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zoom RSS 箕輪初心:生方▲扇谷上杉氏初代〜11代

<<   作成日時 : 2015/12/03 09:27   >>

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@上杉重房→A上杉頼重→B上杉重顕(足利尊氏の母方の叔父)→
C上杉朝定(二橋上杉家).→D上杉顕定:鎌倉公方に仕えて鎌倉
の扇谷(現鎌倉市扇ヶ谷)に居住したことから扇谷家の家名が起
こった。扇谷上杉家は他の上杉諸家と同じく関東管領を継承する
家柄であったが、宗家:山内上杉家が関東管領をほとんど独占し
たため、室町時代の前半には大きな勢力を持った家ではなかった。
山内上杉氏を参考にしながら、まとめてみた。基本的には、出てく
る場所に扇谷・太田道灌宅・麹屋・五十子・城とか70%以上、行っ
ている。
画像



【1】上杉顕定
・正平6年/観応2年(1351) 上杉藤成の子として生まれた。
・????年 丹波守護で、二橋上杉朝定の養子となった。
・治年間頃(1360〜)上杉顕定は関東に下向して鎌倉公方:足利氏満
  に仕え、鎌倉扇谷に居住し、扇谷上杉家の祖となった。
 扇谷上杉家の初代当主となった。
 上杉朝定の実子:朝顕が継承して京都の八条上杉氏と称した。
・天授6年/康暦2年(1380) 死去。享年30歳
  甥:上杉氏定が後を継いだ。

上杉朝定 (二橋上杉家)の実子:上杉朝顕の娘は今川範政に
  嫁いでいる。


【2】上杉氏定
・文中3年/応安7年(1374) 小山田上杉頼顕の子として生まれた。

・????年 上杉顕定(扇谷上杉家)の養子となった。
鎌倉公方:足利氏満より『氏』を賜ったものと考えられる。
鎌倉公方:足利氏満・満兼・持氏の3代にわたって仕えた。

・応永23年(1416) 上杉禅秀の乱
上杉氏定は足利持氏方に合力するため出陣した。
  上杉氏憲(禅秀)の反乱軍に敗れ、重傷を負った。
  後に持氏らが鎌倉を退去する際は同道できず
  10月8日、藤沢において自刃した。
  家督は嫡男:上杉持定が継承した。

上杉氏定の娘は今川範忠に嫁いだ。
   末裔は第4代米沢藩主上杉綱憲である。

伊勢盛定(北条早雲の父)の娘は今川範忠の嫡男:
   今川義忠に嫁いだ



【3】上杉持定
・応永9年(1402) 上杉氏定の嫡男として生まれた。
・応永23年(1416) 上杉禅秀の乱
父:上杉氏定とともに足利持氏方として出陣した。
   父は負傷し自害したため、跡を継いだ。

  上杉持定は鎌倉から撤退した鎌倉公方:足利持氏と共に
  上杉持定の縁戚関係の今川範忠を頼った。
・応永26年(1419) 5月21日 上杉持定が死亡した。
  扇谷上杉家の家督は弟:上杉持朝が継承した。
  上杉持朝は幼かったため、従兄弟:小山田上杉定頼(上杉家)が
  当主を代行した。
 ●上杉持定の娘は今川範政の継室となった。


【4】上杉持朝
????年 上杉持朝(もちとも)は上杉氏定の次男として生まれた。

・応永23年(1416) 上杉禅秀の乱
   父は負傷し自害した。
・応永26年(1419) 5月21日 兄:上杉持定が死亡した。
  従兄弟:小山田上杉定頼の補佐を受ける形で家督を継承した。

・永享5年(1433) 扇谷上杉家の所領内の武蔵久良岐郡にあった徳恩寺
本地堂の棟札(「藤原朝臣持朝」)とある。

・永享7年(1435) 足利持氏は軍事行動をはじめると、上杉憲実は
 足利持氏を制止した。足利持氏と上杉憲実は険悪な関係となった。

・永享9年(1437) 足利持氏が上杉憲実を暗殺するという噂が流れる
  と、上杉憲実は鎌倉から相模藤沢へ逃れた。
  両者は一端は和解した。

・永享10年(1438)
  6月、足利持氏が嫡子:賢王丸(足利義久)の
  元服を幕府に無断で行った。
 8月、上杉憲実は上野平井城に逃れた。
  足利持氏は上杉憲実追討のため、一色直兼に軍を与えて差し向け、
  足利持氏も武蔵府中高安寺(東京都府中市)に陣を構える。
  上杉憲実は幕府に救援を請うた。

 足利幕府では将軍:足利義教が足利持氏の叔父:陸奥の篠川公方
 :足利満直や駿河守護:今川範忠・信濃守護:小笠原政康に上杉
 憲実の救援を命じた。上杉禅秀の子:上杉持房・上杉教朝らをも
 幕軍を送った。越前・尾張・遠江守護斯波義健の後見人:斯波持
 種・甲斐常治と朝倉教景も関東に派遣された。

