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zoom RSS 箕輪初心:生方▲【楫取素彦】群馬に約10年&防府に約20年

<<   作成日時 : 2015/12/14 09:30   >>

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2015年NHK大河ドラマ『花燃ゆ』は、12月13日が最終回であ
った。TVでは11月に入り、楫取素彦は&久坂文が群馬で養蚕
の推進や教育、特に女子教育に視点を当ててドラマ化している。
「教育に心血注ぐ 楫取素彦」と新群馬カルタにあるが、約10年
間の群馬県令であった。楫取素彦は吉田松陰の『至誠』を重ん
じ、群馬の近代化への推進し、群馬県を全国屈指の産業県・教
育県に発展させた。また、文化財の保護にも貢献した。

富岡製糸の存続への努力や田島弥平への援助がなければ、
富岡製糸・田島弥平宅の世界遺産になり得なかったであろう。
〜〜群馬を離れてから、天皇様の侍従になった。
晩年は、山口の防府で過ごした。
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〜〜〜吉田松陰&楫取素彦〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方【吉田松陰と下田】黒船と下田踏海事件
http://53922401.at.webry.info/201507/article_24.html

箕輪初心:生方★萩:吉田松陰の【野山獄】&世界遺産【松下村塾】
http://53922401.at.webry.info/201512/article_10.html

箕輪初心:生方▲【ペリー&下田開港】日本の開国への道
http://53922401.at.webry.info/201507/article_23.html

箕輪初心★吉田松陰=高杉晋作・桂小五郎・楫取素彦などを育てた男
http://53922401.at.webry.info/201402/article_1.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201402/article_1.html

◆箕輪初心★梶取素彦=群馬県令。吉田松陰の2人の
妹:寿&文が妻。
http://53922401.at.webry.info/201401/article_31.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201401/article_31.html

◆箕輪初心★【「花燃ゆ」の夫:梶取素彦=群馬県令】群馬での
功績詳細版
http://53922401.at.webry.info/201501/article_1.html

◆箕輪初心★【「花燃ゆ」:梶取素彦3回目】@群馬県庁、A功徳碑、
B臨江閣
http://53922401.at.webry.info/201502/article_29.html

箕輪初心★【「花燃ゆ」:梶取素彦4回目】B【臨江閣の楫取素彦展】
http://53922401.at.webry.info/201503/article_1.html


【1】 NHK大河ドラマ『花燃ゆ』最終回

・鹿鳴館での輝きすぎて、疲れがでた。
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・就学率は全国1位になった。
・三条実美がきた。
 ★三条実美は埼玉の上里の陽雲寺・・先祖の武田信玄
  の嫁三条夫人の絵を見に来た。そして、算額を書いた。
   
箕輪初心▲埼玉上里【金窪南城=陽雲寺】&武田信玄の甥:川窪信俊
http://53922401.at.webry.info/201409/article_25.html

・臨江閣での送別会では、阿久沢(★実際は下村善太郎)、
船津伝次平らが来た。

・明治17年(1884)8月20日 前橋〜高崎間の鉄道延長に楫取
 素彦は尽力した。
・そして、前橋から鉄道に乗り、群馬を離れた。

柳澤佳雄先生の新情報:寺島先生の本
・前橋市石原の内藤分ステーションを通ったはずである。

 ★武田信玄家臣:内藤昌豊(昌秀)の領土にある駅
  の意味である。

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・25歳でなくなった久坂玄瑞の手紙を楫取美和子に渡した。
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・吉田文→久坂文→楫取美和子の回想シーンで終わった。〜〜〜


下村善太郎
・明治7年(1874) 前橋本町大火災での義援活動を行った。
・明治9年(1876) 県庁誘致運動の先頭に立った。
群馬県仮県庁移転に際し1万円を寄付した。
・明治13年(1880)〜
 日本鉄道の前橋延長運動も起こした。
・明治17年(1884)
臨江閣の建築に多額の寄付をした。
・後、初代前橋市長。

