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zoom RSS 箕輪初心:生方▲『毛利13代:毛利隆元&父:毛利元就』

<<   作成日時 : 2015/12/20 08:37   >>

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毛利元就の嫡男:毛利隆元は第13代当主(関久説)とも第14代当
主(ウィキペディア)とも言われている。父:毛利元就の隠居表明
後に家督を継ぐが毛利隆元は毛利家当主として実権を握ることはな
かった。しかし、優れた内政手椀にによって父の勢力拡大を支え続
けた。毛利元就&次男:吉川元春、3男:小早川隆景が有名なため、
やや、歴史から表だった活躍が乏しいように思えるが、嫡男:毛利
隆元も優秀だった。文化人タイプであったが、父:毛利元就に8年
先立って死去した。
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◆現神奈川県厚木市毛利→現新潟県柏崎市南条毛利→北条・安田◆
箕輪初心:生方▲【大江広元→越後毛利氏〜北条(きたじょう)高広】
http://53922401.at.webry.info/201512/article_16.html

◆現神奈川県厚木市毛利→現新潟県柏崎市南条毛利→安芸毛利◆

箕輪初心:生方▲【大江広元→越後毛利氏→安芸毛利12代:毛利元就】
http://53922401.at.webry.info/201512/article_17.html


箕輪初心:生方▲世界遺産宮島A【厳島の戦い】&『12代:毛利元就』
http://53922401.at.webry.info/201512/article_18.html


箕輪初心■広島:世界遺産【安芸の宮島】&▲弥山530m
http://53922401.at.webry.info/201105/article_21.html

箕輪初心・生方▲世界遺産:【安芸の宮島2回目】
http://53922401.at.webry.info/201512/article_14.html

箕輪初心■山口「山口・萩」&島根「津和野」の思い出&雑感
http://53922401.at.webry.info/201105/article_29.html
★昭和63年の旅行だった。


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◆◆ 毛利元就の子ども ◆◆
@長男:毛利隆元→毛利輝元→毛利秀就⇒(毛利本藩/長州藩)
              毛利就隆⇒(徳山藩)
A次男:吉川元春→吉川元長
         毛利元氏⇒(阿川毛利家)
         吉川広家→吉川広正⇒(岩国領⇒岩国藩)
              毛利就頼⇒(大野毛利家)
B3男:小早川隆景⇒(養子:小早川秀秋)
⇒(断絶。小早川の名跡は秀包の子小早川能久が継ぐ)
C4男:穂井田元清→毛利秀元→毛利光広⇒(長府藩)
                毛利元知⇒(清末藩)
D5男:椙杜元秋(毛利元秋)
E6男:出羽元倶
F7男:天野元政(毛利元政)⇒(右田毛利家)
G8男:末次元康(毛利元康)⇒(厚狭毛利家)
H9男:小早川秀包(毛利秀包)→毛利元鎮⇒(吉敷毛利家)
I10男:二宮就辰
J女・・・夭折
K女・・・宍戸隆家室:五龍局



●大永3年(1523) 毛利輝元は毛利元就の嫡男として安芸多治比
 猿掛城で生まれた。
 父:毛利元就
母:吉川国経女:妙玖

●幼名は少輔太郎であった。

・天文6年(1537)
●毛利隆元は大内義隆の元に人質として送られ、山口で
 人質生活を送った。
 ※大内義隆を烏帽子親として元服し、大内義隆から「隆」の一字
  を賜り、「隆元」と名乗った。
 
●毛利隆元は大内家の長門守護代:内藤興盛や重臣:江良房栄、
 天野隆綱(興定の子)・陶隆房(陶晴賢)や弘中隆包(隆兼)
 らとの親交を結んだ。
  

●天文9年(1540)
 毛利隆元は大内義隆から吉田郡山城に戻ることが許された。

・天文9年(1540) ▲吉田郡山城の戦い

 尼子晴久が毛利元就の吉田郡山城を攻撃してきた。
●毛利隆元は吉田郡山合戦に遭遇してしまった。
 初陣?
 尼子詮久が率いる3万の尼子軍に吉田郡山城を攻められた。
 毛利元就は3000の寡兵で籠城して尼子氏を迎え撃った。
 
