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zoom RSS 箕輪初心:生方★萩:吉田松陰の【野山獄】&世界遺産【松下村塾】

<<   作成日時 : 2015/12/13 09:49   >>

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安政元年(1854)吉田松陰は密航を企て、自首し、江戸送り〜萩の
野山獄に投獄された。・安政2年(1855) 野山獄出獄を許され、杉家
に幽閉の処分となった。家族の薦めにより講義を行うようになった。

★世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の1つに『松下村塾』がある。
吉田松陰が主宰した私塾である。吉田松陰は海防の観点から産業近
代化の実現を図ろうと説いた。吉田松陰の教えを受け継いだ塾生ら
から、後の日本の近代化を推進する人物を多数輩出した。でも、小
栗上野介や渋沢栄一などのの近代化に貢献した人物の遺産も入れ
て欲しいものである。

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〜〜〜吉田松陰&楫取素彦〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方【吉田松陰と下田】黒船と下田踏海事件
http://53922401.at.webry.info/201507/article_24.html

箕輪初心:生方▲【ペリー&下田開港】日本の開国への道
http://53922401.at.webry.info/201507/article_23.html

箕輪初心★吉田松陰=高杉晋作・桂小五郎・楫取素彦などを育てた男
http://53922401.at.webry.info/201402/article_1.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201402/article_1.html

◆箕輪初心★梶取素彦=群馬県令。吉田松陰の2人の
妹:寿&文が妻。
http://53922401.at.webry.info/201401/article_31.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201401/article_31.html

◆箕輪初心★【「花燃ゆ」の夫:梶取素彦=群馬県令】群馬での
功績詳細版
http://53922401.at.webry.info/201501/article_1.html

◆箕輪初心★【「花燃ゆ」:梶取素彦3回目】@群馬県庁、A功徳碑、
B臨江閣
http://53922401.at.webry.info/201502/article_29.html

箕輪初心★【「花燃ゆ」:梶取素彦4回目】B【臨江閣の楫取素彦展】
http://53922401.at.webry.info/201503/article_1.html




★★  吉田松陰の生涯 ★★
・文政13年(1830) 8月4日(9月20日) 萩城下:松本村(現山口県
萩市椿東椎原)で長州藩士:杉百合之助の次男として生まれた。
家禄26石。幼名は杉寅之助。
 父:杉百合之助、母:瀧
 しかし、叔父:吉田大助も杉家に同居していた。

・天保5年(1834) 叔父(父の弟):吉田大助の養子となる。
  吉田家に養子入り後、吉田大次郎と改める。
  通称は寅次郎。諱は矩方(のりかた)。
  吉田大助は家禄は57石余。
  吉田松陰は山鹿流兵学師範:吉田大助から兵学を学んだ。
  もう一人の叔父:玉木文之進は吉田大助の高弟であった。

・天保6年(1835) 6歳 吉田大助が死亡。
家督を継いだ。8代目当主となった。
   後見人は玉木文之進であった。


・天保11年(1840)11歳
 指月城の長州藩主:毛利慶親の御前講義で、『武教全書』
 戦法篇「三戦」を講義した。家老ほか数百人の家臣がいた。

 藩主:毛利慶親から才能が認められた。
 藩校明倫館の兵学教授として出仕した。


・天保11年(1840)〜2年間 アヘン戦争
  
・天保13年(1842) 叔父:玉木文之進が私塾:松下村塾を開いた。
吉田松陰は玉木文之進は第一期松下村塾で学んだ。

※アヘン戦争で清(中国)が西洋列強に大敗した。
  山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感した。

・弘化2年(1845) 山田亦介(村田清風の甥)から長沼流兵学を
学んだ。翌年には免許皆伝となった。

・嘉永3年(1850) 九州の平戸へ遊学。
藩主:毛利敬親から10ヶ月の許可と費用をいただいた。

山鹿流兵学者:山鹿万介や葉山左内に学んだ。
 山鹿万介は藩儒であったが、年寄りだった。
 平戸藩家老:葉山左内は西洋の本を多く持っていたから
 である。
例・・・「近時海国必読書」・・・西洋の地理・歴史・国情など
     「西洋日本人記事」・・・キリスト教の伝道の歩みなど
「ナポレオンの伝記」
「慎機論」渡辺崋山著・・・発禁本だった。
などなど・・・
肥後熊本藩:宮部鼎蔵にを知った。
 『西遊日記』・・・25編の漢詩を書いた。

吉田松陰は危機感を持って帰ってきた。
  病気のため・・・4ヶ月の平戸滞在であった。


・嘉永4年(1851) 長州藩主:毛利敬親の参勤交代に従い
  江戸へ出た。
 遊学生は20名・・・小田村伊之助(=楫取素彦)・中村百合蔵
   などがいた。
吉田松陰は教える立場であった。

  しかし、西洋兵学を学ぶために・・・・
  佐久間象山に学ぶ。
   ソウ竜軒:社交場兼私塾に出入りするようになった。
 肥後熊本藩:宮部鼎蔵に再会した。

7月 宮部鼎蔵らと東北旅行を計画した。
萩の杉家から10両用立てて貰った。
  長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たずに
  脱藩した。
  東北地方へ遊学する際、通行手形の発行が遅れたため、
  熊本藩宮部鼎蔵・南部藩江幡五郎との約束を守るために
  通行手形無しで東北諸藩に赴くという脱藩行為を行った
  のだ。
※他藩の者に迷惑をかけるのは長州藩の恥と考えたよう
 である。
江戸
12月6日
 @水戸・・・会沢正志斎と面会

・嘉永5年(1852)
  A白河・・・
  B会津・・・日新館の見学
2月10日
  C新潟・・・
  D佐渡・・・金山見学
  E秋田の「相馬大作事件」の真相を住民に尋ねた。
  F弘前・・・
3月10日  
  G竜飛岬・・津軽海峡を通行するという
     外国船を見学しようとした。
  H盛岡
  I仙台
  J米沢
  K日光
  L足利
4月10日 江戸に帰着〜〜〜
   長州藩桜田屋敷に行った。

12月9日 脱藩の罪に問われて士籍剥奪・世禄没収
  の処分を受けた。
杉家お預けとなった。

・嘉永6年(1853) ペリーが浦賀に来航。
吉田松陰は江戸にいた。
  佐久間象山と黒船を視察・・・★西洋の先進文明に心を
  打たれ、外国留学を決意。
  
 12月 吉田松陰と萩の金子重之輔と長崎に寄港していた
  プチャーチンのロシア軍艦に乗ろうと考えた。
  プチャーチンはパルラダ号等4隻の艦隊を率いていた。
  吉田松陰は乗り込もうと長崎に行った。
  しかし、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争にイギリスが
  参戦したので、4艦が予定を繰り上げて出航したためにロ
  シア船のは乗れなかった。
★この後、プチャーチンはディアナ号に乗り換えたが、下田で
台風に遭い、故障・・・江川太郎左衛門の指揮で、西伊豆
戸田で船を修理した。


・安政元年(1854) ペリーが日米和親条約締結の為に再航。

  金子と二人で伊豆下田港に停泊中のポーハタン号へ小舟で
  密航。・・・乗船して密航を訴えるが拒否された。
  ペリーが先のことを考えて断った。

****************************************************
★ポーハタン号は後に、小栗上野介達が乗船した船である。
 
◆◆箕輪初心★小栗上野介@「先祖」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_28.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介A「遣米使節団」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_29.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介B「業績と提唱」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_30.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介C「権田での隠遁生活」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201107/article_1.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介D「ヴェルニー&東郷平八郎」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201107/article_2.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介E「東善寺&村上泰賢先生」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_10.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介F「道子夫人の会津への逃避行」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_11.html

◆◆箕輪初心★小栗G「道子夫人の逃避行と北越戦争&会津戦争」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_12.html

◆◆箕輪初心★小栗H「遣米使節VS咸臨丸」の歴史的意義 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_17.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介I「東善寺訪問」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201109/article_23.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介J「佐賀の8人&大隈重信」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201110/article_23.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介K「大隈重信&三野村」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201205/article_23.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介L「名残」=築地 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201210/article_11.html

箕輪初心★小栗上野介M童門氏VS村上泰賢先生TV討論
http://53922401.at.webry.info/201212/article_18.html

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 

吉田松陰は下田町隣村の名主に自首し、下田で取調べを受けた。


その後、下田〜中伊豆〜沼津〜江戸・・伝馬町の牢屋敷に送ら
 れた。

密航事件で佐久間象山も投獄された。

 幕府の一部では佐久間、吉田両名を死罪にしようという動きも
 あったが、老中首座:阿部正弘が反対したため、助命された。
長州藩へ檻送され、萩の野山獄に幽囚された。
 


●萩へ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


吉田松陰・・・野山獄
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金子重輔・・・・岩倉獄・・・まもなく病死。
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 吉田松陰は深く悲しんだ。
 吉田松陰は獄で『孟子』の講義をするなど、乱れていた野山獄の
 風紀改善に取り組んだ。獄内の空気は一変した。
 囚人達は互いに教え、学び合うようになった。

 獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に著した。


安政2年(1855) 12月野山獄出獄を許され、杉家に幽閉
  の処分となった。
 ペリーの黒船とともに密航を企て重罪人となり、幽閉された実家
 では、
 
父・母・兄弟は罪人である松陰を慮っていた。

●松下村塾隣の【杉家幽閉の部屋】
・杉家
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【吉田松陰の杉家幽閉の部屋】
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※ガイドさんの話
「・安政2年(1855)12月、野山獄を出て、自宅に幽囚の身となった
 吉田松陰先が寝泊まりしていた3畳の部屋です。
 天皇の方に足を向けて寝られないと、斜めに寝ていたそうです。
 吉田松陰は、家族や親族に対して自室にて講義をされるようにな
 ります。そこに近隣の子弟が数多く参加するようになりまりた。
 ・安政4年(1857)11月、杉家隣の小屋を改装し、8畳1間の塾が
 開かれました。この時より松下村塾は吉田松陰の塾となりました。
 それまでの玉木塾・久保塾と内容は大きく違いました。尊皇攘夷、
 儒学、兵学、史学などを始めとした学問が教授されました。ただ、
 講義を聴くだけでなく、活発な議論も交わす討論形式で、くり広
 げられていました。」

 家族などを相手に、獄内に引き続いて『孟子』の講義を始めた。
  
 家族の薦めにより講義を行うようになった。
 近隣の子弟が大勢参加するようになった。
 
安政4年(1857) 松下村塾を開いた。

杉家の庭先の小屋を改装し、塾舎とした。
 最初は8畳1間の部屋であった。
 ※松陰神社の境内に保存される松下村塾である。
 吉田松陰は数多くの人材を育て、明治維新を成し遂げる原動力
 となった。
 
世界遺産となった。


◆◆1回目訪問日・・・昭和63年の盛夏・・・昼間の炎天下で
◆◆2回目訪問日・・・平成27年の初冬・・・小春日和の中で



松下村塾 【国指定史跡】
・部屋には吉田松陰の石膏像と肖像画、机が置いてある。
 弟子の肖像画・写真も置いてあった。
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 ・小田村や文がいた天井裏の中2階
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 ・付け加え部分
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※松下村塾で100人以上を教育した。
  
★【花燃ゆ】では、
 松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、
 吉田松陰が弟子と一緒に意見を交わした。
 
※西洋兵学・文学・登山・水泳なども行なった。


※ガイドさんの話など・・
「木造瓦葺き平屋建ての50平方mほどの小さな部屋です。で、左が
当初からあった8畳の一室です。 8畳の部屋は講義室でした。
右側の部屋は後から吉田松陰が増築しました。4畳半一室、
3畳2部屋室、土間です。中二階もあります。
屋根裏の中二階に「花燃ゆ」の文さんが住んでいました。

松下村塾は吉田松陰が開いた塾と思っている方が多いと思いますが
松下村塾は吉田松陰の叔父:玉木文之進が天保13年(1842)、
「玉木文之進旧宅」で開いた私塾が始まりです。幼い時に吉田松陰
もここに通っていました。玉木文之進が官職に就き、塾は閉鎖さ
れました。 その後、松陰先生の外叔である久保五郎左衛門が継ぎ
ました。松下村塾は武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入
れました。※明倫館が士分と認められた者しか入学できません
でしたが、町人・農民・武士に仕えた足軽・中間なども入学で
きました。
・安政4年(1857) に明倫館の塾頭であった吉田松陰が28歳の時、
 塾を継ぎました。当時、ここは松本村と呼ばれていたことから
「松下村塾」という名がつけられました。
 吉田松陰が塾生達の指導に当たったのは僅か2年余りにしかすぎ
 ませんでした。塾生は約50名ほどいたといわれています。
 狭い部屋で、やっていたので、大変だったでしょう。時には、
 あの屋根裏部屋で、寝ていたこともあったそうです。
 吉田松陰の指導を受けた松下村塾門下生達は尊王攘夷を掲げて京
 都で活動した人や明治維新で活躍した人、新政府で日本の近代化
 に尽くした人などが多くいました。
特に、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、山田顕義、
 品川弥二郎など、明治維新の原動力となり、明治新政府に活躍
 した多くの人材を育成しました。」