※柳澤佳雄先生所蔵
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【2】 防府天満宮
◆訪問日・・・平成27年(2015)12月7日
楫取素彦の像のある防府天満宮に行った。
でも、本当は墓参りもしたかった。

●防府八幡宮駐車場
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●楫取素彦・文夫妻の銅像
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●貞宮遙拝所・・・★楫取素彦も拝んだ。
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●防府天満宮歴史館
★楫取素彦の展示物もある。


●千年大祭記念碑
★楫取素彦が総裁を務めた松崎神社千年式年
 大祭の石碑である。
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◆◆ 楫取素彦&(楫取美和子)〜〜〜〜
・文政12年(1829)3月15日藩医:松島瑞蟠の次男として萩に生まれた。
長門国萩魚棚沖町(現山口県萩市)

 小田村家の養子になり、伊之助と称した。

・安政6年(1859)
  吉田松陰は楫取素彦を正直で「気力・詩力・酒力」は自分より
  上だと敬愛したという。
 「江戸送り」の時、松下村塾の後のことを託した。
  「至誠にして動かざる者未だ之れあらざるなり」(『孟子』)
  と思いを伝えた。

安政の大獄・・吉田松陰は江戸で処刑された。

●楫取素彦は13代長州藩藩主:毛利敬親の側儒に抜擢された。
松下村塾の後継者として楫取素彦が指名された。
  楫取素彦は吉田松陰の志を実践していった。

・安政7年(1860)万延元年(1860)32歳
●山口講習堂・三田尻越氏塾塾で教授することになった。


・文久元年(1861)33歳 〜
 ●藩主:毛利敬親に従って江戸・京都・萩・周防
 の間を東奔西走・・・藩政中枢に参与していった。

・文久2年(1862)34歳
 長州藩の宍戸たまき・久坂玄瑞、土佐藩の中岡慎太郎らが
  松代藩で謹慎中の佐久間象山を訪問した。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★幕末偉人:佐久間象山@「長野の象山神社&八重の桜
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201309/article_15.html
http://53922401.at.webry.info/201309/article_15.html

箕輪初心★佐久間象山A「佐久間象山の生涯」
http://53922401.at.webry.info/201309/article_16.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201309/article_16.html
 長州藩へ招聘が叶わなかったが、国際情勢や国防論につい
  て薫陶を受けた。

・文久3年(1863)35歳
 下関事件
 
  8月18日の政変
  長州藩勢力が京都を追放された。

・文久4年・元治元年(1864)36歳
  ●長州藩の恭順派のため、野山獄に入獄となった。

 禁門の変=蛤御門の変
 長州藩内の様子・・・・・・
 @積極策派・・・来島又兵衛、真木保臣ら
         福原元|・益田親施・国司親相の家老
 A慎重策派・・桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞ら
  
 6月5日 池田屋事件・・・新選組に藩士を殺された。
  積極派は、「藩主の冤罪を帝に訴える」ことを名目に挙兵
  
 6月24日 久坂玄瑞は嘆願書を朝廷に奉った。
  禁裏御守衛総督:徳川慶喜は長州藩兵に退去を呼びかけるが、
  一貫して会津藩擁護の姿勢を取る孝明天皇に繰り返し、
  長州掃討を命じられ、最終的に強硬姿勢に転じた。

  久坂玄瑞らは来島、真木らの決意に押されやむなく賛成。
  会津藩主:京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵。
 
 7月19日、京都蛤御門(京都市上京区)付近で、
  長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突・・戦闘が勃発。

