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zoom RSS 箕輪初心:生方▲20151110【総社秋元公歴史まつり】:秋元長朝の功績&光厳寺&元景寺

<<   作成日時 : 2015/11/10 07:29   >>

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★平成27年11月8日(日)「総社秋元公歴史まつり」が開催された。
群馬県前橋市総社町:秋元武者行列は総社城主・秋元長朝
(おさとも)公の遺徳を偲んで、秋元山光巌寺(こうがんじ)から
氣雲山元景寺(げんけいじ)まで約1km行程の往復で行われ
る予定であった。しかし、雨天のため武者行列の中止となった。
秋元長朝公の功績&光厳寺・元景寺の特別公開のお宝や墓
を紹介する。淀君伝説&淀君役のお嬢さんも・・・
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箕輪初心:生方★高崎城&長野堰【井伊直政&秋元長朝&新井喜左衛門】
http://53922401.at.webry.info/201504/article_10.html
秋元長朝はおそらく高崎城の内堀・用水路・遠構え
 建築に貢献したのだ。

箕輪初心★江原源左衛門&滝川用水
http://53922401.at.webry.info/201310/article_11.html
秋元長朝は江原源左衛門の滝川用水築造に大きな
 貢献をしたのだ。


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【0】総社秋元公歴史まつり」パンフレット
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【1】雨天会場
出陣式は総社公民館ホールで正午からあったらしいが、13:00に会場
に着いた。行列は中止だった。
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・ホールに入った。終わりだった。
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・殿
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・淀様
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・展示鎧
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・以前の出陣式
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・外会場の様子
・氷の芸術
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・あきもと汁・・・★豚汁は旨かった。
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・郵便局
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【2】宝塔山古墳の上の12基の墓:3回目
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・光厳寺一部の宝塔山古墳の上で秋元一族12人の墓
 の写真を撮った。
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・秋元長朝公の墓
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・秋元泰朝公の墓
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★全部は掲載できない。



【3】天台宗:秋元山光厳寺2回目
・江戸時代初期・・・上野国惣社を治め、「天狗岩用水」などを
造って領民に慕われた名君・秋元長朝公の菩提寺である。
 (★前橋市Hp)
・薬医門・・・・前橋市指定史跡
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・長屋門
・赤門
位牌堂の特別公開
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力田遺愛の碑・・★群馬県指定史跡
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 光厳寺の「力田遺愛碑」って何?
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 ・安永5年(1776) 秋元長朝への感謝を込めて建立した。
 慶長2年より172年後であった。
 力田遺愛碑を建てるにあたって、村々では農家一軒に
 つき、一にぎりの米を出し合った(伝)。
 農民が領主であった秋元長朝を慕したっていたのをを示す
 碑である。
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領民が領主の業績をたたえて建てた碑は非常に珍しい。

・13塔
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八方睨みの龍・・・日光東照宮に行くはずが・・
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【4】元景寺2回目
群馬県前橋市総社町植野150番地
曹洞宗気雲山春光院元景寺。
●山門  
●「不許葷酒入山門」
●鐘楼
●庫裡
●書院
●位牌堂 
本堂・・・特別公開
・籠
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・正絹の大打掛(伝淀君所有の品)
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・籠の引き戸(伝淀君所有の品)
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△特別公開の淀君役のお姉さん・・★可愛いお嬢さんだった。
 写真掲載OK済み・・
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△淀君伝説
『元和元年(1615)大阪夏の陣、(大坂城落城の折、徳川方の秋元家
 の陣中に豪奢な着物を身にまとった女御が城を逃れ飛び込んでき
 て、「助けてたもれ。」と命乞いをした。秋元長朝は女御を豊臣秀
 頼の母、大阪城の主:淀君であると察して匿った。そして、戦い
 が終わった後、所領である総社へ駕籠に乗せて連れて帰った。
 木曽路を通り、信濃路の高原で休憩、1本の紅梅を採り、総社
 に持ってきた。参道に植え、地名を植野原と呼んだ。・・・
 秋元長朝は「淀君」とは呼べず、『お艶様』と呼んだ。(伝)
 (★元景寺パンフレットの改訂版・創作物語)
秋元長朝は『お艶様』に言い寄ったが、「いやよ、ダメダメ。」
 と拒絶された。怒った秋元長朝は箱詰めにして利根川に沈め
 た。・・・これでは、酷いので。
 『お艶様』は元景寺でひっそりと余生を送った。そして、静かに
 息を引き取った。
・元景寺裏の墓地に淀君=『お艶様』の墓に葬られたと伝わる。

