城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田●52『伴野氏館=野沢城』&伴野氏の歴史前編

<<   作成日時 : 2016/02/24 11:11   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

伴野氏宗家:THしゃん宅は拙宅から50mの所にある。Hしゃんは
先祖:伴野氏や戦国史に詳しい方である。Hしゃん、もし、間違った
記述・疑問点がありましたら、ご指摘ください。よろしくお願いします。

『東西73m、南北110mの南北に長い長方形で、周囲に土塁と堀を
廻らせた城の主郭部分にあたる。土塁は北側と西側、東側の北半分
が残存し、堀は全周が残存する。南側の中央に入口を設け、南西の
高台に物見櫓を設けていたと伝えられている。県史跡指定を受けた
部分は、鎌倉時代〜室町時代に活躍した伴野氏の居館(野沢館)と
考えられている。また戦国時代頃に館を兼ねた城として増改築され
たと考えられている野沢城の主郭部分にあたる。』系図は武家列伝
を参考にした。違っているかもしれないが、・・・
(★現地説明板)

◆訪問日・・・
画像

画像

画像

画像

画像

画像

画像

画像

画像

画像

画像





◆◆ 伴野氏の歴史 ◆◆
・平安時代末期〜鎌倉時代初期
●甲斐源氏の加賀美遠光
妻・・・和田義盛の妹
長男:秋山光朝・・・・巨摩郡秋山村に居住した。
次男:小笠原長清・・・巨摩郡明野村小笠原。信濃守護家・
           弓馬術礼法小笠原流の祖。
3男:南部光行・・・・南部の牧(身延町南部町)→陸奥南部氏
4男:加賀美光経
5男:於曽光俊(経行)
長女:大弐局・・・2代将軍:源頼家・3代将軍:源実朝の養育係


加賀美遠光と嫡男:小笠原長清は信濃守に任ぜられた。
 伴野荘・大井荘を支配した。


●甲斐源氏の小笠原長清
@小笠原長経・・・阿波国守護
A八代長光
B小田清家
C伴野時長・・・・6男説→嫡男。伴野荘(長野県佐久市)を領有。
D大井朝光
E伴野教意
F伴野為長
G大井行長
H鳴海清時
I大蔵清家
J大倉長隆
K八代長文
L伴野行正
M大倉行信
N伴野行意
など????
※山梨県南アルプス市には、小笠原長清公館跡や小笠原長清の孫:
上野盛長の築いた上野城(椿城)跡がある。
※北巨摩郡明野村小笠原の長清寺には小笠原長清の墓がある。

初代:伴野時長
小笠原長清は嫡男:伴野時長に伴野荘を与えた。
 伴野時長が伴野館を構えた。
・承久元年(1221) 承久の乱
鎌倉幕府に敵対した大内惟信(平賀氏)の平賀郷も受け継いだ。
伴野荘は源氏一門:平賀氏の本貫地:平賀郷を含んでいた。
 五百貫で「大荘園」とされる。
子ども
 跡部長朝
 伴野時直
 伴野朝時
 伴野朝家
 安達義景室・・・安達泰盛の母

2代:伴野時直
子ども
 伴野長泰
 伴野泰直

3代:伴野長泰
子ども
伴野盛時・・・・長男:
伴野長直
伴野泰行・・・・伴野氏主流
伴野長盛
伴野長貞

 ・弘安8年(1285)霜月騒動
北条氏の内管領:平頼綱
(北条時宗の死後、執権貞時(14歳)を擁立した。
VS 
 御家人最有力者:安達泰盛&安達宗景父子
 
 霜月騒動で討滅されたものは、
 @安達泰盛&安達宗景父子と分流大曽祢一族
 A安達泰盛の母の実家:小笠原惣領家:伴野出羽守長泰一族
伴野長泰は、弟:伴野泰直、嫡子:伴野盛時、次男:伴野長直
   の4人が殺された。
B三浦対馬前司
C足利上総三郎
D南部孫二郎  守
  自殺者は50人を越え、事件は全国各地に及んだ。
安達泰盛派の有力御家人で討たれた数は500人以上にのぼった。
さらに、評定衆:宇都宮景綱、評定衆・引付衆:長井時秀父子も
失脚した。

  安達氏に連なる500名以上が斬殺された。

小笠原惣領家:伴野出羽守長泰は安達泰盛の母の実家にあたるため、
 伴野一族はことごとく連座して滅ぼされた。
 伴野荘も北条氏に没収され、所領の大半は執権北条氏領となった。
 