 母実家:福原氏・友好関係:宍戸氏、主君・大内義隆の援軍
 ・陶隆房の活躍もあって、勝利した。

 安芸武田氏当主:武田信実の佐東銀山城は落城し、安芸武田氏
 は滅亡した。

・天文11年(1542)〜天文12年(1543)
▲第1次月山富田城の戦い
大内義隆を総大将のもと、毛利元就も従軍した。
 ●毛利隆元は父:毛利元就に従軍した。
4月 富田城の塩谷口を攻めたが、大敗し、大内軍は敗走した。 
 毛利元就軍には殿(しんがり=大将を逃がすたけ一番最後に
 いること)が命じられた。
 尼子軍の激しい追撃に加えて、土一揆の待ち伏せも受けたため、
 壊滅的な打撃を受けた。
 毛利軍は安芸への撤退をし続けたが、石見の山吹城から繰り出さ
 れた軍勢の追撃された
 ●蓮池縄手の戦い
  毛利元就と嫡子:毛利隆元は自害を覚悟するまでに追い詰めら
  れた。
  毛利隆元は撤退戦(七騎落ち)などの修羅場を経験した。
 ●毛利隆元は家臣の児玉就光に感状を与えた。

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箕輪初心●島根:百名城【月山富田城】=尼子氏の居城
http://53922401.at.webry.info/201105/article_18.html

箕輪初心●島根【世界遺産:石見銀山】A山吹城
http://53922401.at.webry.info/201105/article_13.html
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・天文13年(1544) 毛利元就は水軍を擁する竹原小早川氏の養子
 に3男・徳寿丸(後小早川隆景)を出した。
 ※小早川家には毛利元就の姪=兄:毛利興元の娘が嫁いでいた。

・天文14年(1545) 毛利元就妻:妙玖(毛利隆元母と
  養母:杉大方が相次いで亡くなった。

・天文15年(1546) 毛利元就が隠居を表明した。
 ●毛利隆元が毛利家当主となった。
 ※毛利元就が謀略活動するための一種の儀式である?
 ※実権は毛利元就が握っていた。
 毛利隆元は内政を中心に動き、外交・軍事は
  毛利元就が担当していた。
●毛利隆元は依然として毛利元就麾下の一武将の扱いであった。
 ●毛利隆元は教養豊かで穏和な武将として名高かったが、武将と
  しての気概に欠けた。文芸遊興に費やす時間が長かった。
  毛利隆元は毛利元就からの書状で
 「能や芸や慰め、何もかも要らず。ただ武略、計略、調略が肝要
  に候。謀多きは勝ち、少なきは負け候と申す。」
  と度々叱責された。
  毛利元就は老臣:志道広良が毛利隆元の訓育にあたった。
  毛利元就や重臣:志道広良から再三にわたって訓戒された。
  志道広良は「君臣は水と船の如く」と諭された。
  (★ウィキペディア)

・天文16年(1547) 毛利元就は妻:妙玖の実家に吉川家へ
 元春を送りこんだ。
 
●天文18年(1549) 毛利輝元は大内義隆の養女(大内氏の長門守
 護代:内藤興盛の娘)と結婚した。
 
・天文19年(1550)
毛利元就は毛利輝元旗下:井上元兼ら重臣一派を殺害した。
●毛利隆元は父:毛利元就の主導の下、毛利隆元直属の五奉行制度
 を発足させた。
 毛利隆元側近は
 赤川元保を筆頭奉行とし、国司元相、粟屋元親、児玉就忠、
 桂元忠を置いた。
発足当初は親隆元派:赤川元保、国司元相、粟屋元親 VS
親元就派:児玉就忠、桂元忠のとの対立によって運営が上手
 くいかなかった、次第に組織は機能し始め、毛利隆元は大い
 に貢献した。
 しかし、主導権を握っていたのは毛利元就であった。
  
