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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田●53『前山城』&伴野氏の歴史後編

<<   作成日時 : 2016/02/25 05:39   >>

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伴野氏宗家:THしゃんはもし、間違った記述がありましたら、
ご指摘ください。
鎌倉時代、加賀美遠光&小笠原長清が信濃守護になった。6男
(4男?):伴野時長と続く。伴野館=野沢城を居館としていた。
伴野氏が、同族大井氏との争いの中で、文明年間(1469〜1487)
に伴野光利が前山城を築いた(伝)。 天文9年(1540)武田信虎
臼田・入沢の両城をはじめ数十城を攻め破り、「前山に城を築い
て在陣す。」と記されている。武田信虎の助力によって前山城の
拡張工事が行われた。天文17年(1548)上田原合戦の後、村上
義清に従った。天文18年(1549)伴野氏は再び武田氏に臣従した。
永禄年間、伴野氏は箕輪城城番→倉賀野城城番→根小屋(高崎)
城代となった。
画像

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3つの説
@伴野信守の長男:伴野貞長説
A伴野信守の次男:伴野貞長説
B伴野信是の嫡男:伴野貞長説


◆◆ 伴野氏の歴史 ◆◆
・天正元年(1573) 武田信玄が病死。

・天正3年(1575) 長篠の戦い
  武田軍は織田・徳川連合軍と戦って壊滅的敗北を喫した。


・天正10年(1582)
3月11日 武田氏滅亡。
3月23日 織田家臣:滝川一益の領土となった。
甲斐は信長の家臣:河尻秀隆
木曽は木曽義昌・・・そのまま。
北信濃は森長可
  信濃小県&佐久と上野国の西部は滝川一益に与えられた。

6月2日   本能寺の変。織田信長が横死。
 甲斐の河尻秀隆が武田遺臣:土豪一揆に殺害され、甲斐が
 無主の国となった。
6月??日 
 「伴野左衛門方始て出仕」
 (★『高白斎記』)
 伴野左衛門は貞祥の嫡男:信守の弟にあたる?

森長可も信濃:海津城から撤退した。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方▲真田丸43:第6話【迷走】のあらすじ
&「森長可の撤退」
http://53922401.at.webry.info/201602/article_19.html

甲斐・信濃・上野は後北条・徳川・上杉の草刈り場となってしまった。
 
北条氏直は父:北条氏政の命で叔父:鉢形城主北条氏邦らと共に
4万3千の大軍をもって上野侵攻を開始した。
6月16日に、北条氏邦は本庄に本陣を置き、富田、石神に布陣、
6月18日  金窪城で滝川軍と北条軍は激突した。
     初戦では氏邦が率いる先鋒が敗退した。
6月19日 神流川の戦い
    北条氏直本軍が滝川一益軍に勝利した。

滝川一益軍は箕輪城に撤退した。
夜、別れの宴を催した。
(★北条5代記)

6月20日 滝川一益は箕輪城→松枝(松井田)→小諸城に
津田小平次秀政(滝川娘婿:織田一族)が殿だった。
@唐沢定一説・芝辻俊六説・ウィキペディアの説
真田昌幸・和田信業・木部高成・倉賀野秀景が人質返還に
 感謝し、滝川一益を下諏訪まで送って行った。
A平山優説・黒田基樹説・・・「真田丸」
 真田昌幸&真田信繁は箕輪城に駆けつけた。
 滝川一益がとり・きりを人質にとって、・・・

6月下旬
  北条氏直は敗走する滝川一益を追って上野国から信濃国に侵攻
した。

北条氏直は佐久郡・小県郡を支配下におさめた。
伴野信是の野沢城は北条領となった。
伴野信守の前山城も・・
(★個人的には信是=信守ではないか?
    武家列伝では伴野信守の子どもは貞長
    別資料では伴野信是の子どもが貞長)
岩村田大井氏・内山城大井氏・岩村田大井氏の臣従した。
望月城の望月昌頼の
依田7家・・・相木市兵衛依田昌朝も・・・・
真田昌幸も北条氏政に臣従した。

