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zoom RSS 箕輪初心:生方▲皇女和宮の降嫁道中行程表&上野国

<<   作成日時 : 2015/11/07 08:30   >>

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文久元年(1861) 10月20日 、将軍:徳川家茂に嫁ぐため、皇女和宮は
「桂御所を出発し、江戸に向かった。11月15日江戸には到着した。
皇女和宮の一行は、京都近辺の諸藩から集められた京都方1万人、
江戸よりの派遣された幕府方1万6千人、品物を運搬する人足等
4千人。合計3万人余りの大行列であった。行列の長さは約12里
〜14里(50km~60km)にもおよび、通り過ぎるまでに4日かかっ
たという。※和宮一行が1泊しただけで252両もかかったと伝え
られている。
約250両×24日分=約60000両・・・★偉い?
凄い?こっちゃあのう。来年は中山道69次の詳細版を書こうと
思う。60次程いっているので・・・写真もあるし。
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【1】降嫁の背景
・安政5年(1857)2月9日、アメリカとの通商条約締結のため、勅許を
得に来た幕府の役人に孝明天皇は攘夷を熱望し、許可を与えなかった。
江戸幕府はボーハタン号で新見・小栗上野介などをアメリカに派遣
した。6月19日に日米修好通商条約に調印した。
 孝明天皇は激怒し、譲位を決意をした。しかし、公武合体運動を受
けて、妹の和宮を14代将軍徳川家茂の妻にする「和宮降嫁」を決定
し、朝廷と幕府の政略結婚を成立させた。

・万延元年(1860)11月1日「和宮降嫁」が発表された。和宮には有
栖川宮熾仁親王という婚約者がいたが、降嫁を承諾した。

文久元年(1861) 10月20日 、将軍:徳川家茂に嫁ぐため、皇女和宮は
「桂御所を出発し、江戸に向かった。11月15日江戸には到着した。
25日の旅だった。
皇女和宮の一行は、京都近辺の諸藩から集められた京都方1万人、
江戸よりの派遣された幕府方1万6千人、品物を運搬する人足等
4千人。合計3万人余りの大行列であった。行列の長さは約12里
〜14里(50km~60km)にもおよび、通り過ぎるまでに4日かかっ
たという。江戸幕府の厳しい警備が敷かれた。幕府は和宮降嫁に反
対する尊皇攘夷派の妨害工作を恐れていたからである。事前に道普
請した。汚い家屋は取り壊されたり立て直しを命じられたりした。
特に和宮が宿泊する宿では、壁を新しく塗り替えたり、襖や戸棚も
全て「京風」に取り替えたり、畳表を取り替え、下に「真綿」を敷
き詰めて、縁の下から槍などで突かれるのを防いだりしたと言われ
ている。そして、街道筋では、「伝馬役以外は一切の外出禁止」・「女
は姿を見せないこと」・「通行を上から覗き見ないこと」・「商家の看
板は全て取り外すこと」・「2階は雨戸を閉じること」・「犬・猫・
赤子も泣かせてはならないこと→犬などは行列の周りをうろついたり
吠えかかったりしないように街道から遠く離れたところに閉じこめ
ること」などの「禁止令・命令」が出された。現実に禁令・命令を
可能にできるのは人口も少ない中山道であった。※和宮一行が1泊
しただけで252両もかかったと伝えられている。約250両×24
日分=約60000両
・・・★偉い?凄い?こっちゃあのう。


【2】全行程
・文久元年(1861)
@10月20日(11月22日)
「惜しまじな 君と民との ためならば
    身は武蔵野の 露と消ゆとも」
京都桂御所を出発。
大津に宿泊。

A10月21日(11月23日)
 大津に宿泊。

B10月22日(11月24日)
草津で昼食。
守山に宿泊。

C10月23日(11月25日)
武佐で昼食。
 愛知川に宿泊。

D10月24日(11月26日)
鳥居本で昼食
柏原に宿泊。


E10月25日(11月27日)
関ヶ原で昼食
赤坂に宿泊。


F10月26日(11月28日)
河渡で昼食

 「落ちて行く 身と知りながら もみじばの 
  人なつかしく こがれこそすれ」

※伝説・真実?
@美濃の呂久川(揖斐川)呂久の渡しで呂久川を渡る際、警護を行った
  大垣藩は御座船10隻を艤装し、和宮の旅情を慰めたという。
 御座船の玉簾の中から対岸(東)の馬淵家の庭の紅葉した楓を
 見た。和宮は、その美しさに
 「落ちて行く 身と知りながら もみじばの 
  人なつかしく こがれこそすれ」
 の和歌を詠んだと言われている。
 A呂久川付近を一行が通過中、道端にひれ伏していた土豪が
 頭上に一枝の紅葉を差し出すように持ち上げていた。和宮は輿の
 御簾(みす)から見た。輿を止めて、土豪から紅葉を受け取っ
 た。そして、
「落ちて行く 身と知りながら 紅葉(もみじ)ばの 
   人なつかしく こがれこそすれ」
と和歌を詠んだ、という伝説もある。
※ 岐阜県瑞穂市小簾紅園(おずこうえん)

