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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸16【真田の選択&武田勝頼の最後の真偽】

<<   作成日時 : 2016/01/19 10:06   >>

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天正10年(1582)真田幸繁の父:真田昌幸が武田勝頼に「岩櫃城
まで逃げるように・・」と進言した基本的には甲陽軍鑑の創作かも
しれないと思っているが、迎えるばずの潜龍院には4回行った。
私は真田一族の生き残り作戦:知将の真田一族と思っている。
悪く言えば、日和見とか、裏切りの真田一族とも見られるが。
★武田勝頼の最後に関して、いくつかの疑問のある。武田滅
亡前に北条に帰属をする意思がある書状がある。石原家
(兄:昌貞三枝家への養子?)文書では、『真田昌幸が8歳の
娘の「帯解きの儀」を八王子城の垪和(はが)伯耆守康忠に
お願いしている』。つまり、真田昌幸は真田一族の領土:上田
〜吾妻への執着心があったからである。『左助』の名を使って
いるが、実在者は割田下総か唐沢玄蕃であろう。
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【1】真田昌幸は忠義の士か?
1)甲陽軍鑑・・・忠義の士
2)『真田丸』・・・忠義の士?
3)真実・・・・・どう解釈していいのか?知将なんだろうな?
※真田昌幸は武田滅亡以前から北条氏直との接触していた。
武田滅亡前に北条に帰属をする意思がある書状が見つかっている。
@石原家(兄は三枝家への養子)文書
 真田昌幸が8歳の娘の「帯解きの儀」を八王子城の垪和(はが)
伯耆守康忠にお願いしている。
(★かみつけの里友の会:黒崎会長(浅利信種直系)に同行)
A長尾憲景文書
真田昌幸は武田家の滅亡前から、上野国八崎城(渋川市旧北橘村)
 の長尾憲景を通じて、北条氏と帰属交渉を開始していた。
★つまり、真田昌幸が真田一族の領土への執着心持っていた
ことから先を見通してしたことである。



【2】「岩櫃城に来るように・逃げるように・・」は真実か?
●真田昌幸と武田勝頼の別れ
1)甲陽軍艦
・天正10年(1582)武田勝頼に「岩櫃城に逃げるように・・」
 と進言した。 
 武田勝頼の嫡男:信勝は新府城における籠城を主張した。
 これに対し信濃の国衆:真田昌幸が上野岩櫃城(群馬県東吾妻町)
 へ逃れることを提案したが、武田勝頼側近:長坂光堅が小山田
 信茂の岩殿城(大月市)へ逃れるべきと主張した。
(★『甲陽軍鑑』)
★おそらくは甲陽軍艦の創作であるかもしれない。
 しかし、真田昌幸が言った可能性もある。苦し紛れに?・・・
 岩櫃城近くに『潜龍院』を築城したのは確かである。
2)真田丸
※・天正10年(1582)武田勝頼に「岩櫃城に逃げるように・・」
そして、真田昌幸は真田信繁・信繁をおいて一足先に岩櫃城に向
かった。しかし、
小山田信茂は
「新参者より・・・私の岩殿城に・・」
と武田勝頼に言った。

3)『甲乱記』
 武田勝頼が小山田信茂に対して郡内へ逃れることを諮問した。
  武田信勝・真田昌幸の提案の記述はない。

4)真実?勝手な想像・・・
甲陽軍鑑は自分たち武田家と家臣を美化している部分が多い。
 誰だってそうだ。
※実際は、真田昌幸本人は新府城から落ち延びる武田勝頼に同行
していた。真田信幸や真田信繁も人質として甲斐にいたので、同
行していたのではないだろうか?
武田勝頼の落ち延びる最中にも、武田の武将たちに、織田信長
・徳川家康から降伏を催促する書状が届けられた。それを武田
勝頼に知らせたのは、小山田信茂と真田昌幸であった。
★ほかの家臣は知らせなかった。なぜ?
2人とも迷ったのであろう。
実はほかの家臣が裏切る気持ちなどさらさらなかった。
2人はそれぞれ自分の城に来るように勧めた。
@真田
しかし、小山田信茂が武田勝頼に
「新参者の真田より私を信用してください。」
(※真田丸でも同じ)
と述べたであろう。
真田昌幸は上野:岩櫃城へ向かい、武田勝頼と小山田
信茂は甲斐岩殿城へ向かった。
では、真田一族はどこで分かれたか? 
笹子峠を下って、分岐かなあ?