 伴野氏支族が三河国や佐久伴野荘周辺で再興の機を伺った。
@伴野長泰の長男:盛時の子:泰房は、安達氏の旧領三河国小野田荘
  に逃れた。三河小笠原氏の祖になった。
  現西尾市役所幡豆(はず)支所から南へ約500m行ったところに
 「寺部(てらべ)城址」がある。標高29.7mの丘陵上にある平山城
 で、頂上の本丸跡からは三河湾が一望できる。正面にアサリで有名な
 梶島、右に吉良温泉が望める。「幡豆小笠原氏」は寺部城を拠点として、
 隣の吉良氏や岡崎徳川氏に服属しながら三河湾で海上活動を展開した。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●愛知三河【幡豆寺部城】&小笠原貞頼の謎
http://53922401.at.webry.info/201212/article_9.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 A伴野長泰の3男:泰行の子:長房は伴野荘に潜んで、父祖伝来の
   伴野荘地頭職奪還の機会をうかがった。
B伴野長盛か伴野長貞?は小笠原家の客分となり、伊那に在住した。

 騒動後、小笠原惣領職は京都小笠原氏系の小笠原長氏に移った。
 小笠原長氏の孫:貞宗は南北朝期に信濃守護となって活動し、
 子孫は信濃小笠原氏として繁栄した。
 
4代:伴野泰行(長泰3男)・・・

5代・伴野長房
・元弘3年(1333) 鎌倉幕府の滅亡。
後醍醐天皇による建武新政
・南北朝時代 
  伴野長房は京都大徳寺と伴野荘地頭職をめぐって争った。
  伴野長房は足利尊氏の執事:高師直に接近して、在地に代官を
  置いた。

・延元4年(1339) 後醍醐天皇が亡くなった。
足利尊氏は京都に天竜寺を造営した。
・興国6年(1345) 足利尊氏は天竜寺落慶供養の儀を行った。
先陣随兵に小笠原政長、後陣随兵に伴野出羽前司長房がいた。
小笠原惣領信濃守政長:伴野出羽守長房は室町幕府内に
  おける高い地位を持っていた。
「観応の擾乱」
  兄:足利尊氏 VS  弟:足利直義
・正平4年(1349)8月 高師直は足利直義を討とうとして京都に
  入った。高師直軍に信濃守護:小笠原政長、伴野長房が加わ
 っていた。・・・・
・正平7年(1352) 正月 足利直義は鎌倉に入り急死した。
   兄尊氏の毒殺説あり。

・南北朝時代  伴野長房は一貫して足利尊氏に属し、高師直と
 結んで次第に勢力を伸ばした。
 伴野荘の地頭職に返り咲いた。
・正平8年(1353) 6月 旧足利直義党が南朝軍と合して京都に攻め
  込んだ。伴野長房は足利義詮軍に属して、京都神楽岡の戦いで
  討死した。
※ 伴野長房の討死後の長房系伴野氏の動向は明らかではない。

6代:伴野長信
・元中9年(1392)8月 
  将軍足利義満の相国寺落慶供養にの先陣随兵に伴野次郎長信
  がいる。

 伴野氏が2系に分かれた。

 
●7代:伴野貞棟・・・別系統かも?
・寛正6年(1465) 伴野弥四郎貞棟が将軍:足利義政に上総介
  受領を願いで出て、許された。
  (★の『蜷川日記』)
  室町幕府政所の執事:伊勢貞宗(伊勢新九郎→北条早雲の父)
 の代官:蜷川親元として政所代に就いていた。
・文明3年(1471) 伴野上総介貞棟が将軍足利義政に太刀一腰・
 銭10貫文を贈った。  
 伴野上総介貞棟は伴野長房の系統を継いで伴野荘の領主となった。
 伴野氏の嫡流は奉公衆を務めていた。
 伴野荘の在地には前山城主伴野光利がいた。
伴野光利は佐久郡跡部(佐久市跡部)を拠点とした小笠原総領家時直
 の弟:跡部長朝系である。
 小笠原総領家伴野時直→伴野長泰→伴野長房→伴野貞棟とは系統の
  異なる小笠原氏であった。
 室町時代の伴野荘には、2系統の小笠原系の氏族が存在していた。

8代・伴野光利
・戦国時代
 伴野氏館は拡張され野沢城と称し、伴野一族の野沢康政らが在城
 した。
  伴野光利の時代に伴野荘のほとんどを支配下に置いた。
 境を接する大井氏と所領を争そった。