大導寺政繁を小諸城主にした。
北条氏直は諏訪へ進軍し諏訪頼忠を味方に付けた。
さらに、木曾義昌(北条氏直叔母:真竜院の夫)とも連絡を取り
木曽を制した。

徳川家康はかくまっていた依田信蕃に命じて甲斐の武田遺臣たちを
味方に付けさせた。
依田信蕃のもとには3000の甲斐武士が集まった。

6月21日 依田信蕃は小諸へ入った。
●13代:伴野信守
 
6月22日 依田信蕃は小諸城の滝川一益にあった。
@芝辻説・・依田信蕃は滝川一益から小諸城をもらい受けた。
 
A平井優氏や黒田基樹氏の説
「祖母:とり、真田信繁・矢沢綱幸が人質になった。」


7月 徳川家康配下:依田信蕃の一族:依田肥前守が伴野信是
の伴野館=野沢城を攻略した。


8月 天正壬午の乱
北条氏直は若神子城(北杜市須玉町若神子)に本陣を置いた。
北条氏直は「甲斐は祖父(武田信玄)の旧領国」なので
  領有を望んだ。

徳川家康は新府城を本陣に七里岩台上に布陣した。

北条軍 VS 徳川軍
 
黒駒合戦
 別働隊の北条氏忠・北条氏勝が甲斐国八代郡黒駒(山梨県笛吹市
 御坂町)において徳川方の鳥居元忠らに敗退した。
 戦線は膠着した 。
 80日間に及んだ。


8月 徳川家康は甲州・信州に依田信蕃に命じて甲斐の武士遺臣
  たちを味方に引き入れさせた。
 依田信蕃は徳川家康の後援を得て、佐久に攻め入り、北条氏政
 の軍勢と戦った。

 小県郡の北条方の真田昌幸を説いて徳川家康に臣従させた。
滝川一益敗退後に北条に帰参していた真田昌幸や木曾義昌が離反
 した。
 家康方の依田信蕃がゲリラ活動を行い北条軍の補給路を脅かした。

依田信蕃と真田昌幸は協力して碓氷峠で北条氏の後方連絡線をたって
 徳川・北条の和睦のきっかけとなった。

依田信蕃と真田昌幸は協力して碓氷峠で北条氏の後方連絡線を
 たって、徳川・北条の和睦のきっかけとなった。

◆説B「相木市兵衛依田昌朝と武田信玄」依田武勝著  
10月 相木市兵衛相木昌朝&子:相木市兵衛依田頼房&
 伴野助十郎信是の子:貞長は田口城に籠城した。

相木昌朝は依田信蕃に田口城、相木城を包囲された。
相木昌朝は北条氏政の援軍を頼りに田口城に籠って戦った。
★相木市兵衛依田昌朝&依田信蕃は5親等?の親戚だろうと
 思われる。

10月27日 織田信雄・信孝兄弟の調停もあり、
  北条氏政が徳川家康が講和した。
 北条氏直は徳川家康の娘を貰うことになった。
上野は北条氏直、甲斐・信濃は徳川家康が領有し、
 家康の娘が氏直に嫁ぐことで両軍の和睦・同盟が成立した。
 ※天正11年(1583)8月15日、徳川家康の娘・督姫が
 北条氏直に嫁いだ。

 北条氏が相模へ引上げた。
 
◆説3「相木昌朝子孫:宗家:依田武勝氏の本」
 に田口城が攻め込まれ、相木昌朝は大導寺政繁を頼り
 上野国:松枝へ逃れた。大導寺政繁は保渡田村に行くことを
 勧めた。
 ★保渡田城は箕輪城から3kmの南南東にある。
 保渡田城には、武田遺臣:内藤昌明(跡部勝資の子ども)・
 土屋子孫(金丸虎義の子ども)・塚越半七(私の母の先祖)・
 友松など生島足島神社の起請文に出てくるメンバーが住んで
 いた。
★一緒に相木市兵衛相木昌朝&子:相木市兵衛依田頼房&
 が保渡田村(高崎市旧群馬町)
 2年後、相木昌朝は保渡田で亡くなった。
伴野信是の子:貞長説
伴野信守の長男:貞長説
 伴野信守の次男:貞長説
 があるようだ。
その後、相木城は廃城になった?

