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zoom RSS 箕輪初心:生方▲岩国錦帯橋→吉香公園→(岩国城)→吉香公園

<<   作成日時 : 2015/12/30 08:40   >>

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岩国といえば「錦帯橋」。錦帯橋は岩国3代城主:吉川広嘉が城と
城下の間に流れる錦川に架けた橋である。940円でセットを買
った。錦帯橋を渡り、横山の山麓にある吉香公園一帯が岩国城の
土居のあった場所である。城山ロープウェーで登り、岩国城北の
丸→本の丸→二の丸→水の手と四つの郭を巡った。
随所に石垣が
残っていて、復元されているが、近世の山城の姿を現在に伝えて
いる。★眺めが最高だった。
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◆岩国訪問日1回目・・・平成19年(2007)1月6日
  広島でレンタカーを借り、宮島に行った。ついつい弥山
  の登ってしまった。結果、岩国に来たが、岩国城には行
  けなかった。
箕輪初心●広島:【岩国城】&【錦帯橋】
http://53922401.at.webry.info/201105/article_22.html




◆岩国訪問日2回目・・・平成27年(2015)11月8日
・前日の岩国城
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ツアーで来ているが、添乗員さんに、お願いして、
 「錦帯橋バス駐車場での合流をお願いした。」
 ★ツアー2回目の我が儘である。
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08:00 宅配便をキャンセルした荷物をバスに積み込んだ。

08:30 タクシーが来た。

08:40 錦帯橋まで降車した。1780円
錦帯橋〜吉香公園で一回り〜〜〜〜



【1】 錦帯橋2回目
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・延宝元年(1673) 岩国3代領主の吉川広嘉(きっかわひろよし)
が現在の橋の原型となる木造橋を架けた。しかし、錦川の洪水に
よりすぐに流失した。
錦帯橋は国指定の名勝である。5連の木造橋である。
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・佐々木小次郎の巌流
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【2】吉香公園
・案内板
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・吉川広嘉の像
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・家老:香川家の長屋門・・元禄時代に香川元恒が建立。
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・吉川家墓所(きっかわけぼしょ)
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  岩国吉川家初代:広家〜6代:経永(つねなが)を除く
 12代経幹(つねまさ)までの当主及び一族の墓が、51基立ち並ん
 でいる。 墓所は、静かだった。

・菩提寺
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・??寺
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・紅葉谷

▼戻った。

・公園
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・目加田家
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・ロープウェイ始発まで、まだ、20分あった。

・堀
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・吉香神社
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・土居
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山を背に三方を堀で囲み、櫓を3基設けた。
 その一つが錦雲閣として現存している。
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【3】岩国城ロープウエー(9時〜)
09:00 冬場の1番に城山ロープウェー
吉香公園前の山麓駅から、標高約200mの城山の尾根の山頂駅
までを約3分で行ける。
吉香公園、錦川と錦帯橋、旧城下町から、遠くは岩国錦帯橋空港、
工業地帯、瀬戸内海の島々までの眺望が広がっている。

【4】岩国城

09:03 山頂駅
●案内図
岩国城北の丸→本の丸→二の丸→水の手と四つの郭を巡ることに
した。 

●大手道〜〜〜
随所に石垣が残っていて、復元されているが、近世山城の姿を現在
 に伝えている。

●二の丸分岐

●本の丸の石垣
 ★こりゃ、凄い。来た甲斐があった。

●本の丸と北の丸の間の空堀

●北の丸
 ここが2段になっている。
 ★おそらくは、高い方が妻の居所としたかったのであろう。
  低い方は搦め手の守りであろう。

●大堀切

●本の丸の楼台
 

●本の丸坂

●本の丸

●本来の天守台跡
岩国城の天守は桃山風南蛮造りの変わった様相をしている。 
現在の復興天守は、錦帯橋付近からの景観を考えて本の丸南側に
建てられているが、本来の天守は本の丸北側にあり、本来の天守
台が残っている。 


●復元天守閣に入城。

★刀が凄いようだが,分からない。

・城下が一望できた。

●二の丸


・振り返ると
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▼09:40 下山



山口県岩国市横山に存在した日本の城(山城)。
山上の岩国城は、本の丸・二の丸・北の丸・水の手と四つの郭がある。 
随所に石垣が残っていている。本の丸と北の丸の間には、幅も広く深
い空堀があった。近世山城の姿を今に伝えている。
  岩国城の天守は、桃山風南蛮造りであった。現在の復興天守は、
錦帯橋付近からの景観を考えて本の丸南側に建てられている。
本来の天守は本の丸北側30m~50mに残っている。 


【4】目加田家・・・江戸時代中期の中級武士の家
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【5】御土居跡=吉香公園(きっこうこうえん)
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・吉川史料館(昌明館)には行かなかった。
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 国宝【太刀 銘為次(狐ヶ崎)】
 国重文【吉川元春筆 太平記】 などがあるそうだ。

・佐々木小次郎の像
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【4】白蛇神社仮事務所・・・100円
★アオダイショウのアルビノ(色素が抜けた物)である。
 白兎も同様である。
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「4000匹いるんだって・・・。」
パンフレットでは900頭とある。
・子ども
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・集合時刻まで30分
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・錦帯橋の袂
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●ソフトクリーム
 ソフトクリームは100種類ぐらい?
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▼錦帯橋から戻った。
・タイ人
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・川原の駐車場


◆◆ 岩国&岩国城の歴史 ◆◆
・平安時代
 岩国氏がいた。

・寿永4年(1185) 壇ノ浦の戦い
  弘中氏が勢力を振った。

・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い
・慶長5年(1600)
徳川家康 VS 石田三成
武力闘争に発展。
6月 徳川家康が上杉景勝討伐に出陣した。
7月 石田三成が挙兵した。
   石田三成は総大将に就かず、毛利輝元を西軍の総大将として
   擁立しようと画策した。
   安国寺恵瓊の説得を受けた毛利輝元は、総大将への就任を一門
   や重臣に相談することなく受諾した。(一般説)

7月17日、毛利輝元は西軍の総大将として大坂城西の丸に入った。
 ★徳川家康の思い・・
  毛利輝元が西軍に加わり、名目上とはいえ総大将になったことは、
  徳川家康にとって大誤算であったであろう。どうしたら、勝てる
  だろう
 ★毛利輝元の思惑
 毛利輝元は毛利家が西軍に参加する条件は、西軍勝利の暁には
 自分(毛利輝元)が筆頭大老になることであった。
 毛利輝元は逆賊家康を打つという正義の味方としての自分の役割
 に満足していたのかもしれない。でも、自分の利益も・・・
 吉川広元を東に派遣し・・・
 一方で、毛利輝元は西では、勢力拡大を図っていた。
 東国での戦闘でごたごたしている間に西国における覇権を
 確立しておけば、徳川家康が負けても勝っても有利な状況で
 状況になるであろう。徳川家康が勝った場合、有利な外交が
 できるのではないかと毛利輝元は考えたのだ。
四国九州において占領活動を行なった。
 
7月29日 徳川家康派:蜂須賀家政から没収した阿波の領地に毛利勢
      が入国した。
8月18日 藤堂高虎の伊予領内へ調略を行った。
8月18日 毛利軍は豊前門司に進出した。
8月27日  伊予加藤嘉明領へ武力侵攻。
9月17日〜23日 毛利輝元軍 VS 加藤嘉明軍。
     毛利軍は豊前小倉占拠。

 ★毛利輝元も徳川家康も石田三成の関が原が決戦場になるとは
  想定していなかったかもしれない。
★吉川広元の思惑
  吉川広元は西軍が負けると判断していた。黒田長政を通じて
  本領安堵、家名存続の交渉を徳川家康と行っていた。
9月15日 関ヶ原本戦
  毛利輝元は自らは出陣せず、毛利秀元と吉川広家を出陣させた。
  関ヶ原本戦では吉川軍が毛利軍を抑える結果となり、毛利軍は
  不戦を貫いた。   
関ヶ原の役は、午後になって小早川秀秋が東軍に寝返るまでは、
  ほぼ互角であった。小早川秀秋の寝返りによって西軍は壊滅に
  追い込まれました。小早川隆景の養子:小早川秀秋はまさに
  毛利家の動きによって関ヶ原合戦の勝敗が決定したのだ。
   
 ※結果・・・関が原の戦いで徳川家康が
   短期間で勝利してしまった。
   毛利輝元の四国・九州の覇権は失敗してしまった。
   毛利輝元は豊臣秀頼を奉じる豊臣家臣という大義名分を重んじ
   ながら一方では毛利家の利益の確保のために行動した。

★もし、毛利輝元が出陣していたら
   毛利全軍4万の兵が西軍に加わったなら、確実に徳川家康は
  負けていただろう。毛利輝元が大坂を出発したという報せがあ
  っただけでも、小早川秀秋は東軍に寝返ることを断念しただろ
  う。ましては、最初から毛利輝元が直々出馬となれば、戦闘回
  避に躍起になっていた吉川広家も迷わず、戦ったであろう。

  ★吉川広家の思惑
  もしかすると本領安堵だけでなく、加増も期待できると思った
  かもしれない。
  吉川広家は黒田長政に使者を送り
  「秀元ともども御本陣へ赴くべきところであるが、当方いまだ
  引き払いがだし。後日、大坂においてに輝元と同時にお礼申し
  上げる所存。」
  と申し伝え陣を払たt。

9月17日、徳川家康は黒田長政、福島正則の2人の連署で
 「合戦を引き起こしたのは石田三成らの逆心であり、輝元の責任は
 問わない。」
 という旨の書状を大坂城の毛利輝元に送った。

9月24日 毛利輝元は大坂城西ノ丸を退去した。
  立花宗茂や毛利秀元の主戦論を押し切り、徳川家康に申し出て、
  大坂城から退去したのである。

しかし徳川家康は毛利輝元が西軍と関わりないとの吉川広家の弁解
 とは異なり、大坂城で毛利輝元が西軍に関与した書状を多数押収
 したことから、その約束を反故にして毛利輝元を改易にした。
 
 吉川広家に周防・長門の2ヶ国を与えて、毛利氏の家督を継がせ
 ようとした。
 しかし。吉川広家は徳川家康に直談判して毛利氏の存続を訴えた。
 毛利輝元は隠居のまま、毛利秀就に対し周防・長門2ヶ国を安堵
 とするという形で決着し、毛利本家の改易は避けられた。
 ただし、毛利所領は周防・長門2ヶ国の37万石に大減封となった。
 毛利輝元は領地を大幅に削減され、広島城から萩城に移封となっ
 た。
 毛利家存続に注力した吉川広家も米子城から岩国に3万石で
 封じられた。

 10月 吉川広家の家臣団が移ってきた。

・慶長6年(1601) 吉川広家が岩国に赴任した。
 吉川広家は岩国城の築城が開始した。
 山麓に平時の居館となる「土居」と、戦時の城「横山城」が
 横山山上に築くことにした。

・慶長7年(1602) 土居が完成した。
土居完成と同時に横山城の築城が開始された。
  横山城の築城には7年の歳月が費やされた。
 
・慶長13年(1608) 初代岩国藩主:吉川広家が完成した。
  蛇行した錦川に囲まれた天然の要害の地:横山の山頂に
  築城した。山城である横山城は本丸を中心として南西に二の丸、
  北東に北の丸、水の手などの曲輪が配置された。
  本丸には4重6階の天守であった。
  山麓には、「御土居」が築かれた。
 
・元和元年(1615) 幕府の一国一城令
築城より僅か7年後に取り壊しとなった。
 幕府より石垣も破却するよう命じられ、天守台も破壊された。
 ●ガイドさんの話
 「周防国には岩国城のみが存在していましたが、長府藩の毛利
  秀元が居城の櫛崎城を破却したことに合わせざるを得なかっ
  たことによるといわれています。
  その後、麓の土居は岩国領の陣屋として、明治維新まで存続した。
  政務は山麓の居館 (現吉香神社付近) で行われた。

 岩国藩は長州藩より独立した支藩として認められず、陪臣として
 扱われたという説もある。実際には長府藩や徳山藩が長州藩主の
 子孫による分家として宗家継承権があっただ、吉川家には継承権
 がなかったことによるとされている。

 ※城下と城を隔てる錦川には錦帯橋が架けられた。
 城下町は錦帯橋の道筋を基準に整備された。


・慶応4年(1868) 独立した藩として認められ諸侯に列した。

・明治4年(1871) 廃藩置県で廃藩となった。
  

・昭和37年(1962) 復元された。
●ガイドさんの話
 「天守は四重六階の桃山風南蛮造である。南蛮造(唐造)は
 最上階を下階より大きく造り、屋根を省略した様式です。」
 復元の際、錦帯橋からよく見えるように、旧本丸の約50m南
 に位置を変えました。

・平成7年(1995) 古式穴太積 (あのうづみ)の 石垣が発掘復元
された。

・平成18年(2006) 4月6日 日本100名城74番に選定された。

・現在、御土居跡は吉香公園として整備され、横山山頂には再建天守
 がある。天守内には刀剣や武具甲冑類が展示されている。
また、北ノ丸の石垣や空堀などの遺構が現存している。



★次は、岩国城詳細編?

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