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zoom RSS 箕輪初心:生方▲箕輪城173【後北条氏の西上州支配VS真田昌幸】

<<   作成日時 : 2015/10/08 07:04   >>

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北条氏邦は真田昌幸に対抗しうる人物であ
った。北条氏邦はbRの実力者:富永一族の富永能登守助盛→猪俣
邦憲ような家臣を持っていた。しかし、猪俣邦憲は名胡桃事件を起こし、
後北条一族の滅亡のきっかけを作ってしまった。箕輪城代関係者として
多米周防守元忠→多米出羽守平長定や垪和伊予守氏続→垪和伯耆
守康忠→垪和信濃守もいる。
  
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●北条氏の動向
北条氏邦は北条氏康の氏政・氏照の弟として生まれた。  
・天文6年(1537) 北条勢が河越城が奪取した。

・天文10年(1541) 北条氏邦は北条氏康の氏康4男:実質3男
として生まれた。

・天文15年(1546) 河越の夜戦
     上杉勢が大敗。
     上杉憲政は平井城に逃走。
  
・天文18年(1549)
 7月 藤田重利が北条氏康の傘下となった。
   藤田重利は北条氏康の「康」の字を貰って、
    藤田康邦と名前を変えた。


・天文19年(1550)頃   
北条氏康の3男乙千代→晋太郎→氏邦が藤田重利
の長女:大福御前の娘婿となった。
 武蔵児玉党を支配した。

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箕輪初心●埼玉長瀞【天神山城2回目】=北条氏邦の支城
http://53922401.at.webry.info/201409/article_27.html

箕輪初心○埼玉【花園城】=鉢形城の支城
http://53922401.at.webry.info/201405/article_17.html   

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 藤田康邦は花園城(寄居秩父バイパスの入り口西の
  山)に移った。

 北条氏邦に天神山城と花園城を譲渡(伝)。

  
・天文21年(1552) 今川義元の娘:嶺松院が武田信玄の子武田義信に
・天文22年(1553) 武田信玄の娘:黄梅院が北条氏康の子北条氏政に
・天文23年(1554) 北条氏康の娘:早川殿が今川義元の子今川氏真に
・天文24年(1555)甲相駿の3国同盟



・永禄3年(1560) 上杉謙信の第一次関東出兵
  藤田氏息子は一端は上杉謙信についた。
   
9月 北条氏によって沼田城は攻め落とされた。


・永禄5年(1563)  北条氏邦に鉢形城入城説
 「永禄5年以前のことであろう。」
 
 (★『新編埼玉県史』資料編6)
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〜〜〜北条氏邦〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方●埼玉鉢形城【第54回寄居北條まつり】
http://53922401.at.webry.info/201505/article_15.html

箕輪初心●埼玉【第53回寄居北條まつり後編:攻防戦】&
『鉢形城の歴史詳細』
http://53922401.at.webry.info/201405/article_15.html

箕輪初心○埼玉【第53回寄居北條まつり前編@準備〜パレード】
http://53922401.at.webry.info/201405/article_14.html

箕輪初心●埼玉:鉢形城4回目:外曲輪〜三の曲輪〜
二の曲輪〜本曲輪
http://53922401.at.webry.info/201311/article_30.html

箕輪初心●埼玉『鉢形城』&北条氏邦の箕輪城の大改修
http://53922401.at.webry.info/201305/article_16.html

箕輪初心●『鉢形城の歴史詳細』&47回寄居北條まつり2008
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201305/article_15.html

箕輪初心◆埼玉『第52回寄居北條まつり2013鉢形城』
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201305/article_14.html

箕輪初心●箕輪城115【赤備え】&北条三鱗会の井伊直政
手作り甲冑@」
http://53922401.at.webry.info/201311/article_29.html

箕輪初心■箕輪城シリーズS「第12代:北条氏邦」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201010/article_34.html

