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zoom RSS 箕輪初心:生方▲『山名宗全の生涯』

<<   作成日時 : 2015/11/14 07:33   >>

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『山名宗全』と言えば、『応仁の乱』が浮かぶ。山名持豊は清和源氏系
河内源氏流:新田義重の子または猶子:山名義範の子孫である。
南北朝時代に山名時氏→6男:山名時政→山名時熙の3男である。
母は山名氏清の娘である。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護である。
西軍の諸将からは宗全入道・赤入道と呼ばれていた。性格は激情
・横暴・傲慢とされるが、筑波大学根名誉教授:山本隆志先生は
「気性が荒く、武勇重視型で、政治的合理性の欠如し、大金持ち
で寺院や町人に大人気にの太っ腹な人物である。家臣思いの面
がある。豪快な新潟県の元T首相を彷彿させる。」と講演会では
評価していた。一休宗純は顔が赤いことと好戦的な性格から
『毘沙門天の化身』と書いている。
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箕輪初心:生方★2015高崎『山名義範』に関わる疑問点&
久保田順一先生・山本隆志先生の研究
http://53922401.at.webry.info/201510/article_21.html

箕輪初心●群馬:高崎「山名義範館」=子孫は山名宗全
http://53922401.at.webry.info/201102/article_31.html

箕輪初心★「上野国:山名義範〜応仁の乱:山名宗全」
http://53922401.at.webry.info/201309/article_26.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201309/article_26.html

箕輪初心●兵庫『出石:有子山城』=山名一族の古城
http://53922401.at.webry.info/201304/article_20.html

箕輪初心:生方▲20151107久保田順一先生講演会
『上杉憲顕と南北朝の動乱』
http://53922401.at.webry.info/201511/article_8.html

箕輪初心:生方★20151017山本隆志先生講演会『山名義範の子孫:山名時氏』
http://53922401.at.webry.info/201511/article_9.html

箕輪初心:生方★『山名宗全の祖父:山名時義→父:時熙』&足利義満の陰謀
http://53922401.at.webry.info/201511/article_13.html




◆◆ 『山名宗全の生涯』 ◆◆
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・応永11年(1404)5月29日 但馬国出石の此隅山城で山名時熙の
 3男として生まれた。
父:山名時熙
 母:山名氏清の娘
★此隅山城・・・有子山城がセット。


※出石は鎌倉時代は但馬国守護太田垣氏がいた。
  室町時代山名氏が但馬守護となると、太田垣氏は重臣に
  なった。
  上野国に藤岡から高山氏・小林氏などが守護代として
  入って来ていた。

・応永20年(1413) 10歳で南禅寺で元服した。
4代将軍足利義持の名を一字賜り、山名持豊を名乗った。


▲応永27年(1420)長兄:山名満時が死去した。

・応永28年(1421) 12月 父の従弟:因幡守護:山名熙高(ひろたか)
 と共に備後国人の討伐に向かった。初陣であった。

・応永29年(1422) 京都へ戻った。


▲永享3年(1431)
5月 次兄:持熙が6代将軍足利義教の勘気を受けて廃嫡された。


・永享5年(1433)
8月9日 山名持豊は家督を相続した。
 但馬・備後・安芸・伊賀4ヶ国の守護大名になった。
  病気がちの父に代わって義教に仕えた。
  体に水がたまる病気だったらしい。

▲永享7年(1435) 父:山名時熙が死去した。享年69。
 子どもは満時、持熙、持豊(宗全)、猶子:熙高といたが、
葬儀は山名時熙が3男:持豊(宗全)が執り行った。
 ※父の遺業を継ぐことになった。
 山名持豊は将軍から山名家惣領と認められていたが、
 この時点で、京都寺院会からも認められたことになる。
  (★山本隆志先生説)
 

・永享9年(1437)
7月4日 父:山名時熙の大3回忌があった。
  将軍:足利義持は病気で来られないと連絡がくると、
  山名持豊は謝意を申し上げに伺った。

 7月30日 山名持豊の家督相続に不満を持った次兄:
  山名刑部持熙が備後で挙兵した。
  山名持豊の兄を鎮圧した。
  記録では守護被官となるので、山名持豊である。

・永享11年(1439) 正四位下左衛門佐に任官された。

・永享12年(1440) 6月13日 幕府侍所頭人兼山城守護となる。

・嘉吉元年(1441)
6月24日 山名持豊は5代:足利義教と共に播磨・備前・美作
  守護:赤松満祐の屋敷を訪問した。
  赤松満祐が足利義教を殺害された。
  山名持豊は脱出した。