 結果・・・長州藩勢は敗北。
  御所内で来島又兵衛、久坂玄瑞、寺島忠三郎らは自害した。

伊之助=楫取素彦 寿との子:粂次郎(=道明)が養子となり
  久坂家を継いだ。

  徳川慶喜・会津藩・桑名藩が京都を主導した。

  長州藩は「朝敵」となった。
  第一次長州征討

  四国艦隊下関砲撃事件
・・・長州藩の敗北。

・慶応元年(1865)37歳
  長州藩は恭順派の牛耳るところとなった。
  恭順派の高杉晋作・伊藤博文らの挙兵によって
  赦免される。
 ●宍戸たまき・楫取素彦が出獄。
  →藩命により、太宰府滞在中の五卿を訪問。
 ●長州征討
  四境戦争・・広島へ幕軍総督正使:宍戸備後助たまき
  (長州藩安田→山県→宍戸家:家老の養子・→)
   ・副使:楫取素彦であった。
  広島の国泰寺で幕府問罪使:永井尚志に応接した。
  幕府側との交渉にあたった。
 ●交渉の長期化で広島藩に宍戸・楫取は一時拘留された。

・慶応2年(1866)38歳
 ●第二次長州征伐の開戦
  幕府側の敗戦の調和策として放免された。

 ●薩長同盟・・・坂本龍馬の仲立ち=活躍。
  九州大宰府で坂本龍馬と出会い、薩長同盟への道を開いた。
  長州藩主:毛利敬親の懐刀として奔走したのだ。


・慶応3年(1867)39歳
 ●長州藩命で、「楫取素彦」と改名した。
  「楫(かじ)を取る」としたのは、祖先が「萩藩御船手組」
 であったことによる。

 ●長州藩兵の上京の命を受け、諸隊参謀として出征。
  公卿諸藩の間を周旋。
 ●土佐の坂本龍馬、薩摩の西郷隆盛らと倒幕に活躍した。

 ※楫取素彦は毛利敬親(たかちか)公の側近中の側近として活躍した。
 毛利家3代当主(敬親公、元徳)公、元昭公)に最も長く仕えた忠臣
 であった。


・慶応4年・明治元年(1868)40歳
  ●明治維新後は新政府に出仕した。

・明治2年(1869) 41歳
 ● 明治維新政府の「参与」となったが、すぐに免官し帰郷した。
防府・三田尻管事を兼務した。

・明治3年(1870) 42歳
 ● 防府・三田尻の権大参事となった。
●旧諸隊士1200の脱退騒動で辞任した。

・明治4年(1871) 43歳
 ●TVでは、村で農業をしていた。水路を造って喜ばれた。

・明治5年(1872) 44歳
  再び新政府に仕えた。
 ●神奈川県・足柄県参事(現神奈川県足柄村知事)




◆◆〜〜楫取素彦の群馬県時代約10年間〜〜〜◆◆
★熊谷県時代を含め10年間に群馬県の基礎を作り上げた。


・明治6年(1873) 45歳
 熊谷県は、入間県と群馬県を合わせて誕生した。
 ●楫取素彦は熊谷県権令
 横浜開港以来、生糸と茶が2大輸出品であった。 
  熊谷県は養蚕・製糸業が盛んで、狭山茶の産地であった。
  日本は生糸の輸出を中心に外貨を獲得し、近代化を進めた。

・明治7年(1874) 46歳
 ●熊谷県令。
前橋藩士:速水堅曹の伝習生:星野長太郎は勢多郡水沼村
  (桐生市黒保根町)に水沼製糸所を開業した。
楫取素彦の援助があった。

・明治8年(1875) 47歳
●楫取素彦は産業の進展に努めた。


・明治9年(1876) 48歳
 熊谷県改変→新設:群馬県の発足。
熊谷県は群馬県と埼玉県に分割された。
明治政府は上州に楫取素彦を送り込んだ。
●楫取素彦は第2次群馬県初代県令(知事)となった。


