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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸26【松井田愛宕山城】:真田幸繁の初陣説

<<   作成日時 : 2016/01/29 07:26   >>

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・天文17年(1548) 甘利虎泰が上田原の戦いで戦死。
・永禄3(1560)〜 甘利昌忠は真田幸綱(幸隆)のサポート。
・永禄9年(1566)9月29日〜10年(1567)3月7日昌忠箕輪城代
・天正3年(1575) 甘利昌忠&信康、長篠で戦死(通説)
・天正10年(1582)3月11日 甘利一族2人、戦死。
・平成28年(2016)1月28 日、甘利明(自称子孫)が大臣辞任。

@天文16年(1547)、真田幸繁(幸村)の祖父:幸綱(幸隆)
・甘利虎泰・板垣信方などが武田晴信とともに松枝(松井田)
に進攻した。坂本城&虚空蔵山砦&愛宕山砦を築いた?
A天正18年(1590)真田昌幸&真田信幸&真田幸繁(幸村)
は愛宕山城から松井田城を攻撃した。
・・・現在も愛宕山城
は荒れ放題だった。中之条は看板や城の整備しているのに、
残念である。2回目は千葉県の余湖さん、たかしさん、茨城
県の野口さん、群馬県は富岡武蔵さん、櫻井さん、私の6人
で登城した。お世話になりました。
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 余湖さん&東の空堀

《アクセス》
 国道18号を群馬安中・松井田から長野方面を目指して進む。
横川の鉄道博物館の先をからバイパスと別れて、左の旧道に
入る。旧道を進み坂本宿を過ぎると道は山間部に入ります。 
(坂本宿上の愛宕茶屋で力餅を食って)・・
そこから車で3分程度で旧中山道入口に至る。


 (★「境目の山城と館」:宮坂武雄著)

旧中山道入口。
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2〜3台停められるスペースと
中山道の解説板があります。

・旧中山道の山道入り口
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実際は真上に愛宕山城がある。
駐車スペースから正面を見上げると 碓氷城があります。
 しかし、ここから直登はちょっと無理である。

・旧中山道
 山肌を深く削ったV字を歩くようになっている。
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・1人出遅れたので中山道旧街道から手前から迂回し、
 斜めにトラバースした。

・愛宕山城に行ったが、誰もいなかった。

・堂峰番所に行っていた。
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・堂峰番所
 番所跡の石垣。愛宕山城=碓氷城への目印になる。
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▼戻って・・・
・二軒茶屋から東に200m・・・。 
碓氷城への分岐ルートは何となく道がある。
消滅しかけた道を進むと空堀に到達する。


(★関東の名城を歩く北関東編斉藤真一氏の縄張り図)

 (★山崎一氏の縄張り図)


★尾根先端に横堀を巡らした単郭式の城郭である。
 丸馬出やら土塁線に折れ=横矢かがり2ヶ所があったりと
 中々凝った縄張りである。



◎見所・・★凄い藪で、堀と土塁しか分かんない。
 城跡もほったらかし状態である。
 案内や看板の類も一切ない。
 @【真田丸】真田幸繁(幸村)のパパが来ているのな。
 A真田幸繁(幸村)もここから出陣したのに? 



・西の堀
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・北西の虎口&横矢がかり
  堀は現状で1m~3m程。幅は5m。
  かつては3m~5m程あったのであろう。
土橋と土塁の折れが肉眼だとはっきりと解る。

・曲輪・・・東西110m×南北90mの□型
・土塁・・・南以外は2〜3m。
・空堀・・・全方向
・南の堀
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・南西に虎口
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※丸馬出なら、武田流ではないだろうか?
※郭馬出なら、北条流ではないだろうか?