【3】武田勝頼の最後『自刃か?』*************
1)甲陽軍鑑・・・自刃説
★甲陽軍鑑の信憑性?

2)真田丸・・・・・・・自刃説・見たのは佐助?
★佐助はいなかった。モデルは唐沢玄蕃か割田下総守?
  

3)津田小平次政秀文書
伊藤永光がよれよれの勝頼を殺した。
武田勝頼は、戦闘に参加することなく具足櫃の上に腰掛けていた。
 (★景徳院に看板がある。)
嫡子:武田信勝16歳が鳥居坂で討死し、武田勝頼の前面(約500m
山の方)を防備していた土屋右衛門尉昌恒も(1000人切り?・・
真実か不明:甲陽軍鑑の武田家の美化か?)滝川一益の甥:滝川儀太
夫重益によって簡単に討ち取られてしまったらしい。その直後、側面
より後の福島正則の家臣:伊藤伊右衛門永光が武田勝頼を襲い、一刀
のもとに討ち果たして首を挙げたという。
津田小平次政秀(織田信長支流:妻は滝川一益養女→滝川一益与力)
 は、勝頼の最期の模様を眼の前に見ていた。武田勝頼は太刀で防戦
 するかにみえたが、飢えと疲労のために動けず、伊藤永光によって
 簡単に討ち取られてしまった。と記している。
 武田勝頼の首は、伊藤永光の鞍の四緒手(しおで)にくくり付け
 られ、大将:織田信忠の元に届けられたが、首実検の際、多くの大
 将首が運ばれたため、武田勝頼の首が分からなくなってしまった。
 当初、小原丹後守継忠の首が武田勝頼のものとされたが、武田勝頼
 の首の斬口に、永光の馬の毛がついていたので、やっと判別できた
 という。
★参考サイトA武田勝頼の最後
http://www.interq.or.jp/pure/miyatate/takeda-katsuyori.htm


4)『信公記』武田氏滅亡  武田四郎父子生害の事
 3月11日、武田勝頼父子とその簾中・一門が駒飼(大和村)の
 山中に引きこもっているとの報が滝川一益の元へ届いた。この報
 を受けた一益が険難節所を越えて山中へ分け入り、勝頼一行を尋ね
 出していったところ、果たして田野という地の平屋敷に急拵えの柵
 を設けて居陣していることがわかった。

 一益はすぐさま滝川儀大夫・篠原平右衛門を先陣に命じ、かれらの
 下知のもと田野を包囲した。すると逃れがたきを悟ったか、
 勝頼らはさも美しき歴々の上臈衆・子供たち四十余人を一
 人一人引き寄せ、花を折るがごとくに刺し殺していった。

 その後、残った者たちは散り散りになって織田勢へ切って出、
 おのおの討死を遂げていった。中でも勝頼の若衆であった土屋
 右衛門尉昌恒は弓を取り、寄せては引きつつ散々に矢数を尽く
 し、よき武者数多を射倒したのちに追腹を切って果て、比類な
 き働きを残した。