・加納に宿泊。


G10月27日(11月29日)
鵜沼で昼食
太田に宿泊。
美濃太田宿(現:岐阜県)は小さな宿場町であった。
  記録では、人足7,800人、馬280頭、寝具類7,400枚、枕1,400個、
  飯椀8,000個、汁椀5,200個、膳1,000人分、皿2,000人分を新調
  したり、近隣の豪農の家々から集めた。


H10月28日(11月30日)
御嵩で昼食
大湫に宿泊。

I10月29日(12月1日)

・大井で昼食。
 ・中津川宿&落合宿泊。
 中津川宿は、人口928人、家数228軒、旅籠29軒。
 落合宿は、人口370人、家数75軒、旅籠14軒、
 小さかったためと、約1里(4km)しか離れていなかった。
 行列は約12里もあったので、当然のことである。

 

J11月1日(12月2日)
妻籠で昼食。
三留野に宿泊。


K11月2日(12月3日)
須原で昼食。
上松に宿泊。

L11月3日(12月4日)
福島で昼食。
薮原に宿泊。


M11月4日(12月5日)
贄川で昼食。
本山に宿泊。

N11月5日(12月6日)
塩尻で昼食。
下諏訪に宿泊。

O11月6日(12月7日)
和田峠
和田に宿泊。

P11月7日(12月8日)
芦田で昼食。
八幡に宿泊。

Q11月8日(12月9日)
小田井で昼食
沓掛に宿泊。


R11月9日(12月10日)
・軽井沢で昼食。
・碓氷峠・・・2つの熊野神社
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★私は御朱印貰って、力餅を食べて・・・食事して・・・
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※碓氷貞光伝説
※関橋守の句碑
シュッパ2〜
 ・和宮道&中山道分岐・・・下りは2経路ある。
  つまり、和宮のために新しく造られた街道=新中山道である。
和宮道は多少平易な別ルートが開拓されたのである。
  
  現在、和宮道は「侍マラソン」の通る道である。
★私は旧中山道を30年前に下った。
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・のぞき
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・愛宕山城・・・上杉景勝が大導寺政繁を倒そうと
 宿泊した場所。真田昌幸が松井田城を攻撃した。

・力餅
 ★旨かった。
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 ・坂本に宿泊。
 ・松尾芭蕉句碑
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 ・鍵屋・・・武井家
    小林一茶
  上の本陣:佐藤本陣には泊まらず、
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  下の本陣=金井本陣に皇女:和宮が宿泊したのである。
 「 金井本陣」は金井三郎左衛門が担当した。
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  間口十間半 ( 約9m ) 建坪180坪 ( 約594平米 )  
  屋敷360坪 ( 約1200平米 ) で 
  門構え付きの 建物であった。  
そうだが ・・・
現在、面影がない。
  (★中山道の本:3冊より)

  ・和宮は坂本宿辺りから身体の不調を覚えだした。 
  ●金井本陣説明書
  和宮は七ツ時(午後4時)に金井本陣に到着し、翌日五ツ時
 (午前8時)に出立された。

  飯食って・・・強行軍。
  ★3万人・・・まだ、信濃国の軽井沢に泊まっている
   人もいたのであろう。




S11月10日(12月11日)
・8時頃、坂本宿出発
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 ・碓氷の関所前
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 ・横川宿通過

 ・お西&お東
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 ・ 松井田で昼食
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 ・補陀寺・・・大導寺政繁の墓

 ・和宮は腹痛を訴えた。
  小水に血が混じるようになった。


・郷原・・・ここに移動になった。
  新島譲の祖父の墓は30m下にある。
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・原市
『中山道しのぶ安中杉並木』
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 ・安中宿を通過
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・海保家は北辰一刀流の四天王だった。
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・井伊直継の建てた龍譚寺があった。
 大泉寺に井伊直政の妻の墓がある。


・中宿
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 ・板鼻に宿泊。
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  ※天保14年(1843)人口1,422人、総軒数312軒、本陣1、脇本陣1、
  旅籠54・・・中山道上州七宿の中では最大級の宿場である。
  旅籠の数50軒を数えるのは板鼻宿・塩尻宿だけである。
 和宮が板鼻宿本陣:木島家の書院に宿泊した。
  本陣建物はその後書院の一部を残して取り壊されたが、
  和宮が宿泊した部屋が残されている。
  部屋には当時の資料が展示されている。

