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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸48【佐久:春日城】依田信蕃と真田昌幸

<<   作成日時 : 2016/02/20 05:17   >>

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・北佐久郡望月町春日にあった城である。芦田信守は芦田城より堅
固な春日城を本拠地とした。芦田信守&依田信蕃の2代の居住地で
ある。依田信蕃の次男:松平康真(康勝)が上野国の石倉城(前橋
市)でだまし討ち?にあった兄:康国を弔うため、生まれた平時の
居館跡に、康国寺を創建した。 康国寺の南西の山が詰め城:春日城
である。やっぱり、写真は消滅していた。
画像



◆訪問日・・・平成23年(2011) 8月?日
 望月城2回目→春日城→春日温泉→大河原峠・・通行止め。
≪アクセス≫
佐久から望月に向かい、トンネルを2つくぐった先の信号を
春日温泉方面に左折し、登っていく。春日郵便局の約80
m〜100m先で県道151号が西へ折れる。そこを右折し、
200m程西に進んだ。・・・ごちゃごちゃしていて分かん
なくなった。しかし、城のある山が見えるので分かる。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
●康国寺・・・平時の居館跡

●登城口の鳥居

●いくつかの段郭や堀切を過ぎて

●二の郭・・・秋葉社

●堀切

●主郭・・・南側の土塁が高い。

●連続する堀切

●南尾根の郭の背後にも堀切があった。

●東尾根は段郭が続く。

▼戻って、下山した。

◆参考資料
『図解 山城探訪』宮坂武男著


◆◆ 春日城の歴史:依田 ◆◆
・鎌倉時代  袮津氏系春日刑部少輔貞親が築城した。

・永正13年(1515) 望月城主:望月盛昌に攻められた。
  望月氏系春日氏の居城となった。
・天文9年(1540) 武田信虎は佐久郡・小県郡への本格的な侵攻を
 はじめた。
  武田軍は佐久郡の海ノ口城・海尻城など諸城を陥れ、前山城に
 入った。武田信虎は伴野助十郎信是と同盟を結んでいた。
 前山城を前進拠点とした。

・天文10年(1541)
5月 海野平の戦い
 武田信虎と諏訪頼重・村上義清氏とともに信濃佐久郡・小県郡へ
 侵攻した。
海野棟綱&真田幸隆は上野国の羽尾幸全を頼った。
 真田幸隆は箕輪城:長野業正を頼った。
 海野棟綱&真田幸隆は平井城:上杉憲政に小県の復権を依頼
した。

武田信虎は諏訪頼重とともに大井貞隆の本拠:長窪城を陥れ
 諏訪領とした。


6月14日 甲斐で武田信虎は嫡男武田晴信により今川氏の駿河へ
 追放され、武田晴信が家督を継承した。

関東管領:上杉憲政が海野棟綱&真田幸綱(幸隆)の要請を利き、
信濃佐久郡・小県郡へ侵攻した。

@黒田基樹説では、大将は長野業正で、海野棟綱&真田幸綱(幸隆)も
同行したと思われるとしている。
諏訪頼重は独断で山内上杉憲政と和睦を結び、芦田郷を支配地と
して割譲した。
A平山優説では、大将は不明だが、・・・
★諏訪頼重が長野業正との和睦で芦田城・長窪城を支配地とした。

上杉憲政の意向で佐久は武田の支配が弱まった。
再び、大井一族が勢力を盛り返した。
この間隙をぬって、佐久の岩村田大井城にいた大井貞隆は本拠地:
長窪城を奪い返した。
芦田(依田)守信(信守)芦田信守&芦田(依田)系の相木昌朝は
大井貞隆に帰参した。

・天文11年(1542)諏訪頼重を盟約違反とした武田晴信は高遠
頼継と結び諏訪郡へ侵攻し、諏訪氏を滅ぼした。
次いで決裂した高遠頼継を打ち破った。
諏訪頼重の居城だった上原城に家臣・板垣信方を城代として配置し、
諏訪郡代としてを諏訪・伊那を領国化した。


・天文12年(1543) 武田晴信の佐久侵攻。

  @長窪城攻め
芦田信守&親戚:芦田系相木昌朝を味方につけた武田晴信は
主家を裏切って、長窪城を攻略した。
★相木昌朝は大井貞隆から離れていて村上義清の傘下に
 属していた可能性もあるし、上杉憲政軍(黒田説では
長野業正)が来たことで、独立性があった可能性もある。

●天文12年(1543)か天文13年(1544)
 真田幸綱(幸隆)は武田晴信に臣従した。
真田幸綱が家臣にしれくれと言ったのか?
武田晴信が誘ったのかは分からない。
個人的には武田晴信が旧領を餌に真田幸隆を誘った可能性の
方が高いと思っている。武田晴信も余裕がなかったのだろう。
村上義清より武田晴信だ。村上義清は大嫌いってとこか?