・文明年間(1469〜1487)伴野光利は前山城を築いて移った。
   伴野氏は大井氏と対立した。
    甲斐の武田信昌らの援軍を得た。
    武田氏との友好関係が始まった。

・文明11年(1479) 7月 伴野光利は岩村田大井氏と戦って破った。
 大井政朝は伴野氏の捕虜となった。

・文明12年(1480) 
 『諏訪御符礼之古書』に「伴野殿死去」とある。
  野沢伴野貞棟と考えられている。
 
・文明16年(1484)野沢伴野氏と前山伴野氏が同族の争い説
一時的に2つの伴野氏が闘った。
前山城主の伴野氏と野沢館の伴野氏が戦い、野沢館の伴野氏が
  敗れたのであろう。
 

・延徳元年(1489) 前山城主伴野光利が死去。85歳。
(『洞源山貞祥寺開基之由』)。
『洞源山貞祥寺開基之由』
@伴野光利85歳
A伴野光信76歳
B伴野貞祥89歳
『洞源山貞祥寺開基之由』


9代?伴野貞慶
・永正6年(1509)9代将軍:足利義稙は関東管領上杉顕定に命じて、
 伴野六郎と大井太郎の争いを和解させた。

・永正7年(1510) 越後国長森原の戦い
 上杉顕定は長尾為景&高梨政盛らと戦って討死した。

高梨政盛の娘が長尾為景であった。生まれた子は上杉謙信
 だよ〜ん。
 出陣した伴野六郎は伴野貞慶?とする説もある

ちなみに、前山城主は伴野貞祥で、大井城主は大井玄慶のあとを
継いだ大井忠孝か大井貞隆であったと想定される。

伴野氏と大井氏の争いはその後も続いた。
この対立を利用して武田信虎が佐久郡を制圧することになるのである。

・永正12年(1515)伴野光利が没した。


10代?:伴野貞祥


・大永元年(1521) 前山城主伴野貞祥(さだよし)によって貞祥寺が
 創建された。
※伴野貞祥は祖父:光利33回忌・父光信7周忌の追善のため、
 前山に貞祥寺を開基した。

「甲斐の武田信虎が伴野氏に頼まれて信州に出立したが、信州方が一つ
になって、伴野氏は行方不明になった」
 (★『妙法寺記』)
 前山城主は伴野貞祥であった。
 

11代:伴野光信

・大永7年(1527)
 前山城主:伴野光信は大井一族との争いに武田信虎に支援を
 要請した。

・天文9年(1540) 武田信虎が佐久に侵攻した。
 武田信虎は板垣信方を大将として佐久郡へ侵攻を開始した。
 臼田・入沢の両城をはじめ数十城を攻め破り、
「前山に城を築いて在陣す。」と記されている。
 武田信虎の助力によって前山城の拡張工事が行われた。

 武田信虎は前山城を根拠地として佐久郡を制圧していったのである。
 ★おそらく、伴野氏と武田氏は親睦関係を築き、それを背景として
 武田氏は佐久郡に侵攻してきた。


・天文12年(1543)
 武田晴信は長窪城の大井貞隆を攻めるため出陣した。

◆天文12年(1543)か天文13年(1544)
 真田幸綱(幸隆)は武田晴信に臣従した。
真田幸綱が家臣にしれくれと言ったのか?
武田晴信が誘ったのかは分からない。
個人的には武田晴信が旧領を餌に真田幸隆を誘った可能性の
方が高いと思っている。武田晴信も余裕がなかったのだろう。
村上義清より武田晴信だ。村上義清は大嫌いってとこか?

「 相木市兵衛依田昌朝と武田信玄 」という本を伴野宗家子孫
Hしゃんからお借りした。
この本には
 「相木市兵衛依田昌朝が海野棟綱長男:海野小太郎(真田幸隆)
  を上野国(箕輪城)から連れだし、真田幸隆と名乗らせ、武田
  晴信に紹介した。・・・・
  依田昌朝の娘を真田幸隆の次男:真田昌輝に嫁がせた。・・・
  躑躅ヶ崎の城下でのでも家は隣であった。」