9月27日、今川範忠は足利持氏方の軍勢を撃破して足柄山を越え
 た。上杉持房も箱根の陣を破った。
 信濃から上野国板鼻に入っていた小笠原政康は平井城に向けて
 北上する足利持氏方の軍勢を討ち破った。
10月4日、上杉憲実も平井城を出陣して、一色軍を破った。
 更に、鎌倉の留守を守っていた三浦時高が守備を放棄して退き、
寝返って鎌倉へ攻め込んだ。
 足利持氏勢は早川尻において兵の多くが戦死した。
逃亡した上杉憲直、足利持氏は相模海老名まで退き、鎌倉へ落ちよ
うとした。足利持氏一行は途中で上杉憲実の家宰:長尾忠政及び
長尾景仲の軍と出会い、足利持氏は幕府への恭順を誓い、ともに鎌倉
の永安寺に入った。
11月4日、足利持氏は称名寺に入り出家した。
 一色直兼以下の足利持氏の近臣達は、称名寺で幕府軍に攻められ
 自害した。
 足利持氏は永安寺に移され、幕府軍により幽閉された。

上杉憲実は足利持氏の助命と嫡子:義久の鎌倉公方就任を嘆願するが、
足利義教は許さず。上杉憲実の反逆を疑って重ねて討伐を命じた。
・永享11年(1439) 2月10日、上杉憲実は永安寺を攻めた。
 足利持氏と稲村公方:足利満貞らは自害し、足利義久は鎌倉報国
 寺において自害した。

・永享11年(1439) 永享の乱
関東管領:上杉憲実に従って、足利持氏の討伐に功績を挙げた。

 12月4日 上杉持朝は修理大夫に任ぜられた。
  (★『薩戒記目録』)

・永享12年(1440) 結城合戦
  室町幕府軍の副将を務めて武功を挙げた。

  結城合戦後。上杉憲実は隠退を表明した。
  後継者に指名された弟:清方の力量に不安を覚えた。
  足利幕府は足利清方の補佐として、上杉持朝に期待した。

  相模守護となった。
 子に顕房、三浦高救、定正、朝昌、娘(上杉憲忠正室)、娘(吉良成高正室など)。

・文安4年(1447) 足利清方が急死した。
  上杉憲実の子:上杉憲忠が関東管領に就任した
 上杉持朝は娘を上杉憲忠に嫁がせた
 上杉持朝は実力者として認められることになった。

・文安6年(1449) 足利持氏の子:足利成氏が鎌倉公方に復帰した。
  上杉持朝はかつて足利持氏を滅ぼしたことを気にした・
  嫡男:上杉顕房に家督を譲って出家し、道朝と号した。


【5】上杉顕房
・永享7年(1435)上杉持朝の嫡男として生まれた。
・文安6年/宝徳元年(1449) 足利持氏の遺児:足利成氏が
 鎌倉公方に復帰した。
 父:上杉持朝が隠居したため、扇谷家の家督を継承した。
 家宰:太田資清の補佐を受けていた。
 
・享徳3年(1454) 享徳の乱
 足利成氏が関東管領の山内上杉憲忠(山内上杉家)を殺害した。
 享徳の乱が勃発すると、上杉氏の一門として犬懸上杉憲顕や
 白井長尾景仲らと共に軍勢を率いて、足利成氏と戦った。
 相模江の島の戦い 

・享徳4年(1455) 1月24日(2月10日)
武蔵分倍河原の戦い
 上杉顕房において敗北、自害した。

兄弟には三浦高救、定正、朝昌がいた。
子には上杉政真、女子(千葉実胤正室)がいた。
扇谷上杉家は子の上杉政真はまだ幼かったため、祖父:上杉持朝が
当主として復帰した。


【●】上杉持朝(再襲:返り咲き)
・享徳3年(1454) 享徳の乱
上杉憲忠が足利成氏に暗殺されると、上杉持朝は上杉憲忠の弟:
 房顕を新たな関東管領に擁した。
 上杉持朝は裏で実権を握った
 
・康正元年(1455) 分倍河原の戦い
山内上杉顕房が足利成氏軍に討たれた。
 嫡男:上杉顕房が自害した。
 上杉持朝が再び当主として活動した。
 古河公方となった足利成氏と敵対関係となった。

・長禄元年(1457) 上杉持朝は足利成氏に対抗するために、家宰:
 太田田道真・道灌父子に命じて河越城・江戸城・岩槻城の3城
 を築城させた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
@長禄元年(1457) 従来説=大田道灌の築城説。
  古河城にいた古河公方・足利成氏に対抗するために扇ヶ谷
  上杉持朝と家臣:太田道真&太田道灌父子により江戸城
 ・河越城とともに築かれたとされていた。
  (★『鎌倉大草紙』)
  関東管領:上杉顕定の父の五十子〜上杉支流の深谷城〜
  太田氏の川越城〜岩槻城〜江戸城からなる古利根川の
  西ライン説である。
  太田道灌の養子:大田資家が城主。
A文明10年(1478) 古河公方方の成田正等築城説・・有力説
古河公方方の成田自耕斎正等(忍城主:成田顕泰の父)
  が築城した。(★史料あり)
 ※「成田正等」の子:「顕泰」は成田顕泰ではなく、長尾
  忠景の3男が成田顕泰である説
  また、太田道真の養子になった説もある。
 つまり「成田正等」は太田道真の法諱とみる考えも
  出てきた。
  太田氏築城説と成田氏築城説が対立状態である。
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 上杉持朝は河越城を居城とし、武蔵の分国化を進めた
 (太田道灌によって築かれたとされていた岩槻城は足利成氏方の
  成田正等の築城説が現在は主流である。)

・寛正元年(1462) 兵粮料所の設置を巡るトラブル。
  上杉持朝は堀越公方:足利政知と敵対関係になってしまった。
  上杉持朝は足利政知を支援する8代将軍:足利義政からの詰問
 を受けた。
 ※結果・・・上杉持朝の代わりに責任を負う形で大森氏頼・三浦
 時高・千葉実胤の3重臣が引退することになり、上杉持朝の勢力
 は低下した(政知の執事・渋川義鏡の讒言が原因)。
 足利成氏と和睦して足利政知と争おうとしたが、和議
 を果たせなかった。

・応仁元年(1467) 9月6日、上杉持朝は死亡。享年52
●上杉持朝の子ども
上杉顕房
三浦高救・・・三浦時高の養子。子の義同も三浦時高の養子になった。
上杉定正
叔彭梵寿
上杉朝昌
娘(上杉憲忠室)
娘(長井広房室)
娘(吉良成高室)

★上杉持朝は扇谷上杉家興隆の基礎を築いた一方で、関東の複雑な権力
闘争の混乱に陥れた人物であったのかもしれない。



【6】上杉政真
・宝徳3年(1451) 上杉顕房の嫡男として生まれた。

・享徳4年(1455) 分倍河原の戦い
父:上杉顕房が戦死した。
  重臣:太田道真は上杉政真を当主にしようとしたが、まだ幼かった
 ため、祖父:上杉持朝が当主に復帰した。
・????年 第8代将軍:足利義政より偏諱を賜って
  政真と名乗った。

・応仁元年(1467) 祖父:上杉持朝の死
  上杉政真は家督を相続し、扇谷上杉家を継いだ。
 
・文明3年(1471) 古河公方:足利成氏が堀越公方:足利政知
  のいる伊豆への進撃を図った。
  上杉政真は足利成氏軍を撃退した。
  さらに、古河城への逆襲した。
  足利成氏は千葉孝胤を頼って落ち延びた。
 
・文明4年(1472) 足利成氏は古河城を奪回した。

・文明5年(1473) 11月24日 五十子の戦い
  上杉政真は武蔵児玉郡五十子陣にあった上杉氏の居城を
  足利成氏に急襲されて敗れて戦死した。
 上杉政真には子がなく、重臣の協議の結果、叔父:上杉定正
 が家督を継承することになった。


【7】上杉定正
・享徳3年(1453) 享徳の乱
山内上杉+扇谷上杉 VS 古河公方:足利成氏
  扇谷上杉持朝は長期の戦いであったが山内顕定を支えた。

 扇谷上杉家家宰:太田道真・道灌父子は、河越城(埼玉県川越市)、
 江戸城(東京都千代田区)を築城するなどして、扇谷家の勢力は
 大いに拡大した。

・文明5年(1473)五十子の戦い
扇谷家当主であった上杉定正の甥:上杉政真が古河公方に敗れて
 戦死した。
 若い上杉政真には子がなかったため、太田道灌ら扇谷家老臣達は
 上杉政真の叔父:上杉定正が家督を継がせることにした。

 上杉定正は関東管領:山内上杉顕定と共に五十子陣に在陣して
 古河公方成氏と対峙した。
叔父:上杉定正(妻は長尾景信の娘)が家督を相続した。

 長尾景信が死去。
 白井長尾家の家督は嫡男:長尾景春が継いだ。
 ★長尾景春は、当然、家宰職も継げると思っていた。

山内上杉家:上杉顕定の家宰の地位は叔父:長尾
 忠景(総社長尾氏)が継ぐことになった。上杉顕定は家宰を
 長尾景春の叔父:長尾忠景(総社長尾氏)に与えてしまった
 からである。つまり、上杉顕定は白井長尾家の力が強くなり
 すぎることを嫌ったのである。

★長尾景春は 上杉顕定を深く恨んだ。憎んだ。
 長尾景春は従兄弟で扇谷家上杉家の家宰:太田道灌に同心
 (仲間)になるようを頼んだ。
★長尾景春の叔母は太田道灌の母だったのだ。つまり、
 長尾景春&太田道灌は従兄弟だったのだ。
★ちなみに、上杉顕定の妻は上杉憲実の娘である。
 
しかし、太田道灌は拒否した。
 太田道灌は五十子陣にいた山内家上杉顕定と主君:扇谷家上杉
 定正のもとへ向かった。
 太田道灌は顕定と定正に
 「長尾景春を武蔵守護代に任じ、長尾忠景を一時退けて下さい。」
 と進言した。
 しかし、上杉顕定は受け入れなかった。
 「それならば、直ちに出兵して長尾景春を討つ方がよいのでは
  ないでしょうか。」
 と進言した。
 上杉顕定は
 「古河公方成氏と対峙している状況では、長尾景春を討つなど
 できない。
 と断った。

・文明8年(1476) 長尾景春の乱
   長尾景春が反乱を起こした。

・文明9年(1477) 五十子を急襲
五十子の陣に、2500騎が奇襲をかけたのだった。
 扇谷上杉定正と山内山内顕定は大敗を喫して
 上野国平井城へ敗走した。

 上杉方は危機に陥るが、扇谷家家宰:太田道灌の活躍で
 豊島氏をはじめとする各地の長尾景春方を打ち破った。
 上杉定正も扇谷家本拠の河越城を守った。

・文明14年(1482) 山内上杉顕定が古河公方:足利成氏と和睦が
  成立させた。
  しかし、上杉定正は山内家主導で進められたこの和睦に不満
  を持った。
  上杉定正と山内顕定は不仲になった。
  また、長尾景春の乱の平定に活躍した太田道灌の声望は絶大
  なものとなっており、上杉定正の猜疑を生んだ。

・文明18年(1486) 7月26日太田道灌が扇谷上杉定正に殺害された。
  太田道灌は、群を抜く大きな江戸城:扇谷の石垣修理しよう
  とした。
  主君の扇谷上杉定正は「謀反だ。」と思った。
  そこで、扇谷上杉定正は糟屋邸(相模国糟屋:現神奈川県
  伊勢原市)に誘い出し、殺害した。
※実際には、家中での太田道灌の力が強くなりすぎて、
  上杉定正が恐れたという説
※太田道灌の名声によって扇谷家の台頭を恐れた山内上杉
  顕定の策略であるとする説、扇谷家の力を弱めようとする
  山内顕定の策略に上杉定正が乗ってしまった説。

  
太田道灌謀殺により太田道灌の子:太田資康をはじめ多くの家臣が
扇谷家を離反して山内顕定の元に走り、上杉定正は苦境に立った。


・長享元年(1487)  長享の乱が勃発
 扇谷上杉定正は太田道灌暗殺により、大田道灌の子:太田資康や
 扇谷上杉家に付いていた国人衆の多くが山内家へ走った。

 上杉定正の元には太田道灌の軍配者の斎藤加賀守が残った。

 山内上杉顕定と扇谷上杉定正は決裂した。
「長享の乱」の抗争へと広がっていった。

・長享2年(1488)「長享の乱」
山内顕定の攻撃によって戦端が開かれた
両者の抗争は本格化した。
相模国三浦高救が扇谷上杉氏の家督を狙って対立した。
扇谷上杉定正は旧敵である古河公方や長尾景春を味方につけた。
長尾景春も上杉定正に加担して、山内:上杉顕定と戦うことに
 なった。

・長享3年(1489) 
扇谷上杉定正、味方だった古河公方と不和になった。
 
「関東三戦」
@実蒔原の合戦
山内上杉顕定は扇谷上杉定正の居館:糟谷館を攻撃に向かった。
 実蒔原で奇襲を受け敗退した。

A須賀谷の合戦
山内上杉顕定は扇谷上杉定正の河越城を攻撃した。
 長尾景春らの加勢に合い須賀谷原でまたもや敗退した。

B高見原の合戦
 扇谷上杉定正が鉢形城をに向かった。
 山内上杉顕定は高見原で迎撃するが敗退した。
上杉定正は実蒔原の戦い、須賀谷原の戦い、高見原の戦いに寡兵
 をもって勝利して大いに戦意を高め、
 「5年のうちに上野・武蔵・相模の諸士は、自分の幕下に参じる
 であろう。」と豪語した。

  上杉顕定は長享の3戦は全て敗北した。
 上杉顕定は上杉定正に押されるが、関東管領である山内上杉氏に
 味方する勢力は多く優勢を保つようになった。
 抗争がさらに長期化するにつれて、上杉顕定が次第に有利に立
 った。扇谷上杉は連戦に疲弊し次第に劣勢になった。

  
〜〜〜おやっ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
●北条早雲
・明応2年(1493) 伊勢宗瑞=北条早雲の伊豆侵攻。
  伊勢宗瑞=北条早雲が堀越公方家の家督争い(豆州騒動)に乗じ、
  当主である茶々丸を堀越御所に攻めこんだ。
★伊勢宗瑞の伊豆討入りには上杉定正の手引きがあったとの見方が
  有力である。
  
 その後、扇谷上杉定正が伊勢宗瑞(北条早雲)と同盟を組んだ。

・明応3年(1494) 両上杉氏の抗争が再発。

 上杉定正は古河公方を軽んじた振舞いに出るようになり遂に盟約
 は崩壊した。
 家臣の中には山内顕定や古河公方に寝返る者も現れた。
 重臣の大森氏頼は諫言して山内顕定や古河公方との和解を勧めた
 が、上杉定正は従わなかった。

 上杉顕定は古河公方と同盟を結んだ。  
★古河公方は一転して山内家方となったのだ。

上杉定正は伊勢宗瑞軍を相模・武蔵へ招き入れた。
 伊勢宗瑞は小田原城:扇谷家重臣:大森氏頼と
 衣笠城:三浦時高が相次いで死去させた。

10月、 扇谷上杉定正&伊勢宗瑞=北条早雲)は武蔵国高見原に
 出陣してきた。
 扇谷上杉定正が荒川を渡河しようとした際に落馬して死去。
 享年49。
  上杉定正が急死した。
 扇谷・伊勢勢は相模国へ向けては撤退した。
※太田道灌の亡霊が定正を落馬させたのだとする伝説がある。
長岡市にある定正院が菩提所と伝えられている。

扇谷上杉家にとって、上杉定正・大森氏頼・三浦時高の三将の死は
大きな痛手となった。
上杉定正の甥で養子:上杉朝良が跡を継いだ。




【●】上杉朝昌(上杉定正の弟)
・????年 扇谷上杉持朝の5男として生まれた。

・????年 僧侶として京都の相国寺で本東と名乗っていた。

・享徳3年(1454)
 相国寺鹿苑院の喝食であった。

・???? 還俗して扇谷上杉家の領国相模国七沢要害(現神奈川
  県厚木市)に入った。七沢要害は相模中郡の要害であった。
  七沢城に拠ったことから七沢朝昌とも呼ばれた。

・長禄2年(1458) 父:上杉持朝の名代として将軍足利義政に拝謁
 した(?)

・文明9年(1477) 長尾景春の乱
※江古田・沼袋原の戦い
  太田道灌・千葉自胤らと共に豊島泰経を攻撃に参加した。

・文明12年(1480) 上杉朝昌は足利義政・義尚父子に進物を贈った。


・長享2年(1488)長享の乱
  上杉家同士の内訌であるが始まった。
  関東管領:上杉顕定の侵攻を受けて七沢要害は陥落した。

  以後は大庭要害(現藤沢市)に拠った。

 ・明応3年(1494)  兄:上杉定正の落馬死。
  上杉朝昌の子:朝良は扇谷上杉家当主になった。
  上杉朝昌は後見役となったが、伊勢宗瑞(北条早雲)の相模進出
  に伴い勢力を失っていった。

・明応8年(1499) 9月6日、父持朝の三十三回忌法要が行われた。
  持朝の男子は三人(三浦高救、叔彭梵寿、朝昌)だった。

・永正年間 再び出家して光迪と名乗った。

上杉朝昌の娘(上杉憲房妻)
・大永5年(1525) 上杉憲房が没すると実家に戻った。
・享禄3年(1530) 扇谷当主:甥の上杉朝興の意思により武田信虎
  の側室となった。
・享禄6年(1533) 上杉朝興娘と信虎の嫡子:太郎との婚姻した
  扇谷上杉氏と武田史は姻戚関係となり同盟はより強固なもの
 となった。




【8】上杉朝良(上杉朝昌の子ども→上杉定正の養子)
・文明5年(1473) ?

伯父:上杉定正の養子となる。
 上ウギ朝良は文弱であったため、養父からは武芸に身を入れるよう
 に度々注意されたという。

???? 妻:長尾顕忠の娘 を娶った。

・明応3年(1494)
10月、 扇谷上杉定正&伊勢宗瑞=北条早雲)は武蔵国高見原に
 出陣してきた。
 扇谷上杉定正が荒川を渡河しようとした際に落馬して死去。
 享年49。
  上杉定正が急死した。

  上杉顕定との戦いで養父が戦死すると、上杉朝良は武蔵河越城に
  入って家督を継いた。
  上杉朝良は上杉顕定への報復を誓った。
  家臣の離反が相次ぎ、扇谷上杉家は衰退の一途を辿っていた。

  そこで、上杉朝良は駿河守護:今川氏親に上杉顕定打倒への
 支援を依頼した。
  これに対して、今川氏親は伊豆国を平定していた重臣・伊勢宗瑞
(北条早雲)を遣わした。
 しかし、伊勢宗瑞は途中、扇谷家の家臣:大森藤頼の拠る小田原城
 を奪い取った。
 上杉朝良は今川氏親との関係を重視し、伊勢宗瑞の小田原城占拠を
 事実上容認してしまった。
※大森藤頼が既に山内上杉家に寝返っており、上杉朝良の了解のもと
 に伊勢宗瑞が小田原城奪取を行ったとの説もある。
   (黒田基樹著)

・明応3年(1494) 上杉顕定は東国における「古河公方&
  管領体制」の再構築を図っていた。
  特に足利政氏の弟を上杉顕実として養子として迎えた。
  密接な関係を築いた。
  上杉顕実は上杉憲房を差し置いて、上杉顕定の正統な
  家督後継者に据えられたと考えられる。
(★久保田順一先生の講演会)
  
・明応5年(1496) 上杉顕定の軍勢は相模国に進攻した。


 7月 伊勢宗瑞の弟:伊勢弥二郎の籠城する小田原城を
    攻略した。
    実田要害(真田城)の攻め滅ぼした。
   結果・・相模の西郡は「一変」した。

   東郡へ軍勢を進めた。
   扇谷上杉定正の跡を継いだ上杉朝良の出陣を受けて
   河越に軍を進めた。

・明応6年(1497) 上杉顕定は河越城に対する前線基地
   として武蔵上戸(現河越館跡)に陣を置いた。
   古河公方2代目:足利政氏を招いた。

   足利政氏は数ヶ月の在陣の後に古河へ帰還した。
  上戸陣は7年にわたり山内上杉家の陣所として機能
  した。

・文亀元年(1501)閏6月29日(8月5日)
 上杉顕定の家宰:長尾忠景が死亡した。


・永正元年(1504) 立河原の戦い
上杉朝良+駿河守護:今川氏親&伊勢宗瑞(北条早雲)
  VS
上杉顕定   
結果・・・上杉朝良は今川氏親、伊勢宗瑞の来援を得て、武蔵
 立河原で上杉顕定と戦い大勝した。
上杉顕定方は 2,000人余りの死者を出して大敗した。  


 その一方で、伊勢宗瑞は扇谷上杉家からの軍事協力の要請を
 大義名分として相模国の各地へ着々とと進出し、扇谷上杉家
 の領国であった相模国は侵食されていった。



・永正2年(1505)

 しかし、上杉顕定は実家の弟:越後上杉房能の援軍を得て、反撃
 に出た。河越城は山内上杉軍によって囲まれる。
 上杉朝良は降伏して開城した。
 甥:上杉朝興(朝良の実兄・朝寧の子)を養子に迎えて家督を
 譲り、江戸城へ隠居することになった。
 上杉朝良の江戸隠居を条件に和睦した。

だが、扇谷上杉家の重臣は処置に反抗の姿勢を見せた。
 上杉顕定も強要は出来なかった。
 上杉朝良が扇谷上杉家当主の職務を続けていた。

※長享の乱の終結
・永正2年(1505) 長尾景春は上野国に戻って白井城に入った。
 上杉顕定の養子:憲房に攻められて白井城は落城した。

 長尾景春は柏原城(★群馬県東吾妻町)に逃亡した。
 長尾景春は引き続き、上杉顕定に対抗した。

・永正4年(1507) 関東管領山内上杉顕定の弟で、越後守護
:上杉房能が、守護代:長尾為景(上杉謙信の父)に
八海山の麓で殺害された。
長尾為景が佐渡の娘婿:本間氏の援助を受けたのである。

・永正5年(1508)越後守護:上杉房能(ふさよし)追討と
 復権のため、関東管領:山内上杉顕定が越後に出兵した。
上杉顕定&養子:憲房は弟:房能の仇討ちを大義名分と
  して越後国に攻め入った。

  北条早雲は越後栖吉城:長尾為景&武蔵:鉢形城:長尾景春
 (伊玄)と結んでいたため、両上杉氏に反旗を翻した。

  

・永正6年(1509)
7月、古河公方の内乱を収めた。
上杉顕定は長尾為景(上杉謙信の父)に殺された越後の弟の弔い
合戦のために、越後上田庄(新潟県六日町)に遠征し、長尾為景
を府内(上越市)に退却させた。

長尾為景と守護:上条上杉定実を追った。

長尾為景(上杉謙信の父)と上杉定実を越中国(富山)に追放した。
※越後守護上杉家から上杉宗家の地位を奪還する意図があったと考え
られている。

その後、上杉顕定は越後国での内政に失敗し、国人たちの反感を買う
ようになり、長尾為景の攻勢を受けるようになった。

・永正7年(1510)6月権現山の戦い
  やがて伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に進出してきた。
 武蔵の権現山城(神奈川県鶴見)まで侵攻した。

 北条早雲は、扇谷上杉朝良の被官:上田政盛を早雲側に
 寝返らせた。
 上田政盛が権現山で蜂起させた。
 北条早雲は、平塚の住吉城で呼応し、扇谷上杉領を脅か
す打ち込む形をとった。

 伊勢宗瑞が扇谷上杉家の重臣:上田政盛に対して離反を勧めて
 いる事が発覚すると、上杉朝良・朝興は、扇谷上杉朝良は今ま
 で対立していた山内上杉顕定の養子:憲房と和解する。
 上杉顕定は武蔵に引き返した。
 山内上杉憲房と和解して伊勢宗瑞との戦いを開始した。
 
  そして両上杉氏は2万余の軍で、権現山城を包囲した。
7月19日、10日余の激戦・・・
両上杉氏は権現山城を落とした。
権現山城に籠もった上田蔵人政盛は
「本覚寺の地蔵堂をば根城に拵らへた。」とある。
本覚寺山の根城は、藤田虎寿丸により攻め落とされた。

・伊勢宗瑞(北条早雲)は小田原城まで撤退した。

 そして、上杉顕定は再び、長尾為景を討つため越後に
 向かった。 

●上杉顕定の長森原の戦・・死
・永正7年(1510) 6月20日 (7月25日)
 長者原(新潟県六日町)の戦い
  長尾為景は佐渡の本間一族(娘婿)の力をかり、
  長者ヶ原で上杉顕定を攻撃した。
  上杉顕定は越後国からの撤退途上、長尾為景の信濃の援軍
  :高梨政盛に敗北し、自刃した。享年57。

※越後(現六日町八海山麓)の管領塚

★上杉顕定はなんと、長尾景春の同族で越後守護代:長
 尾為景(上杉謙信の父)と戦って戦死してしまったのだ。
**************************************************
箕輪初心◆2013群県博:新潟県「上杉氏」関興寺・瀧澤寺
・雲洞庵・坂戸城・管領塚
http://53922401.at.webry.info/201310/article_21.html

箕輪初心◆2013年スキーbP【宝台樹スキー】&【水上石倉城】
http://53922401.at.webry.info/201301/article_5.html

箕輪初心★本間家の歴史;佐渡本間→酒田本間家日本一の地主へ
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201307/article_20.html
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上杉顕定死後、上杉顕実が関東管領を継いだ。
  越後から帰還した上杉憲房VS 上杉顕実(足利政氏の子)
  結果・・・山内家の衰退に繋がった。

しかし、山内上杉家と古河公方家で相次いで家督を巡る内紛が
 発生して、上杉朝良は仲裁に奔走することになった。
 結局、仲裁は失敗したが・・・。
上杉朝良は晩年に生まれた実子:藤王丸を愛して、上杉朝興を
 廃する考えを抱いた。
 長尾景春は白井城を奪還した。
 長尾景春は伊勢宗瑞(北条早雲)と同盟を結んで、
 上杉憲房にさらに対抗した。

・永正11年(1514) 8月24日(9月説)長尾景春が死去。
  享年72歳。
 墓は上野国白井(現渋川市旧子持村):空恵寺。
・・・長尾景英が継いだ。妻は長野業政の妹である。


★伊勢宗瑞(北条早雲)は長尾景春のことを
「武略・知略に優れていた武将である。」
と尊敬してたというが、・・・・・・・・
★ 「長尾景春&長尾為景は関東管領家:上杉家の没落を推進し、
私の関東進出の足がかりを作ってくれた大恩人。
棚からぼた餅をありがとう。」
といった感じなのであろうか。 ・・・・・

やがて、権現山城を攻略した。多米が城将となった。

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箕輪初心●神奈川:【青木城】&神奈川宿
http://53922401.at.webry.info/201210/article_10.html
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・永正15年(1518) 伊勢宗瑞によって相模における扇谷上杉家最後
  の拠点であった三浦郡の三浦道寸が攻め滅ぼされてしまった。

・永正15年(1518) 4月21日(5月30日)上杉朝良が死去。
 上杉朝良没後の扇谷上杉家は内紛状態に陥って、さらに衰退に
 していった。
●娘(長野業正正室)・・・★何だろう〜お?何でだろう?
●藤王丸(生母長尾氏)
●養子:上杉朝興


【9】.上杉朝興
・長享2年(1488) 上杉朝寧の子として生まれた。
  叔父:上杉朝良の養子となった。

・永正2年(1505) 山内上杉家との抗争に敗れた上杉朝良は隠居を
  余儀なくされた。
 上杉朝興が家督を継いで扇谷上杉家の当主となった。
  実権は依然として上杉朝良が握っていた。
上杉朝良は死に臨んで藤王丸が成長した際に家督を譲るように
  遺言し、上杉朝興は藤王丸の後見人のような立場になった。

