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zoom RSS 箕輪初心:生方▲【上野総社藩2代目:秋元泰朝の生涯】

<<   作成日時 : 2015/11/11 06:24   >>

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・天正8年(1580) 秋元泰朝は秋元長朝の嫡子として深谷に生まれ
 た。父:秋元長朝は深谷上杉氏憲の第一家老であった。深谷城
代であった。秋元長朝の嫡男として武蔵深谷に生まれた。小田原
城に人質として送られていたが、天正18年(1598)7月5日小田原城
の開城・落城後、小田原城を出て父の元に戻った。文禄元年(1592)
井伊直政の斡旋で徳川家康に拝謁し、徳川家康の近習となった。
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箕輪初心:生方▲20151110【総社秋元公歴史まつり】:秋元長朝の功績
&光厳寺&元景寺
http://53922401.at.webry.info/201511/article_10.html

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箕輪初心:生方★高崎城&長野堰【井伊直政&秋元長朝&新井喜左衛門】
http://53922401.at.webry.info/201504/article_10.html
★秋元長朝はおそらく高崎城の内堀・用水路・遠構え
 建築に貢献したのだ。

箕輪初心★江原源左衛門&滝川用水
http://53922401.at.webry.info/201310/article_11.html
★秋元長朝は江原源左衛門の滝川用水築造に大きな
 貢献をしたのだ。

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箕輪初心:生方▲20151107久保田順一先生講演会『上杉憲顕
と南北朝の動乱』
http://53922401.at.webry.info/201511/article_8.html

箕輪初心★埼玉深谷【庁鼻和城】&4代上杉憲顕の子:
庁鼻和上杉憲英〜
http://53922401.at.webry.info/201405/article_25.html

箕輪初心○埼玉【深谷城】&『深谷上杉氏の歴史』
http://53922401.at.webry.info/201406/article_4.html

箕輪初心●埼玉深谷【人見氏館】=猪俣人見氏→庁鼻和上杉氏
http://53922401.at.webry.info/201406/article_5.html


箕輪初心●埼玉深谷【東方城】=深谷城の支城
http://53922401.at.webry.info/201406/article_6.html

箕輪初心▲埼玉深谷【皿沼城&曲田城】:岡谷氏の居城
http://53922401.at.webry.info/201409/article_16.html
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◆◆ 秋元泰朝の生涯 ◆◆
・天正6年(1578)
 秋元長朝は深谷上杉氏憲の第一家老であった。
  深谷城代であった。
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  北条氏政は深谷上杉氏憲を養子とした。つまり、北条氏政は
  上杉氏憲「氏」の一字を与え、養女を上杉氏憲に嫁せた。
  深谷上杉氏憲は北条氏政の娘と婚姻させたことで、
  事実上、北条氏に上杉氏は降伏し北条氏の傘下に入った。
  深谷上杉氏は小田原北条氏の体制下に組み込まれたのだ。

  武蔵国では北条氏が勢力を確立して上杉謙信が
  進出する余地がなくっていた。
  古河公方の外戚にもなり、公方家の一族として、
  関東をまとめる名目もできていた。
  やがて、関東管領第17代:上杉謙信は羽生城から
  も撤退した。

・天正8年(1580) 秋元泰朝は秋元長朝の嫡子として深谷に
 生まれた。
 幼名を牛坊といった。

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・天正10年(1580) 武田氏滅亡。
 ★武田勝頼を裏切った小山田信茂のいる岩殿城(都留市)
  秋元泰朝が移封になるなんて、誰が想像できただろうか

  
 2歳の秋元泰朝は人質として小田原城に行った。
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  (★北条時代の大堀切)
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 (★北条時代の主郭)

・天正17年(1589)   
秋元長朝は深谷(旧江南)の平山家に財政についての
 相談をした。手紙が多数現存しているという。
★「平山家住宅」の当主が源頼朝の御家人:平山
  季重の子孫であると分かって、旅行は面白いなあ
  と思った。秋元長朝の借金手形とかある。
  忍城の成田氏も借金したとか?・結婚証文とか。
   