・縦堀・・・★大手道であろう。東山道かもしれないが。
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・謎の石碑・・・江戸末期
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・東の空堀・・・ここは深い。5m程・・
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・東〜南に帯郭
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  ★二重堀になっている。

・南東・・・大手虎口?
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 ★横矢掛かりのように飛び出している。
 
 20m×20m+外堀+楼台+腰郭
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・郭内・・・100m×100m。
  実際、藪だらけ。人が入れる余地はない。
      回りは70年物の杉林だが、ここだけは
      杉はない。
・土塁&郭内
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・北東に腰郭があるが、空堀が切れている。

▼帰りは真直ぐに獣道を下った。2分で降りられた。




◆◆ 武田信玄の築城か? ◆◆
・天文10年(1541) 海野平の戦い
武田信虎+村上義清+諏訪頼重
VS
海野棟綱・真田幸隆・祢津元直・望月??など
 
  海野棟綱・真田幸隆・祢津元直は海野一族の上野国の
  羽尾城:羽尾幸全を頼った。
真田幸隆は羽尾幸全の娘を3番目の妻:側室として
娶った。・・・
羽尾幸全の妻の義父:長野業正の箕輪城に行き、長野
業正におそらく連れられて、上杉憲政のいる平井城を
訪ねた。
海野棟綱&真田幸綱は海野の地・真田の郷の奪還を要請した。

長野業正を大将とした軍が結成され、佐久に侵攻した。
海野棟綱と真田幸綱(幸隆)も同行した。
武田晴信は甲斐に帰っていたため、佐久は国衆:大井一族
や笠原清繁・祢津政直(元直の子ども)は諏訪頼重の支配
下にあった。

黒田基樹説では、長野業正は諏訪頼重と同盟を結び、佐久の
国衆を独立させた。しかし、長野業正は海野平に行かず、引
き返した。真田幸隆が武田晴信の家臣になる遠因であった。
と、している。

真田幸隆は箕輪城に3年いた。

武田晴信は父:武田信虎を駿河に追いやり、家督を継承すると
  信濃侵攻を開始し、諏訪郡・北佐久郡を攻略の準備に取りかか
  った。

・天文11年(1542) 諏訪攻撃
6月、武田晴信は諏訪氏庶流:高遠頼継と諏訪領への侵攻した。
  諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧し
  た。ついでに、諏訪頼重の娘も側室にした。
@小説では、新田次郎:湖衣姫・・など
A祢津元直の娘→諏訪頼重養女説

 9月 高遠頼継が武田晴信に対して挙兵した。
    武田晴信は高遠頼継を撃破して諏訪領を掌握した。
上原城・桑原城に城将を置いた。


・天文12年(1543) 長窪城(現長和町)を攻撃。
諏訪から新東山道・・・和田峠を越えて・・・
  長窪城主:大井貞隆を攻めて自害に追い込んだ。

天文12年(1543)説か天文13年(1544) 説
 真田幸綱(幸隆)は武田晴信に臣従した。

・天文13年(1544) 武田晴信は今川義元と和睦した。
@武田晴信は現千曲市&佐久市の侵攻を考えていたので、
南から甲斐に入られるのが不安だった。
A今川義元は駿東郡(富士市:富士川〜沼津〜三島黄瀬川)
  を北条氏康の支配下にあったので取り戻したいという思惑
あった。

・天文14年(1545)
4月 武田晴信は高遠城に侵攻して高遠頼継を滅ぼした。
6月 福与城主:藤沢頼親を追放した。

7月 第2次河東一乱
   ※河東・・・静岡県駿東郡(富士川〜黄瀬川)
今川義元  VS 北条氏康 
7月下旬、今川義元は富士川を越え、善得寺に布陣。
     北条氏康も駿東郡に急行して応戦した。
B北条氏康は危機的状況になった。
 前門の虎・・今川・武田が駿河から・・
 後門のライオン・・山内上杉がせっかく盗った河越城に
 挟み撃ち状態になってしまった。

9月初旬 今川軍+武田軍が合流。
  北条軍は、吉原城を放棄し三島に退却。
  今川軍は北条幻庵・葛山氏元の長久保城(駿東郡長泉町)
  を包囲した。
  河越城を包囲された。
  北条氏康は窮地に陥った。