9月1日 楫取素彦は執務を行うことになった。
●群馬県庁移転問題・・・前橋への県庁移転 
明治政府の県庁をどこにするかで方針が2転3転している。
@第1次群馬県設置直後、高崎に県庁が置かれた。
A高崎城は兵部省との兼ね合いで前橋城に県庁が置かれた。
Bすぐに熊谷県が誕生、熊谷が県庁で前橋に支庁が置かれた。
C熊谷との連絡に便利な高崎に支庁が変更された。
D第2次群馬県が成立後、高崎の安国寺に県庁が置かれた。
 県庁は安国寺は庁舎が狭いため、元の高崎支庁や烏川学校や竜広
 寺などに分散していた。高崎城は陸軍の管轄下にあったからである。



 楫取素彦は高崎では行政施設が分散して効率的ではないこと、
 前橋が生糸生産の中心地であり人材が豊富であることなど
 の点から前橋へ県庁移転を決意した。
 
 前橋の有力者25名(前橋25人衆)は、県庁を誘致し、前橋を
 関東の大都市とするために、楫取素彦に協力を約束した。
 楫取素彦は県庁を前橋に移す決心を固めた。
※前橋25人衆・・・
  ・下村善太郎・勝山源三郎・勝山宗三郎・須田傳吉
 ・大島喜六・江原芳平・市村良平・竹内勝蔵・横川重七・松井林吉
 ・ 鈴木久太郎・荒井友七・荒井久七・深町代五郎・八木原三代吉
 ・筒井勝次郎・中島政五郎・田部井惣助・武田友七郎・ 横川吉次郎
 ・生方八郎・桑原壽平・太田利喜蔵・久野幸人・串田宗三郎


9月21日 楫取素彦は前橋旧城を県庁として使いたい旨の
 内務省に申請した。
   前橋が正式な県庁所在地と決定。
    →高崎から、楫取素彦は反発された。
 前橋に県庁を移転した。


 ★妻:寿子は明治9年から13年まで前橋で過ごした。

養蚕の普及@輸出網の開拓支援→新井領一郎をアメリカに派遣    
楫取県令の勧奨と援助で星野長太郎は生糸の直輸出を行おうと弟:
 新井領一郎をアメリカに派遣する計画を立てた。
 横浜の居留地貿易では外国商人に利益を奪われてしまうからである。
 つまり、生糸の市場開拓と日本からの直輸出を実現するための
 計画である。

・明治9年(1875) 21歳
  新井領一郎は群馬県令:楫取素彦の後押しにより、米国商法
 (商業)実習生の一人に選ばれた。
 新井領一郎は前橋の楫取邸を訪れた。
  楫取県令夫人:寿子(ひさこ)は兄・吉田松陰の形見の短刀を
  手渡した。寿子は
  「この品には兄の魂が込められているのです。 その魂は、兄の夢で
 あった太平洋を越えることによってのみ、安らかに眠ることができ
 るのです」。
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 ★寿は、吉田松陰が果たせなかったアメリカ渡航の夢を領一郎に
 託したのだ。
 楫取素彦は新井領一郎が生糸の販売網開拓のためにアメリカに赴く
 際、渡米資金600円を出資した。・・・★ポケットマネーらしい。
 渡米の「餞別覚」には、楫取素彦のほか、福沢諭吉、黒田清隆、速水
  堅曹ら多数の名前が残されている。
 兄:星野長太郎の200円は楫取素彦からの借金であったらしい。
 
  新井領一郎は渡米した。
 吉田松陰の魂は上州人の手によってアメリカへ渡ったのだ。
 渡米。・・・新井領一郎は楫取素彦の写真を携えて渡米した。
 ニューヨークで写真をもとに肖像画を描かせ、楫取素彦に贈った。
 ※現在、肖像画は群馬県立歴史博物館に所蔵されている。

 ※新井領一郎の孫娘:ハルは駐米大使ライシャワー夫人である。
(★「絹と武士」ハル・ライシャワー著書)
元群馬県議会議長:柳澤本次氏(柳澤佳雄氏父)と
 ライシャワー&ハル・ライシャワーさんと会見し、
 楫取素彦と新井領一郎の関係を確認したそうである。
 ちなみに柳澤佳雄先生は新井領一郎の関係の会社に
 最初は務めたそうである。

