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zoom RSS 箕輪初心:生方▲世界遺産宮島A【厳島の戦い】&『12代:毛利元就』

<<   作成日時 : 2015/12/19 08:01   >>

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・弘治元年(1555)10月1日 毛利元就3000〜3500? VS 陶晴賢
30000 〜35,000?で戦った。村上水軍が毛利氏側についたので、
陶軍の総崩れした?厳島の合戦に勝利した毛利元就は中国地
方統一の第一歩を踏み出したのである。。厳島の戦いであるが
日本3大義戦の1つとして有名であるが、毛利元就の知略を考
えると、個人的には、大義名分のある義戦とは思えない。ダイビ
ングで茨城の陶一族末裔に陶さんに話したら、『陶一族が厳島
で毛利に殲滅されなかったら、我が家は山口にいたでしょう。私
の先祖が正義だったかもしれません。』とおっしゃっていたのを思い
だした勝てば、官軍かあ。そういえば、
ガイドさんが、陶晴賢は大内義隆がしっかりしなかったから、
大内義定を立てようとしかのかもしれないとも言っていたなあ。

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箕輪初心■広島:世界遺産【安芸の宮島】&▲弥山530m
http://53922401.at.webry.info/201105/article_21.html

箕輪初心・生方▲世界遺産:【安芸の宮島2回目】
http://53922401.at.webry.info/201512/article_14.html

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◆登城日・・平成27年(2015)年12月8日


【1】宮尾城
●バスの中でインターネットをスマホで場所確認した。
@日本三景の一つ広島県の厳島神社がある宮島に築かれた
水軍城である。
A厳島・宮尾城は毛利元就と陶晴賢が激闘を演じた
「厳島の合戦」の場所である。
B宮尾城に遺構・・・郭・井戸・空堀
 比高・・かつて30m?

●海からの宮尾城遠望
 
●フェリー桟橋付近の要害山が城跡。
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 宮島フェリーターミナルを降りると、正面に見える丘が
 宮尾城である。
 当時は広場はなく、宮尾城の麓まで海岸であった。
三方が海に面し、水軍の運用の城であったのであろう。

●昼食:鳥居屋
 鳥居屋ガイドさんに毛利元就の攻撃の様子を説明して
 いただいた。


●『現地案内板』&合戦図
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●入り口〜階段
厳島合戦に思いを馳せながら登城した。
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●坂
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●郭1
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●郭2・・・★櫓台があっただろう。
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・山頂を見ると
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▲宮尾城の本郭
・小屋
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▲要害山・・・宮尾城跡
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要害山は標高30mの丘を中心に築かれた。
・展望
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★9月、晴賢は2万余の大軍を率い厳島に上陸し、五重塔がある塔の岡
 付近に本陣を置いた。
宮尾城を攻撃したが、城兵は持ちこたえた。
そして、
@毛利元就は主力の軍を率い、包ヶ浦から上陸して
、【の】の字回りに回り込んで攻めたのだろう。山を越え背後から
陶軍の本陣を急襲し、城兵も主力軍に呼応して陶軍を壊滅
させた。 

と山の方を見ながら、想像した。
 毛利元就は「背水の陣」・・・ってところか?

A宮尾城軍は合流しA小早川隆景は舟で正面の大鳥居側から向かった。 
  隆景は巧妙に陶晴賢軍の援軍:宗像軍を装ったにせ船団
 であった。

挟み撃ち作戦だった。


●二の郭・・・★結構大きい。30mあろうか?
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・「今伊勢神社」という小さな社が祀られている。
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●袖曲輪

★下に行く階段
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●石垣
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 ★決戦を前に急造された陣城とされるが、
  崩れやすい地盤を固めるために石垣も使用されて
  いる。やっぱり、砦は先にあったのか?
  

●堀切・・・北東部&南西部の間の小さな橋の下である。
一城別郭である。
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●鹿・・・宮島城跡にも親子の鹿が散歩をしていた。
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かつての激戦の舞台も平和になった。

●南西部の郭・・・行かなかった。
★写真はどこだ?

連郭式の平山城であった。


★宮尾城は北東部と南西部の郭群に分かれている。
★遺構はあまりない。


【2】陶軍の陣(豊国神社&五重の塔)
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【1】戦国時代
・中国地方は大内義隆と尼子晴久の2大勢力があった。
 安芸(広島)でも弱小武将たちが、大内氏と尼子氏の間で揺れ動
いていた。毛利元就は初めは尼子経久についていたが、途中で
大内義隆に従った。しかし、弘治元年(1555)、大内義隆は家臣
:陶(すえ)晴賢に殺された。
@下克上逆臣謀反説
(生き残ったが故の勝てば官軍説)、
A負けた陶の説・・無視された。
陶晴賢が悪物になった。
(陶晴賢+擁立大内35000との対決姿勢を明らかにした。
多勢に無勢であり、到底勝ち目はない。