◆初期の門下生〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
久坂玄瑞・・・医者の家。イケメン。
 妻は吉田松陰の妹:文・・でも、最初は文は好みではなかったら
 しい。吉田松陰から「顔で判断するのか?」
 と言われたらしい。また、吉田松陰から
 「年少防長第一流の人物たり。因って亦、天下の英才たり」
 と高く評価された逸材であった。
 長州藩における尊王攘夷派の中心人物として活躍した。
 坂本龍馬や中岡慎太郎、西郷隆盛など幕末の志士達に多大な影響を
 与えた。
・元治元年(1864)  禁門の変で自刃。(享年25)

吉田稔麿(としまろ)
 松下村塾の三秀(久坂、高杉、吉田)。
 奇兵隊に参加後、屠勇隊を創設した。
 吉田松陰死後、有力な志士として活動した。
 池田屋事件で討ち死(享年24)。

入江九一
・安政4年(1857) 弟:入江和作が松下村塾に入塾。
・安政5年(1858) 入塾。12月に吉田松陰は再投獄されるため、
 実際に学んだのは1ヶ月程度に過ぎない。
・吉田松陰が考えた老中:間部詮勝への要撃計画に加わった。
 最後まで吉田松陰に追従した。
 高杉晋作の奇兵隊創設にも協力した。
・元治元年(1864) 禁門の変で自刃。(享年28)
★寺島忠三郎

増野徳民
・吉田松陰の初期の松下村塾門下生。
・文久2年(1862)  久坂玄瑞らと長井雅楽暗殺計画に加わろうと
 して失敗。
・以後は、故郷で医業に専念した。
・慶応2年 四境戦争の際には芸州口へ軍医として赴いている(享年37)。

松浦松洞 (しょうどう)
・吉田松陰の初期の松下村塾門下生。
※江戸におくられる直前の吉田松陰の肖像を描き残した。
・公武合体論を唱える長井雅楽の暗殺を企てるが果たせず、
 京都で自害(享年26)。


高杉晋作
ビデオ「蒼天の夢」では、
 長州藩の上士の子息として藩校:明倫館に通っていた高杉晋作
 は、ライバルで町民出身の久坂玄瑞が松下村塾に移ったことを
 知り、大いに興味を覚えた。
  松下村塾は、藩の兵学師範であった吉田松陰(中村橋之助)が、
   高杉晋作は、罪人が教える塾など胡散臭いと思いつつも久坂のこ
 ともあり、様子を見もかねて松下村塾を訪れる。

・安政4年(1857) 松下村塾に入塾。
 久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに松下村塾四天王と呼ばれた。
・文久3年(1863) 奇兵隊を創設した。
下関の功山寺挙兵により、長州藩を倒幕にまと
 めた。第二次長州征伐(四境戦争)でも海軍総督を務め、江戸幕府
 を倒壊を決定づけた。
 明治維新を見ず、結核によりに死去。(享年27)。

 
◆末弟子〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ★伊藤博文
・安政4年(1857)2月松下村塾に入塾。
・文久3年(1863)奇兵隊に参加した。
 高杉晋作の功山寺挙兵に力士隊を率いて参加した。
 明治維新後、内閣総理大臣初代、第5代・第7代・第10代と
 4回の内閣総理大臣として内閣を組閣した。国政の発展に貢献した。
 ・明治42年、満州にてハルピンで安重根に暗殺された。(享年69)
 

山縣有朋
・安政5年(1858)9月 松下村塾に入塾
  期間は短かったが、吉田松陰に多大な影響を受けた。
・文久3年(1863) 奇兵隊軍監として活躍した。
・明治22年に第9代内閣総理大臣に就任した。
・明治31年にも第2次山縣内閣を発足させた。
・大正11年(1922) 死去。(享年85)。

品川弥二郎
・安政5年(1858) 松下村塾に入塾。
・安政6年(1859) 安政の大獄。吉田松陰が刑死。
  高杉晋作らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走した
・元治元年(1864) 禁門の変。八幡隊長として参戦した。
  太田市之進、山田顕義らと御楯隊を組織した。
 戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍。
・維新後は、第一次松方内閣で内務大臣をつとめた。
・現在の獨協学園(獨協大学)や京華学園(京華中学・高校)
 を創立した。
・明治33年(1900)インフルエンザに肺炎を併発して死去。(享年58)
 
山田顕義
・最年少の14歳で入門。吉田松陰の松下村塾最後の門下生であった。
・元治元年(1864) 禁門の変。
 〜功山寺挙兵、
 〜戊辰戦争で討伐軍の指揮官をとる。
 西郷隆盛から「あの(小童)小わっぱ、用兵の天才でごわす」
 と褒められた。
・明治7年「佐賀の乱」征討軍の将として戦った。
・明治10年「西南の役」征討軍の将として戦った。
・明治18年(1885) 初代司法大臣として入閣。
以後4代で司法大臣を務めた。
・明治22年(1889) 日本大学の前身である日本法律学校を創設した。
・國學院(現在の國學院大学)を設立した
・明治25年(1892) 生野銀山を視察中に死去。(享年49)

野村靖
・妹:すみ子は伊藤博文の最初の妻である。
・兄:入江九一とともに老中・間部詮勝要撃計画に加わった。
・維新後は、神奈川県令、枢密顧問官、駐仏公使などを歴任。
※明治9年(1876) 野村靖は神奈川権令時に、三宅島流刑を赦免さ
  れて東京に戻っていた沼崎吉五郎から吉田松陰の「留魂録}
  の正本を受け取っている。
・第2次伊藤内閣の内務大臣、第2松方内閣の逓信大臣。

・ 明治42年(1909)死去。(享年68)。

松本鼎

岡部富太郎

正木退蔵
・明治4年、ロンドン大学で化学を学ぶため渡英
・帰国後、再渡英。
 「宝島」で知られる世界の文豪R.H.スティーブンスンに、
  吉田松陰の思い出を語って聞かせた。
 スティーブンスンは、「YOSHIDA-TORAJIRO」を著した。
 現在の東京工業大学の初代校長やハワイ総領事を務めた。
・明治29年(1896)死去。(享年51)

★明治新政府の首脳となり明治期の日本を担った。

◆その他の門下生
萩の乱を起こした前原一誠や飯田俊徳、渡辺蒿蔵(天野清三郎)、
有吉熊次郎、時山直八、駒井政五郎、中村精男、玉木彦助、飯田正伯、
杉山松助、久保清太郎、生田良佐、境二郎、宍戸璣(山県半蔵)ら

がいる。
 
前原一誠
・長州藩の倒幕活動に尽力。
・戊辰戦争では参謀として活躍した。
・維新後は越後府判事や参議を勤める。
・明治9年(1878) 「萩の乱」を起こして処刑された。(享年43)。
※萩の乱に前原一誠など元塾生の多数が参加し反乱の罪に問わ
れたため、乱の鎮定後、責任を感じた玉木分之進が切腹し、
 松下村塾は再度途絶した。
・明治13年(1880)頃〜 吉田松陰の兄:杉民治が塾を再開した。
・明治25年(1892)頃 杉民治が老年で閉塾した。



桂小五郎→木戸孝允(松下村塾生ではない。)
・長州藩の明倫館で兵学教授:吉田松陰に学んだ。
 「事をなすの才あり」と評価された。
・長州藩尊王攘夷派の中心人物。
・新政府では参与。「五箇条の御誓文」の起草に参画
 版籍奉還の実現にも尽力した。
  木戸孝允は吉田松陰に対し、門人の礼をとリ続けた。
・明治10年(1877)死去・(享年44)。


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・安政4年(1857) ハリス江戸城で将軍と謁見

  吉田松陰は叔父:玉木文之進の松下村塾を引き継
  いた。杉家の敷地に松下村塾を開塾する。
 
  楫取素彦29歳は、帰国後、明倫館都講役兼助講。
    明倫館で教授。
  楫取素彦は吉田松陰の妹:寿と結婚。
  久坂玄瑞は吉田松陰の妹:文と結婚。

  楫取素彦は吉田松陰の松下村塾の教育事業にも参加。
 


・安政5年(1858) 日米修好通商条約を締結。
  吉田松陰は日米修好通商条約を非難した。
  老中首座である間部詮勝への要諫を計画した。
  しかし、弟子:久坂玄瑞・高杉晋作・桂小五郎(木戸孝允)
  らは反対して計画は成立しなかった。
  さらに、吉田松陰は江戸幕府の倒幕も考えるようになった。

  結果・・・吉田松陰は長州藩より野山獄に幽囚された。

安政6年(1859) 大老:井伊直弼による安政の大獄が始まった。
  幕命により江戸の伝馬町牢屋敷に送られた。
  老中暗殺計画を自供して自らの思想を語った。
幕閣の大半は吉田松陰の計画が実行以前に中止になったこと
  や吉田松陰自身が罪を認めていたことから、「遠島」にする
  のが妥当だと考えていた。

  しかし、間部への「要諫」が「暗殺」にすり替えられた。
  取調で口書が捏造されたらしい?
  調書が井伊直弼の逆鱗に触れた
  結果・・・吉田松陰は死罪を言い渡されることとなった。

・安政6年(1859)10月27日 江戸伝馬町の獄において斬首刑に
 処される。享年30(満29歳)。
  
@『留魂録』・・・弟子達への遺書:辞世の句
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
  留め置かまし 大和魂」
取り調べのときの様子や捏造口書に署名させられた
 吉田松陰の無念さなども記されているそうである。
※現代語訳
「日が昇らなければ沈み、月が満ちなければ欠け、国が繁栄しなけ
 れば衰廃する。よって、国を善良に保つのに、むなしくも廃れた
 地を失うことは有り得て、廃れてない地を増やすこともある。
 今、急いで軍備を整え、艦計を持ち、砲計も加えたら、直ぐに
 ぜひとも北海道を開拓して諸侯を封建し、隙に乗じてカムチャツ
 カ半島とオホーツクを取り、琉球を説得し謁見し理性的に交流し
 て内諸侯とし、朝鮮に要求し質を納め貢を奉っていた昔の盛時の
 ようにし、北は満州の地を分割し、南は台湾とルソン諸島を治め、
 少しずつ進取の勢いを示すべきだ。その後、住民を愛し、徳の高
 い人を養い、防衛に気を配り、しっかりとつまり善良に国を維持す
 ると宣言するべきだ。そうでなくじっとしていて、異民族集団が争
 って集まっている中で、うまく足を上げて手を揺らすことはなかっ
 たけれども、国の廃れないことは其の機と共にある。」
 (★ウィキペディアより引用)
※明治9年(1876) 野村靖は神奈川権令時に、三宅島流刑を赦免さ
  れて東京に戻っていた沼崎吉五郎から吉田松陰の「留魂録}の正本
  を受け取っている。


A『永訣書』・・・家族への遺書:辞世の句
 「親思う 心にまさる 親心
    けふのおとずれ 何ときくらん]


・処刑後、小塚原豊国山回向院(東京都荒川区)の墓地に葬られた。

・文久3年(1863) 高杉晋作ら攘夷派の志士達により
現在の東京都世田谷区若林に改葬された。
吉田松陰の墓

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・元治2年(1865)正月。高杉晋作(野村萬斎)は、幕府の長州攻撃
に対して恭順の意を示そうとする長州藩に対して、農民・町民か
  らなる奇兵隊を率いた。
  伊藤俊輔(後の博文)や山縣狂介(後の有朋)とともに戦った。
  いよいよ明日は、決戦。
 高杉晋作は、吉田松陰の形見の三味線を胸に、戦闘を知らぬ兵士達
 に、奇兵隊の成り立ちを話し始めるのだった。
(★ビデオより)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
※吉田松陰の「松陰」は寛政の三奇人の一人で尊皇家:高山彦九郎の
 おくり名にちなんでつけられた。
箕輪初心★高山彦九郎=群馬県新田出身

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