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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸41【米山城・戸石城・本城・枡形城】真田幸隆乗取&真田兄弟対決

<<   作成日時 : 2016/02/13 07:34   >>

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戸石城には2回行っている。2回目は砥石城祭りだった。室町時代
村上義清が東信方面の戦略上の拠点として戸石城・米山城は築いた
といわれている。その砥石・米山城で最も有名なのが「砥石崩れ」
である。天文19年(1550)武田信玄が村上義清を攻めたが、「砥石
崩れ」という大敗を喫した。しかし、その翌年、天文20年(1551)、
真田幸綱(真田信繁の祖父:幸隆)が武田信玄が落とせなかった戸
石城を調略により戸石城を乗っ取った。天正2年(1574)真田幸綱は
戸石城で死んだ。戸石城には真田昌幸も住んだ。天正13年(1583)
真田昌幸は上田城が徳川家康を利用して築城した。(平山優説)
天正15年(1585)第一次上田合戦では真田昌幸の長男:真田信幸が
戸石城から出撃した。慶長5年(1600)、第二次上田合戦では真田
幸繁(幸村)が戸石城を守り、兄:真田信幸に負けたふりをし、
徳川方の兄に花を持たせたという。
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●場所・・・

《アクセス》
上信越自動車道「上田菅平」ICより車10分。


【1】訪問日1・・・平成19年(2007)4月7日
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【2】訪問日2・・・平成21年(2009)11月3日砥石城祭り
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・分岐コル
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・米山城
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・村上義清公の碑
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▽戻って、分岐
・戸石城
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・本城
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・枡形城
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◆◆ 砥石城の歴史 ◆◆
・応永7年(1400) 大塔合戦。(おおとうがっせん)
善光寺平南部:更級郡篠の井で争った。
信濃守護:小笠原長秀 
   VS
村上・井上・高梨・島津(長沼城)仁科などの国人衆
そして、滋野系の海野&根津など一族
滋野系の根津遠光を盟主とした「大文字一揆」のメンバー
大将は小県郡の大塔城:根津遠光であった。
一族の桜井・別府・小田中・実田・横尾・曲尾の諸氏が従った。
「実田」、「横尾」、「曲尾」の名前が登場。
根津=祢津(ねつ)は東御市の祢津。群馬では「ねづ」。
  大塔城=祢津下城&祢津上城の可能性が大きい。
桜井・別府・小田中は東御市旧東部町に地名が残っている。
実田(真田)・横尾・曲尾は上田市真田町の地名として残っている。
横尾・・・尾引城=横尾城&打越城=内小屋城付近
曲尾・・・根小屋城付近

結果・・小笠原長秀が大敗。
信濃国は中小の有力国人領主が割拠する時代が続くことになった。
  (★大塔合戦記)
実田(=真田)氏の名の最初。
★大塔物語:文政元年(1818)の作成・信憑性は不明。


・室町時代 
@村上義清の築城説・・・多数説
 砥石・米山城はもともとは村上義清が東信方面の戦略上
 の拠点としてに築いたといわれている。
A海野氏の築城説・・・少数説
★海野氏の領域内なので、本当は海野氏築城だと
考えている。真田の里
B★私見・・・真田の里そのものが海野棟綱を領土
  であると考えるのが妥当であろう。偉い先生も出展を
  掲載していない。すなわち、推量の部分である。
 =支配地の分家の実田氏=真田氏、横尾氏・曲馬氏が
 



*天文10年(1541) 5月 海野平合戦
 勢力拡大をもくろむ村上義清は甲斐の武田信虎と
   諏訪頼重と同盟。
@武田信虎・諏訪頼重・村上義清らの攻撃・・・有力説。多数説。

A甲斐の武田信虎(信玄父)+北信濃の村上義清
VS
中信濃の諏訪頼重+海野平滋野諸族(海野・望月・禰津・矢沢)
→滋野諸族の敗退。
   (★「真田三代」:清水昇著)