 毛利元就は禍根を断つため、熊谷氏を殺害した。

 沼田小早川当主・小早川繁平が幼少:盲目であったのを利用して
 家中を分裂させ、後見役の田坂全慶を謀殺した。
 分家の竹原小早川当主に元就の実子:小早川隆景を後嗣にさせた。
 小早川氏の水軍を手に入れた。
 「毛利・小早川体制」が確立した。
 毛利氏の勢力拡大を支えることになった。

 安芸・石見に勢力を持つ吉川氏&
 安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏、
 両安芸一国の支配権をほぼ掌中にした。

・天文18年(1549) 2月 吉川元春と小早川隆景を伴い山口へ
 下向した。大内家の分裂した。
 陶隆房:武断派 VS  相良武任:文治派

  
・天文19年(1550) 毛利元就は井上元兼を殺害した。
  毛利元就は毛利家への忠誠を起請文に署名させた。
 ★武田信玄も生品足島神社で同じようなことをした。
  後日、真田のコーナーで公開予定である。
 
 毛利元就は家臣団の統率力を強化した。



・天文20年(1551)大寧寺の変=陶隆房の謀叛
 大内義隆は山口市外の大内村に住み、支那との交易により巨万
 の富を作った。
 大内義隆は月山富田城で負けてから、戦に関心を持たなくなって
 いた。
 ※山口の瑠璃光寺でのガイドさんの話
 『陶隆房は、戦の大将として、動かない大内義隆にしびれを切ら
 した。文化方面にこだわっていました。』

 8月28日(9月28日)、大内義隆は観世太夫をまねいて猿楽に興
 じている時、家臣:陶隆房が謀反を起こした。
  陶隆房は挙兵して山口を攻撃した。
 陶隆房の謀叛により大内の館は大混乱になった。
大内義隆は数10人の部下に護られて、秋吉から長門の仙崎に
 のがれ、舟で石見に逃げのびようとした。しかし、暴風で舟が
 進まなかった。
 9月1日(9月30日) 長門深川の大寧寺に逃れた。
 和尚の戒をうけ大寧寺において45才で自刃した。
 ★大内家もここに滅亡した。
  大内子孫は高崎市箕郷町金敷平の山口一族と言われている。
  画家:山口薫も子孫であると言う。
  ・・・多々良氏系=金敷とも言われている。
  (★最近の説は朝鮮の百済:琳聖太子の流れは否定されて
    いる。でも、7C頃を考えると、津和野家老:多胡・
   周防:大内・・・間違っているとも思えない。
   世界記憶遺産候補:多胡碑もあるし、・・・)
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箕輪初心★高崎偉人伝【山口薫】モダンアート洋画家
http://53922401.at.webry.info/201310/article_25.html

箕輪初心:生方★2015高崎【山口薫の生涯:復刻版】
http://53922401.at.webry.info/201509/article_13.html
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●毛利隆元は仲良しだった陶隆房は近々、毛利にも攻めてくると
判断して陶隆房打倒を主張した。
〜〜〜恩顧ある義隆を殺された義憤に駆られたという説もある。
しかし、父:毛利元就は戦力的劣勢を理由に慎重であった。
そこで、毛利隆元は父:毛利元就を『陶との戦い』を本気にさせる
ため、5奉行など重臣達を使って、毛利家中に陶隆房の横暴ぶりを
喧伝して回らせた。
間もなく、毛利元就も陶隆房との対決を決めた。
★毛利元就は以前から陶隆房とのつきあいをやめていた。
 陶隆房(陶義賢)の大内軍兵力は30,000以上であった。
 毛利元元就の最大動員兵力は4,000〜5,000であった。
 正面から戦えば勝算はない。
 また、自分(毛利元就)と同調している安芸の
 国人領主たちも大内・陶氏に寝返る危険性もあった。
 従って、毛利家中の意見がまとまるのを待っていたのでは
 ないだろうか?
 毛利隆元の強硬策に敢えて反対したのは、家中に陶隆房の
 横暴・恐怖を浸透させて意見の一致を図ることにしていた
 のであろう。
 