 
 「 相木市兵衛依田昌朝と武田信玄 」という本を伴野信是
宗家子孫からお借りした。
この本には
 「相木市兵衛依田昌朝が海野棟綱長男:海野小太郎(真田幸隆)
  を上野国(箕輪城)から連れだし、真田幸隆と名乗らせ、武田
  晴信に紹介した。・・・・
  依田昌朝の娘を真田幸隆の次男:真田昌輝に嫁がせた。・・・
  躑躅ヶ崎の城下でのでも家は隣であった。」

穴山 高坂 真田  甘利
馬場 相木 と、隣は譜代である。
 ★いずれにしても、真田幸隆は2年4ヶ月箕輪城にいた
可能性が高い。


 A望月城攻め
真田幸綱(幸隆)が降伏を呼びかけた。
真田源三郎が降伏し、武田晴信に臣従した。

芦田信守は要害性から春日城を改修・築城した。
依田系の芦田信守が入り、子:依田信蕃と2代にわたって
  居城とした。改修は時期は不明。この時、武田晴信の
手助けがあったかもしれない。

 C内山城攻め
真田幸綱(幸隆)が大井貞清の助命をした。
  大井貞清は一端甲斐に連行され、武田晴信に臣従した。
   
 B岩尾城攻め
真田幸綱(幸隆)が降伏を呼びかけた。
大井行頼&行吉父子は武田晴信に臣従した。
大井行頼&行吉父子のほか、真田幸隆が岩尾城代に
して、岩尾城の改修をした可能性が高い。

・天文16年(1547)9月
C志賀城攻め&小田井が原の戦い
真田幸隆・芦田信守・相木昌朝・望月源三郎・大井貞清・
   大井行頼&行吉父子・伴野助十郎信是などが参加した。

   3000人のさらし首
『風林火山』・・・さらし首を並べたのは山本勘助だった。
さらし首の提案者は真田幸隆かもしれないと個人的に
思っている。何せ、村上義清に付かなかった位嫌っていた
のだろう。笠原清繁は村上義清の傘下だった。
3000は無理かもしれないが、・・・
武田家臣で3000なので、板垣勢・甘利勢だけで、3000
持ってくるのはちょっときつい。

笠原清繁・高田憲頼が討ち死に。


・天文19年(1550)7月 
 D林城攻め
  武田晴信は林(松本市)城主:小笠原長時を破った。

9月
 E砥石城攻め
 上田原の合戦
真田幸隆・芦田信守・相木昌朝・望月源三郎・大井貞清・
   大井行頼&行吉父子・伴野助十郎信是などが参加した。

E砥石崩れ→ ・・・笠原清繁の残党もいた。
 
・天文20年(1551)
真田幸綱(幸隆))の砥石城乗っ取り・・無血開城。

・永禄4年(1561) 第4次川中島の戦い
 ※5代目:芦田(依田)信守は川中島で戦功があった。





●再び、芦田信守→依田信蕃→依田(松平)康国へ・・・・
芦田信守は要害性から春日城を改修・築城した。
依田系の芦田信守が入り、子:依田信蕃と2代にわたって
 居城とした。改修は時期は不明。
  
 芦田信守武蔵国・駿河国などを転戦した。

・元亀3年(1572) 遠江国二俣城城代になった。

・天正3年(1575) 長篠の戦い
武田勝頼が敗北した。
芦田信守は徳川家康に二俣城を包囲される中、二俣城中で
 死去した。

・天正10年(1582)3月11日 武田氏が滅亡.
真田昌幸は小県郡を領地とした。
依田信蕃は駿河の田中城(島田市)で徳川家康と対峙していた。
 武田氏滅亡を知ると、依田信蕃は徳川家康のすすめで田中城を
 明け渡した。
 名門好きの徳川家康は才能ある依田信蕃に
 「徳川に召し抱えたい。」
 と誘った。
 しかし、依田信蕃は芦田の本拠地:春日城に帰った。
 小諸城で森長可と対面した。
 「織田信長公に御礼をしたい。」
 と言って、小諸を発ち、諏訪へ向かった。
 しかし、その途中、徳川家康より急使がきて、
「信長は依田信蕃・真田昌幸など甲州や信州の大名に切腹を命じて
 いるから、自分(家康)のもとに来なさい。」
 という書状を見た。
 依田信蕃は、徳川家康に臣従した。
 