結果・・・
@禰津氏は武田信虎に降伏。・・・
  禰津(地元では:ねつ)元直は禰津政直の妹を武田信玄
  の妾として差し出した。
  娘:禰津姫が信玄の妾2号説もある。
  後に、武田信玄家臣
A望月氏は諏訪氏に降伏。
B海野氏(海野棟綱・真田幸綱)は、村上義清らに挟み撃ち
   にされ、敗北。
 ●海野幸義(棟綱の子)の墓・・・上田市蒼久保
海野棟綱、真田幸綱父子?は上野国吾妻郡羽尾に逃亡。
 真田信綱は5歳だった。
 →上野の吾妻:羽根尾に逃亡。信濃海野氏は没落。
 海野棟綱(幸隆の父説・幸隆妻の父説・幸隆の養父説)
 ・真田幸隆は村上義清・武田信虎に追われ羽根尾城へ  
       (★「真田三代」:清水昇著)
   
*村上義清は海野平を支配下。
C矢沢氏(幸隆弟頼綱)は村上義清の家臣へ・・
   侍大将で100人の家来がいた。(後、砥石城の間者)
・武田晴信が父:信虎が追放
      →武田氏と村上氏の同盟関係は終焉。
・村上義清は信虎追放事件に乗じて佐久方面への侵攻を
  目論んだ。
・武田の信濃の佐久侵攻
・村上義清は信濃東部へ進出した甲斐の武田信玄と敵対。


  武田晴信は父:武田信虎を駿河へ追放。

●真田幸隆は3年間、箕輪城に客人として逗留した。

●黒田基樹説
 海野棟綱・真田幸隆は羽尾幸全の妻の父:長野業正にお願い
 して?・・・平井城:上杉憲政に小県奪還を依頼した。
 長野業正を大将とする小県奪還軍が編成された。
 海野棟綱・真田幸隆が参戦したと思われる。長野業正は
 諏訪頼重を同盟を結び、・・・小県に行かず、帰還した。
 真田幸隆が武田晴信に臣従する遠因となった。
 
戸石城は村上義清の属城として整備されたものと思われる。

*天文13年(1544)真田幸隆は武田に臣従。
(天文12年説あり)
   海野棟綱の消息が途絶える。

*天文15年(1547)
 ※ 武田晴信の佐久内山城(大井貞清)攻め。
   真田幸隆が大井貞清を助命。
(★後、大井貞清は箕輪城城番→高崎根小屋城城代)

*天文16年(1548)
 ※武田の志賀城(笠原新三郎)攻め。
     真田幸隆が謀略により活躍。
(★NHK大河ドラマ『風林火山』では山本勘助が活躍)
 佐久で唯一抵抗する笠原新三郎清繁の志賀城を攻めるため
 に侵攻した。
 志賀城には上杉憲政麾下の上州菅原城主:高田憲頼父子が
 援軍として立て籠った。笠原清繁の妻が高田憲頼の娘だっ
 たからである。ちなみに高田憲頼の妻は長野業正の養女が
 安中忠政に嫁に行ったできた娘であった。
 

 8月6日 小田井原合戦
 くじ引きで決まった金井淡路守秀景が先陣で援軍の
  西上野国人衆を中心とした上杉軍2万余と
  武田軍は激戦となった。
  武田軍は上杉軍の兜首14〜5と雑兵3000を討ち取
  った。
  武田信玄は討ち取った首3000を夜間のうちに兜首は槍に
かざし、平首は棚に掛け並べさせて志賀城を囲んだ。
志賀城の籠城兵はこれを見て戦意を阻喪した。
  3月11日正午頃 志賀城の笠原清繁、高田憲頼父子を
  はじめ城兵300余が戦死した。
 ※NHK大河ドラマでは、山本勘助が首を並べる役を命じ
  られた。
 ※でも、さらし首の発案者は真田幸隆であった可能性も
  ある。笠原清繁は村上義清の属将であったといわれて
  いるからである。

  志賀城の救援をできなかった村上義清が武田晴信との
  対立が明確になっていった。
  武田晴信は佐久から小県、北信濃への侵攻した。
  長窪城(長和町):大井氏を攻略した。
  村上義清との対立が避けられなくなった。

  というより、武田晴信が北信濃を狙っていた。


*天文17年(1548)2月 上田原の戦い
武田晴信 VS 村上義清
     真田幸隆は謀略で活躍。
     決着はつかなかった。
     結果は
     →武田晴信は村上義清に敗戦。
     家老・板垣信方、甘利虎泰・初鹿野伝右衛門、才間河内ら
     が戦死した。
     武田晴信も負傷。・・・温泉療養
 
 4月25日 村上義清は上原昌辰の守備する内山城を攻めて
   城に放火した。
   村上義清と佐久・小県・筑摩の在地土豪や諏訪西方衆など
   が同盟を結んだ。
   武田晴信の信濃支配は危機を迎えた。
 
 7月 塩尻峠合戦
   武田晴信は小笠原長時を破った。


*天文18年(1549)
 4月 真田幸隆は同族の望月一族、海野一族を
   武田家臣に推挙した。
 5月 武田晴信は小笠原長時の籠る林城を攻略した。

*天文19年(1550)戸石崩れ。
  村上義清が中野小館の高梨政頼と対陣している隙を
 衝いて小県郡に侵攻した。
 武田晴信は戸石城攻撃を画策した。

 8月24日 武田晴信は今井藤左衛門・安田式部少輔らを
 派遣して戸石城うを検分させた。
 8月25日 武田晴信は横田高松・原虎胤・大井信常らを
 再び戸石城に派遣して検分し、作戦を練った。

 8月27日 長窪城(長和町)を出発した。

 8月28日 屋降に着陣した。

 8月29日 武田晴信は戸石城を検分した。
       開戦を通告する矢入れを行った。

 武田晴信は村上方諸将への調略を開始した。
 真田幸隆は謀略で村上義清の将:清野・須原に
 接近した。
 海津に館を構える清野氏の降誘に成功した。

 9月3日 武田晴信全軍が戸石城に接近した。

 9月9日 武田軍は攻撃に入った。
  しかし、戸石城は落とせなかった。

 9月13日 村上義清と高梨政頼が和睦した。
  武田晴信に「寺尾城を攻撃している。」
 と知らせが入った。

 9月末?  武田晴信は評定の上撤退を決定した。
 10月1日 武田晴信は撤退に入った。
  しかし、村上義清軍が追いつき激しく追撃した。
  殿軍の横田高松ら将兵1000余が戦死した。
(★戸石崩れ)
 

*天文20年(1551)
 5月?日 真田幸隆は村上義清の有力武将:高梨政頼を切り離した。
大河ドラマ「真田丸」では高梨内記&きりが出てきているので、
 この時、真田一族の娘が高梨政頼に嫁いだ可能性がある。
 でないと、高梨内記が家臣であろうはずがない。つまり、
 高梨内記は真田幸隆の人質として家臣になったと考えられる。

5月26日 ※「砥石城真田乗取」
駒井高白斎の日記「高白斎記」

武田の信濃先方衆である真田幸隆の調略が功を奏し、
真田幸隆は戸石城を乗っ取った。

知謀の将:真田幸隆によって戸石城は乗っ取られた。
@戸石城兵の少ない隙を狙って真田勢が夜襲を掛けた。
A真田幸隆が得意の調略で無血占領した。
B戸石城内に籠っていた城兵の中に幸隆の弟:矢沢綱頼がいて、
 手引きで乗っ取った。   
 砥石城隣の矢沢城:矢沢頼綱(幸隆弟)が村上義清の侍大
   将でいたので、真田幸隆が内通し、内側から開城させた。
   1日で戸石城を攻略。
 (真田三代:清水昇著)