   以降、北条氏邦の秩父経営の本拠となった。
  秩父衆を掌握した。

 「藤田晋太郎」=北条氏邦は藤田康邦の「邦」を貰って、
 「北条氏邦」と名乗った。

★また、北条北条氏邦の奉公人:富永助盛は戦功をあげ、
 北条氏邦の右腕として活躍した。
 富永助盛は富永政家→政辰の身内だと思われる。
 猪俣邦憲は養子前は、江戸衆:富永家の一族:富永能登守助盛
 と名乗っていた。
 ※西伊豆土肥の富永一族は江戸城の2の丸にいて、武蔵に8万石の
 bRの実力者であった。富永一族は伊豆の土肥・武蔵も領国であ
 った。江戸城栗橋城や・・・・。 
 富永主膳助盛は猪俣の養子に迎えられた。
 北条氏邦が鉢形城藤田氏の婿養子に入った時の隣(現美里町)
 の猪俣城・白石城・虎ヶ岡城=円良田城(つぶらた)を支配させた。

 北条氏邦より「邦」の字をもらった。
 猪俣邦憲を名乗らせた。


〜〜〜猪俣邦憲〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 
箕輪初心●埼玉【猪俣4城】&猪俣邦憲=北条氏滅亡へ?
http://53922401.at.webry.info/201405/article_18.html
   
箕輪初心■箕輪城シリーズ21「第13代:猪俣邦憲」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_35.html

箕輪初心●岩櫃城探検隊第8弾【中山城2回目】
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201311/article_13.html

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・北条氏邦は武蔵国鉢形城主として、北条家所領のうち
 上野4分の3? ・武蔵半分を支配。


・永禄11年(1568) 北条氏邦は越相同盟交渉の北条方の責任者
  として尽力。
 
・永禄12年(1568) 越相同盟を成立。
 
・元亀2年(1571) 武田軍の興国寺城攻撃。
  →北条家臣:垪和(はが)伊予守氏続父子が撃退。
★垪和伊予守氏続→垪和伯耆守康忠→垪和信濃守??
 北条氏康が死亡→甲相同盟が復活。
 
12月甲相和睦が成立。
  →興国寺城は武田氏の属城。
 ※武田信玄が実力では落とせなかった城の一つである。
 穴山信君の家臣:保坂掃部・向井伊賀守正重
 ・曾根下野守正清らが在番。

「垪和は八王子城代になった。
@和田信業は武田家側近の跡部大炊守資勝の子で和田業繁の娘を
 もらって養子に入ったこと 
A和田信業は1582年の武田氏滅亡で、小田原城の北条氏直の
 家臣になった。
信業は人質として、「御料人様」(信業の娘)を小田原に差し出
すことにした。7歳の女子が初めて帯をしめるお祝いである
 「帯とき」に、後北条氏重臣の垪伯(垪和伯耆守康忠)に
 立ち会いを頼むなど祝儀の準備は進んだ。「御料人様」の
 慰め役に石原作右衛門(三枝一族)が命じられていること 
B御北様(穴山梅雪の妻=信玄娘)は小田原?に百疋
  (反物?お金かも)を届けるため、
同行者に大久保長安と石原作右衛門を頼んだこと
(★山梨県:石原家文書)

・武田信玄は遠州諸城を落とし、浜松城に肉薄。



真田昌幸の動向             
・天正5年(1577) ・真田昌幸は白井城代

・天正6年(1578)   
  6月 上杉謙信、死去。
    
 鉢形城主・北条氏邦ら30000で沼田城に侵攻
   沼田城を占領。猪俣邦憲が沼田城の城代
  

  三国峠→越後:浅貝城(苗場スキー場前)
     →越後:荒砥城(神楽&湯沢の峠)→樺沢城へ 

 10月 真田昌幸は北条氏邦の名胡桃城&小川城攻撃
     大雪のため、失敗。
   

 武田勝頼は真田昌幸に沼田城攻略を命令を出した。
   

・天正7年(1579)
真田昌幸が、上州名胡桃城と小川城を攻略。
 上杉氏と同盟した武田氏の家臣真田昌幸に命じて、
 利根川の渡河点警護と後北条氏から沼田領を奪取するための
  前線基地として本格的に築いた。
*名胡桃城築城・・・・城代は鈴木主水重則。
★八木節に出てくる「主水」である。


・天正8年(1580)     
 3月 北条氏邦の名胡桃城&小川城再攻撃
     失敗。
  

 3月 武田勝頼が矢沢頼綱に北条から死守を褒め、
    調略を進めるように指示。真田昌幸を送ることを
     伝えた。 
  (★加沢記)