◆説2
11月 依田信蕃は伴野信守に対して前山城攻略の軍を進めた。
 伴野信守&伴野君臣ともに前山城を死守して抗戦した。
 しかし、力尽きて自害した。
 伴野信守の嫡子:伴野貞長は前山城外に出て戦っていたが、
 城中が火に包まれたのをみて残る兵を集めて敵軍に突入して
 戦死した。
 ※小笠原伴野氏は滅亡した。
 伴野貞長の弟:伴野信行は、武州八王子に逃れた。不明である。


◆説3「相木昌朝子孫:宗家:依田武勝氏の本」
『相木市兵衛依田昌朝と武田信玄』
11月4日 依田信蕃は家康家臣:柴田康忠・菅沼定利
 とともに、前山城:伴野信守も攻めた。
 しかし、伴野信守は戦死し、前山城は落城した。
 伴野信守の子:伴野貞長20歳は佐久を去り、小田原北条氏
 を頼った。?男:貞信7歳は前山義助に連れられて、武州に
 逃れた。

徳川家康は依田信蕃の戦功を賞して佐久・諏訪の2郡を与えた。
正式に小諸城代とした。

・天正11年(1583) 2月12日
 芦田(依田)信蕃は田口城を夜中に攻撃した。
 相木依田頼房は相木城(見立城)にいたが、早馬の知らせを受けて
 駆けつけた。30kmもあり、既に田口城は落ちていた。
 北相木の坂上城も落とされた。 


岩尾大井行吉は春日弾正の元で海津城を守っていたが、北条氏政:
家臣の松井田城主:大導寺政繁に属した。
岩尾大井行吉は反旗を翻した。
大手台郭・・大井行進・浅沼平兵衛・常陸平六左衛門・
3の丸・・・阿久津藤十郎・東条新助・神津郷左衛門
2の丸・・・依田丹波守・柏山刑部左衛門・岡村式部・
西の丸・・・根々井入道・清水?・青木?
を配置した。


・天正11(1583)年2月21日
  依田信蕃は岩尾城攻めにかかった。
★岩尾城は武田信玄が真田幸隆が手をかけた縄張りである。
 丸馬出や三日月堀も残っている。写真があれば、後日、紹介
 できると思う。
 5年分の写真が消滅したので凄さは紹介できないかも?


◆説3「相木昌朝子孫:宗家:依田武勝氏の本」&北相木教育委員会
 伴野貞長は上野国から小田原北条家に食客となった。
 相木市兵衛頼房は倉賀野城の食客になった。

・天正17年(1589)
相木頼房&伴野貞長は相木に戻ってきた。
2人は密かに兵を集めた。

・天正18年(1590)
3月17日 
依田(松平)康国 VS 相木頼房&伴野貞長
 結果・・・相木軍敗退
伴野貞長だ戦死。

※伴野貞長の墓・・・北相木村の山中

★伴野Hしゃんちは伴野貞長が用心のため、上野国に残してきた
 子孫だった可能性があるのではないだろうか?

@伴野信守の長男:伴野貞長説
A伴野信守の次男:伴野貞長説
B伴野信是の嫡男:伴野貞長説
があるように思える。しかし、Hしゃんは
伴野貞長であったことが確定したのだ。
間違っているのかな?





●『寛政重修諸家譜』〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
伴野時長六代の孫:貞元を祖とする伴野氏がおさめられている。
伴野能登守貞守が武田信玄・勝頼に仕え、その子:貞吉も武田
信玄・勝頼に仕えた。
・天正10年(1582) 武田氏滅亡。
 伴野貞吉は徳川家康に属した。
・天正18年(1590) 徳川家康の関東入国。
 伴野貞吉は上野国に地を賜った。
・慶長5年(1600) 徳川家康の上杉景勝の討伐征軍に加わった。
 関ヶ原の合戦にも参陣した。
 徳川家康の命によって依田(松平)康国の上田城を守備した。
 子孫は数家に分かれて、徳川家旗本として続いた。

◆参考資料
・佐久市志
・南佐久郡志誌
・佐久市観光協会提供資料
・『相木市兵衛依田昌朝と武田信玄』:依田武勝著
・「戦史ドキュメント 川中島の戦い」:平山優著
・真田三代:平山優著
・別冊歴史読本「武田信玄の生涯」(新人物往来社)
・「図解 」宮坂武雄著
・「日本城郭大系」(新人物往来社)


◆参考サイト
「武家家伝ー伴野氏」
ウィキペディア

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