穴山 高坂 真田  甘利
馬場 相木 と、隣は譜代である。
 ★いずれにしても、真田幸隆は2年4ヶ月箕輪城にいた
可能性が高い。
画像



・9月9日、申刻、光台退治のため、千塚まで御出陣。
・10日、若神子に御着。
・12日海野口。
・15日宮ノ上。
・16日前山。
★伴野光信の前山城に入っている。
伴野氏は武田晴信(信玄)の佐久侵攻に対しても、佐久の土豪
 としては唯一協力的だった。芦田信守&相木昌朝の武田晴信への
 臣従を促した可能性もある。
・17日御着陣。申刻、長窪の城、攻めなさる。
・19日、光台(大井貞隆)生け捕る。
・20日、望月一族生害なさる。
  『高白斎記』天文12年の項目
(★余湖さんのHpから引用させていただいた。)
 
大井貞隆の家老だった芦田守信&芦田(依田)系の相木昌朝は
 武田晴信に内応し、岩村田城:大井貞隆を降伏させた。
   
 しかし、大井貞隆は長窪城で反旗を翻した。
 長窪城(現長和町)を攻撃となった。
武田家臣:芦田信守と相木昌朝は元主家:大井貞隆を攻撃した。
 長窪城主:大井貞隆を攻めて自害に追い込んだ。

結果・・長窪城は武田氏の御料所(直轄地)となり、長窪城は東信濃
・北信濃侵攻の前線基地として重要視された。


さらに、武田晴信は望月城を攻撃した。
望月盛昌の子:望月昌頼は小諸城に逃げた。しかし、弟の
望月源三郎(望月信雅)&望月新六は武田晴信に最後まで抵抗した。
★同族の滋野系海野系真田幸綱(幸隆)の仲介による説得で降伏し
たという。
望月源三郎が武田晴信の配下となった。
『天文十二年九月二十日、「望月一族為生害」と記されている。
(★『高白斎記』)

※真田幸隆は一般的に箕輪城に3年いたことになっている。
*天文12年(1543)か天文13年(1544)
 真田幸綱(幸隆)は武田晴信に臣従した。 
*下記のように、望月源三郎に降伏を勧めたとすると、
 箕輪城に約2年4ヶ月といたことなる。


武田晴信の配下に芦田信守・相木昌朝・望月源三郎がなった。
@芦田信守→依田玄蕃(信蕃)+跡部勝資の娘 →依田康国

A相木市兵衛依田昌朝→相木市兵衛頼房+山県昌景の娘→
 帰参直後から騎馬80騎持ちで田口城代に任じられた。
 後、相木昌朝の長女は真田幸隆の次男:真田昌輝に嫁いでいる。
 相木昌朝の次男:相木市兵衛頼房は武田信玄より依田能登守の
 名を与えられた。

B望月源三郎→望月(武田)信頼
 望月源三郎は武田晴信の「信」を与えられ、望月信雅と名乗った。
 望月盛昌の娘(望月信雅昌の兄?妹?)は武田信玄の弟:典厩
 信繁の嫁となった、武田信繁の子:望月信頼&望月信永は
 望月信雅の養子となった。
真田幸隆の家臣に望月太郎左衛門がいるが、一族であろう。
 また、望月太郎左衛門の子:望月六郎幸忠は真田幸繁の小姓
 だったという。真田忍者とも言われている。

・天文15年(1546) 武田信玄は佐久に侵攻。
5月3日 海ノ口に着陣、
5月6日 前山城に布陣。
     内山城の大井貞清・貞重父子を攻めた。
5月20 大井貞隆の弟:大井貞清は内山城を開城した。
真田幸隆の助命で生き延びた。
     野沢城に蟄居した。

・天文16年(1547) 大井貞清・貞重父子は躑躅ヶ崎館への出仕を
   促され、駒井高白斎を仲介として武田氏に臣従した。

●10代:伴野貞祥   
・天文17年(1548) 
2月 上田原合戦
  武田晴信が村上義清らに敗れた。
  村上義清は佐久に侵攻し、内山城下に放火した。
前山城の伴野貞祥も村上氏に降伏している。
  村上義清は諏訪周辺にまで勢力を伸ばした。

7月 塩尻峠合戦
   武田軍が村上軍に大勝した。
   武田信玄は佐久に再侵攻した。
9月11日 佐久衆に占拠された前山城を奪還した。

・天文18年(1549) 野沢城主:伴野信是も武田に降伏した。
  伴野信是は出仕し臣従した。
 B岩尾城攻め
真田幸綱(幸隆)が降伏を呼びかけた。
大井行頼&行吉父子は武田晴信に臣従した。
大井行頼&行吉父子のほか、真田幸隆が岩尾城代に
して、岩尾城の改修をした可能性が高い。