10月下旬 武田晴信が北条・今川の仲介役として、
   停戦が成立させた。
 武田晴信が仲裁したことで両家に大きな「貸し」を作った。

11月初旬、北条氏は長久保城を今川氏に明け渡した。
  (★『高白斎記』)。
  B北条氏康は西方に安堵を得た河越城の救援に向かった
 

・天文15年(1546)
4月 河越夜戦
上杉憲政+上杉定正+古河公方 VS 北条氏康
  河越城を包囲していた関東管領:上杉憲政が北条氏康に惨敗
上野の平井城に逃げ帰った。
  上野国を中心とする上杉憲政の勢力はいまだ健在であった。

5月 武田晴信は再び佐久郡に侵攻。
  大井貞清が立て籠もる内山城を包囲した。
  武田軍は総攻めをしかけて城を落とし、大井貞清は捕えられた。
真田幸隆の口利きで大井貞清は助命された。
  長窪城(現長和町)の大井貞隆&内山城の大井貞清の大井一族
  が壊滅状態になったことで佐久郡の大半が武田氏に制圧された。
  
  しかし、志賀城の笠原清繁は抵抗を続けていた。
  志賀城は上野国との国境に近く、入山峠(バス事故と軽井沢プ
  リンススキー場の間)・碓氷峠(笛吹峠の表示の本もある。
  また、碓氷峠は当時あったか不明)・内山峠・余地峠などを
  通じて関東管領上杉憲政からの支援が期待できる。
  また、笠原清繁は上杉氏家臣の高田憲頼(旧妙義町高田城&
  菅谷城)と縁戚関係にあった。
  上杉氏からの援軍として高田憲頼父子が志賀城に派遣されていた。

・天文16年(1547)・閏7月から8月 小田井原の戦い
(長野県佐久市)
閏7月、武田晴信は大井三河守貞清を先手として甲府を出陣した。
7月24日 武田晴信は志賀城の包囲を開始した。
7月25日 金堀衆が城の水の手を断った。
     志賀城は窮地に陥った。

 関東管領:上杉憲政は志賀城救援の軍勢の派遣を決めた。

 上杉憲政は重臣:長野業正の諫言を無視して、倉賀野党16騎
 を先陣に金井秀景を大将とする西上野衆の大軍を派遣した。
(★『関八州古戦録』→大河ドラマ「風林火山」)
長野業正
 「北条氏康のほか、武田晴信まで敵にすることはできない。」
と、出陣しなかった。
 (★大河ドラマ「風林火山」)
※エピソード
 金井秀景の先陣はくじ引きで決まった。

関東管領軍は東山道の入山峠(バス事故現場と軽井沢プリンスス
キー場山頂の間)を越えて信濃へ入った。
★一般的に碓氷峠とあるが、当時の碓氷峠は軽井沢に入る碓氷バ
イパスの道ではない。
碓氷峠の戦いや笛吹峠の戦いという言い方で書いてある本もある

武田晴信は志賀城を包囲中であったが、重臣:板垣信方、甘利虎泰
(ピンチの甘利経済復興大臣先祖)に別動隊を編成させて迎撃に向
かわせた。

8月6日 小田井原で合戦
 甲斐守護武田晴信 VS  関東管領上杉憲政

板垣、甘利率いる武田軍は関東管領軍を一方的に撃破して敵将
 14、5人、兵3000を討ち取る大勝利を収めた。

武田軍は討ち取った敵兵3000の首級を志賀城の目前に並べて晒
して威嚇した。
担当者は山本勘助だった。
(★大河ドラマ「風林火山」)

志賀城では救援の望みが全く立たれた城兵の士気は大きく衰えた。

8月10日、武田軍は総攻めをしかけた。
 外曲輪、二の曲輪が焼き落とした。

8月11日、武田軍は本曲輪を攻めた。
  城主笠原清繁と高田憲頼は討ち取られ落城した。

武田晴信の敵兵への処置は厳しかった。
捕虜となった城兵は奴隷労働者とされ、女子供は売り払われた。
戦国時代の合戦では捕虜は報酬として将兵に分け与えられた。
金銭で親族に身請けさせることが行われたが、捕虜の値段は非常
に高額で身請けができず、ほとんどが人買いに売買されたという。
武田信玄の部隊の後続には、奴隷商人が付いてきていたという。

※エピソード
 笠原清繁の夫人は小山田信有に与えられ妾とされた。
悲運に涙に暮れた笠原清繁夫人の哀話が残されている。
(★『甲斐国志』)
 小山田信有(小山田信茂の父:岩殿城主)がお金で買った。
(★大河ドラマ「風林火山」)

志賀城を落とした武田氏は佐久郡の制圧を完了した。
また、大井貞清の没落は傘下にあった上野国現南牧村の
市河氏(砥沢城など16城ほど支配)の武田氏への服属
につながり、後年の余地峠・田口峠→南牧村→下仁田
内山峠→西牧→旧妙義町(高田氏)
 からの武田晴信の上野進出の布石になった。


◆武田信玄の上野侵攻===================
・長享元年(1487) 安中忠親が松井田西城を築城した。
  松井田西城:松井田城の北西端:現補陀寺〜金剛寺

武田信玄は、勢いに乗って碓氷峠を越えて、上野に乱入。
東山道の坂本に拠点を築いて、上野勢と対峙した。
おそらく、武田晴信が築いた臨時の砦=陣城が、坂本城
では、ないかと思われる。武田信玄は碓氷城=愛宕山城
も築城したのではないだろうか。碓氷城は江戸時代の中仙
道沿いにある。東山道は1本でないので、・・・不明。
碓氷川を挟んで南が坂本城で、北は愛宕山城である。
関東管領:上杉憲政軍はおそらく、松枝城=松井田城
で待機したのであろう。

松枝城から坂本城を攻めようとすると、虚空蔵山が
あり、その先に碓氷川の深い渓谷がある。川を越えても
急峻な細尾根がある。つまり、城山=坂本城の北が切り
立った崖斜面になっていている
松井田城から直接の攻城は結構きつい。


・天文16年(1547) 
武田信玄が碓氷峠を越えて、
愛宕山城に駐留させていた浅利・小宮山らが、、松井田
 (松枝)衆と競り合い、松井田衆は32人討ち取られた。
(★『甲陽軍鑑』)

 松井田城はこのときすでに存在し、松井田を本拠と
 する数百人からなる武士団があったと考えられる。
 (★ウキペディアでは)
 
もちろん、松井田城主は安中忠政である。
 一般的に松井田城と皆さんが書いているが・・・
松枝城=松井田西城:現松井田補陀寺〜金剛寺である。

※黒田基樹著では、関東享禄の乱
・享禄2年(1529)〜享禄4年(1531)
古河公方第4代:足利晴氏+第2代公方:足利政氏
上杉憲寛+長野業正・父:長野方業?+高田憲顕(高田城)
  VS
古河公方第3代:足利高基
上杉憲政+安中宮内少輔?+小幡顕高?(上野国峰城/甘楽町)
藤田業繁+用土業国+成田親泰
里見義豊(安房国)+上杉朝興(武蔵国)

※黒田説・・長野憲業→養子:長野方業→実子:長野業正説
※飯森説・・長野憲業→長野方業=長野業正説
箕輪長野方業?が敗れた。
上杉憲寛方のは許された。
@長野方業の後継者とみられる長野業正の娘を小幡憲重に嫁がせた。
A箕輪長野方業の養女:沼田顕泰の娘を安中重繁(★=安中忠政)
 (長野業正の母が沼田顕泰のもう一人の娘)
B安中重繁の娘を高田繁頼に嫁がせた。

★18号の碓氷峠はこの時代は使用している可能性が少ない。
もちろん、東山道は1本ではないだろうが、
仮に東山道だとしても、中仙道以前の道であり、
馬が通るには困難な道ように思える。特に、
覗きや馬の背は・・・。従って、入山峠〜坂本に

武田晴信は坂本城・愛宕山城から撤兵し、中信の村上
義清を叩くことにした。せっかく取った佐久が村上義
清に狙われたからである。

★武田信玄の坂本城の在城期間は約6ヶ月と考えられる。
僅か半年の存在なので、甲陽軍艦や高白斎記に残らな
かったのであろう?
小県郡に勢力圏を持つ北信濃:村上義清との抗争に突入した。

・天文17年(1548)2月 上田原の戦い
武田晴信 VS 村上義清
重臣の板垣信方、甘利虎泰が戦死した。
大敗を喫した。

・天文18年(1549)「三尾寺合戦」
安中忠政など VS 武田信玄
安中忠政を大将とする上州九頭の諸将が武田勢と戦った
 というが、その場所も詳細も不明である。
(★甲陽軍艦)

・天文19年(1550)3月 武田信玄が松井田城を攻撃。
松井田西城である。・・・
    (★『上野志』

・弘治3年(1557) 瓶尻の合戦。
松井田の人見・・磯部温泉の西隣
長野業正 VS 武田信玄

〜〜〜安中氏の城〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・長享元年(1487) 安中忠親が松井田西城を築城した。
  松井田西城:松井田城の北西端:現補陀寺〜金剛寺

・永正年間? 長野憲業の次男:諏訪明尚は松井田諏訪城
   を築城した。
(★黒田基樹)
※諏訪城:松井田城の東端:松井田町のバイパスの立体交差南

・大永5年(1525) 2代:安中忠清が榎下城(安中市原市久昌寺)
に移った。
 松井田諏訪明尚は松井田西城に入った。

・永禄2年(1559) 3代:安中忠政(重繁)が安中城を築城した。
妻は長野業正の養女である。

・永禄3年(1560)頃?安中忠政(重繁)が松井田城を築城。
安中郭の範囲である。本格的に整備した。
安中忠政は子:忠成(景繁)を安中城に置いた。
  安中忠政は武田信玄の西上州進出に対抗した。

・永禄4年(1561) 武田信玄の松井田城を攻撃した。
4代目:安中忠成(景繁)は安中城で降伏し、武田信玄に
  臣従した。

・永禄9年(1566) 4代目:安中忠成(景繁)は
甘利昌忠の妹?娘を妻(2号)とした。
安中忠成(景繁)は甘利軍団に属して、従兄弟の箕輪城攻撃
  に加わった。
  その後、各地を転戦した。



〜〜〜中略〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


・天正17年(1589)
11月24日 豊臣秀吉は北条に宣戦布告。
 諸大名に動員令を発令した。
12月10日 豊臣秀吉と徳川家康が聚楽第で作戦の相談した。

■天正18年(1590)
A、秀吉軍の北国軍(前田・上杉・真田昌幸ら)が北条の城を攻撃。

2月10日 上杉景勝は春日山城を出発
2月15日 上杉景勝は海津城に到着した。
2月??日 上杉景勝と真田昌幸が??で合流した。
真田信幸も従軍した。
      真田幸繁(幸村)も従軍した。
       史料に出てくる最初の参陣であるというが、
       上田城の門2階のシュミレーションには
       第一次上田合戦で真田幸繁が真田信幸が戦った。
とあった。
※真田昌幸隊は前田隊・上杉隊と軽井沢で合流した説もある。

2月20日 前田利家は金沢を出発した。
3月?日 前田利家が福井経夕→東山道木曽→佐久郡へ到着。
     上杉景勝軍と前田利家軍が合流。

3月7日 真田昌幸→豊臣秀吉に手紙

北国軍=北陸支隊の構成
上杉景勝軍1万、前田利家軍1万8千、真田昌幸3千、
松平康国軍4千・・・・合計3万5千の大軍であった。

大導寺政繁は北国軍に備えて、
@松井田城の増築・・・安中郭からさらに拡大。
  碓氷川から石を運んで工事。
A物見&先兵を出していた。
 入山峠?碓氷峠?は上信国境である。
 峠道も監視していた。
  
 
※碓氷の関所は江戸時代、安中藩の井伊直孝
 が今の場所に移した。
※軽井沢駅に出る国道18はない(当時、軽井沢の地名はない)
 東山道は5本以上あるだろう??・・・
 @入山峠(バス事故と軽井沢スキー場の間)・・坂本城搦め手
    ・・・・・愛宕山城コース・・霧積川・・・
 A入山峠(バス事故と軽井沢スキー場の間)・・坂本城大手口
・・碓氷川・・・坂本の集落・・松井田城コース
 B中山道の碓氷峠・・東山道(その後の中山道)・・愛宕山城
  ・・小根山・・松井田城の東へ・・・
 C中山道の碓氷峠・・東山道(その後の中山道)・・愛宕山城
 ・・現碓氷の関所・・松井田城の西(現市街地)へ
 D中山道の碓氷峠・・東山道・・霧積温泉・・小根山
 E中山道の碓氷峠・・留夫山・・霧積温泉・・小根山
 ○中山道の碓氷峠・・和宮道・・坂本
 E志賀城→峠→奥入野→坂本・・・
私見はAのコースである。碓氷峠は入山峠の戦国時代まで
 呼んでいたのかもしれない。つまり、碓氷峠=入山峠だった。

 北条家臣:松枝城主(松井田城主)大導寺政繁も防衛に
 力を注いできた。また、峠道は大軍の動きを留める場所
 であった。

3月13日 真田昌幸→豊臣秀吉宛の手紙

3月14日 豊臣秀吉→真田昌幸宛の手紙と送った。
 「去7日、昨日13日・・・手紙を見たよ。
  ・・・松井田根小屋悉く焼き払い・・・
  景勝・利家と相談し・・・油断なきよう・・・」
真田安房守殿
同 源三郎殿
 (★上田市誌の歴史資料編2p45真田幸治氏蔵)
            
3月15日
真田昌幸隊は入山峠?碓氷峠?にさしかかっていた。
 真田軍は真田信幸が碓氷峠?と松井田の物見に出た。
  
 松井田城主:大道寺政繁は碓氷峠で先制攻撃を仕掛けようと、
 与良与左衛門ら800の兵を置き、待ちぶせていた。
 
真田氏先兵が碓氷峠で待ち構えていた大導寺政繁の先兵:
 与良勢と遭遇し、激しい戦闘になった。
真田信幸は、奮戦し、与良を討ち取った。
 与良勢を撃退した。

3月??日 松井田の坂本愛宕山城に陣をはった?
 ▲碓氷峠の合戦
「長国寺殿御事蹟稿」
松枝城主大道寺駿河守、人数を出しける。其節、信州侍に与良
与左衛門と云う者有り。元来は甲州侍なるが、北条家に仕えけり。
此度松枝ヘ小田原より加勢の為に来たりて、此城に居けるが、
唯一騎馬上にて十文字の槍を提げて坂本の町外れ坂へ上る。
右の方に辻堂の有る所迄来たり。静かに物見をしたる処に
信幸の家人に吉田政助と云う者あり。与良に駆け合わせて暫く
迫め合いける。然る処に、富沢主水と云う者、坂の上より桑の
木の有りしを台にして、鉄砲にて彼の与良を打ち落としけり。
其の後、磐根石と云う切所にて迫め合い有り。時に源次郎信繁、
自身に働キ、手を砕きて高名有り、敵を追い崩さる。
◆参考サイト
名門真田家三代(真田幸隆 真田昌幸 真田幸村)の記録
http://www2u.biglobe.ne.jp/~sanada/sanada/sanada/uijin.html
◆箕輪町誌