 勝頼の子武田太郎信勝はこのとき齢十六、さすが名門の子とあっ
 て容貌美麗、肌は白雪のごとくで、美しきこと余人に優れ、見る
 者であっと感じ入りつつ心を奪われぬ者はなかったほどであった。
 しかし会者定離の悲しみ、老いたるを残して若きが先立つ世の習
 いからは、この者とて無縁ではいられなかった。まことに朝顔の夕
 べを待たぬがごとき、蜻蛉にも比する短き命であった。信勝は家の
 名を惜しみ、けなげにも敵勢の中を切ってまわり、ひとかどの功名
 を残して果てていったのだった。
 この地で討死に名を連ねた者は、
 武田勝頼・武田信勝・長坂釣閑斎(★途中で逃げた説があったが。)
 ・秋山紀伊守・小原下総守・小原丹後守・跡部尾張守とその息
 ・安部加賀守・土屋昌恒、麟岳  
 ※麟岳は高僧であるが、働きをした。
 以上侍分41人、上臈ほか女分50人にのぼった。

 かくして11日巳刻にはすべての者が相重なって討死を遂げた。
 (★現地の石碑70人だっけ?)
 勝頼
 父子の首は滝川一益より中将信忠殿の目にかけられたのち、関可平次
 ・桑原助六の両人に運ばれ信長公へ進上された。

★参考サイト@信長公記 巻十五 天正十年
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shincho18.html
(★引用させていただきました。)



【4】(猿飛)佐助は実在か?
3)★いないでしょうね。いると楽しいけどね。


真田忍軍
@ 総帥・・・・・・出浦対馬守(岩櫃城出浦郭が在住)
 (信濃坂城出身:村上義清弟=家老
   →武田信玄の素破隊長→森長可の家臣
  →真田幸隆の家臣:真田忍群総帥&岩櫃城代など歴任)
B副総帥クラス・・
 ●横谷左近(吾妻雁が沢城主)
    (川原湯渓谷の入り口の発電所上)
    ★横谷左近の弟が猿飛佐助説もある。
 ●鷲塚佐太夫(=猿飛佐助の父説が有力?)
C隊長格・・割田下総・唐沢玄蕃・剣持喜右衛
      ・田村左次左衛門(四万温泉)
      ・岡山源右衛門・広田岡右衛門
●忍者・・下級武士・浪人・百姓・山伏・またぎ・巫女・舞芸人など
★岩櫃城&柳沢城の間の寺・・・修験道場=スパイ養成所

■真田十勇士のお話
・猿飛佐助・霧隠才蔵・三好清海入道・三好・穴山小助
・由利鎌之助・筧十藏・海野六郎・根津甚八・望月六郎    
             (★真田三代)
箕輪初心●岩櫃城探検隊第8弾:真田家臣団一覧
&【唐沢玄蕃の墓&割田重勝の墓】
http://53922401.at.webry.info/201311/article_14.html






◆◆ 真田昌幸の生涯23歳〜35歳 ◆◆
・元亀4年(1573) 
 4月12日(陽暦5月13日)
   武田信玄は死亡。
   真田昌幸は武田勝頼に仕えた。

・天正2年(1574) 父:真田幸隆が死去。
  真田氏の家督は長兄:真田信綱が継いだ。

*天正3年(1575)5月21日 長篠の戦い
  真田信綱、昌輝兄弟が戦死した。
 ★真田昌幸も長篠合戦には参加していたが、武田勝頼の旗本
  衆として参加していたため、戦死は免れていた。
◆◆ 箕輪初心◆長篠の戦い ◆◆
@前編 http://53922401.at.webry.info/201211/article_25.html
A後編 http://53922401.at.webry.info/201211/article_27.html


 真田幸隆3男:真田昌幸が真田家を相続した。
  (←武田家臣:武藤家養子)
  武田家の海津城主:高坂昌信の支援があったとされる。
  
 ※武田勝頼も真田昌幸の復姓と家督相続を認めた。
 武藤家の家督は武藤一族の武藤常昭が継承したと考えられて
   いる。
 真田昌幸は家督相続後、真田領の仕置のために真田本城や岩櫃
   城にも行かなければなたなかった。
   武田勝頼への甲府出仕も多かった。
  ※上野:岩櫃城&真田の里&と甲斐の自宅&躑躅が崎を行ったり
  来たりしたようである。