7月28日 侍所頭人を解かれた。
山名持豊は播磨で挙兵した赤松満祐を討つため、山名一族の
 山名教清・山名教之や嫡男:教豊と共に討伐軍を率いて但馬
 から播磨へ侵攻した。
 赤松満祐の城山城を陥落させて鎮圧した。
 赤松満祐の首を取ったのは山名教之であった。
 ※山本隆志先生は理解できない行動である。という

戦後、山名一族は、
@山名持豊は赤松氏の領国を加えて播磨を獲得し5ヶ国の守護。
A山名教清(山名義理→山名義清の子)は石見・美作の守護。
B山名教之は伯耆・備前の守護となった。
C山名熙高は因幡の守護。
・・・合計10ヶ国の守護職を回復して権勢を得た。

7月12日 山名持豊は幕府の侍所所司を辞任した。
  
・嘉吉2年(1442) 
1月 山名持豊は従三位右衛門佐に昇叙遷任された。
   山名持豊は出家して宗峯と号した。

・嘉吉3年(1443) 山名持豊は嘉吉の乱で殺された山名熙貴の娘
  を猶子に迎えた後、大内教弘に嫁がせた。

・文安元年(1444) 東播磨の明石郡、三木郡、加東郡3郡も
領有した。
東播磨の明石郡、三木郡、加東郡3郡は満祐の従兄弟の赤松満政が
 代官になっていた。
 10月 赤松満政が不満を抱いて播磨へ下向した。

 山名持豊は右衛門督に転任した。

・文安元年(1444) 2月17日~23日
山名宗全は太秦薬師に参籠して7日間、家臣:田公入道の
 病気平癒をした。
★家臣思いの面もある。

・文安2年(1445)1月から4月
山名持豊は赤松満政を討伐し、東播磨を実力で領有した。
※この後に赤松氏の領国奪還運動が続いていくことになる。

・文安4年(1447) 山名持豊は山名熙貴の娘を養女とし幕府管領
 の細川勝元に嫁がせて、大内氏や細川氏と斯波氏などと
 縁戚関係を結んだ。
 

●山名持豊の子ども
長男:山名教豊
次男:山名是豊
3男:山名勝豊
4男・山名政豊
5男:山名時豊
6男:山名豊久
長女:????→斯波義廉室
次女:????→六角高頼室
3女:????→吉良義藤室
養女:山名熙貴の娘→細川勝元室
養女:山名熙貴の娘→大内教弘室
●山名持豊の妹・・・景愛寺の尼さん
山名持豊は細川勝元と共に畠山持国に対抗した。

山名持豊の財力
@父:山名時熙から受け継いだ日明貿易&周辺事業
 ★山名時熙は日明貿易で失脚したが・・・
A瀬戸内海の海運
B福山などの銅山開発

山名持豊の京都寺院との結びつき
@南禅寺・・・元服した寺。真乗院での父13回忌に1000貫寄附。
A相国寺・・・家の近くで大檀那
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B梅津長福寺・・大檀那
C鞍馬寺・・・・鞍馬寺僧侶の商人的な活動を保護した。

D大徳寺・・・一休宗純は「山名宗全は業は修羅に属し、名は
  山に属す」と風刺し、赤顔の直情型の山名宗全を
  『金吾は鞍馬毘沙門の化身なり』
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E建仁寺・・・大檀那で寄附金
※これらの寺に寄進した。

山名持豊の京都町人との結びつき・・・★大人気だった。
芝居見物桟敷席・・・大名・公家しか見られない席に町人も
 入れさせた。バンバン無料で芝居を見せた。費用は自分で
 出した。金の使い方が上手であった。
 (★山本隆志先生講演会より)
山名一族の栄華は凄すぎる。
 南北朝争乱で華々しく散っていった新田義貞をはじめとする
  新田一族の衰退とはまったく対照的である。



▲文安5年(1448) 父:山名時熙の13回忌を催した。


・享徳3年(1454) 畠山持国を失脚させることに成功した。
  山名持豊&細川勝元が足利幕府の幕政の頂点に立った。

11月2日 山名持豊は赤松氏の出仕を巡り8代将軍足利義政と
 対立した。
 宗全退治を命じられた諸大名の軍勢が京都に集結した。
 しかし、細川勝元の取り成しで宗全退治は中止された。
 山名宗全は家督と守護職を嫡男:教豊に譲った。
 但馬へ下国した。
 赤松満祐の甥:赤松則尚が播磨で山名宗全の孫:山名政豊を攻めた。
 ★山名持豊は孫の喧嘩に但馬から出兵して駆逐した。
 山名持豊は但馬で4年間過ごた。