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・明治10年(1877) 49歳
養蚕→製糸業への取り組みA船津伝次平の推挙
  楫取素彦は富士見の船津伝次平に「駒場農学校へ奉職する
  よう」勧奨した。
  大久保利通が駒場農学校教諭に選定した。
  ※北海道開拓使:クラークの給料・・・・・月給600円
  ※駒場農学校:フェカス(独)の給料・・・月給350円
  ※駒場農学校:キンチ(英)の給料・・・・月給416円
  ※駒場農学校:ケンネル(独)の給料・・・月給300円
  ※船津伝次平の給料・・・・・・・・・・・月給 30円
  ★5人の外国人より稲作は上手だった。
  →明治の「日本3労農」・・・となった。
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箕輪初心◆◆「労農:船津伝次平」&剣豪:疋田文五郎
http://53922401.at.webry.info/201106/article_11.html
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行政機構の近代化→地方行政機構の整備
 各村戸長の業務・職務内容を規定した。
 区長、戸長からなる小区会・大区会を開催した。
 

銀行設立&蚕糸業への資金投入
 楫取素彦は渋沢栄一の協力によって第39国立銀行、第40
 国立銀行が設立した。援助は下村善太郎であった。
 蚕糸業へ資金を円滑にするのが目的であった。


・明治11年(1878) 50歳
養蚕の品質管理の場所が群馬に3ヶ所あった。
 座繰りで紡いだ糸の品質を揃える場所の1つが
 高崎市箕郷町の柳澤佳雄先生のエスビックの
 創新館前だったとお聞きして、ビックリしました。
 御先祖が楫取素彦に声をかけられたそうですね。
 柳澤先生、面白かったです。
  写真を勝手に掲載しました。済みません。
 明日は毛利南家(萩城:毛利家)の子孫に会われる
 そうですね。
 6月には、富岡製糸の煉瓦を深谷の博物館に寄贈
 されたし、・・・・
 なんか凄すぎて・・・

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・明治12年(1879) 51歳
久坂玄瑞の遺児:秀次郎が久坂家を相続した。
 養子に入っていた久坂道明は楫取家へ戻り、楫取道明となった。
柳澤佳雄先生は、神奈川県在住の久坂玄瑞
 の子孫も御存知とおっしゃっていましたね。すごーい。


群馬県の教育振興
 ・明治5年(1872)の学制公布
 ・明治7年 中学校3校、小学校350校が設立されていた。 
 ・明治9年 76,764人分の38,382人・・・ 就学比率は50%
       (全国平均38.3%)、
   師範学校、医学校建設の寄付を募って設立させた。
    
 ・明治12年 就学比率は69.0%/・・・・全国1位となった。
   群馬県師範学校に寄宿舎と付属小学校を増設。
  ★群馬師範学校の校長は元高崎藩家老の子:宮部譲
   だったけか?
宮部譲は後に自由民権運動の指導者になった。
 「有信社」の設立・・・議会開設を要求した。

養蚕の推進→輸出拡大B田島弥平への協力
 楫取素彦・渋沢栄一は佐位郡島村(伊勢崎市境島村町)で田島武平、
 田島弥平らを中心とする島村内の蚕種業者からなる「島村勧業会社」
 を支援した。繭生産から蚕種を生産するように村人に働きかけた。
 蚕種を直輸出する計画も楫取素彦が応援したのたっだ。
 12月、「東京・新橋で田島らの送別会を開いた。」
  (★速水堅曹)
 明治12年から明治17年にかけて、田島弥平は3度に渡ってイタリア
 に渡った。三井物産と提携してイタリアで蚕種の販売を行い、直輸出
 を試みた。4度目・・・赤字・・撤退 
 →★田島弥平宅は世界遺産となった。
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箕輪初心★群馬『田島弥平宅』=世界遺産候補
http://53922401.at.webry.info/201303/article_28.html
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・明治13年(1880) 52歳
富岡製糸場の存続に貢献
 ★楫取素彦が世界遺産を救った?
 明治政府は西南戦争後の財政難から、富岡製糸場の民間払下げを
 計画した。しかし、規模が大きすぎて買い手がつかなかった。
 富岡製糸工場の危機・・・明治政府が閉鎖を打診してきた。
富岡製糸もまた不況で赤字続きであった。
11月 楫取素彦は富岡製糸工場の閉場中止の建白書を提出した。
  西郷従道農商務卿と交渉し、閉場を免れることとなった。