・天文16年(1547)9月
C志賀城攻め&小田井が原の戦い
真田幸隆・芦田信守・相木昌朝・望月源三郎・大井貞清・
   大井行頼&行吉父子・伴野助十郎信是などが参加した。

   3000人のさらし首
『風林火山』・・・さらし首を並べたのは山本勘助だった。
★さらし首の提案者は真田幸隆かもしれないと個人的に
思っている。何せ、村上義清に付かなかった位嫌っていた
のだろう。笠原清繁は村上義清の傘下だった。
3000は無理かもしれないが、・・・
武田家臣で3000なので、板垣勢・甘利勢だけで、3000
持ってくるのはちょっときつい。

笠原清繁・高田憲頼が討ち死に。





●12代:伴野信豊
・天文18年(1549)
12月16日 伴野信豊は武田晴信に臣従した。

・天文19年(1550)
7月 林城攻め
  武田晴信は林(松本市)城主:小笠原長時を破った。

9月 砥石城攻め
 上田原の合戦
真田幸隆・芦田信守・相木昌朝・望月源三郎・大井貞清・
大井行頼&行吉父子・伴野助十郎=伴野信豊などが参加した。

E砥石崩れ→ ・・・笠原清繁の残党もいた。
 
・天文20年(1551)
真田幸綱(幸隆))の砥石城乗っ取り・・無血開城。




・永禄4年(1561) 第4次川中島の戦い
 ※5代目:芦田(依田)信守は川中島で戦功があった。

・永禄4年(1561) 第4次川中島の戦い
武田信玄 VS 上杉政虎(上杉謙信)
武田信玄は対外方針を転換した。
上野国へ
駿河国へも視野にいれた。
武田信玄 VS 武田義信
★ちょっと確執が始まった。
武田信玄・・・今川領国への侵攻を志向した。
武田義信・・・※武田義信の妻は今川義元の娘だった。
   諏訪勝頼(武田勝頼)は高遠城主となった。
  武田信玄 VS 武田義信
派閥抗争に発展した。

・永禄7年(1564) 7月
武田信玄の嫡男:武田義信の傅役:飯富虎昌、側近:長坂源五郎
  昌国、曽根周防守虎盛らが武田信玄の暗殺の密談をして
  いたが、計画は事前に飯富虎昌の実弟:飯富三郎兵衛( 山県
  昌景)の密書により露見した。
・永禄8年(1565)年1月
義信事件に連座し誅されたのは
  ・飯富虎昌は謀反の首謀者として処刑された。
・長坂昌国ではなく、長坂勝繁が処刑された。
・曽根九郎左衛門尉の弟?が処刑された。
   ・・・曽根昌世の子
・鹿野??・・・・★子孫が埼玉さいたま市鹿野館に移住。
  80騎の家臣団は追放されたという。
★『甲陽軍鑑』の間違いか?


・永禄9年(1566) 9月29日 箕輪城を攻略
 甘利昌忠が箕輪城代になった。
伴野信是・大井貞清らは箕輪城城番になった。

10月29日 伴野信是が倉賀野城城番になった。
一時、上杉輝虎の家臣になった。




・永禄10年(1567)
3月6日 真田幸隆は白井城を落として信玄から褒められた。
3月8日 真田幸隆・甘利昌忠・金丸虎義が箕輪城代になった。


8月7日/8日 武田信玄は家臣団に信玄への忠誠を誓わせた起請文
   を生島足島神社に奉納した。
武田信玄が起請文を出させた理由は
@親:武田信虎を駿河に追放した。
 A飯富虎昌ら重臣に詰め腹を切らせた。
 B嫡子武田義信を幽閉した。
 結果・・・家臣の動揺・・・自分から心が離れていく可能性がある。
  C駿河・遠江方面に侵攻した場合、もし留守中に信濃、西上野
  在陣の武士たちが反旗を翻すことでもあれば、まずい。
  反乱の動きを警戒し、封じようとしたのだ。
  生島足島神社に現在残っている83通237人にも及ぶ甲斐・
  信濃・西上野の武将から署名・血判の上、起請文を書かせて
  誓約させることにした。