享徳3年(1454)11月 山名宗全が隠居し、家督を山名教豊に譲った。

・長禄2年(1458) 山名持豊は赦免されて再び上洛し、幕政
  に復帰した。

*長禄年間 山名持豊は『山名宗全』と改めた。

・寛正元年(1460) 長男:山名教豊と父:山名持豊が対立して
 山名教豊が播磨へ逃れる事件が発生した。
 程なく和解した。

・寛正3年(1462) 次男:山名是豊が備後・安芸守護に任命された。

・寛正4年(1462) 山名宗全の下文
   『山名八幡宮別当職を補任し、・・・
    家門長久の懇所を抽んずべきの状くだんのごどし』

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 ★先祖の地を大切にした。


・寛正5年(1464) 山名持豊は山城守護も兼ねた。
  細川勝元の引き立てがあったとされる。

※三管領家の畠山氏&斯波氏の家督争いが勃発
1)細川勝元
 @畠山政長を支持する
A斯波義敏を支持する
2)山名持豊
 @畠山義就を支持する。
 A斯波義廉を支持する。
 幕政を巡り婿である勝元と対立するようになった。

・寛正6年(1465)
足利義政正室の日野富子は、男子を出産した。
  実子の足利義尚の将軍職を望み宗全に接近する。
・文正元年(1466) 文正の政変
日野富子は細川勝元と共謀して、政所執事の伊勢貞親(★北条早雲父)
 や季瓊真蘂らを失脚させた。
 12月 日野富子・細川勝元は畠山義就を上洛させ、将軍と対面
 させた。

・応仁元年(1467) 畠山政長が失脚して、管領は山名派の斯波義廉
となった。
 
山名持豊の嫡子:教豊が死去した。

*御霊合戦
 山名持豊は畠山義就に加勢し、弟:畠山政長を駆逐させた。
 5月 細川勝元も巻き返しを図り、山名宗全と対立する赤松政則
 が播磨へ侵攻した。
 山名是豊も備後へ侵攻した。
 双方で散発的な衝突が起こった。



◆◆応仁の乱 ◆◆ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
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 (★山本先生資料より)

西軍の総大将・・・山名宗全(山名一族)である。
※性格は「赤入道」といわれたように、直情型で独断専行型で
  多く敵を作りやすい性格だった。しかし、親分肌で、心優しい
  面が有り、部下の病気平癒や部下の冠婚葬祭の援助をするなど
  人に助けをもとめられると親身になって世話をするタイプの
  人間だったようである。金の使い道が上手である。
  勇猛果敢な武将であったが、政治的才能には恵まれなかった。
  (★山本隆志先生)
  ★お馬鹿だが、正直者ってとこだろうか。

東軍の総大将・・・細川勝元である。 
細川勝元は武家貴族的な知略策謀家タイプである。陰謀をめぐら
して野望を遂げようとする。
★お利口ではあるが、陰険タイプってところであろうか?


・応仁元年(1467)〜 応仁の乱
山名宗全9万  VS 細川勝元16万

※足利義視は西軍
※山名持豊=宗全の本拠は兵庫県出石であった。
  山陰を中心に最盛期11か国の守護職を補任。
 ★当時全国でも66ヶ国であったので「6分の1殿」と呼ばれた。
★八重の桜「川崎尚之助」や東大総長の加藤弘之の出石の
 出身である。

 (出石城の裏山が有子山城)

5月26日 山名持豊の上京の戦いをきっかけに応仁の乱が始まった。

1)斯波氏(越前・尾張・遠江守護の三管領家)
斯波義敏・斯波義寛・斯波持種 VS 斯波義廉・朝倉孝景★

2)畠山氏(越中・河内・紀伊・能登守護、三管領家 )
畠山政長  VS 畠山義就・畠山義統

3)山名氏(伯耆・因幡・但馬・石見・山城・備後守護、四職)
山名是豊 VS 山名宗全・山名豊氏・山名教之・山名政清

4)京極氏 (近江半国・出雲・隠岐・飛騨守護、四職。)
京極孫童子丸・京極政経・多賀高忠
 VS
京極高清・京極政光・多賀清直

5)佐々木六角氏(近江半国守護)
六角政堯 VS 六角高頼

6)土岐氏 (美濃・伊勢守護)
世保政康 VS  土岐成頼
*世保政康は後で山名宗全に寝返って対立がなくなった。

7)大内氏 (長門・周防・豊前・筑前守護)
大内教幸  VS 大内政弘

8)小笠原氏 (信濃守護)