・天文20年(1551)大寧寺の変=陶晴賢の謀叛
 大内義隆は山口市外の大内村
 に住み、支那との交易により巨万の富を作った。
 8月28日(9月28日)、大内義隆は観世太夫をまねいて猿楽に興
 じている時、家臣:陶隆房の謀反を起こした。
  陶隆房は挙兵して山口を攻撃した。
 陶隆房の謀叛により大内の館は大混乱になった。
大内義隆は数10人の部下に護られて、秋吉から長門の仙崎に
 のがれ、舟で石見に逃げのびようとした。しかし、暴風で舟が
 進まなかった。
 9月1日(9月30日) 長門深川の大寧寺に逃れた。
 和尚の戒をうけ大寧寺において45才で自刃した。
 ★大内家は滅亡した。
 子孫は高崎市箕郷町金敷平の山口一族・・・多々良氏系
  最近の説は朝鮮の百済:琳聖太子の流れは否定されて
    いる。7Cの朝鮮の百済:琳聖太子の流れ・・・
   津和野城吉見氏家老:多胡氏は朝鮮系の姓であるので、
   大内が朝鮮系でもおかしくはないと思われる。
 
 陶隆房は大内義隆の養子:大友晴英擁立し、大内氏の実権を
 掌握した。
※大友晴英豊後の三浦系大友義鎮(宗麟)の異母弟である。
 母は大内義興の娘で大内義隆の甥であった。
 
 陶隆房は、大内晴英の「晴」の字をもらい、陶晴賢と名(諱)
 を改めた。
 (※天文22年(1553)大友晴英は大内義長と改名した。)

 その後、陶晴賢は大内氏の軍備強化を行なった。

 毛利元就は平賀隆保の安芸頭崎城を陥落させ、平賀広相に
 平賀家の家督を相続させて事実上、平賀氏を毛利氏の傘下に
 おさめた。

・天文22年(1553) 毛利元就は、小早川隆景を使者として、
京都に派遣し、逆臣:陶晴賢を討伐する勅命を受けた。

 そこで、毛利元就は大内氏内部の分裂の知略を謀った。

・天文23年(1554) 出雲では尼子氏新宮党の尼子国久・誠久らが
尼子晴久に粛清されるという内紛が起こった。
毛利元就は
 「陶晴賢(隆房の改名)の家臣:江良房栄が謀反を企てている。」
 という噂を流した。そして、毛利元就は江良房栄の筆跡を真似て
 内通を約束した書状を偽造した。
 陶晴賢は江良房栄を暗殺させた。
 (※江良房栄は毛利氏に内応したことを毛利元就が陶晴賢に明か
  した説もある。)


尼子晴久の安芸への侵入
大内氏の家臣:江良房栄らとともに撃退した。

 陶晴賢は毛利氏の勢力拡大に危機感を抱いた。
 毛利元就に支配権の返上を要求した。
 毛利元就は拒否したため、徐々に対立していった。

 ★大内義隆の姉を正室とする石見国津和野の吉見正頼と
  安芸国の毛利元就の反攻という形で現われた。
 
 石見:津和野の吉見正頼が陶晴賢に叛旗を翻した。
 陶晴賢・大内義定は直ちに吉見正頼の討伐に赴いた。
  毛利元就は陶隆房(陶晴賢)からの救援の依頼を受けた。
 毛利元就は陶軍への参加を決めていたが、陶氏への不信感を抱い
 ていた毛利元就の嫡男:毛利隆元の反対により出兵しないでいた。
 
 そこで、陶晴賢は安芸の国人領主たちに出陣の督促の使者を派遣
 した。
 平賀広相から、
 「毛利元就に対して芸備の国人領主たちを取りまとめる権限の約束
  に反しているので、毛利と陶の盟約が終わった。」
 と、毛利元就の訣別を迫った。
 毛利元就は陶晴賢との対決を決意した。

 ▲三本松城(津和野城)の戦い 
 陶晴賢が津和野城の吉見正頼の攻略に手間取っている間に
 毛利元就は陶晴賢に反旗を翻した。
 陶・大内主力軍が石見に集結している隙を突ついて
 毛利元就は安芸における大内方の城の大半を落とした
 (防芸引分)。

 陶晴賢は重臣:宮川房長に3,000の兵を預け、毛利氏攻撃
 を命令した。
 山口を出陣した宮川軍は安芸国の折敷畑山に到着し、陣を敷いた。
▲9月 折敷畑の戦い
  毛利元就は機先を制して宮川軍を襲撃した。
   宮川軍は撃破され、宮川房長は討死した。
   緒戦は毛利元就の勝利であった。