●一番奥には、秋元長朝公の父:景朝公の墓がある。
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勝山城は福祉施設になっていた。 


※元景寺パンフレット
開基は初代の総社藩主:秋元長朝である。
秋元長朝は父景朝の菩提を弔うため、景朝の法名である
「春光院殿気山元景大居士」から山号・院号・寺号が名づけた。
・天正15年(1587)11月12日に開創されたといわれる。
そんな訳ねえだろう。まだ秋元長朝は深谷城代で、群馬なんぞ来る
 はずもないにだ。深谷上杉氏憲のbP城代だったんだから
 ・・・北条氏から娘を貰って、北条氏傘下になった。

・天正18年(1590) 本堂が建立され、御本尊釈迦牟尼佛、脇侍文殊
 菩薩・普賢菩薩が安置された。
この年は、豊臣秀吉の小田原城攻撃があり、 上杉景勝、前田利家
 にプレッシャーをかけられて、秋元長朝が開城し、忍城攻めに
 加わる。その後。隠遁生活・・
 由緒ある寺なのに、住職が誰かに入れ知恵されたのであろう。
 おやげねえ。

・文禄元年(1592) 秋元長朝は井伊直政の推挙で上野国総社
 4千石を領した。
総社村史を見たいものだ。 



【5】秋元長朝の生涯
・秋元氏は下野国宇都宮氏の庶流で、上総国秋元郷が本貫とされる。
 秋元氏の祖:秋元泰業は宇都宮氏第6代:泰綱の弟にあたる。

・戦国時代
  上総国守護の犬懸上杉氏が上杉禅秀の乱で失脚した。
  
・天文10年(1541) 秋元景朝が深谷城主:上杉憲賢に仕えた
 秋元景朝は深谷市上野台の領主として館を構えた。
 (★深谷城の南1,8km)
武蔵深谷上杉「四天王」の一と言われた。
秋元景朝は岡谷加賀守・井草左衛門・上原出羽守と共に、
  深谷上杉四天王と呼ばれた。


・天文15年(1546)嫡子:秋元長朝は深谷で生まれた。
 父は秋元景朝(元景)
 母は関東管領:上杉憲政の養女。

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箕輪初心○埼玉【深谷城】&『深谷上杉氏の歴史』
http://53922401.at.webry.info/201406/article_4.html

箕輪初心●埼玉深谷【人見氏館】=猪俣人見氏→庁鼻和上杉氏
http://53922401.at.webry.info/201406/article_5.html

箕輪初心★埼玉深谷【庁鼻和城】&4代上杉憲顕の子:
庁鼻和上杉憲英〜
http://53922401.at.webry.info/201405/article_25.html

箕輪初心●埼玉深谷【東方城】=深谷城の支城
http://53922401.at.webry.info/201406/article_6.html

箕輪初心▲埼玉深谷【皿沼城&曲田城】:岡谷氏の居城
http://53922401.at.webry.info/201409/article_16.html
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・秋元長朝は庁鼻和上杉家の上杉憲盛に仕えていた。
   深谷城主:上杉憲盛となった。
 