真田昌幸は武田勝頼の命により、白井衆に伊香保温泉の
温泉整備を進めた。
★千明・岸権・木暮などに命じて、石段街を元を築かせた。

・天正4年(1576)
武田勝頼は長年寺(旧榛名町室田)に5項目の特権を与えた。
  ★嘗て、受蓮和尚が武田信玄に3回も高い金を出して、制札を
   受けた。・・・しかし、残ったの,私一人・・・
   9月29日が箕輪城の落城と判明した。・・・」
まあ。今頃になって・・・人身の掌握のため必要だった。


・天正5年(1577)
真田昌幸は戸榛名神社(旧榛名町三つ子沢?)の取り持ちを
した。
(★榛名町誌)

・天正6年(1578)
 3月13日(4月19日) 上杉謙信の死亡。
   御館の乱

   甲越同盟が成立した。
  
3月吉日 上野国の白岩観音がの観音堂が完成した。
(武田信玄の家臣:那波無理之助が燃やして以来の
     再建になった。)
棟札に勝頼・内藤昌月・北爪土佐守(高崎市浜川町)
がある。

・天正7年(1579)

 9月 真田昌幸は武田勝頼の命令で北条氏政の所領であった上野
 の沼田領へ侵攻した。
 真田昌幸は沼田衆を調略を進めた。
 叔父:矢沢頼綱に沼田城を攻撃させた。
 名胡桃城(みなかみ町月夜野)の鈴木重則と小川城(みなかみ町
 月夜野)の小川可遊斎を自分の配下にさせた。
 両城を手に入れた。そして2城を拠点にして沼田城を攻撃した。
 北条氏邦の重臣:猪俣邦憲は利根川対岸に明徳寺城を築いて
 対抗した。
 北条氏邦が箕輪城から援軍に駆け付けたために撤退した。

内藤昌月は不在であった箕輪城代として赴任し、大和守を
  称した。

8月 内藤昌月は北条右衛門尉、宇津木氏久と謀り、上杉景虎方
 であった厩橋城、大胡城を領有する北条高広を武田方に転じ
 させた。
 
8月28日 武田勝頼→北条氏への書簡
  内藤昌月が家臣に箕輪城を伝える。=演説をする
  (★秋本先生) 

9月 武田勝頼は佐竹義重と東毛に出兵した。
  由良国繁の金山城、長尾顕長の館林城、富岡秀高の小泉城の
 城下を荒らし、河田備前守の膳城を落城させた。
河田重親、長尾憲景、那波顕宗も武田方となった。


・天正8年(1580)
閏3月 真田昌幸は沼田城攻撃を再開した。
  真田昌幸は金子泰清を
 5月 沼田城を開城させた。
さらに、猿ヶ京城(みなかみ町猿ヶ京:現湖城閣)も攻
    略した。
  真田喜兵衛尉を改め、真田従五位下:安房守に叙任された。

 
9月 武田勝頼は東上野国に侵攻した。
厩橋城(前橋城)→大胡城→女ヶ渕城→膳所城
 (素肌攻めで有名)を攻略すあt→
太田金山城を攻撃したが、落城しなかった。

  真田安房守昌幸は武田勝頼の命で新たに
  韮崎に「新府城」の人夫動員を通達した。
  ★新府城築城に関しては真田昌幸は作事奉行であったとする
  説もある。
 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方▲山梨【新府城】:武田勝頼60日の城&出浦盛清
http://53922401.at.webry.info/201504/article_25.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
   元沼田城主:沼田景義が旧領奪回を図った。
  真田昌幸は家臣:金子泰清に命じて沼田景義を
  討ち取った。


・天正10年(1582)
2月28日 北条氏邦は箕輪城に入城した。
(★新編高崎市史4)
 


〜〜〜甲斐での真田家の動向〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
※真田昌幸は一方で武田滅亡以前から北条氏直との接触していた。
@石原家(兄は三枝家への養子)文書
 真田昌幸が8歳の娘の「帯解きの儀」を八王子城の垪和(はが)
 伯耆守康忠にお願いしている。
つまり、真田昌幸が、ただ、真田一族の領土への執着心からした
ことである。
 (★かみつけの里友の会:黒崎会長)
A長尾憲景文書
真田昌幸は武田家の滅亡前から、上野国八崎城(渋川市旧北橘村)
 の長尾憲景を通じて、北条氏と帰属交渉を開始していた。