▲天文22年(1553)1月22日、毛利隆元の嫡男:毛利輝元
 が生まれた。
 幼名は幸鶴丸であった。
●毛利隆元と妻:尾崎局は幸鶴丸(後の毛利輝元)は後に
 娘((吉見広頼室津和野局)にも恵まれた。
 毛利隆元は大内義隆の養女(長門守護代:内藤興盛の娘)を
 深く愛した。毛利隆元は側室を持たなかった。

・天文24年?./弘治元年(1555)
4月〜6月 陶晴賢と毛利元就の間で小競り合いが発生した。
戦闘が大規模化することはなかった。

▲厳島の戦いプロローグ

毛利元就は吉田城中で、わずかの兵で陶の大軍を破るには、
 野戦では不利なので、宮島の有の浦の宮尾城を築いた。
  (★毛利元就の築城以前に砦があったという説もある。)
  宮尾城には陶晴賢から毛利元就に寝返った己斐直之・坪井元政
 が約500人の兵力を与えて守らせていた。
 
 毛利元就はある夜、琵琶法師を吉田城中に招いた。
 毛利元就は 琵琶法師を陶義賢の間者であることを
 見ぬいた。毛利元就は敵を欺くため、
 「宮島に城を築いたことは、失策であった。もし、陶の大軍に
 包囲されたなら、我が軍の勝利は望めない。」
 ともらした。
琵琶法師は
 「海上交通の要所:宮島城の守りを固めている。」
 と報告した。
陶晴賢は大軍を率いて山口を出発した。
 陶晴賢は寝返った己斐直之・坪井元政の守る宮尾城を攻める
 ために厳島に向けて出撃した。
 9月21日(10月6日)
  陶晴賢は20,000~30,000の大軍を500艘余の舟に分乗させ岩国
の今津から宮島へ進航して陶軍は厳島の大元浦に上陸した。
  厳島神社近くの塔の岡(現豊国神社五重の塔の所)に本陣を
   置いた。
  民家に火を放ち、権威を誇示した。
  海上には水軍を待機させた。
厳島に築かれた毛利氏の宮尾城を攻略すべく、宮尾城を包囲し
  攻撃を開始した。
★ガイドさんだいうには、囮作戦であった。
 
 一方の毛利元就軍本隊はは、厳島の対岸に位置する草津城
  (現広島県広島市西区)に集結していたが、兵数で劣っていた。
  毛利元就は兵力差を埋めるために、伊予の村上武吉・村上通康
  ら村上水軍に援軍を求めた。
  村上水軍はなかなか現れなかった。
  毛利元就も援軍を諦めかけたが、厳島に渡る直前になって
  約300艘が到着し、毛利軍に加わった。


  毛利元就は、策略が図に当ったことを喜び、毛利軍3,000
  の兵を率いて草津城から地御前に前進した。
 毛利元就&子の毛利隆元・吉川元春・小早川隆景であった。
  対岸の御前に陣を進めた。

●毛利隆元は父:毛利元就からは従軍・渡海を拒絶されたという。
毛利隆元は
「自分一人生き残ったところで、御家の弓矢が成り立ちましょうか。」
と嘆願して同行を許可されたという逸話がある。
 (★ウィキペディア)

 9月30日(10月15日) 
●毛利隆元は暴風雨に怯えて渡海に反対する将兵らを奮起させる
 ため、毛利隆元は父:毛利元就の制止を振り切って自ら先立って
 船に乗り込んだといわれている。
 (★ウィキペディア)
  厳島へ向けて舟を漕ぎ出した。
夜、折からの暴風雨を冐して、荒れ狂う怒涛の海の中を出発した。
  先頭は、毛利元就の指揮船である。
●毛利隆元は毛利元就と共に本隊を率いて厳島に渡海した。
   

10月1日(10月16日)
画像

 毛利輝元3000〜3500 ?  VS 陶晴賢20000〜27000?