 5月 明徳寺城(旧月夜野町後閑)→権現山城(=榛名山城)の戦い
   ※明徳寺城・・・関越自動車道の脇にある。
※権現山城(=榛名峠城)・・・名胡桃城の南西の峠
   
 
    真田勢の矢沢頼綱は沼田城を攻略。
    
    北条氏の沼田城代:藤田信吉が降伏・・・
    (★藤田は矢沢の調略に乗った可能性がある。)      
    ★藤田信吉は北条氏邦の義兄弟に当たる。    
    名胡桃城は沼田城と岩櫃城の中継地となった。
     武田氏の沼田城代:藤田信吉が誕生。    


・天正9年(1581)
 2月 沼田平八郎景義が沼田城奪還を狙って攻撃。
 
 3月11日 真田昌幸が沼田城を再攻略。
        沼田城代は海野兄弟。
 
  ・沼田城代の海野輝幸父子(昌幸母方叔父)の不満
 →北条氏にそそのかされ反乱。
  
  →真田昌幸・矢沢頼綱(昌幸父方伯父)は攻撃し、討伐。
   (かしょう山へ)
  
  真田昌幸の嫡子信之が城主。
城代は矢沢頼綱(幸隆弟)。

    岩櫃城は上田・沼田間の基軸となり、真田支配が強化。
・岩櫃城は池田・鎌原・湯本が城代。

・真田昌幸は甲斐新府城の普請奉行。
   出浦がただの割り当てされた一部で真田昌幸の築城では
   ないという説もある。    

・武田氏は遠江方面の高天神城を失い、木曾義昌や穴山梅雪等
   の家臣団の離反が相次ぎ、滅亡への道を進む。

・天正10年(1582)
 1月・徳川家康の命で真田昌幸が小県郡の土豪(丸子氏など)
    を制圧。→真田配下。 丸子城や虚空蔵山城など

2月 真田昌幸は、武田勝頼を迎えるため、岩櫃山の南に
   潜竜院を創建。祢津氏が院主。 

3月11日  武田氏が滅亡。
天目山景徳院に墓がある。
   ★高崎の木部範虎も戦死?自刃?した。

箕輪初心●真田3代C『真田信綱→真田昌幸の時代』
http://53922401.at.webry.info/201111/article_29.html




〜〜〜●後北条氏の西上州支配〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
■天正10年(1582) 
3月11日  武田氏滅亡
   →禰津氏などへ働きかけで、北条氏へ服属。
上野の武士は一時、武田に従属。
   内藤昌明・和田信業・倉賀野景秀など・・


3月25日 織田家家臣:滝川一益が箕輪城に入城。
   箕輪城は人質の城とした。


6月2日 本能寺の変で織田信長が横死。
6月9日 滝川一益に知らせが届く。
6月17日 滝川一益は箕輪城の上州国人衆の人質を返還し、
       協力依頼。

●神流川の戦い
6月18日 織田家の滝川一益VS北条氏邦
  1回目は、滝川軍優勢。北条軍劣勢。
6月19日 
  2回目は、北条氏直の本隊が小田原から到着。
    滝川一益は神流川合戦で敗れて去った。
      
   ふたたび北条氏邦が占拠。
神流川合戦に垪和康忠が北条の勝利に貢献。
→倉賀野城城主。   
    
 内藤昌武(★昌月)はこれに従った。 
       (ウキペディアのみの説)
  
 

箕輪初心▲埼玉上里【金窪城】&『神流川の戦い』詳細
http://53922401.at.webry.info/201409/article_21.html

箕輪初心◆高崎【第16回新町神流川合戦:滝川一益】
http://53922401.at.webry.info/201211/article_3.html

箕輪初心●箕輪城シリーズR「第11代:滝川一益」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_33.html




〜〜〜北条氏邦の西上州支配〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
★箕輪初心私見・・・北条氏康家老の大導寺政繁を信濃方面隊
(旧武田領の支配)の隊長にし、多米出羽守平長定・垪和氏続
(はがうじつぐ)などの「御由諸家」など有力な重臣などを次
々に召集し、傘下になった城に在城させながら、領土拡大を狙
っていったと思われる。箕輪城を守っていた者の中には、武田
家の旧家臣:保科正直もいたのだと思われる。弟の内藤昌明は
保渡田城に在城していた。