  ※安中市板鼻一丁目6番20号 板鼻公民館 027-382-4967
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 ※有吉佐和子の『和宮様御留』・・・和宮身代わり説
 本陣に泊まった 和宮は体調不良を訴えていた和宮は医師の診断
  を受けた。 
  初潮であることが判明した。
なんと・・・
和宮は15歳・・・婚礼のために降嫁で下がる中山道で
  なんと女になっちゃったのである。よかったね。
  赤ちゃんが産める体になって・・・。
   
 ※月之宮・・・和宮の汚物=遺物を祀ったとされる塔が公民館
  の裏にある。30cm位の石の祠である。
説@・・宿場の人々は和宮の出発後、和宮の汚物=不浄な
  物の遺物を埋めて、その上に祠を建てて月の宮様として祀
  ったという。   特に、板鼻宿の宿場女郎=飯盛女たちに
  信仰されたという。男を相手にする飯盛女たちには月のもの
  が来ることが 有り難たかったからだ     
  ( ★「街道を旅する」:柏田道夫著 )
 説A・・・しかし、由来否定説が有力説である。
  
  職場女郎の性神信仰の形として存在したという説が有力である。
  (★性神風土記)
  ※飯盛女=宿場女郎を置く旅籠は7軒あった。
  ★本陣の隣の隣の???は私の板鼻の親戚が教えてくれた。
  幕府の通達では1軒で3人で計算上は21人あるが、実際には
  もっと多かった。
  ちなみに倉賀野は57人いた。板橋宿では150人の制限があった
  が、品川宿は500人という名目であるが、・・・もっと多かった。
  実際には農家が前借りして3年の年季奉公をする。
  飯盛女は飯炊き女性・女中さん・中居さん・SEX要員の女性などを
  全て含んでいる。
    
 ※御宿泊所隣の駒崎家の土蔵造の防火建物は、和宮御宿泊
  当時から存在したとされる。



21:11月11日(12月12日)
○板鼻→
 ・八幡八幡宮→
 ○豊岡の茶屋本陣で休息
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  休憩所となった8畳2間の座敷は、材木や米を商う飯野家の母屋
 に接続する離れとして19世紀初頭=江戸時代後期に増築された
 建物である。書院造様式の違棚(ちがいだな)や床の間が設けら
 れた。「上段の間」と「次の間」があった。
 ※現在、高崎市所有で、高崎市指定文化財である。
 ○高崎スルー→
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 ○倉賀野で昼食
★本陣は2つあったが、どちらであろうか?
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 ○新町
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 ※板鼻→高崎→倉賀野→新町を先頭から最後が通過するのに
 4日間かかった。
 助郷はのべ51705人、馬は1731頭が動員された。


●神流川
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○本庄に宿泊。

22: 11月12日(12月13日)
・深谷で昼食
・熊谷に宿泊

23: 11月13日(12月14日)
・鴻巣で昼食
・桶川に宿泊。

24:11月14日(12月15日)
浦和で昼食
板橋に宿泊。
板橋宿では、街道沿いに「縁切り榎木」という名前の木が立って
 いたので、街道を回避するための道が新しく造られた。

125: 11月15日(12月16日)
江戸城清水邸に到着。



【3】和宮の江戸での生活
・文久2年(1862)2月11日(3月11日)
14代将軍:徳川家茂と婚儀を上げ、将軍の正室となった。


・慶応2年(1867) 夫:徳川家茂が病死した。
 皇女和宮は落飾して静寛院和宮となった。
 姑の「天璋院篤姫」(てんしょういんあつひめ)・・・薩摩藩主:
 島津斉彬の養女で13代将軍:徳川家定の正室)と力を合わせ
 幕府を見捨てることなく、江戸城無血開城などに尽力した。

・慶応4年(1868)
1月15日 大坂より帰府した徳川慶喜と対面。
1月21日 土御門藤子を使者として上洛させて徳川家のための嘆願書
     を提出。
3月10日 再び土御門藤子を沼津に遣わし官軍の江戸進撃猶予を嘆願。
3月11日 侍女玉島を蕨駅に遣わし官軍の進撃猶予を再度嘆願。
4月   江戸幕府は官軍に江戸城と大奥を明渡すことになり、実成院
     とともに田安屋敷へと移った。

・明治10年(1877) 9月2日 療養先の箱根塔ノ沢環翠楼にて死去。
  享年32。


★明日は久保田順一先生講演会『上杉憲顕』かな?

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