1月  新府城築城
  甲斐の領民に重税を課した。
  織田信長の来襲に備えて新築した城であった。
  武田勝頼:妹の夫:木曽義昌が税と不易に不満を持ち、
  離反した。織田信長に臣従した。

2月14日 浅間山噴火

3月1日 穴山梅雪が離反し、徳川家康に付いた。

3月2日 軍議
@武田信勝・・・新府城に籠城
A真田幸隆・・・岩櫃城に
B小山田信茂・・岩殿城に
・・・新府城は未完成。守り切れない。
岩殿城で籠城&迎撃・・・


●武田勝頼の逃走経路〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜最後。
3月3日 
▲新府城・・・1回

  武田勝頼は新府城に火を放った。
  そして、小山田信茂の居城:岩殿城〔大月〕を目指した。
  滝川一益・甥:滝川益重が追撃してきた。

※武田勝頼は新府城を放棄し、小山田信茂を頼り逃れる。
(★『信長公記』)


▲武田八幡神社・・・1回
 武田勝頼の継室:北条夫人が戦勝祈願をした。

▲願成寺・・・・・・1回
 甲斐源氏の祖:武田信義の墓所を礼拝した。。

▲泣き石
 北条夫人が岩で涙した?

▲涙の森・・・・・・・1回写真はない
  武田勝頼らが振り返ると燃える新府城が見えた。
   涙を流したとされる場所である。

▲躑躅が崎館の前・・・4回
   武田勝頼一行は立ち寄らなかった。 

▲甲斐善光寺・・・・・3回
  武田勝頼一行は立ち寄って安全祈願をした。
 
▲勝沼氏館前・・・・・5回

▲大善寺・・・・1回
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 武田勝頼らは新府城は大善寺まで約35kmの距離を1日で来た。
 大善寺には武田一族:理慶尼がいた。
 国宝・薬師堂・・・武田勝頼・武田信勝・北条夫人・理慶尼の
  4人が一緒に寝た。
(★大善寺のガイド)

●小山田信茂の離反日3説
武田勝頼と嫡男:信勝一行は岩殿城を目指すが、その途中で
 小山田信茂の離反に遭った。

@3月7日説 『理慶尼記』
 小山田信茂の離反日を3月7日としている。
 笹子峠(大月市)を郡内への入り口を封鎖した地としている。
(★『理慶尼記』)
  ※3月12日 理慶尼が『武田滅亡記』を残した。
大善寺薬師如来の像の後ろに展示されている。
画像


A3月9日説『甲陽軍鑑』
 武田勝頼一行は鶴瀬(甲州市大和町)に7日間逗留し、小山田信茂
 の迎えを待った。
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 3月9日夜に小山田信茂は郡内への入り口を封鎖し、武田勝頼一行
 を木戸から招き入れると見せかけて鉄砲を打ちかけた。

B3月3日〜11日? 『甲乱記』
  小山田信茂が離反した日付の記載がない。
  武田勝頼は柏尾(甲州市勝沼町)から駒飼(甲州市大和町)
  へ移動する途中で信茂離反を知った。

3月11日 織田信長・徳川家康連合軍の甲州攻撃開始。
  武田領国への侵攻が行われた。
  先陣として滝川一益が進入してきた。
 ※真田昌幸は武田勝頼に甲斐国を捨てて上野国吾妻地方に逃亡
  するように進言し岩櫃城の潜龍院に迎える準備をしていた。



景徳院(当時はない)
→B四郎作→C鳥居畑→●→D千人切り・・栖雲寺


@大善寺= 駒飼==========A笹子峠======



※小山田信茂は織田信長に投降することに方針を変換し、武田勝頼
を進路を遮った。

▲笹子峠の関所
1)甲陽軍鑑・・・郡内への入り口
鉄砲を撃ちかけた。
2)『理慶尼記』・・笹子峠
3)真田丸・・・・小山田信茂は笹子峠の木戸を閉めた。
親戚の小山田茂誠(しげまさ)が涙する。
でも、小山田茂誠は生き延びて真田昌幸の娘:村松殿
  :まつの夫となって活躍しなければならないので、
    変である。本当に帰れるのだろうか?


※武田勝頼と信勝は岩殿城行きを断念した。
 後方からは滝川一益の追手に追われ、逃げ場所がないことを
 悟った武田勝頼一行は笹子峠から武田氏の先祖が自害した
 天目山栖雲寺(甲州市大和町)を目指して逃亡した。
  ★天目山という山はないようである。木賊山らしい。
 天目山栖雲寺があるが、・・・
 栖雲寺は武田家13代当主・武田信満が上杉禅秀の乱により、
  都留で敗戦し、上杉憲宗の追討を受けて自刃した。
 天目山栖雲寺に墓がある。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
▲天目山の戦い
3月11日、徳川家康と穴山梅雪は織田信忠に面会し、今後の相談を
 行った。

 武田勝頼一行は天目山栖雲寺の手前(7〜8km?)にある田野
 で滝川一益隊に対峙した。
700名いた家臣も43名になっていた。40人説もある。


▲景徳院前〔当時はなかった〕・・・挟み撃ちの中心。
 後、田野寺・・景徳院:徳川家康が建てた。
 武田勝頼、北条夫人、武田信勝の墓があるよ〜ん。

▲大蔵沢の思案石(日川釣り堀センター下)
 上流に徳川軍が現れたので武田勝頼が腰かけて思案した
 という。
つまり、日川渓谷で上と下から挟み撃ちになったのである。
 武田勝頼の家臣:土屋昌恒・小宮山友晴らが奮戦した。

▲土屋昌恒の千人切り・・・徳川軍との戦い
 ★車を止める場所がないけど、車をとめた。
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土屋昌恒は「片手千人斬り」の異名を残すほどの活躍を見せた。
 また、安倍勝宝も敵陣に切り込み戦死した。


▲四郎作の戦い・・・滝川一益軍・福島正則軍
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  小宮山友晴ら数名が戦死した。


▲鳥居畑の戦い・・・滝川一益軍・福島正則軍
 滝川一益軍が迫ってきた。
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★無理矢理車を駐めて写真を撮った。
  曲がりカーブで危険であった。
 景徳院の駐車場に止めて、県道を下り徒歩2分である。
  田野で追手:滝川一益・甥:滝川益重・篠岡平右衛門
 に囲まれた。
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 滝川勢の甥:滝川益重・篠岡平右衛門に捕捉された。

金丸正光・木部範虎が戦死した?自害した?
 ※殿が武田信勝説がある。

 武田勝頼は追い詰められた。

●巳の刻(午前11時頃) 武田勝頼・信勝父子、北条夫人:桂林
 院殿は自害した。
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▲武田勝頼の死亡説
1)甲陽軍鑑・・・自刃説
武田勝頼は景徳院(山梨市)のある場所で自刃した。
★甲陽軍鑑の記述の信憑性?
2)真田丸・・・・・・・自刃説・見たのは佐助?
★佐助はいなかった。モデルは唐沢玄蕃か割田下総守?
  真田昌幸が報告を聞いた。
   ★甲陽軍鑑の記述の信憑性?

3)津田小平次政秀文書
武田勝頼は、戦闘に参加することなく具足櫃の上に腰掛けていた。
 (★景徳院に看板がある。)
福島正則家臣:伊藤永光が簡単に武田勝頼を殺してしまった。
伊藤永光が疲れ切ったよれよれの武田勝頼を殺した。
 

▲武田信勝の死亡説
 @景徳院案内板などの説
   武田信勝の自刃説
A鳥居畑の看板・津田小平次政秀の日記などの説
   武田信勝の鳥居畑での殿での戦死説
 武田信勝は殿として切り死にした。
B『甲陽軍鑑』『甲乱記』の説
  武田信勝&大竜寺麟岳の刺し違え説
  大竜寺麟岳は武田信廉の子息(武田勝頼の従兄弟)で甲府大竜寺
  の住職である。武田信勝&大竜寺麟岳は同じ場所で死去している。
  麟岳は武田勝頼は脱出して菩提を弔うことを依頼されるが断り、
  武田勝頼のの死を見届け、武田信勝と刺し違えて死去した。

  

▲武田勝頼に随行した家臣の戦死者
土屋昌恒(金丸筑前守虎義の子)
秋山源三郎(金丸筑前守虎義の子)
金丸正光 (金丸筑前守虎義の子)
秋山紀伊守・・・菅沼又五郎によって討たれた。
小宮山内膳
小原下野守
小原継忠
木部範虎(上野:現高崎)・・・木部高成は跡を継いだ。
友野(伴野)刑部少輔・・・・伴野宗家子孫は私の家の3軒隣。
友野(伴野)又一郎・・・友野刑部少輔の子 信勝に殉じた。
大熊朝秀(上杉謙信の家臣→武田信玄家臣:箕輪→駿河小山城)
甘利??など

長坂光堅(★『甲陽軍鑑』の長坂逃亡説は史実に反する。)
跡部勝資・・・殉死説。諏訪防衛戦戦死説
    (★『甲陽軍鑑』の跡部逃亡説は史実に反する。)



3月11日 小山田信茂の裏切りに遭って最期を遂げた。
辞世は
「おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ
    晴れて行くへの 西の山のは 」。
 嫡男:信勝や正室:北条夫人とともに自害した。享年37。
 名門:甲斐武田氏は滅亡した。
(★甲陽軍鑑)


▲天目山栖雲寺に武田勝頼はいけなかった。
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●津田小平次政秀の話
 @織田信長から関東管領に補せられた滝川一益は厩橋城に入って
 経略に当り、松井田城には寵臣津田小平次政秀をおき、関西への
 繋ぎに任ぜしめた。
  (★「群馬県古城累祉の研究」・「群馬の古城」:山崎一著)
「群馬県史」
 ★詳細は真田と滝川の腐れ縁で紹介予定。


▲景徳院
徳川家康の命により小宮山内善友信の弟:拈橋を開山として創建された。
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 70人?
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たびたび、お邪魔いたします
真田昌幸は忠義の士であると思います。
ただし、家を守るために、頼れる主である場合に限ります。主が滅んだとて、たやすく手のひらを返すわけではありません。それを滝川一益の逸話で、そうと教えてくれたのはお師匠尾様ですよね。

本国から離れた最前線の、いわば境目の地を守る場合、隣国と誼を通じるのは普通のことと思います。武田家の場合、小山田氏は古くから北条との誼を通じ、代償として北条領に領地を北条氏よりあてがわれていたと本で読んだことがあります。穴山氏も駿河との間に同様のことが行われていたと聞きました。

両国間の力関係が大きく変化する場合、境目の領主が調略により寝返ることは、返り忠と言ってなんら恥ずべきことではないとも聞き及びました。まあ!その場合、当分の間外様衆でよほどの手柄を立てない限り日の目を見ることは無いと思いますが。

本日のブログの内容は、夢ものがたりのクライマックスとして引用し、ありがたく頂戴いたします。そして武蔵さんのところにある、「土屋山城守高久伝説」信勝が生き延びて、上州南牧村羽根沢の地で暮らす話をつなげると面白くなりそうです。
それではまた
棟治
2016/01/20 00:12
真田家と滝川家の腐れ縁?はこれから書くつもりです。
小国の知恵は大国を利用する。たとえば、上田城築城での家康利用というのが、平山優&黒田基樹説です。・第1次・第2次上田合戦。集大成:真田丸の攻防は真田戦術の極みでした。武田信勝の逃亡説はほかにもあるようです。
棟治様
2016/01/20 10:30

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