明治14年(1881) 以後5年間、工場長:速水堅曹に貸与の形を
  採って経営効率化を行った上で改めて民間払下げか、買い手が
  つかなければ閉鎖するとした。
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箕輪初心■富岡製糸場6−B
「富岡製糸場・県立博物館の展示内容」
 http://53922401.at.webry.info/201209/article_26.html
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女子教育の推進
  県立女学校を設置(明治19年廃校)
  女子教育の徹底・女工確保が目的であった。


鉄道延伸による物流の効率化
  ・明治13年(1880)大宮―高崎間の鉄道敷設計画が決定された
  生糸商人:下村善太郎(初代前橋市長)らが有志を勧誘して
  株式出資を行う旨を取り付けた。
 楫取素彦は鉄道局長井上勝と交渉し、前橋までの延伸を決定
 させた。
・明治17年、高崎線が前橋まで全線開通
   楫取退任後、生糸、絹織物の輸送ルートが確立されていった。


・明治14年(1881) 53歳
1月  妻:寿子は内助の功で夫を支えたが、中風症から胸膜炎を
  併発し。亡くなった。
  母:滝子は久坂玄瑞未亡人となっていた文子に楫取との再婚を
  促した。
  文子は
 「貞女二夫にまみえず」
 と応じなかった。
 滝子は
 「こうすることが、亡夫:玄瑞や亡姉:寿子、亡兄:松陰の願い
 であろう」
 と説いた。  
 文子も再婚を決意した。
 杉家に復籍し、名前も「美和子」と改めた。
 楫取素彦と再婚した。
 ★年末に文子は前橋の楫取のもとへやって来た。
 文子は明治14年から17年まで前橋で3年過ごした。

 TVでは、最初からいたように書かれているが?

2月 前橋への県庁移転の太政官布告が出た。
高崎の住民からは反対の声が上がった。
訴状を起こしたが敗訴した。

男女平等、女性の自立
  

日本初の廃娼を断行。
  キリスト教のメンバーの後押し。


・明治15年(1882) 54歳
明治政府は富岡製糸工場の存続を決定した。
(明治26年に三井に払い下げられた。)


文化財の保護・・・★これも凄い。

@古墳の保護
 二子山古墳は富城入彦の命の御陵
 中二子古墳は御緒別王の御陵
 王山・将軍塚古墳は彦狭島王の御陵
  言い伝えられていたので保存に尽力した。

A上毛3碑の保護
 多胡碑・・・日本三古碑の第1位として「碑亭」で永久保存しよう
 とした。
  中国の書家:揚守敬に多胡碑の拓本を贈呈した。
  揚守敬が多胡碑の文字を紹介したので書道的価値が認められ
  るようになった。
山名の碑
 金井沢の碑

仁治の碑・・・富岡市下高尾15
   鎌倉時代の1243年に造立された。
   楫取素彦が現在地に県費で保存した。
   

 ●妙義神社の修復


B歴史人物・・・天皇崇拝思想の拡化→人材養成
 新田義貞・・・・
   ★「箕輪初心 新田義貞」で検索して下さい。
高山彦九郎・・・先祖は藤岡の秩父系・有道系・・・
   高山氏→高山村の高山氏→太田金山城:由良家の家老職
高山彦九郎は、「太平記」を読んで、新田義貞に
   心酔した。江戸時代末期の尊皇論者第一号である。
  幕末期の尊王論に大きな影響を与えた人物である。
  ★つまり、吉田松陰に影響を与えた人物でもあった。
   楫取素彦が高山神社の創建。