 10月19日 武田義信は東光寺で死去した。享年30。
 11月 武田義信の正室は駿河へ返された。

・宝物館
・武田信玄の起請文
★何と起請文に書かれている人の子孫が今日は4人も乗っていた。
 浅利・友松・塚越・富所の子孫の方々・・・凄すぎる。

●武田家臣団起請文83通
武田信玄は甲斐国・信濃国・上野国の家臣団に忠誠を誓わせた。
熊野牛王宝印の裏に署名され、花押・血 判された。
家臣の数は237名である。
永禄9年(1566)8月23日・・・・3通
永禄10年(1567)8月7日、8日に80通
◆◆ 起請文提出者 ◆◆
●甲斐 ▲信濃 ◆上野(群馬)
01 武藤神右衛門尉常昭・・・●真田昌幸の養父?
02 長坂源五郎昌国・・・・・△今川家からの付家老。義信事件に関与した?
03 三枝宗四郎昌貞・・・・・●石原家からの養子
04 小山田兵衛尉信茂・・・・●大月:岩殿城
05 安中左近大夫景繁・・・・★安中忠成→景繁(第2妻は甘利昌忠娘)
06 仁科盛政・・・・・・・・▲信濃
07 今福市左衛門尉昌和・・・●
08 浅利右馬助信種・・・・・★この後、箕輪城代。直系子孫は黒崎氏。
09 室賀山城守信俊・・・・・▲信濃:室賀城
10 小泉喜泉斎重永・小泉内匠助宗貞・・・★真田昌幸以前の上田城小泉曲輪
11 望月遠江守信雅・・・・・▲信濃望月城
12 板垣左京亮信安・・・・・●
13 六郎次郎信豊・・・・・・●一門衆:義信の弟
14 小笠原下総守信貴・・・・▲信濃:林城?
15 吉田左近助信生・・・・・●一門衆
16 刑部少輔信廉・・・・・・●一門衆
17 海野三河守幸貞・・・・・●一門衆:義信弟
18 小幡三河守信尚・・・・・◆上野:下仁田の城
19 横田拾郎兵衛丞康景・・・●
20 小幡右衛門尉信実・・・・◆上野:国峰城
21 小幡左衛門大夫兼行・・・◆上野
22 浦野左衛門尉幸次・・・・◆上野:大戸城
23 跡部雅楽助昌長・・・・・●
24 原甚四郎昌胤・・・・・・●
25 両角助五郎昌守・・・・・●
26 大嶋五郎左衛門尉長利
27 後閑伊勢守信純・・・・◆上野:安中御感情
28 一宮兵部助氏忠・・・・◆上野:一宮(貫前神社)城
29 座光寺三郎左衛門尉貞房・・▲信濃:座光寺城
30 野村主水佑勝英・・・・?
31 大井式部大輔信舜・・・▲信濃:内山城→大井貞清は高崎根小屋城代
32 大井右京亮信通・・・・▲
33 大井源八郎昌業・・・・▲
34 高田大和守繁頼・・・・◆上野:妙義高田城・菅谷城
35 松鷂軒常安・・・・・・▲信濃:禰津城・・・禰津松鷂軒は鷹匠
36 高山山城守行重・・・・◆上野:高山城(世界遺産:藤岡高山社先祖)
37 麻績勘解由左衛門清長・▲信濃: 麻績城
38 和田兵衛大夫業繁・・・◆上野:和田城(高崎)
39 高山彦兵衛尉定重・・・◆上野:高山城(世界遺産:藤岡高山社)
40 片切源七郎昌為・・・・▲信濃:上伊那郡中川・・・片桐
41 梅隠斎等長 ●市川等長(山梨市)
42 大熊新左衛門尉長秀・・△越後箕冠城→武田家臣
43 依田又左衛門尉信盛・・◆上野:板鼻城? ▲信濃:春日城?
44 大井小兵衛満安