小笠原政秀 VS 小笠原家長 小笠原清宗

9)富樫氏 (加賀守護)
富樫政親  VS 富樫幸千代

10)武田氏 (若狭・安芸半国守護)
武田信賢・武田国信  VS  武田元綱

11)島津氏 (薩摩・大隅・日向守護)
島津立久  VS 島津季久

12) 河野氏 (伊予守護 )
河野教通 河野通春

13)吉良氏 (西条家・東条家)
吉良義真 VS  吉良義藤

14)小早川氏 現群馬沼田家・現岡山県竹原家)
小早川煕平・小早川敬平 VS 小早川盛景・小早川弘景・小早川弘平
 (★ウィキペディアより編集)

山名宗全は出石此隅山城に各国から集結した西軍を率いて挙兵し、
京都へ進軍した。
当初、室町亭の将軍らを確保した細川勝元率いる東軍に対して
劣勢であった

8月 周防から上洛した大内政弘と合流し、一進一退の状況になった。

・文明3年(1471) 山名持豊は小倉宮の血を引く西陣南帝を擁立した。
 程なく放逐された。

・文明4年(1472) 和平交渉も行われた。
  赤松政則の抵抗などで失敗

5月 山名宗全は自害を試みた。
   山名宗全は60を越える老齢のためか、若い頃の剛毅な性格は
   あまり見られなくなった。

・文明2年(1470)
6月 山名宗全が東軍に降参した。
  副将格の大内政弘が赦免を望んでいるという噂も流れた。
  西軍の結束力に乱れが起こった。
 西軍が擁立した足利義視と畠山義就の不和も生じた。

8月 山名一族の山名教之が東軍に転じたという噂も流れたという。

 ・・・・
・応仁3年(1469) 山名持豊は66歳になった。
 東軍が西軍本陣に斬り込んできた。
 山名宗全は老齢ながら具足をつけ刀をとって庭に出て、
敵兵を追い払った。

(★兵庫県出石市有子山城の本郭)


・文明4年(1472)
8月 山名宗全は家督を山名政豊に譲った。


・文明2年(1470) 山名宗全は重度の中風に冒されて自筆もできずに
 花押印を使用していた。
 
・文明5年(1472)
1月 山名教之が死去

3月18日 山名宗全も病死した。享年70。
※墓所・・・京都市左京区の南禅塔頭の真乗院
 京都市福地町86−11

5月11日 細川勝元も死去。


・文明6年(1474)4月3日(4月19日)
 山名政豊と細川政元の間に和睦が成立した。
 細川氏と山名氏の和解が実現した。

・文明9年(1477) 応仁の乱が終結した。
 山名政豊は和睦後も播磨・備前・美作を巡って赤松政則と衝突
 した。、


・文明15年(1483) 山名政豊は赤松政則に勝利して一時は3ヶ国の大半
 を制圧した。
 赤松政則が反撃た
・文明17年(1485) 山名政豊が劣勢に傾いた。

・長享2年(1488) 山名政豊は播磨から撤退した。
  3ヶ国は赤松政則が領有した。
 また、次男:山名俊豊は播磨奪還の失敗からを擁立した備後国人衆
 と対立し、領国支配は揺らいでいった。
 因幡、伯耆でも山名氏も抗争を起こし、没落していった。


◆戦国時代
 山名豊国は因幡守護・鳥取城主として秀吉と対した.
・天正10年(1580)山名豊国は豊臣秀吉に降伏した。
  山名禅高と号して御伽衆の一人となった。



・慶長3年(1598)8月18日(9月18日)豊臣秀吉の死亡。
  山名豊国(禅高)は徳川家康の御伽衆となった。
  但馬村岡六千七百石を与えられて交代寄合旗本となった。
 また、山名豊国(禅高)は惣領家:但馬山名氏第11氏政(尭熙)
  救い出し、徳川家康に周旋して旗本に取り立ててもらった。

以後、山名豊国(禅高)は子孫は交代寄合として江戸幕府に仕え、
明治に至っている。

 山名氏政(尭熙)の系統についても明治に至っている。

〜〜時は戦国末期〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
5)山名氏の滅亡
・天正8年(1580) 有子山城(兵庫県出石市)の山名祐豊は羽柴秀吉の
 攻撃を受けた。有子山城は落城。城に残った山名祐豊は落城の5日
 後に病没して山名氏の本家は断絶した。
 子の山名氏政は逃亡したが・・・・

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