 →上杉謙信は不満に思った。
  上杉謙信は深谷城に攻撃した。
  上杉憲盛はなんとか状況を乗りきった。  
  

・天正3年(1575) 深谷上杉憲盛が死亡。
 深谷城主を上杉氏憲が跡を継いだ。
 秋元長朝は上杉氏憲に仕えた。
 三宿老のひとりであった。

・天正6年(1578)
  北条氏政は深谷上杉氏憲を養子とした。つまり、北条氏政は
  上杉氏憲「氏」の一字を与え、養女を上杉氏憲に嫁せた。
  深谷上杉氏憲は北条氏政の娘と婚姻させたことで、
  事実上、北条氏に上杉氏は降伏し北条氏の傘下に入った。
  深谷上杉氏は小田原北条氏の体制下に組み込まれたのだ。

  武蔵国では北条氏が勢力を確立して上杉謙信が
  進出する余地がなくっていた。
  古河公方の外戚にもなり、公方家の一族として、
  関東をまとめる名目もできていた。
  やがて、関東管領第17代:上杉謙信は羽生城からも
  撤退した。


・天正17年(1589)   
秋元長朝は深谷(旧江南)の平山家に財政についての
相談をした。手紙が多数現存しているという。
★ 「平山家住宅」の当主が源頼朝の御家人:平山
  季重の子孫であると分かって、旅行は面白いなあ
  と思った。者金手形とか・・結婚証文とか。

・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
深谷上杉氏憲は小田原城に籠城した。
深谷城は重臣城代:秋元長朝が留守を守っていた。
上杉景勝、前田利家の西国軍に包囲された。
秋元長朝は攻め寄せる豊臣軍を相手に奮戦し、よく城を
持ちこたえた。敵将:前田利家と浅野長政の猛攻を
察知した。敵将:浅野長政の説得で、秋元長朝は杉田因幡と
謀って開城した。
深谷城&深谷城下を兵火から守った。
秋元長朝は嫡男:泰朝を小田原に預けていた。

しかし、7月5日、本城小田原城の開城した。
 →後北条氏の滅亡。
その際に小田原に人質に出していた嫡子:泰朝を取り戻した。

秋元長朝は浅野長政の配下としてと忍城攻めに加わった。

その後、秋元長朝はしばらくは隠棲していた。
〜〜〜〜

秋元長朝は井伊直政の推挙を受けて徳川家康の家臣となった。
松平元康の家臣となった。


・その後、井伊直政の配下として上野国碓氷郡(安中市中野谷)
に500石を与えられた。
尚、深谷上杉氏は豊臣秀吉に領地を没収された。
 上杉氏憲、憲俊の親子は信濃国(現長野市大豆島)に移住した。

・文禄元年(1592) 秋元長朝は井伊直政の推挙で上野国総社
 4千石を領した。
   
 嫡男:秋元泰朝は徳川家康の近習となった。
 
・慶長3年(1598) 井伊直政は高崎城の築城した。
   縄張りと長野堰の取水した水堀は早川幸豊の
  仕事であっただろう。
長野堰からの引水計画工事=高崎城下の水路を設計施工した
  のが、秋元長朝&家臣:新井喜左衛門であろう。
   土木・水利事業を行った。
 高崎城下の水路の取水口が「新井堰」である。


・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い
 戦前に徳川家康の命で上杉景勝の詰問の使者として会津に赴いた。
  関東管領上杉氏の旧臣であるという縁から上杉景勝に帰降を促す
 使者を務めた。
 また、下野国小山での小山評定を受けて徳川勢が軍勢を西に転じた
 のち、下総国栗橋の関を守備して上杉景勝の南下を牽制した。

 戦後は徳川家康の命で上杉景勝に降伏の使者として会津に赴いた。
  正使として、上杉景勝に降伏を勧め、受け入れさせた。
 
・天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻め
    →徳川家康の関東支配。
    蒼海城に諏訪安芸守頼忠(諏訪小太郎)が入城。
     蒼海城には諏訪頼水が入封。      
    (★諏訪高島城のパンフレットでは)
         
   長尾氏は石倉城(蒼海城支城:前橋市)に移封。
    普請開始。
  城地のうしとら(北東)の方に長屋を建て居住。
    (★「上毛伝説雑記拾遺」の「総社記」)
  
・慶長6年(1601)  井伊直政の近江の佐和山城18万石で
  移封。
   諏訪頼水が高崎城代となった。(★新編高崎市史)

  諏訪頼水が諏訪高島城へ移封。
  →秋元長朝が惣社(前橋市総社町総社神社本丸)入封。     
秋元長朝は6千石が加増され1万石の所領の大名となった。
しかし、秋元長朝は武田信玄に落とされて廃城になっていた
 蒼海城の再建を断念し、新たに総社城を築城することに
 した。用水とセットで・・・

 
秋元長朝は、灌漑用水が得られれば、・・・・
  水不足で荒れ果てた領地に用水をつくることを計画した。
秋元長朝は
@天水に依存している田畑に用水を供給して、新田開発の計画
  を立案。
A総社城の用水+堀+城や城下町の放火用水の目的であった。
 しかし、水位の低い利根川の遙か上流から取水する大事業であった。
秋元長朝は総社領の東の端を流れる利根川から水を取ろうと考
 えた。しかし、土地が川の水位より高い位置にあったので、上流
 の白井領に水の取り入れ口をつくらなければ、水を引くことがで
 きなかった。
秋元長朝が井伊直政に「用水」開発の相談に行った。
  井伊直政は
 「雲に梯子をかけるようなもので、無理だろう。」
 と言ったという。
 井伊直政の嫡男:井伊直継に相手にされなかった。

 しかし、秋元長朝は必死で頼んだ。
 井伊直政&井伊直継は熱意に負けて仲介を引き受けた。  
 白井領主:本多広重の許しを得るために、井伊直継
 と秋元長朝は白井城に向かった。
 秋元長朝は井伊直継の仲介で本多広重と何度も話し
 合った。
 ★ちなみに、井伊直政の領土は、やまと時代の鎧の出た
  金井東遺跡や三国街道の金井の関(渋川市金島)まで
  支配し、白井藩と隣接していた。 

 その結果、水の取り入れ口を白井領につくることが許された。
 そして、用水工事の測量を始めることができた。
 
 秋元長朝にとって用水づくりは経済的にも大きな負担であった。
 秋元長朝は領民に協力してもらうために、3年間年貢を取らない
 ことにした。
 ★偉いね。

B白井城主:本多広重の許可を得て、漆原村(現吉岡町)から用水を
 引くことにした。
  
 井伊直政は 近江国佐和山城に移っていった。
   井伊直政は18万石の佐和山城主となった。
    でも、石田三成の城が気に入らなかった。
    彦根城の築城の計画を立てた。

・慶長7年(1602)
・3月24日 井伊直政が死んだ。
 
 嫡男:秋元泰朝は大番役になった。
  500石取りになった。

・慶長7年(1602) 〜慶長9年(1604) 天狗岩用水
春、利根川から引水する用水路工事が始まった。
  総社藩主:秋元永朝により開削された越中堀
   (利根川→総社→高崎藩領)
  『天狗来助』伝説・・・
「越中堀の工事の際、取水口の付近の大勢の人夫が力を
合わせても取り除くことができない巨岩があった。
その折、一人の山伏が忽然と現れ作業を助けたら、岩が動き
水路ができた。」
と言われる(伝)。
 秋元家家臣と農民が協力し、総力をあげて事業を成就。
 
・慶長9年(1604)、天狗岩用水の完成
 結果・・・2万7千余石の新田が開発された。
天狗岩用水で領内の水田が広がり、総社藩は6千石から1万石の
 豊かな土地になった。
 (★「天狗岩堰用水史」/「前橋の文化財」前橋市教育委員会)
新田開発などの民政面にも努力した立派な人なのだ。
  

※天狗岩用水と五千石用水の分岐(前橋市総社町)
●総社町の元景寺境内にある「羽階権現」
・・・総社の人々は天狗に感謝して、取り除かれた大きな岩の
 上に祠を建ててまつることにした。

●秋元氏の菩提寺:光厳寺の「力田遺愛碑」・・・
・安永5年(1776) 秋元長朝への感謝を込めて建立した。
  慶長2年より172年後であった。
 力田遺愛碑を建てるにあたって、村々では農家一軒に
 つき、一にぎりの米を出し合った(伝)。
 農民が領主であった秋元長朝を慕したっていたのをを示す
 碑である。
 ★領民が領主の業績をたたえて建てた碑は非常に珍しい。



●新しい城地を植野勝山に定めて総社城を築城し、城下町の整備
 を行なった。
 総社城を築城→蒼海城は廃城となった。


・慶長10年(1604) 伊奈備前守忠次は深谷に備前渠用水の
  計画した。伊奈忠次は水路を開削する場所を幾度も歩いて
  調査し、夜には提灯を使い、土地の高さを測り、水が流れる
  ことを確かめたという。総延長は約20km以上・・・、
 ★もしかしたら、秋元長朝にアドバイスを求めた可能性が
  ある。

・慶長10年(1604)江原源左衛門は関東郡代:伊奈忠次に
   滝川用水建設を進言した。
 ★玉村が関東郡代の支配にあったので、・・・
    玉村まで引くことで納得したのであろう。

・慶長12年(1607) 江原源左衛門は総社藩:秋本長朝に
    用水計画を陳情した。
 →江原源左衛門は総社藩:秋本長朝に「用水開発人」に
    任命された。→
用水工事開始。

・慶長12年(1607)〜慶長15年(1610) 滝川用水
 天狗岩用水から滝川用水への延長を実現させた。滝川村から
 玉村にかけて35kmの滝川用水のおかげで、1800ha総石高は
 11200石になったといわれている。当時の領民は私財を投げ打っ
 て偉業をたり遂げたした江原源左衛門の功績をたたえ、慈眼寺
 に生きている時に立てる逆修塔を建てた。
 ★高崎藩は酒井家次の時代であった。おそらくは
  江原源左衛門の父を長篠の戦いで殺した酒井忠次の嫡男
  であった。でも、滝川は高崎藩に入っていなかった。
  新編高崎市史では江原は武田氏家臣とある。





・慶長19年(1614) 〜大坂の両陣にも従軍して功を挙げた。
豊臣家滅亡後の残党狩りも行った。
嫡男:秋元泰朝は大坂冬の陣の際、総堀の埋め立てに功があり
  上野・武蔵両国内で5千石を与えられた。


・元和8年(1622) 嫡男:秋元泰朝に家督を譲って隠居した。
 秋元泰朝は1万5千石となった。

・寛永5年(1628) 秋元長朝は総社城で病没した。享年83。
法名は江月院巨嶽元誉。
 ※墓は蛇穴山古墳の上にある。

・寛永10年(1633) 秋元泰朝は日光造営奉行の功で3千石を加増
 され、甲斐谷村(山梨県都留市)に転封となった。
  甲斐谷村藩1万8千石に移封。
 谷村では用水の開削を行い、城下の整備も兼ねて「谷村大堰」
 を開き、養蚕を奨励した。

●秋元富朝は富士山の雪代の出水によって流出する田畑を守る
 ため、赤松数万本を植林した「諏訪森」を造成した。

●秋元喬知(たかとも)は河口湖の水を富士吉田新倉村まで抜く
  「新倉掘抜(あらくらほりぬき)」を開削した。
 甲斐谷村藩→川越藩初代秋元家

●子孫は上野国館林で6万石を領した。館林藩秋元家初代。






★明日は山名氏に戻る。

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