45 小林与右兵衛幡繁
46 上穂善次為光
47 飯嶋大和守為方
48 海野伊勢守幸忠・・・・?信濃:白鳥城(海野宿)
 同 平八郎信盛
49 室賀治部少輔経秀・・・▲信濃:室賀城
同 常陸守正吉
同 甚七郎吉久
堀田豊後守之吉
50 熊井土対馬守重満・・・◆上野:小幡城・・・小幡信貞(信実)家老
弾正左衛門尉信高
佐馬助高政
自徳斎道佐
能登守行実
51 松本丹後守吉久・・・・◆上野:安中のふるさと館の上の城・安中氏家老
同 縫殿助定吉
友松将監行実・・・・・◆上野:子孫が高崎市井出町の友松千代松氏。
52 高山八郎三郎泰重
馬庭中務少輔家重・・・◆上野:吉井馬庭城(馬庭念流)
酒井中務少輔高重・・・◆上野:
53 依田兵部助隆総
桃井蔵人佐頼光・・・・◆上野:榛東&吉岡の大藪城
塚越新助重定・・・・・◆上野:保渡田砦★私の母方の先祖。
54 甘利郷左衛門尉信康・・●甘利昌忠弟。真田幸綱の白井城攻めに参加。
城和泉守景茂
今井九兵衛昌茂
玉虫助大夫定茂
六嶋六右衛門尉守勝
55 猿渡宇左衛門尉満繁・・◆上野:??城・・子孫は高崎在住。
和田佐渡守業政・・・・・◆和田業繁のはずであるが、養子は跡部勝資から
富所彦次郎業久・・・・・◆上野:??城・・子孫は高崎市国府
56 簗賀縫殿助吉久
荻原民部定久
同 図書助長久
同 玄蕃允重吉
野口佐渡守成吉
戸塚大蔵重吉
57 小林五郎左衛門尉盛重・・・◆上野:藤岡小林城
大井甘助高幸
小林図書守業吉
上田七郎兵衛常善
小林新助秀永
小海宮
58 馬場小太郎信盈・・・・・・●馬場美濃守信房公
青木右兵衛尉信秀
山寺源三昌吉
宮脇清三種友
横手監物満俊
青木兵部少輔重
59 依田長門守頼房・・・・▲か◆か
楽厳寺雅方
依田
篠沢新九郎雅
布下仁兵衛雅朝
諸沢堪介信隆
60 羽中田民部右衛門虎具
鮎沢八郎右衛門尉虎守
鮎川清三郎昌尚
61 安中五郎兵衛家繁・・・・◆上野:安中城・・景繁の子
同名刑部助繁勝
62 松本総右衛門尉重友・・・◆上野:安中・・・景繁家老
同 膳右衛門尉行定
須藤縫助殿久守・・・・・◆上野:安中・・・景繁家老
63 市川兵庫助景吉・・・・?◆上野:南牧砥沢城?か●北杜の市川か?
小沢源十郎行重
市川四郎衛門重久
同 四郎兵衛貞吉
縣河彦八郎直重
高橋左
64 小河原右馬助重清
 神保小次郎昌光・・・・◆上野:?
65 黒沢駿河守重慶・・・・◆上野:上野村?
同 出羽守定吉
同 掃部助光吉
同 兵衛尉重家
土屋上総守重綱・・・・・●
66 桑原式部少輔康盛
塔原藤左衛門宗
城内二助貞維
山崎善七郎
同名藤五郎貞吉
67 山口大炊助高清
新五郎高貞
高瀬与兵衛能業・・・・・◆上野:富岡
上条権助高業・・・・・・◆上野:
武河左近助実吉・・・・・◆上野:
同 又右衛門尉高
68 諏方右近助豊保・・・・◆上野:松井田*長野憲業の子ども?
諏方左衛門尉頼運
大輪監物勝親
高出左兵衛昌海
知久次郎左衛門遠包・・・?
飯嶋出
69 麻績市尉光貞・・・・・▲信濃: 麻績城
関岡宮内右衛門光助
関又助光吉
70 岩下駿河守幸実
同名新十郎長高
同名源介幸広
塔原織部幸知
大口右馬介 辰
小 助忠助