 陶晴賢は石見津和野城主:吉見正頼を降していた。
 小競り合いは続いていた。
 

・天文24年?./弘治元年(1555)
4月〜 陶晴賢と毛利元就の間で小競り合いが発生した。
戦闘が大規模化することはなかった。

 陶隆房(陶義賢)の大内軍兵力は30,000以上であった。
 毛利元元就の最大動員兵力は4,000〜5,000であった。
 正面からまともに戦えば勝算はまい。
 また、自分(毛利元就)と同調している安芸の
 国人領主たちも大内・陶氏に寝返る危険性もあった。
毛利元就は吉田城中で、わずかの兵で陶の大軍を破るには、
 野戦では無理と思っていた。

5月
@毛利元就築城説
毛利元就は陶晴賢を討つために、厳島に戦場を求め
宮島の有の浦に宮尾城を築き拠点とすることにした。
築城にも人夫1000人を使って、1か月程度はかかった
 と考えられている。
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A毛利元就補修説
  厳島を占領した毛利元就は城に番兵を置き、補修に着手した。
 (★毛利元就の築城以前に砦があったという説もある。)
  戦時急造の城ではなかったと推測される。
宮尾城は平山城であるが、海上に突き出し、水軍城の特色
  も合わせ持っていた。

宮島の町衆を味方に引き入れ、陶軍の広島湾進出を阻止する
  ため軍備を整え始めた。
  
宮尾城には陶晴賢から毛利元就に寝返った己斐直之・坪井
元政に約500人の兵力を与えて守らせていた。

援軍として熊谷信直を送り込むことができた。

6月 陶晴賢軍が海から襲来したが、上陸を阻んだ。

▲厳島の戦い
毛利元就はある夜、琵琶法師を吉田城中に招いた。
 毛利元就は 琵琶法師を陶義賢の間者であることを
 見ぬいた。毛利元就は敵を欺くため、
 「宮島に城を築いたことは、失策であった。もし、陶の大軍に
 包囲されたなら、我が軍の勝利は望めない。」
 ともらした。
琵琶法師は
 「海上交通の要所:宮島城の守りを固めている。」
 と報告した。
陶晴賢は大軍を率いて山口を出発した。
 陶晴賢は寝返った己斐直之・坪井元政の守る宮尾城を攻める
 ために厳島に向けて出撃した。
 9月21日(10月6日)
  陶晴賢は20,000~30,000の大軍を500艘余の舟に分乗させ岩国
の今津から宮島へ進航して陶軍は厳島の大元浦に上陸した。
  厳島神社近くの塔の岡(現豊国神社五重の塔の所)に本陣を
   置いた。
  民家に火を放ち、権威を誇示した。
  海上には水軍を待機させた。
厳島に築かれた毛利氏の宮尾城を攻略すべく、宮尾城を包囲し
  攻撃を開始した。
ガイドさんだいうには、囮作戦であった。
 
 一方の毛利元就軍本隊は、厳島の対岸に位置する草津城
  (現広島県広島市西区)に集結していたが、兵数で劣っていた。
  毛利元就は兵力差を埋めるために、伊予の村上武吉・村上通康
  ら村上水軍に援軍を求めた。
  
  しかし、村上水軍はなかなか現れなかった。
  毛利元就も援軍を諦めかけたが、厳島に渡る直前になって
  約300艘が到着し、毛利軍に加わった。
村上水軍が毛利元就に味方するのは、陶晴賢が厳島における
  瀬戸内海水運の「警固料」や「駄別料」と称して税を徴収し
  ていたことのある。陶晴賢としては、安全保障という名目で
  あるが、村上水軍にとってはいい迷惑であった。陶軍に敵対
  するのは当然であった。

  毛利元就は、策略が図に当ったことを喜んだ。
  毛利軍3,000の兵を率いて草津城から地御前に前進した。
 毛利元就&子の毛利隆元・吉川元春・小早川隆景であった。
  対岸の御前に陣を進めた毛利元就は、
  軍を2つに別ける作戦の指示した。
  @毛利元就本隊は宮尾城の(北東の)包ヶ裏に・・
  A小早川隆景隊は西から回り込んで、宗像秋月の
    舟を装え・・・
   夜明けとともに、挟み撃ちじゃ〜〜〜〜〜〜。
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9月30日(10月15日)夜
  毛利元就は3,500の兵とともに折からの暴風雨と夜陰に乗じ、厳島
  へ向けて舟を漕ぎ出した。暴風雨と荒れ狂う怒涛の海の中を出発
  したのだ。
  先頭は、毛利元就の船である。
  宮尾城北東にある包ヶ浦に上陸した。
  
  宮尾城の己斐直之・坪井元政・熊谷正直と合流した。

  夜明け前、暗いうちに出陣した。
  山際を通り、北から本陣のある五重の塔や厳島神社の
  背後に回り込んだ。
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10月1日(10月16日)
 毛利輝元3000〜3500 ?  VS 陶晴賢20000〜27000?