・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
深谷上杉氏憲は小田原城に籠城した。
深谷城は重臣:秋元長朝が留守を守っていた。
上杉景勝、前田利家の西国軍に包囲された。
秋元長朝は攻め寄せる豊臣軍を相手に奮戦し、よく城を
持ちこたえた。敵将:前田利家と浅野長政の猛攻を
察知した。敵将浅野長政の説得で、秋元長朝は杉田因幡と
謀って開城した。深谷城&深谷城下を兵火から守った。
秋元長朝は嫡男:泰朝を小田原に預けていた。
しかし、7月5日、本城小田原城の開城した。
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 →後北条氏の滅亡。
秋元泰朝は人質として籠っていた小田原城から脱出した。
18年質として小田原城にありしが、窮に遁れて父の元に帰る。
 (★寛政重修諸家譜)

 開城した秋元長朝は浅野長政の配下としてと忍城攻めに加わった。
その後、秋元長朝はしばらくは隠棲していた。 〜〜〜〜
秋元長朝は井伊直政の推挙を受けて徳川家康の家臣となった。
松平元康の家臣となった。

・その後、父:秋元長朝は井伊直政の配下として上野国碓氷郡
 (安中市中野谷)に500石を与えられた。

 
・文禄元年(1592) 秋元泰朝は井伊直政の斡旋で徳川家康に拝謁し、
 徳川家康の近習となった。
 父:秋元長朝は井伊直政の推挙で上野国総社4千石を領した。
 興廃していた蒼海城(現総社神社)に入った。 

 父:秋元長朝と共に東照宮に拝謁した。

・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い
 父子は従軍した。
 @戦前に徳川家康の命で上杉景勝の詰問の使者として会津に赴いた。
 関東管領上杉氏の旧臣であるという縁から上杉景勝に帰降を促す
 使者を務めた。
 
 Aまた、下野国小山での小山評定を受けて徳川勢が軍勢を西に転じた
 のち、下総国栗橋の関を守備して上杉景勝の南下を牽制した。

B戦後は徳川家康の命で上杉景勝に降伏の使者として会津に赴いた。
  正使として、上杉景勝に降伏を勧め、受け入れさせた。
 
・慶長6年(1601)  井伊直政の近江の佐和山城18万石で
  移封。
  諏訪頼水が高崎城代となった。(★新編高崎市史)
  諏訪頼水が諏訪高島城へ移封。
 →秋元長朝が惣社(前橋市総社町総社神社本丸)入封。     
※秋元長朝は6千石が加増され1万石の所領の大名となった。
  秋元長朝は天狗岩用水も企画した。
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●光巌寺
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●元景寺
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・慶長7年(1602) 秋元泰朝は関ケ原の戦いの功により武蔵足立郡で
采地500石を与えられた。  


・慶長8年(1603) 徳川家康の上洛に従った。
   将軍宣下御拝賀として入洛した。
   2月13日 秋元泰朝は従五位下、但馬守に叙せられた。

・慶長9年(1604)8月 徳川家光の上洛に従った。

・慶長14年(1609) 秋元泰朝は駿河で松平正綱、板倉重昌とともに
  御近習出頭人として家康の側近となった。
※松平右衛門大夫正綱、板倉内膳正重正等とともに御近習の出頭人
  となる。(★寛政重修諸家譜)


*大坂冬の陣
 大坂冬の陣の後の大坂城総堀の埋め立てに功があったので
 上野群馬郡と武蔵の一部で5千石を与えられ、大番頭を兼ねた。
※12月 和議なりてのち諸将命をうけて大阪城の総堀を埋め立て。
 日を歴て其功成ざりしかば、23日泰朝仰をうけて、かしこにはせ
 至り、所々に堀を横切りいなたよりむかいのかたに至るべきほどに
 堤を築き、たちまち通路を通じければ其はからいのかしこさを
 御感ありて、二千石を加賜せられ、其後しばしば加恩あり。
武蔵国足立、榛沢、児玉、上野国群馬郡四郡の内において全て、
 五千石を地行す。
(★寛政重修諸家譜)

・元和元年(1615)大坂夏の陣
徳川家康に従い、本多正信等と護衛にあたった。
 
8月23日 徳川家康より残党討ちのため「無之字槍」を与えられた。
  代々秋元家の家宝として受け継がれた。                     
 中国など西国や高野山で豊臣軍の残党狩りを行った。 
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 (★高野山の?)