71 小笠原新八郎長記・・・・▲信濃:林城
同名 孫十郎長和
同名 甚十郎長穂
下枝田右衛門尉久綱
常葉平左衛門尉定満
72 海野左馬亮幸光・・・・・▲信濃:白鳥城
常田七左衛門尉綱富・・・・▲信濃:上田・・・真田幸隆の弟
尾山右衛門尉守重
桜井駿河守棟昌
小艸野若狭守隆吉

73 浦野宗波軒信慶・・・・・▲信濃:武田信玄の妹+浦野の子ども
同弥三左衛門尉政吉
同新左衛門尉貞次
同右衛門幸守
同久右衛門尉吉忠
浦野
74 半右衛門尉
平介
惣二郎
四郎右衛もん
弥六郎
藤右衛門尉
忠介
藤三
75 堀金平大夫盛広
古厩平三盛隆
渋田見源介政長
沢渡兵部助盛則・・・・◆上野:沢渡?
日岐盛次
穂高左京亮盛棟
76 小幡彦太郎具隆
77 伴野左衛門佐信是・・・・▲信濃:野沢城・前山城?→
箕輪城城番→倉賀野城番→高崎根小屋城代
         宗家は私の家の3軒隣・・・
画像

画像

 (★購入した本)
78 麻績勘解由左衛門清長
79 大日向上総介直武
80 赤須二郎三郎頼泰
81 伴野三衛門尉・・・・・※伊那の伴野家か?
飯嶋与兵衛尉為政
片切二兵衛尉為房
82 野沢四郎兵衛康光・・・野沢城代(伴野信是家老だと思われる。)
伴野善七郎君家・・・・・・・・▲→◆
同名東青軒如心
下村新右衛門尉重守・・・◆
同名与左衛門尉満幸

83 牛田善右衛門尉真綱
奥秋加賀守房吉
小林和泉守房実
河村治部左衛門尉房秀

●古文書

84 武田信玄安堵状起請文
85 丸子良存寄進状起請文
86 武田信玄願文起請文
・永禄2年(1559) 武田信玄は願文を奉納した。
   長尾景虎(上杉謙信)との決戦を前に戦勝を祈念した。
・永禄4年(1661)第4次川中島の合戦
   武田信玄・上杉謙信の一騎打ちで有名である。
87 壱岐・三かわ連署願文起請文
88 真田昌幸朱印状起請文
  ・天文10年(1582) 武田家滅亡後、真田昌幸が上田領主と
   して独立した。
89 平盛幸願文起請文
90 工藤美作守等連署定書案起請文
  
91 小幡信繁願文起請文
92 真田信幸(信之)寄進状起請文
・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い
  ・慶長6年(1601) 真田信之は40貫文を寄進した。
   ※真田信之が上田の治安回復と政権確立に努めた。

93 真田信幸(信之)朱印状起請文
・慶長13年(1608)真田信之は造営料15貫文を預け置く。
  ・慶長15年(1610)生島足島の諏訪大明神の社殿として改修
   造営した。

94 下之郷供僧社人目安案起請文

◆参考サイト


・永禄10年10月
  甘利昌忠・真田幸綱(幸隆)・金丸虎泰が箕輪城城代
  城番・・・曽根昌世・伴野助十郎・大井貞清など
  
  義信事件後、今川氏との関係が悪化した。


・永禄11年(1567)
武田信玄は今川領国への駿河侵攻が開始した。
 
 10月 武田義信が甲府の東光寺に幽閉された。
   今川義元の娘と強制的に離縁された上、後継者としての地位を
   失った。
  (★『甲陽軍鑑』)
 11月13日 異母弟:諏訪勝頼(武田勝頼)に織田信長の養女:
  龍勝院を迎えた。高遠城主となった。
   (★『甲陽軍鑑』)

伴野氏に諸記録にさまざまな伴野氏が登場している。
 @伴野光利に敗れて討死した野沢系の伴野氏→野沢城主伴野氏
 A伴野光利系の一族・・・
 A大沢城主の伴野氏・・・・・。
 
・永禄11年(1568)同年  武田氏が根小屋城(高崎)築城。  
  武田信玄が「山名、鷹ノ巣の間に新城を築き、信州の士、
  望月甚八郎、伴野助十郎、仁科加賀守信盛らを入れて守らせた。」
 (山名町:山名城&寺尾町:茶臼山城の間の根小屋町:根小屋) 

★望月甚八郎・・・佐久の望月城主
★伴野助十郎・・・佐久の前山城・伴野館・稲荷山城の城主 
★大井貞清・・・・佐久の内山城城主
★仁科加賀守信盛・大町の仁科=信玄の子:高遠城主

→城代は、伴野氏(伴野助十郎信是?)&大井貞清となった。
@目的は、北条氏康、上杉謙信に対する境目の城・牽制の役目。
A上州の狼煙集約地根小屋→飛行機墜落の御巣鷹山隣の叶山→
  甲府
箕輪初心:生方▲2015高崎『石碑之路万葉句碑』D根小屋城2回目
http://53922401.at.webry.info/201510/article_29.html

・永禄12年(1569) 伴野信是が佐久郡野沢郷八幡宮に
 鰐口を寄進した。

〜〜〜中略〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



★明日は前山城&伴野氏後編かな?

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心:生方▲真田●52『伴野氏館=野沢城』&伴野氏の歴史前編 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる