囲碁を
打っていた。★塚本という家臣らしいことが載っていた。
  
 徳川勢は真田勢が小勢で弱いと思い、一気に上田城を落とそうと
上田城内になだれ込んだ。
真田昌幸の『空城の計』とも知らず、・・・・。
真田昌幸は諸葛亮孔明が琴を奏でて司馬仲達を退けた『空城の計』
による心理作戦を展開した。
徳川家康が三方ヶ原の敗戦でうんこを漏らしながら?引き上げて、
浜松城の大手門を開け、内と外に篝火を焚かせ、太鼓を叩かせた
た。警戒した武田軍山県昌景・馬場信房は兵を引き挙げさせた。
そして、浜松城は落城を免れたという『空城の計』のように・・・

徳川軍に攻め寄せられた際に上田城の門を開け放ち徳川勢を引き入
れようとすれば、用心深い指揮官ほど逆に警戒する。徳川勢に見破
られた場合は全滅の危険性があるが・・・鳥居元忠・大久保忠世は、
功績を焦って、突入した。

真田昌幸は家臣と囲碁を打ち続けた。
そして、真田昌幸は家臣に手鼓を打たせて『高砂の謡』を謡った。

徳川勢は挑発に乗った。鳥居元忠・大久保忠世は上田城に楽に入れた。
徳川勢は大手門も突破しようとした。・・・
 
真田昌幸はようやく甲冑を着け、櫓台に立った。眼下には戦功を焦る
鳥居元忠・大久保忠世らの主力兵が狭い二の郭(二の丸)にうじゃ
うじゃひしめきあっていた。門に取り付いたり、城壁
をよじ登っていたり・・・と攻めあぐんでいる。

真田昌幸はこの時を待ってましたとばかりに「攻め太鼓」を打ち鳴
らした。
「ドン・ドン・ドン・ドドドドド・・・」
合図で城門上に隠し、繋いでおいた縄を切らせ、大木や大石を
徳川勢の頭上に落下させた。

「撃てえ・・・」
同時に、堀狭間から鉄砲や弓矢を一斉に撃ちかけた。
画像

鳥居軍・大久保軍は大混乱になり、撤退した。
勝機と見た真田昌幸は城門を開かせ、総攻撃を命じた。
「出撃・・・。」
真田昌幸は上田城内の500の兵を追撃させた。
真田勢の怒涛の勢いに、徳川勢は浮き足立ち、逃げ惑うばかり
となった。
袋のネズミ状態になったのだ。

上田城下には互い違いの矢羽根のような千鳥掛けの柵===ウナギの
びんどうのような逆矢羽根型の柵で、徳川勢はなかなか逃げられない。
行きはよいよい帰りは怖い。通りゃんせ、通りゃんせ、ここは
ど〜この細道じゃ・・・状態になってしまった。

上田城外にいた200の遊撃前衛部隊は横郭に後退し、集結していた。
遊撃前衛部隊の200の兵を横から攻撃した。
 
 それから、上田城の町家に撤退した徳川勢に火を放った。
強風にあおられて、鳥居勢はまたまた大混乱となった。

 また、町家や山野に伏兵していた武装した百姓軍が火を合図に徳川勢
に打ちかかった。百姓兵は石礫を投げた。

 さらに、真田信幸は300?800?の兵で戸石城より討って出た。
徳川勢の退路を遮断し、真田信幸軍が襲いかかった。
真田勢は追撃の手を緩めなかった。

徳川勢の先手:鳥居・大久保勢は@城内軍、A遊撃前衛部隊、B百姓軍、
C真田信幸軍の四方から攻められた。・・・はさみ撃ちにされてしまった。

その上、千鳥掛けの柵{{{{{{くくくく《《・・・ハの字形に互い違いに
配置した柵で、塀・柵に突き当たってしまうと逃げにくい。
行きはすんなり行けるが、帰りが逃げにくい。
 (★和根崎剛氏・平山優氏の説明)
======塀・柵======================
/ / / / / / / / / / / / / / / /
 \ \ \ \ \ \ \ \  \ \ \ \ \ \
======塀・柵======================

複雑な町家のトラップに引っかかり、退路を見失った。
真田勢に、弓に刺さったり・鉄砲に撃たれたり・槍に突かれたりと
徳川勢は大混乱に陥いった。
 
 上田城に戻った徳川軍は鉄砲隊に次々と撃ち落とされた。

北国街道に撤退する徳川勢は、戸石城から討って出ていた真田信幸の
突撃で崩された。
真田軍は巻狩りのコの字状態にして、東方向に逃げ場を作った。
徳川軍主力隊はやっとのことで上田城の東方3km程の神川まで敗走
した。

徳川勢の多くが神川(かんがわ)を渡るに及んだ。
そこで、真田昌幸は最後の作戦に取りかかった。
真田昌幸は上流に築いておいた堰を切って落とすことを命令した。
雨による増水の上、さらなる増水=====
徳川勢を溺死させた。
これが最後の仕上げとなった。

矢沢城でも矢沢頼幸が800余の守兵で依田勢1500を退けた。

上田城・神川の戦いは徳川軍の犠牲者は300余名?一説には1,300名
にも上ったという。真田勢は40人程であったという。
●真田信幸の書状
徳川方の死者は1300余、真田方の死者は40余。
●大久保忠教の記録
徳川方の死者は300名余。