・元和3年(1618) 徳川家康没。
 駿府城から遺骸を久能山におさめらるるの時、本多正純と共に
  霊柩に従った。
  
3月 日光山東照宮に御遷座に遂行した。
*日光改葬・・・秋元泰朝は日光造営奉行となった。
  松平正綱とともに日光造営を担当した。
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徳川家康の死後は2代将軍秀忠の側近として仕えた。
御小性組の番頭となった。

・元和8年(1622) 父:秋元長朝が隠居した。
  秋元泰朝は1万5千石の家督を継いだ。
父の領地:上野総社1万+自分の領地=1万5千石
秋元泰朝は総社領内において父:長朝の用水事業を受け継
  いだ。

・寛永10年(1633)2月3日
 秋元泰朝は日光造営奉行の功で3千石を加増され、1万8000石で
 甲斐谷村(山梨県都留市)に転封となった。

谷村城に住んだ。(谷村小学校が本丸)
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 (★小山田信茂の岩殿城から勝山城・麓の谷村城を
   望む。)
甲斐谷村1万8千石に移封されたのは、寛永9年(1632)に
 改易となった徳川忠長を高崎藩主:安藤重長が預かり、高崎
 城に幽閉した。徳川忠長が高崎城に幽閉されたので、総社藩
 は廃藩となり、総社は高崎藩に預けられていた徳川忠長への
 小遣い料として安藤重長に総社が与えられた。そのため、城
 主:秋元泰朝が甲斐谷村に移封された=総社から追い出され
 たという変則的な移封ということになる。

 ★「泰朝さん、3000石付けるから、谷村に行ってね。」
 と言われ、泣く泣く現都留市に行ったのだ。おやげねえ。
  
 でも、秋元泰朝は谷村転封後、谷村城下の整備も兼ねて
 「谷村大堰」などの用水路を開き、養蚕を奨励したのだった。
 ★立派ねえ。ここでも頑張ったのだ。でも、父:秋元
  長朝ほど力はなかった。父は天狗岩用水を造るのに
  年貢を3年免除した。秋元泰朝は重税を課したのだ。

  (★光巌寺:総社博物館のボランティアガイド)

・寛永11年(1734)東照宮大造営の際には造営奉行として諸社殿
 の造営を担当した。
 3代将軍家光の側近として仕えた。

・寛永13年(1636) 4月日光東照宮の造営で総奉行を務めた。
東照宮の神像一体を拝賜し、谷村城下に泰安寺を建て御神体を
  安置した。

12月11日 朝鮮通信使が日光東照宮参拝の時にも
  案内役で随行した。

・寛永18年(1641)10月3日
日光東照宮の御廟塔普請奉行になった
  御刀&銀百枚を賜った。

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・寛永19年(1642) 寛永の大飢饉の最中であった。
 秋元泰朝も対策にあたっていた。
病にかかり、近習を呼んだ。また、侍医を侍らせた。

・10月23日 秋元泰朝は急死した。享年63歳。
  
   谷村城下の泰安寺(城の一部)に葬られた。
  →総社:光巌寺に改葬された。
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●正室は大河内秀綱の娘。
子に長男:秋元富朝、次男:秋元忠朝がいる。

●秋元富朝は富士山の雪代の出水によって流出する田畑を守る
 ため、赤松数万本を植林した「諏訪森」を造成した。

●秋元喬知(たかとも)は河口湖の水を富士吉田新倉村まで抜く
  「新倉掘抜(あらくらほりぬき)」を開削した。
 甲斐谷村藩→川越藩初代秋元家

●子孫は上野国館林で6万石を領した。
 館林藩秋元家初代。・・・
 明治維新まで。




◆参考文献
・深谷市史
・寛政重修諸家譜
・都留市史通史編など



◆参考サイト
・ウィキペディア
・寛政重修諸家譜
・都留市Hpなど



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