 諸説がある。・・・話的にはどれも面白い。真相は不明。
 ★真田の地に多くの縁故を持つ真田幸隆の調略
 ・説得が功を奏したのは間違いないでしょうねえ。
         
 結果・・・1000貫の領地を賜り、小県を回復した。
 戸石城は真田幸隆に預けられた。
 武田信玄は佐久の反武田勢力を掃討し、小県から北信濃へ向け
 て侵攻が可能になった。


*天文22年(1553)
 8月 3男:真田昌幸(→武藤昌幸→真田二代目)を武田晴信
   に人質として送り、350貫の領地を獲得。

*弘治2 年(1556)
  8月 真田幸隆は雨飾城(尼飾城)を攻め落とし、
     城代となった。
(★現地看板では春日弾正)



〜〜〜中略〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・天正10年(1582) 3月11日 武田氏が滅亡。


・天正11年(1583) 真田昌幸は徳川家康に応援させ、
  上田城を築城開始した。

 ★ちゃっかりしているんだから・・・・
 小国なのに、大国の徳川家康・上杉景勝を手玉にとってるん
  から・・・
  戸石城から本拠を上田に移した。
  戸石城は上田城の背後の詰め城となった。

・天正13年(1585)第一次神川合戦。
 徳川家康と北条氏直の和睦条件であった沼田領を真田昌幸が引き渡
 さなかった。
 徳川家康の大軍が上田城を攻撃した。
 真田信幸が戸石城を守備した。
 真田信幸は上田城下に徳川軍をおびき出し、さらに、引き返す徳川軍
 を横から追撃するのに役だった。
 この合戦では上田城の城兵と伏兵・百姓軍・真田信幸軍の巧みな
 攻撃により、一説には徳川軍は1300余が討ち死にしたといわれる。


・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い&第2次上田合戦
  真田昌幸・幸繁(幸村)父子は西軍についた。
  真田信幸は東軍についた。

9月2日 徳川秀忠率いる徳川本隊38000は小諸城に着陣した。
 上田城の真田昌幸に降伏を勧告した。
 真田昌幸は降伏勧告受け入れと見せかけて籠城の準備をした。
 真田幸繁(幸村)は戸石城に入った。
9月5日 徳川秀忠は真田信幸に戸石城攻撃を指示した。
  真田昌幸は真田幸繁に
 「兄に花を持たせ、負けたふりをせい。そうすれば、信幸が
 徳川方の功になろう。」
 と言ってあった。
 真田信幸 VS 真田幸繁(幸村)
  兄弟の対決はやったふりの対決になり・・・
 結果的に兄弟対決を避けて、弟:真田幸繁は無血開城し、
 戸石城は真田信幸に占拠する形をとった。

9月6日 上田城攻撃は本格的に始まった。
 伊勢崎城の伏兵が背後を襲わせた。
 真田昌幸&幸繁(幸村)が上田城から討って出て、巧みな
 攻撃で徳川軍を挟み撃ちにした。
 徳川軍は甚大な損害を受けた。

9月7日 徳川秀忠は上田城攻撃を諦めて、関ヶ原に向かった。
 中山道、木曽路を西に向った。

9月15日 関ヶ原の戦
 徳川秀忠は間に合わなかった。パパから大目玉をくらった。

 真田昌幸の真田の里・上田の旧領は真田信幸(信之に改名)に
 与えられ、戸石城も支城として存続していた。
 しかし、荒廃した上田の復興&逃散した百姓の呼び戻しには
 大変な努力が必要だった。
 
 ★真田信幸は百姓に年貢免除し、
   &城工事の賦役を課さなかった。
  (真田三代:中山優著)

・元和8年(1622) 真田信之の松代城転封となった。
 戸石城は廃城となった。

 ★やっと復興した上田であったのに仙石氏が入ることになった。
 




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