・永正15年(1518) 上杉朝良が死去した。
  実権を掌握した。
  
・大永4年(1524)
1月、太田資高が北条氏綱に内応したため、北条軍に江戸城を
攻撃された。
 上杉朝興は高輪原(現東京都港区高輪)で迎撃するが、敗退した。
 江戸城を奪われて河越城に逃亡した。
 2月。太田資高の一族の太田資頼も北条氏綱に内応して岩付城を
  奪った。
 7月、上杉朝興に帰参したた。

・大永5年(1525)
2月、北条氏綱に岩付城を攻め落とされた。
  太田資頼は石戸城に一時退いた。
  上杉朝興は宿敵:山内上杉憲房や甲斐国の守護:武田信虎、
  上総国の真里谷恕鑑との同盟を模索していた。

 8月、白子原の戦い(現埼玉県和光市白子)
   上杉朝興は北条勢を破った。

・大永6年(1526) 6月、上杉朝興は蕨城を奪回した。

・享禄3年(1530)
6月、小沢原の戦い
北条氏綱の嫡男:北条氏康に敗れた.
9月、太田資頼の攻撃によって岩付城を奪回している。

・天文元年(1532) 上杉朝興は藤王丸を殺害した。享年15
  上杉朝興は上杉朝定を正式に後継者にした。

・天文2年(1533) 武田信虎の嫡男:勝千代(晴信)の正室と
  して娘を嫁がせた。
  山内上杉家・武田信虎らと連携して北条氏綱を攻めたが、
  遂に江戸城奪回を果たせなかった

・天文6年(1537) 4月27日、上杉朝興は河越城で病死した。享年50。
跡を子の朝定が継いだ。



【10】上杉朝定
・大永5年(1525) 上杉朝興の子として生まれた。
・天文6年(1537) 4月。父:上杉朝興が死去した。
   家督を継いで当主となった。

  後北条氏に対抗するため、武蔵国府中(現調布市)に深大寺城
 を築いた。

7月、北条氏綱に河越城を攻められた。
  上杉朝定は敗走して、松山城を居城とした。

・天文10年(1541) 宿敵・山内上杉家の上杉憲政と和睦し、北条氏康
に対抗した。

・天文14年(1545) 河越の戦い(夜戦)

駿河の今川義元と連携して対北条大包囲網を作った。
 今川義元が挙兵して、北条氏康が駿河へ出陣した。
 山内上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方:足利晴氏らと連合した
 8万の大軍で河越城を攻めた。
   河越城主北条綱成の善戦に遭うものの、落城寸前にまで追い込
  んだ。

・天文15年(1546) 4月20日、河越城の後詰にかけつけた
北条氏康の奇襲に遭い、河越の戦い(河越夜戦)で、
 山内上杉憲政・扇谷上杉朝定軍・古河公方軍はは大敗した。
  扇谷上杉朝定は討死した。享年22。

  連合軍は四散し、河越城奪還の夢は砕かれた。
 ※ただし、上杉朝定の突然死説もある。

 上杉朝定の死により、扇谷上杉家は断絶した。
 扇谷家庶流?の上杉憲勝が上杉謙信の後援により再興を図った。

 
【11】上杉憲勝
@扇谷上杉氏の一族説
  上杉朝昌の子説、上杉定正の子説、上杉朝興の子説。
A深谷上杉家説
B山内上杉家で扇谷家の猶子説
・天文15年(1546) 4月20日
 上杉朝定(憲勝の兄説)が川越夜戦で戦死した。
 扇谷上杉氏の嫡流が滅亡すると、太田資正に擁立されて、扇谷上杉家
 の跡を継いだ。

・永禄2年(1559) 太田資正が北条氏康から松山城を奪還すると、
上杉憲勝は城主として入城する。

・永禄3年(1560) 長尾景虎の第一次関東出兵

・永禄4年(1561)
上杉憲政は長尾景虎に関東管領の地位を与え、長尾景虎は
  上杉政虎と名乗った。
★ああ〜無情。

  松山城主:上杉憲勝は北条氏康・武田信玄連合軍
  に包囲されて降伏した。
  長尾景虎(上杉政虎)が上杉憲勝の救援に向かっていたが、
  石戸城(埼玉県北本市)に到達したところで、「松山城降伏。」
  の知らせを聞いた。上杉政虎は激怒し、人質に取っていた上杉
  憲勝の子を斬り殺した。





◆参考文献
★上杉家:久保田順一先生の資料
★「太田道灌」:黒田基樹著
★関東の覇権戦争:黒田基樹著
★『扇谷上杉氏と太田道潅』」黒田基樹著
★戦国史:森田真一・久保田順一など著
★戦国の大乱・・・群馬県歴史博物館
★群馬県史
★上杉顕定:森田真一著
★古河公方展
★埼玉県の城砦めぐり1/2:西野博道著
★さいたまの博物館の出版の本4冊
★関東の城めぐり:南部編:共著
などたくさん。
画像


◆参考サイト
・ウィキペディア


★明日は成田正等か長野業正か?

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