6月2日、本能寺の変 織田信長が本横死した。

 信濃・甲斐の織田勢力は一挙に弱まってしまった。

※結果・・・信濃・甲斐は徳川氏・北条氏、上杉氏の3つ巴の
 草刈場と化した。
「天正壬午の乱」

 徳川家康は甲州・信州に依田信蕃に命じて甲斐の武士遺臣たちを
 味方に引き入れさせた。
 

6月22日 小諸城の滝川一益にあった。
 依田信蕃は滝川一益から小諸城をもらい受けた。
 
真田丸の平井優氏や黒田基樹氏の説が違うようだ。
「祖母:とり、真田信繁・矢沢綱幸が人質になった。」


 依田信蕃は徳川家康の後援を得て、佐久に攻め入り、北条氏政
 の軍勢と戦った。
 そして、伴野助十郎信是の守る伴野城を攻め落とした。
 
★相木昌朝の子:相木市兵衛&伴野助十郎信是の子:貞長
依田信蕃に相木昌朝は田口城、相木城を包囲される。
 相木昌朝は北条氏政の援軍を頼りに田口城に籠っていた。

 北条氏政が徳川家康が講和した。
 北条氏が相模へ引上げた。
 依田信蕃に攻め込まれ、 相木昌朝は大導寺政繁を頼り
 上野国:松枝へ逃れた。 その後、相木城は廃城になった?

 小県郡の北条方の真田昌幸を説いて徳川家康に臣従させた。

 依田信蕃と真田昌幸は協力して碓氷峠で北条氏の後方連絡線をたって
 徳川・北条の和睦のきっかけとなった。


徳川家康は依田信蕃の戦功を賞して佐久・諏訪の2郡を与えた。
正式に小諸城代とした。

岩尾大井行吉は春日弾正の元で海津城を守っていたが、北条氏政:
家臣の松井田城主:大導寺政繁に属した。
岩尾大井行吉は反旗を翻した。



・天正11年2月 依田信蕃は岩尾城攻めにかかった。
岩尾城は武田信玄が真田幸隆が手をかけた縄張りである。
 丸馬出や三日月堀も残っている。写真があれば、後日、紹介
 できると思う。5年分の写真が消滅したので凄さは紹介でき
 ないかも?

1日目、依田信番は力攻めを強行した。
 岩尾大井氏の軍勢は寄せ集めの烏合の衆であったが、木の柵
を隙間なく並べ、依田軍に鉄砲・矢の集中攻撃を行った。
 
依田軍は多くの犠牲者を出た。
 
軍監の柴田康家は
「力攻めをやめて家康流の気長な戦術をしたらいかがか?」
と勧めた。 依田信蕃も攻めあぐんだ。

2日目 再び強気に力攻めをした。
 岩尾城の大手門を破り、三の郭の前手前の郭に突入した。

 乱戦となった。

 大井軍は三の郭櫓の上から狙い撃ちした。
 依田勢はまたまた撃ち倒された。
 
 依田信番は次々と兵を繰り出した。

3日目 頭にきた依田信蕃は陣頭に立って攻撃を仕かけた。
 大井方の淺沼平兵衛は鉄砲隊に依田信蕃を狙撃させた。
 弾丸は依田信蕃、弟:依田信幸に当たった。
 
 依田信蕃、依田信幸が戦死した。

 大将を失った依田勢は大混乱に陥った。
 依田信蕃の末弟:依田信春は兵を引き揚げた。

 大井行吉の父:大井行頼が戦死した。

 軍監:柴田康家は開城降伏の使者を送った。
 大井行吉は父が死んだこともあり、和睦した。
 大井行吉は柴田康家に城を明け渡した。

 大井行吉は上野国松枝(松井田)城主:大導寺政繁に会い、
 保渡田村(高崎市旧群馬町)に幽居した。
 
 ★保渡田村には起請文にある武田遺臣:内藤昌月や塚越氏
 (My母先祖)や友松子孫・土屋一族の子孫などがいた。
 2年後、天正12年(1584) 保渡田村で死んだ。享年43。

 
戦後、徳川家康は依田信蕃の子:竹福丸に家康の「康」の字と
 「松平」の姓を与えて松平康国として小諸城主とした。

同年、真田昌幸は徳川家康を利用して、上田城を築いた。
家臣を上田に呼び集めた。


・天正12年(1584) 「小牧・長久手の戦い」
徳川家康 VS 豊臣秀吉

 徳川家康は北条氏直と講和を結んだ。
 徳川家康は条件の定めによって真田昌幸に
 「沼田城を北条方へ引き渡せ。」
 と命じた。
 しかし、真田昌幸は上杉景勝方に寝返ってしまった。

 徳川家康は激怒した。
・天正13年(1585) 8月、第一次上田合戦
  真田昌幸の作戦に翻弄されて散々な敗北した。

 上田城攻めに依田(松平)康国が初陣として参加した。

・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
  徳川家康に命じられて依田(松平)康国も前田利家に属して
上野国に出陣した。
また、真田昌幸&幸繁(初陣説あり)3000は上杉景勝配下と
して上野国に出陣した。
  大導寺政繁の守る松井田城攻めに加わった。
真田家は松井田城の戦後処理をした。

さらに石倉城(前橋市)攻撃に加わった。
  石倉城主:寺尾左馬介は降服を申し入れてきたため、依田康国は
 わずかな手勢のみで城内に入った。
  しかし、寺尾左馬介が依田康国は斬り付けた。
  依田康国は応戦したが力つきて討死した。享年21。

 
 依田康国の死後は、弟:依田康真が家督を相続した。

真田昌幸&幸繁は箕輪城の無血開城させた。
4月24日 豊臣秀吉の手紙
 戦後処理をした。


7月5日 小田原城開城
真田信幸は沼田城に入った。
真田昌幸は上田城・岩櫃城に入った。
 依田康真は武州榛沢、上州緑野両郡において3万石を与えられ
 芦田(藤岡)城主となった。
※藤岡第一小学校の敷地内
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●群馬藤岡編「芦田城」&依田一族の歴史
http://53922401.at.webry.info/201107/article_9.html


????年  松平(依田)康真は兄の兄:康国を弔うため、
 生まれた平時の居館跡に、康国寺を創建した。

・天正17年(1589) 依田康国に追われていた相木昌朝&伴野貞長
 佐久郡への復帰をはかり、相木で挙兵した。

 相木の木次原の合戦
  依田康国(松平康国)に再び敗れて関東へ去った。
 その後、相木昌朝の消息は分からない。
●相木昌朝の子ども
 長男:相木長門守頼房(相木市兵衛常祐)・・・武田信廉の娘婿
 次男:相木昌信・・・・・・山県昌景の娘婿→真田昌幸家臣。
 3男相木七良右衛門善量・・・福井県の相ノ木氏の祖となった。

現在、伴野家宗家子孫(高崎在住:拙宅から50m)&相木家
 宗家は今でもおつきあいしているそうである。
 

・慶長5年(1600) 依田康貞は小栗三助と囲碁を打っていた。
どうしても依田康貞に勝てない小栗三助が腹立ち紛れに
「兄のお古を貰って満足している男の気が知れぬ。」と雑言を
はいた。依田康貞は死んだ兄:依田康国の妻を正妻に迎えて
いたのである。怒った依田康貞は抜刀して三助を刺し殺してし
まった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
◆◆箕輪初心★小栗上野介@「先祖」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_28.html


 松平康真は高野山で沙汰を待った。

・結果・・・松平康真は藤岡3万石を改易。
  結城秀康に食禄5000石でお預けとなった。

 関ヶ原の戦い
 第2次上田合戦
真田昌幸&真田信繁 VS 徳川秀忠+真田信幸

徳川家康の勝利
 徳川家康は上田城を破壊させた。
 
 真田信之(改名)は上田城の復興に当たった。
逃げた農民の上田への帰参を促した。
上田城の賦役免除&年貢なしで、上田を復興させた。
「苦しい時ほど、我慢」
(★平山優氏の発言)
実に真田信之は優秀だった。



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★明日は望月城かな?

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