 早朝、
小早川隆景隊は正面の大鳥居方面へ堂々と乗り入れ、陶晴賢
 の家臣に向かって
 『筑前の宗像秋月、御味方に参りました。』
 と、叫んで、塔の岡の正面に向かった。
  (★小説では)
 毛利元就の率いる本隊は暴風雨の海を乗り切って宮島の北東岸に
 上陸した。毛利元就は陶義賢の本陣:塔の岡の背後へ兵を進めた。

 毛利軍は陶軍の背後(紅葉谷側)と宮尾城内(要害山側)
 から一斉に攻撃を仕掛けた。
 陶軍は、前夜が暴風雨であったことから、油断があり、厳島神社
 周辺の狭い場所にに大軍がひしめいていた。
大内義定・陶義賢軍は前後に敵を受けてしまった。
 陶軍は進退極まり、大混乱に陥って戦況の変化に対応できずにいた。
 そして、陶晴賢の軍勢は総崩れとなった。
陶軍は我先と島からの脱出の舟を奪い合い沈没したり溺死する者が
 続出したという。
 
 陶晴賢の本陣は総くずれとなって、厳島神社裏へ敗走した。
 陶晴賢は大元へ逃げた。大元から海岸づたいに逃れて、舟を求
 めて大江浦に出た。陶晴賢も島外への脱出を図ったが、舟は一
 艘もなかった。
 海上は伊予村上水軍に制圧されており、既に脱出用の舟も
 村上水軍の将兵達によってなくなっていたのだった。
 脱出することは出来ずに浜沿いに沿って大元浦に敗走した。
 そこにも脱出の舟はなかった。
 山越をして、青海苔浦に出たが、ここにも舟はなかった。
毛利元就に味方する村上水軍によって大内水軍が敗れて、退路も
 断たれてしまっていたのである。
 陶晴賢は「最早これまで。」
 と、高安が原に引き返し、名残の宴を開いた。
 陶晴賢が伊香賀房勝の介錯によって自刃した。享年35。
 陶晴賢に最期まで付き添った伊香賀房勝も山崎勘解由隆方も
 柿並隆正、互いに刺し違えて自刃した。

陶晴賢に代わって本陣で殿として戦った三浦房清は最期30名余り
 となり奮戦の末に討ち取られた。

 弘中隆包(隆兼)は吉川元春の軍に敗れて大聖院へ逃げた。
 弘中隆兼・隆助父子は大聖院を経て山側に後退した。
 吉川元春の軍に追われ、弥山沿いの谷を駆け登った後、
  隣の山の絵馬ヶ岳(現駒ケ林)へ逃げ登り、断涯に追いつめ
 られた。大部分が戦死し、残兵は龍ヶ馬場のけわしい岩陰に
 退却した。
10月3日まで抗戦したものの部隊は全滅した。
 
10月5日(10月20日)
 毛利軍は厳島から引き上げて対岸の桜尾城(現広島県廿日市市)
 に凱旋した。
 陶晴賢の首実検も行なわれた。
 
 厳島合戦は毛利元就の勝利に終わった。
 厳島の戦いでの陶軍の死者は4,700人にのぼったともいわれる。
 
 戦後、毛利元就は両軍の戦死者、負傷者を対岸へ移した。
 血で汚れた厳島神社の社殿を洗い流して清めさせ、宮島内の血が染み
 込んだ部分の土を削り取らせ、海中に運んだ。また、血で汚れた回廊
 の一部の板を取りかえた。海水で洗って清め、戦前の姿にした。

 ★厳島は島全体が厳島神社の神域であり、島民の女性は月経の際
 には島外に避難するほど、血の穢れの禁忌は厳しかった。
 子どもを生んでも70日は戻って越えられない。墓も島にはない
 とガイドさんがおっしゃっていた。
  