  早朝
 @毛利元就軍本隊・・山を越え塔の岡にある陶軍の本陣を急襲した。
 A毛利元就3男:小早川隆景軍大鳥居側の海から
 B宮尾城の兵が呼応した。
  厳島神社周辺で大激戦となったた。

小早川隆景隊は正面の大鳥居方面へ堂々と乗り入れ、
 陶晴賢の家臣に向かって
 『筑前の宗像秋月、御味方に参りました。』
 と、叫んで、塔の岡の正面に向かった。
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 毛利元就の率いる本隊は暴風雨の海を乗り切って宮島の北東岸に
 上陸した。毛利元就は陶義賢の本陣:塔の岡の背後へ兵を進めた。

 毛利軍は陶軍の背後(紅葉谷側)と宮尾城内(要害山側)
 から一斉に攻撃を仕掛けた。
 陶軍は、前夜が暴風雨であったことから、油断があり、厳島神社
 周辺の狭い場所にに大軍がひしめいていた。
大内義定・陶義賢軍は前後に敵を受けてしまった。
 陶軍は進退極まり、大混乱に陥って戦況の変化に対応できずにいた。
 そして、陶晴賢の軍勢は総崩れとなった。
陶軍は我先と島からの脱出の舟を奪い合い沈没したり溺死する者が
 続出したという。
 
 陶晴賢の本陣は総くずれとなって、厳島神社裏へ敗走した。
 陶晴賢は大元へ逃げた。
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 大元から海岸づたいに逃れて、舟を求めて大江浦に出た。
 陶晴賢も島外への脱出を図ったが、舟は一
 艘もなかった。
  脱出することは出来ずにさらに浜沿いに沿って大元浦
 に敗走した。
 そこにも脱出の舟はなかった。
 山越をして、青海苔浦に出たが、ここにも舟はなかった。


 海上は伊予村上水軍に制圧されており、既に脱出用の舟も
 村上水軍の将兵達によってなくなっていたのだった。
  毛利元就に味方する村上水軍によって大内水軍が敗れて、
 退路も完全に断たれてしまっていたのである。
 
 陶晴賢は「最早これまで。」
 と、高安が原に引き返し、名残の宴を開いた。
 陶晴賢が伊香賀房勝の介錯によって自刃した。享年35。
 陶晴賢に最期まで付き添った伊香賀房勝も山崎勘解由隆方も
 柿並隆正、互いに刺し違えて自刃した。

陶晴賢に代わって本陣で殿として戦った三浦房清は最期30名余り
 となり奮戦の末に討ち取られた。

 弘中隆包(隆兼)は吉川元春の軍に敗れて大聖院へ逃げた。
 弘中隆兼・隆助父子は大聖院を経て山側に後退した。
 吉川元春の軍に追われ、弥山沿いの谷を駆け登った後、
  隣の山の絵馬ヶ岳(現駒ケ林)へ逃げ登り、断涯に追いつめ
 られた。大部分が戦死し、残兵は龍ヶ馬場のけわしい岩陰に
 退却した。
10月3日まで抗戦したものの部隊は全滅した。
 
10月5日(10月20日)
 毛利軍は厳島から引き上げて対岸の桜尾城(現広島県廿日市市)
 に凱旋した。
 陶晴賢の首実検も行なわれた。
 
 厳島合戦は毛利元就の勝利に終わった。
 厳島の戦いでの陶軍の死者は4,700人にのぼったともいわれる。
 
 戦後、毛利元就は両軍の戦死者、負傷者を対岸へ移した。
 血で汚れた厳島神社の社殿を洗い流して清めさせ、宮島内の血が染み
 込んだ部分の土を削り取らせ、海中に運んだ。また、血で汚れた回廊
 の一部の板を取りかえた。

 ★厳島は島全体が厳島神社の神域であり、島民の女性は月経の際
 には島外に避難するほど、血の穢れの禁忌は厳しかった。
 子どもを生んでも70日は戻って越えられない。墓も島にはない
 とガイドさんがおっしゃっていた。
  

結果・・・
  厳島の合戦を契機に、大内家は衰退の一途を辿っていくこと
  になった。逆に毛利元就の中国地方における地位は、にわか
  に高まった。
 
 
 



◆参考資料
・図解戦国史
・『毛利元就と厳島の戦い』伊藤裕著
・『毛利元就』 松永 義弘 著
・『毛利元就』NHK大河ドラマビデオ
・バスガイドさんの話
・現地鳥居屋・ガイドさんの話

◆参考サイト
・ウィキペディアなど

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