★※松井田攻略の作戦が真田幸繁(幸村)の初陣となった。
  実際は第一次上田合戦での砥石城での兄:信幸との
  攻防戦であった。

3月18日 北国軍が碓氷峠で北条先兵を破る。

3月??日
 真田昌幸軍は大導寺政繁軍と乱戦になる。
  真田幸繁(幸村)は大導寺軍に突っ込み壊乱させた。
真田軍は松井田城下(高梨地区が大手城下町)に殺到した。
※現在の松井田の市街地はほとんどなかった。

3月28日 松井田城を包囲攻撃、落ちず。
  松井田城は要害堅固であった。
個人的には群馬の城郭のBEST8に入る大きさと堅城で
  あると思っている。
  大導寺政繁は頑強に抵抗した。攻城は困難を極めた。

 豊臣秀吉は8月17日山中城を攻略し箱根を越えていた。
 豊臣秀吉は松井田城攻略の遅れにいらいらしていた。

3月29日? 豊臣秀吉→真田昌幸宛の手紙と送った。
 周辺を放火し、篭城軍の士気を削ぎ、兵糧攻めに入った。
ついに、大導寺軍は降伏開城した。

 
4月?日 西牧城(多米元忠)への攻撃
      →多米元忠が西牧砦で討死。
4月?日 厩橋城(?)を攻略。・・・・浅野長政ら

4月7日 豊臣秀吉から真田昌幸が松井田に付城普請を命じられる。
 手紙が届いた。
豊臣秀吉は
「付城を築き松井田攻撃を強化するように・・」
と命令した。


4月12日 真田昌幸が手勢を連れて碓氷峠で80人を討取る。
  ★実際は愛宕山城からの出撃。

4月20日 松井田城(大導寺政繁+子直繁1500騎)落城
      →大導寺政繁は前田の道案内。

4月?日 和田城(和田)も落城・・・・・前田・上杉
和田信業は小田原城に籠城。

4月?日 倉賀野城(併和○○)も落城。

4月24日 →大導寺政繁の道案内で前田・上杉・真田
   が箕輪城へ?。
     (鉢形城開城:鉢形城博物館)
 ・箕輪城を垪和信濃守(垪和康忠の子)が降伏開城。
  ・前田・上杉軍の前に4月24日、闘わずに降伏開城。
   真田昌幸が入城。
 @北条氏の垪和氏・保科氏が守備。
   (★高崎市史の資料)
 A北条氏の芳賀信濃守・保科正直が降伏。
   (★みさとの歴史)
 A芳賀信濃守は逃亡し、保科正直が降伏。
    (近藤先生:箕輪町誌の松城通記)
 C4月24日、垪和信濃守は北国勢に降伏。
   (★近藤義雄先生:箕輪町誌の「箕輪城と長野氏」)
 D城主:垪和信濃守は上野国の諸城が落ちていくのに
   動揺し、城内で勃発した反乱軍により城から追放さ
   れた。箕輪城は保科正直ほぼ無血で占領した。
◆参考サイト
名門真田家三代(真田幸隆 真田昌幸 真田幸村)の記録
http://www2u.biglobe.ne.jp/~sanada/sanada/sanada/uijin.html
   


4月24日 真田昌幸→豊臣秀吉宛の手紙

4月24日〜真田昌幸・真田信幸・真田幸繁は、箕輪城に
在城した。


4月29日 豊臣秀吉→真田昌幸宛ての手紙
 「去弐四日書状今日弐九披見候箕輪城之儀羽賀信濃守追出
    保科居残城相渡候付て羽柴孫四郎・・・」
 (★近藤義雄先生:箕輪町誌の4月29日の秀吉書状4月24日
    の真田の報告に答え、箕輪城で在城処理。)

4月30日〜
 真田昌幸・真田信幸・真田幸繁は、箕輪城の武具受領や百姓
 環住などの仕置きを指示。人身売買の禁止。  

6月下旬 忍城の応援
 武蔵鉢形城、八王子城・・・
 真田昌幸は小田原包囲陣に加わった。

7月5日 小田原城落城 
 真田昌幸など真田一族は北条氏攻撃の働きにより豊臣秀吉に
 重く用いられるようになった。



★明日も真田関連かな?

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