●大久保彦左衛門の『三河物語』
「徳川勢は悉く腰がぬけて、・・。」
戦意喪失状態であった。




【2】平成28年(2016)1月2日上田市学芸員:和根崎剛氏の説明
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・真田昌幸の造らせた用水路兼水堀
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【3】平成28年(2016)1月17日平山優氏の説明
 徳川方は、真田昌幸のいる上田城二の丸(郭)まで進んだ。
  @負けたふりして、城内に誘い、狭い場所で大群を鉄砲で
   習い撃ちをする作戦だった。
  結果・・・鉄砲の集中攻撃を受け撃退された。
  A更に後退の際に城方の追撃を受けた。
  B逆矢羽根型の柵(ウナギのびんどうのような)を造り、
移動を困難にした。
C真田昌幸は戸石城から横合いから側面攻撃をした。
   横谷掛かり的な作戦であった。
   結果・・・壊乱した。
  D追撃戦・・・矢沢勢も加わって神川で多数の将兵が溺死した。
増水もあって多数死んだ。
(★平山優)
・平山優氏
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・黒田基樹氏
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 (TVより)

8月3日
「真田手ごわし」と見た徳川勢は・・・・
 八重原の台地まで退陣し、軍勢を整えた。
 そして真田の属城:丸子城攻撃に切り替えた・・・。
(★上田城のシュミレーション動画)・・★よく分かった。

 徳川方は真田氏に味方した丸子三右衛門の籠城する丸子城を
  攻めた。
  要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できなかった。

〜〜〜以後20日間程対陣を続けた。

  上杉勢援軍:須田軍との小競り合いをした。
  上杉勢の増援の報・・・・
 徳川家康は援軍;井伊直政、大須賀康高、松平康重の5000を
 出した。
 鳥居元忠は徳川家康から井伊直政・松平康重5000の援軍を得て、
 再度、上田城を攻めようとした。
 しかし一時撤退命令がでた。
 
8月28日 徳川軍の大半が上田より撤退した。
   大久保忠世らは小諸城に留まって真田勢と小競り合いを繰
 り返した。

11月 川家の重臣:石川数正が出奔して豊臣秀吉の元に
 走るという事件が起きたため、上田城攻めは中止となり、
  完全に撤退し、三河に引き返した。
  (★ウィキペディア)
@上田城の門2階のビデオは非常に優れている。
  両者の動きが同時に地形図や城内の縄張りに→→で示されて
  いる。★とっても優れものである。
A上田市立博物館・・・神川合戦の合戦図が所蔵されている。


結果・・真田昌幸はわずか2,000の兵力で徳川軍
 に1,300人もの死傷者を出させるという大勝であった。
 真田軍は40人ほどの戦死者だった。
★人殺しなんだよな?戦国武将は・・・
 
真田信繁は上杉氏のもとに人質として置かれたが、
徳川方に帰属した信濃国衆である屋代氏の旧領が与えられた。
  

◆◆第一次上田合戦の作戦がち
(★平山優・黒田基樹)・・・知将:真田昌幸の凄さ
真田昌幸の巧み地の利を活かした戦法・城の構造を生かした戦術
 と長男:信幸の活躍により、徳川軍を撃退した。
@負けたふりして、誘って大量に殺戮する作戦
A城の外の柵を設けた側面攻撃の作戦
B増水した神川に追い込んで溺死させる作戦
・・・自分の都合のよい戦いに持ち込むで、徳川勢を撤退させた。
 真田昌幸は戦略に長けていた。大坂城真田丸の原点がここに
 見られる。
 
・天正13年(1585)9月〜天正14年(1586)5月
沼田城代:矢沢頼綱(真田昌幸の叔父・矢沢三十郎頼康の父)
が北条氏邦や家臣:猪俣邦憲が数回に渡って攻撃を仕掛けたが、
全て撃退に成功している。




◆◆ 第一次上田合戦の影響 ◆◆
真田軍は4〜5倍の敵を見事に撃退した。
@『上田合戦』に勝利した。真田の名は一躍有名となった。
A真田昌幸は優れた智謀であると評されることとなる。
B「徳川敗北」の報は天下を巡り、「真田恐るべし。」と諸大名
  から一目置かれるようになった。
C上田合戦を契機に真田氏は、武田の旧臣から信濃の大名と
 して豊臣系大名の間で認知されることになった。
D徳川家康の真田氏に対する評価は高まり、結果として本多忠勝
の娘:小松姫を養女として真田信之へ嫁がせて懐柔するきっかけ
となった。
E真田昌幸は以後、上杉景勝、豊臣秀吉に臣従し、領国と城の整
備に努めることができた。真田昌幸は上田地方(小県郡)の統一
した。




◆参考文献
『真田昌幸』柴辻俊六著
『真田三代 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る』平山優著
などたくさん・・・・

上田市立博物館・・・神川合戦の合戦図が所蔵されている。


◆参考動画
上田城の門2階のシュミレーションビデオは非常に優れている。
  両者の動きが同時に地形図や城内の縄張りに→→で示されて
  いる。★とっても優れものである。
◆参考TV
平成28年(2016)1月2日 ぶらたもり「和根崎剛氏の説明」
平成28年(2016)1月17日 平山優氏・黒田基樹氏の説明




★明日も真田関係かな?

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箕輪初心:生方▲真田丸32【真田昌幸:空城の計&第一次上田合戦】 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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