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zoom RSS 箕輪初心:生方▲『大内一族の歴史と勘合貿易』&【山口薫】

<<   作成日時 : 2015/12/28 07:45   >>

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「大内一族は6〜7Cの百済王朝:琳聖(りんしょう)太子の
末裔であるかもしれない。」とガイドさんがおっしゃっていた。
私は大内一族は李王朝の末裔だと思っていた。しかし、最
近の説では、琳聖太子末裔説・李王朝末裔説も違うらしい。
高崎市箕郷町出身の画家『山口薫』など山口一族は大内
一族の末裔であるという説を信じている。
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【1】大内一族の歴史と勘合貿易
・平安時代
 大内氏は、百済国の王子:琳聖太子(りんしょうたいし)の子孫
 と伝えられている。
琳聖太子が日本に渡り、周防国多々良浜に着岸したことから「多々良」
 と名乗った。
多々良氏3名が在庁官人として大きな勢力を持ち始めた。

・平安時代末期
 多々良盛房は周防で最有力者となり、「周防介」に任じられた。
大内地方(山口市)に進出し、周防国衙の在庁官人となった。
 大内村に居住したことから大内を名字とした。
 
 大内盛房は、源平合戦に際し、源氏に味方した。
その後盛房は大内介と名乗った。
 以降歴代の当主も世襲した。

・寿永年間(1182〜83)頃〜
 大内弘盛は「周防権介」を称するようになった。

・鎌倉時代
  大内一族は周防の国衙在庁を完全に支配下に置き、実質的な
  周防の支配者となった。
  そして鎌倉幕府御家人として、六波羅探題評定衆に任命された。
大内氏は次第に力をつけていった。

・建武の親政
  大内氏は周防守護職に任じられた。
  北朝側:足利尊氏を支援した。
  足利尊氏の九州下向の際にも周防守護職に任ぜられた。

・南北朝時代
  大内弘幸と叔父:鷲頭長弘が抗争した。

・正平5年/観応元年(1350) 大内弘世は南朝から周防守護職に任じら
 れた。
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・文和2年/正平8年(1353) 大内弘世が周防国を平定した。

・正平14年/延文4年(1359)大内弘世は長門守護職にも任じられた。

・正平15年/延文5年(1360) 大内弘世は大内館から山口へ移転した。
  京都に倣った街並み整備を行い、大内文化の基礎を築いた。
  大内氏第9代当主:大内弘世が京の都を模倣し街づくりを行っ
  たと伝えられている
 
・貞和3年/正平19 年(1364) 大内弘世は豊前で厚東氏らに大敗
 した。
  
 大内弘世、初めて上洛し、将軍に謁見した
  (★太平記)

・応安2年/正平24年(1369 ) 京都から山口に祗園社を勧請した。
 倭寇・・・明の沿岸部を荒らし始めた。

・応安4年/建徳2年(1371) 大内義弘が九州探題:今川貞世に従い、
  西国平定のため九州下向した。

・ 応安6年/文中2年(1373) 明使:趙秩らが山口に滞在し
  「山口十境の詩」を作った。

・康応元年/元中6年(1389) 足利義満が安芸厳島神社に参詣した。
  大内義弘は三田尻で将軍:足利義満を歓待後、随伴して上京
  した。
  ※応永5年頃まで?大内義弘は京に滞在した。

・明徳2年/元中8年(1391)明徳の乱
  大内義弘は山名氏清の反乱を鎮圧した。
  紀伊・和泉国守護に任ぜられた。
 ★堺の商人も掌握した。

・南北朝合一後〜〜〜〜〜〜
  1390年代以降、日本と朝鮮の公貿易は厳しい制限貿易でした。
  開港場は富山浦(釜山)・乃而(ないじ)浦・塩浦(蔚山)の3浦
  が指定された。
  そして、倭寇懐柔策として、貿易者は朝鮮国王の私印を与えられ
  た者:足利将軍家、畠山・細川・斯波・山名・京極・渋川・大内
  小早川・少弐・大友、宗(対馬)、志佐・佐志(壱岐)、宗像社、
  松浦党、秋月・菊池・島津・伊集院であった。
  また、貿易する者は対馬の宗氏の許可を受けるという統制を受
  けた。
 @朝鮮貿易の輸出品
  畿内や山陽・・・絹・綾・扇子・屏風・刀剣などの美術工芸品
  対馬・壱岐・松浦や南九州・・・馬・硫黄・馬具。
  南方の胡椒・沈香・犀角・蘇木など。
 ※琉球&日本&朝鮮といった三角貿易が博多商人・琉球商人を仲介
 して展開された。
 A朝鮮貿易の輸入品
  将軍や有力諸大名・・・人参・虎皮・豹皮・経典など。
  対馬・壱岐・松浦・・・米・豆などの穀物
  九州諸大名・・・・麻布・綿布、


・応永2年(1395) 大内義弘が朝鮮へ交易船を送った。  
 
 足利義満が出家した。・・・中国(明)との外交のため、
 朝廷が国王という立場から自由人となる1つの方法だった。
 (NHKのTV番組)

・応永4年(1397) 第3代将軍:足利義満は西園寺家から京都北山
 の「北山弟」(ほくさんてい)を譲り受け、舎利殿(金閣)を
 中心とする「北山殿」(後の鹿苑寺)を造営した。
 今の金額で1000億円と言われている。


・応永6年(1399) 足利義満は北山荘に移り住み、活動の拠点と
 していった。
 ※足利義満時代の文化を、武家様・公家様・唐様(禅宗様)が
 融合した北山文化と呼んでいる。
大内義弘は朝鮮に百済の琳聖太子末裔:後裔と主張し、
 土地割譲求めた。

▲応永の乱
 大内義弘は堺で足利幕府と戦い、敗死した。
 ※菩提寺は香積寺(瑠璃光寺前身)である。
 
 大内弘茂が幕府に降伏した。
 周防・長門2ヶ国の守護に格下げされた。

・応永7年(1400) 大内盛見が大内義弘の跡を継ぎ、足利幕府に
  対抗したが、大内弘茂ら幕府軍に攻められ、九州へ逃れた。

・応永8年(1401) 足利義満は「日本国准三后源道義」の名義で
 博多の商人:肥富(こいとみ、こいつみ・こいずみ?)と僧祖阿
 を使節として明に派遣した。室町幕府の財政難を打開する目的で
 であった。
 明の使節団を鹿苑寺金閣で接待した。
 ★明の使節団は金閣にびっくりしたであろう。

  明との国交を回復した。
倭寇は増えた。取締は大内氏や細川氏が任された。

 大内氏は商業の町:博多・港町:門司の支配していた。
 大内氏は倭寇を取り締まりを強化した。

・応永11年(1404) 明からの倭寇の取締の要求がもとになって、日
 明間に勘合符制が設け、勘合符による貿易が始った。勘合貿易
 である。日本国王が皇帝に朝貢する形式をとった。

 大内氏は、中国大陸や朝鮮半島の沿岸一帯を荒らした倭寇を征圧
 した。

・応永19年(1419) 応永の外寇
朝鮮軍が倭寇の根拠地:対馬を襲った。 
 朝鮮使節と室町幕府の話合いは博多商人:宗金(そうきん)が
 取りなした。宗金は日明貿易の再開のため、将軍:足利義教の使者
 として、朝鮮に仲介を依頼した。

 また、大内氏は銀山開発の運上金は莫大であり経済力は諸大名の中
 で突出していた。そして、博多商人を使って、明や朝鮮と私貿易を行い
 さらに巨大な利益を得ていた。

・ 永享4年(1432) 大内持世と大内持盛、後継を争った。 
  日明国交が回復した。遣明船渡航させた。

● 嘉吉2年(1442) 香積寺五重塔(現瑠璃光寺五重塔)が建立された。  
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・宝徳3年(1451)8代将軍:足利義政が明の景泰帝に使節を派遣した。
 称号は「日本国王」であった。
 実際の外交特権は大内氏・細川氏・宗氏などが握っていた。

・宝徳3(1452)  遣明船に参加した

・享徳2年(1453) 大内教弘は琳聖太子「日本入国記」を送り、
 朝鮮に貿易を求めた。
 朝鮮は通信符を大内教弘に送った。  

●寛正2年(1461) 頃 雪舟が山口に来た。

●上杉憲実が山口に来て、寓居で数日滞在?
 大内教弘と話をした。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★上杉家A『8代:上杉憲実〜9代:憲忠〜10代:房顕』
http://53922401.at.webry.info/201405/article_26.html

箕輪初心◆栃木:【足利学校】3回目
http://53922401.at.webry.info/201312/article_5.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201312/article_5.html

箕輪初心:生方▲群馬藤岡【平井金山城:平井城の詰め城】前編
&「上杉憲実」
http://53922401.at.webry.info/201505/article_17.html

箕輪初心:生方▲群馬【平井金山城】後編&猪之田温泉
http://53922401.at.webry.info/201505/article_18.html
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・応仁2年(1468)成化の勘合貿易では、大内政弘は「日本国王之印
(毛利博物館所蔵)」の通信符を用い対外貿易を行うようになった。
★雪舟を遣明船で中国に行かせたのは、大内政弘であった。
 
・応仁の乱以後、足利幕府は遣明船を自力で派遣することが困難とな
った。室町幕府は有力商人に抽分銭を納めさせて遣明船を請け負わせ
るようになった。
堺を本拠とする管領家の細川氏や兵庫を得た大内氏が運上金を得る形で
有力商人が経営するようになった。

●文明6年(1474)大内政弘は能阿弥から「君台観左右帳記」贈られた。  

・文明9年(1477) 朝鮮交易をした。
 応仁の乱が終結した
 大内政弘が京より帰国した。
 大内義興生まれた。
  
●文明12(1480) 連歌師:宗祗が山口に来た。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★【連歌師:飯尾宗祇】&関東管領:上杉&長尾
http://53922401.at.webry.info/201404/article_24.html
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・文明15年(1483) 大内政弘や甘露寺親長が遣明船は仲介する形で
朝廷が関与していた。

●文明18年(1486) 雪舟「山水長巻」描く

●延徳元年(1489 )連歌師:宗祗が山口を訪れた。
  飛鳥井栄雅より蹴鞠条々贈られる

●明応4年(1495) 連歌師:猪苗代兼載は山口に来た。
 大内/政弘は死去した。菩提寺法泉寺
※宗祗らは「新撰莵玖波集」を出した。

・永正4年(1507) 大内義興は山口に前将軍:足利義材(義稙)
  迎えた。足利義材(義稙)奉じて上洛した。  

●永正6年(1509) 有職故実を記した大内問答が成立した。  
1516 永正13年(1516) 朝鮮交易、二回
大内義興が日明貿易を独占した
●連歌師:宗碩が山口を訪れた。

・大永3年(1523) 寧波の乱
正徳の勘合を手に入れた大内義隆は勘合貿易を独占すべく細川氏
 と争った。結果、大内氏が権益を握った。つまり、貿易独占権を
 手に入れたのである。

・天文5年(1536) 大内義隆は遣明船派遣を再開した。
 大内義隆は石見大森銀山・佐東銀山・長登銅山等を有していた。
 寺尾鉱山などに精製技術を開発し産出を増やすことに努めていた。
 また、石見銀山の銀産出量を灰吹法の成功により飛躍的に増大
 させた。
 石見銀山の生産量は世界の3分の1を占めた。

 また、大内氏は主力輸出品を領内で確保しようと尽力した。
 大内塗、赤間硯、長州鍔の職人を保護、奨励することや文化人
 を招き庇護することはより質の高い輸出品を産出することに
 つながり、より多くの輸入品を手に入れた。

勘合貿易における主な輸入品と輸出品
輸出品・・・硫黄・銀・銅などの鉱物、漆器、扇子、刀剣、屏風、硯など
輸入品・・・明銅銭(永楽通宝)、生糸、絹織物、典籍、陶器など



・天文9年(1540)吉田郡山城の戦い
尼子詮久(晴久)が安芸国へ侵攻し、大内義隆に臣従した毛利元就
 の居城:吉田郡山城を舞台に戦った。
 大内義隆は陶隆房(晴賢)を総大将とした援軍を送り尼子軍を撃破
 した。

・天文10年(1541) 尼子方の安芸武田信実・信重と友田興藤を滅ぼし
て安芸国を完全に勢力下に置いた。


・天文11年(1542) 第一次月山富田城の戦い

出雲国:尼子晴久の月山富田城を攻囲するが、配下の国人衆の寝返
 りにあって大敗した。
 大内義隆は養嗣子:大内晴持を失ったことを契機に領土的野心や政
 治的関心を失った。
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 大内義隆は文治派:相良武任を重用するようになった。
 武断派:陶隆房や内藤興盛と対立するようになっていった。

 大内義隆は文化的関心が強く、三条西実隆などの文化人とも交流し、
 和歌や連歌、芸能など公家文化への関心を示していた。また、朝廷
 への進物を行って官職を望み、束帯姿で牛車に乗るなど貴族趣味を
 持っていたと言われている。
 大内義隆の時代の山口は西の京として繁栄した。

・天文16年(1547) 天竜寺:策源周良を大使に任じて最後の遣明船
  を派遣した。

大内氏の日明(中国)との勘合貿易
・応永8年(1401)〜天文16年(1547)
遣明船が 日本から19回派遣されたうち、大内船は7回派遣
 された。特に最後の2回は大内義隆が独占した。
 大内氏は勘合貿易により莫大な富を得るとともに、進んだ大陸文化
 を積極的に吸収した。


大内氏の朝鮮貿易
・応永2年(1396) 〜天文20 年(1551)
155年間に63回も派遣した。


大内義隆は朝鮮・支那・琉球との交易により巨万の富を作った。
 

・天文17年(1548) 龍造寺胤信と同盟した。
  大内義隆からの偏諱によって龍造寺隆信と名乗った。
  龍造寺隆信は大内氏の力を背景に家臣たちをまとめた。

・天文19年(1550)
8月 フランシスコ・ザビエルが山口に来た。
  ザビエルは大内義隆の放蕩・仏教の保護・男色(陶隆房など)
  の悪い行動を注意をした。
  一度は追放された。

・天文20年(1551)
4月下旬 大内義隆はザビエルを再び引見した。
 ザビエルは珍しい文献・文物を大内義隆に献上した。
 ※献上品
  ポルトガルのインド総督とゴア司教の親書・望遠鏡・洋琴・置時計
 ・ガラス製の水差し・鏡・眼鏡・書籍・絵画・小銃などがあったとい
  う。
 大内義隆は、ザビエルに大道寺を与えた。

・天文20年(1551)8月 大寧寺の変=陶晴賢の謀叛
 大内義隆は山口の大内村(大内氏館)に住んでいた。

 8月28日(9月28日)、大内義隆は観世太夫をまねいて猿楽に興
 じている時、家臣:陶隆房の謀反を起こした。
  陶隆房は挙兵して山口を攻撃した。
 陶隆房の謀叛により大内の館は大混乱になった。
大内義隆は数10人の部下に護られて、秋吉から長門の仙崎に
 のがれ、舟で石見に逃げのびようとした。
 大内義隆は大宮姫(大内義隆の姉)を娶った津和野城主:吉見
 正頼を頼ろうとした。大内義隆は吉見正頼は厚く信任していた。
 しかし、暴風雨で舟が進まなかった。
 
 9月1日(9月30日) 長門深川の大寧寺に逃れた。
 和尚の戒をうけ大寧寺において45才で自刃した。重臣:冷泉
 隆豊が介錯した。
 
 9月2日(10月1日)大内義隆の実子:大内義尊も陶軍に捕ら
 えられ殺害された。
 
 大内義隆・義尊の死により、周防大内氏は事実上滅亡した
 ★大内家は滅亡した。
 
 
◆牛久山口氏
・応永6年(1399) 応永の乱
大内義弘が室町幕府第3代将軍:足利義満に対して反乱を起こして
堺に篭城して滅ぼされた。
 大内義弘の次男:大内持盛を祖としている。周防国山口の地名をとって、
 山口氏を称した。
江戸時代 牛久藩を12代・・・明治維新まで、


◆高崎市箕郷町金敷平の山口一族・・・多々良氏系
山口薫先生の親戚の調べでは、
「山口家は大内氏の子孫である。」
とおっしゃっていた。
地名の金敷=多々良と同意義語である。

最近の説は朝鮮の百済:琳聖太子の流れは否定されて
    いる。

★しかし、7Cの朝鮮の百済:琳聖太子の流れ・・・
津和野城吉見氏家老:多胡氏は朝鮮系の姓であるので、
 大内が朝鮮系でもおかしくはないのでは?と思われる。)
  
箕輪初心★高崎偉人伝【山口薫】モダンアート洋画家
http://53922401.at.webry.info/201310/article_25.html

箕輪初心:生方★2015高崎【山口薫の生涯:復刻版】
http://53922401.at.webry.info/201509/article_13.html








★明日は山口:瑠璃光寺かな?
でも、今日はAUひかりからDOCOMOひかりにモデム・ルー
ターを変更する工事をするので、接続できるか分かんない?

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