漢詩や書にも優れた作品を残した。
石碑に文字を書いた。
 @大谷休泊の碑(館林)・・・休泊堀
 A杉下茂左衛門の碑(月夜野)・・「天下の義人 茂左衛門」
 B堀口藍園の碑(渋川)・・・渋川郷学
 C宮崎有敬の碑(前橋)・・・初代県議会議長
 E萩原音吉の碑(安中)・・・碓氷社(養蚕)


・明治16年(1883) 55歳
  二人の結婚は年譜では明治16年となっている。
(★県発行の楫取素彦・歴史読本・前橋まるごとガイド)

 
 「修身説約」の出版
 ★楫取素彦は近代群馬の基礎をつくった最大の功労者である。
 群馬県令の時代に編纂した「修身説約」が修身の教科書と
  して販売され、「学問のすすめ」と並ぶ明治のベストセラー
  になった。

××政治的な失敗・・・群馬県人の登用が少なかったのではない
 だろうか。
 群馬県職員人事の面では群馬県出身士族を冷遇した。
 主要メンバーは群馬県以外の士族出身者からなる官吏であった。
 特に高崎士族は生活の困窮に不満を持つ多かった。
  後に、宮部譲の有信社など大きな自由民権運動へと
  発展していった。
 養蚕事業の結社が自由民権運動と結びついて
 明治17年5月には群馬事件が起きた。
 でも、楫取素彦は退任していた。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・明治17年(1884) 56歳
 ●元老院議官・高等法院陪席裁判官に就任。
 ●新井領一郎の結婚式に参加
 新井領一郎&内務省官僚:牛場卓蔵の娘:田鶴(18歳)との
   日本で結婚披露宴に参加。来賓は
  ・楫取素彦(元群馬県令)
  ・富田鉄之助(日本銀行第2代総裁)、
  ・神鞭知常(租税局主税局本部→衆議院議員)
  ・吉田市十郎(内務省:大蔵省書記官)
  ・速水堅曹(前橋藩士:富岡製糸場の所長を2度・農商務省官僚)
  ・福澤諭吉(慶応大学:『学問のすゝめ』小幡篤次郎と共著)
  ・小幡篤次郎(群馬:武田信玄家臣:小幡信貞の弟子孫
          ・・中津藩:『学問のすゝめ』福澤諭吉と共著)
  ・相馬永胤(横浜正金銀行取締役)
  らであった。
  (★新井領一郎Hpより)


・明治18年(1885) 58歳

・明治19年(1886) 59歳
 ●貴族院議員&宮中顧問官。
 ●皇室:貞宮多喜子内親王の御養育主任。
   楫取美和子も貞宮御付となった。
明治天皇第10皇女貞宮の御養育主任となった.
後、数え2歳の貞宮と避暑地:妙義神社の御殿
 で過ごした。

・明治20年(1867) 60歳
 男爵授受。
楫取美和子は、男爵となった楫取素彦を支えた。
 華族の妻として、江戸・明治・大正と激動の時代を
 生き抜いた。

・明治26年(1893) 山口県三田尻(防府市)に居を移した。
  約20年間、防府の発展に尽力した。

しかし、私は防府には1時間しかいなかったので、功績が
 わからない。


・大正元年(1912) 84歳。
 ●8月14日 山口県三田尻(現防府市)で楫取素彦死去。

・大正10年(1921)山口県三田尻(現防府市)楫取美和子死去。
 ★防府市の大楽寺に楫取素彦と並んで眠っている。
画像

 (★防府市Hpより)

画像





★明日は防府・萩関係かな?

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