●結果・・・
  厳島の合戦を契機に、大内家は衰退の一途を辿っていくことになった。
 毛利元就の中国地方における地位は、にわかに高まった。



・弘治2年(1556) 忍原崩れ
  尼子晴久が25,000と小笠原長雄が大内方の
 山吹城(石見銀山)を攻撃した。
 毛利氏は迎撃したが、忍原にて撃破された。
 石見銀山は尼子晴久のものとなった。

・弘治3年(1557) 毛利元就が正式に隠居表明した。
 毛利元就は家督を嫡男:毛利隆元に完全に譲ろうとした。
 ●毛利隆元は拒否した。毛利隆元
「毛利家が依然として危険な状態であり、自分の力量に自信
  が持てないので、家督相続を辞退したい。・・・」
 と断ったと言われている。

 毛利元就は、毛利家と吉川家と小早川家3家の後見役として、
 体制を維持した。
 毛利隆元に毛利家の実権が移譲されることはなかった。 
 この後、毛利隆元は内政に専念した。毛利元就が外交と軍事を
 引き続き主導していった。
毛利元就は「隠居」後、後見役・諮問役として毛利隆元の政務
 を監督し、実権を保持し続けた。

・弘治3年(1557)同年 防長経略
 毛利元就は、大内氏の内紛を好機とみて、大内義長を攻撃した。
 陶晴賢によって擁立されていた大内義長(大友宗麟の異母弟で
  義隆の甥)が自害し、大名としての大内氏は滅亡に至った。
 
しかし、旧大内領をめぐって豊後の大友宗麟が西から、出雲の
 尼子晴久が北から侵攻してきた。
 毛利元就は北の尼子氏に対応するのとになった。
 毛利隆元は西の大友氏に対応することになった。
 ※毛利氏にとっては非常に危機的な状況であった
 
 その後、大友宗麟は大内輝弘擁立したが失敗に終った。
 ●毛利隆元は弟:小早川隆景の支援を受けつつ大友宗麟
 を撃退することに成功した。

 大内氏の中国地方の旧領の大半を手中に収めた。
 
・永禄2年(1559)
 ●毛利隆元は父:毛利元就との連署で正親町天皇の
  即位料を献納した。
 ●毛利隆元は従四位下大膳大夫に任じられた。

・永禄3年(1560)

 ●毛利隆元は第13代将軍:足利義輝より安芸守護に任じられた。
 尼子晴久が急死して尼子氏の勢力が衰退した。
 ●毛利隆元は九州戦線を受け持っていたが、足利幕府の仲介を
  利用して大友宗麟と和議を結び、尼子討伐に全力を傾けた。

・永禄5年(1562)
●毛利隆元は備中・長門の守護職にもなった。

・永禄6年(1563)
●毛利隆元は周防の守護職に任じられた。
 
 毛利氏は、正式に中国地方の大名としての立場を認められた。

・永禄6年(1563)
9月1日 ●毛利隆元の死
 毛利隆元は尼子攻めに参加する途中、毛利氏傘下の国人である
 備後の和智誠春からの饗応に参加した。
 安芸の佐々部で急死した。享年41。
   死因は食中毒とも毒殺とも言われる。

 毛利元就は突然の死を耳にした。
  父:毛利元就の悲嘆は尋常なものではなかった。

 その後、毛利元就は和智誠春・柚谷新三郎・湯谷又八郎・湯谷
  又左衛門・赤川元保らを暗殺の疑いで誅伐した。

 毛利家の家督は毛利隆元の嫡男:輝元が継いだ。
 毛利元就が実質的な当主として主導権をなおも握ることとなった。

◆◆ 毛利元就の子ども ◆◆
@毛利輝元
A娘・・・吉見広頼室:津和野局



★明日は、「毛利輝元&広島城→萩城へ」かな?

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