内藤昌明・和田信業・倉賀野景秀などが北条家の家臣と
なった。
     
・6月22日 北条氏邦は祖母島・川島・白井に進撃した。


・6月29日 北条氏邦は貫前神社に禁制を掲げた。

・6月下旬 三の倉の戦い
  北条氏家臣:内藤丹波守・富永主膳と大戸真楽斎・大戸但馬守
  が戦った。
  →大戸氏が敗れ、手古丸城に籠城した。
  (★加沢記)
 ★内藤丹波守=内藤昌明ということになるだろう。
 ★富永主膳=富永助盛=猪俣家の養子:猪俣邦憲であろう。



?月??日 北条氏邦は箕輪城へ入城。西上野を支配。
  北条氏邦は鉢形城(埼玉県寄居町)と兼任統治。

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※一方、北条氏直は
6月下旬
・松井田城に大導寺政繁を置いた。

〜〜〜★大導寺政繁〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜   

箕輪初心●埼玉川越B『川越城&蓮馨寺』&大導寺政繁の生涯
http://53922401.at.webry.info/201407/article_5.html

箕輪初心●群馬【松井田城】=安中忠政→大導寺政繁の城  
https://bblog.sso.biglobe.ne.jp/ap/tool/newnewseditdisplay.do

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 ※織田政権追放→北条氏が西上州ゲット 
 ・碓氷峠(★おそらく入山峠:軽伊沢プリンスホテルシキー場
  の南)から越えて信濃に進入した。

・9月22日 北条氏直は長年寺に禁制を出した。 



●▲■ 後北条氏の城配置 ■▲●
@倉賀野城・・垪和(はが)伯耆守康忠&垪和信濃守? 
A厩橋城・・・垪和(はが)伯耆守康忠&垪和信濃守?
B箕輪城・・・北条安房守氏邦(鉢形城と兼任)→猪俣邦憲
    ( 後、→多米出羽守平長定
         →垪和(はが)伯耆守康忠か垪和信濃守?)
C沼田城・・・猪俣邦憲(富永主膳助盛?)
D平井城・・・多米周防守元忠&多米出羽守平長定
E西牧城(多野郡西牧藤井の塁)・・多米周防守元忠
 青木城(横浜鶴見区)には、山中主膳正(後北条家二十将の一人)
  を城代に配置。
F松井田城・・・大導寺政繁(川越城主と兼任)




■天正10年(1582)
・5月16日 北条氏のお抱え医師:糟尾法眼寿信の書状
 「房州様・・箕輪御在城・・・」
  つまり、北条氏邦は病気だった・

・7月 真田昌幸は家臣:日置五左衞門尉を北条の陣に送り、
    恭順の意を表した。


◆8月 天正壬午の変

天正壬午の乱・・・
  徳川家康 VS 北条氏直   
  甲斐遺領をめぐる紛争。
  北条氏直が若神子城に本陣を置いた。    

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◆箕輪初心:生方▲山梨【若神子城】武田信玄の信濃攻略の拠点&
烽火集積地
http://53922401.at.webry.info/201504/article_29.html
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 北条氏の大導寺政繁が獅子吼城を占拠。

  徳川家康が新府城本陣
   対峙?
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◆箕輪初心:生方▲山梨【新府城】:武田勝頼60日の城&出浦盛清
http://53922401.at.webry.info/201504/article_25.html
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 ●獅子吼城の戦い 
徳川家康 VS 大導寺政繁 
  服部半蔵の伊賀組や武田遺臣たちに攻められ落城?
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箕輪初心:生方▲山梨【獅子吼城】:徳川家康VS北条氏政
http://53922401.at.webry.info/201505/article_1.html
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・9月28日 徳川家康が真田昌幸に当てた書簡
   「上州中の一跡(長野氏の残した元の領土)・・・・
   甲州2000貫文・信濃諏訪郡と当地を保証する。」
 ★「箕輪の領地は、北条を倒したら、所領安堵する。
   突然、真田昌幸は徳川家康についた。


■天正11年(1583)

・5月  北条氏邦(氏康3男)在城「武州文書」(みのわの歴史)


■天正12年(1584) 北条氏直(氏康長男)は謙信の部将:北条
    (きたじょう)高広の厩橋城を攻略。
     →金山城主由良を護送。
     ・館林城主:長尾を護送。


■天正13年(1585) 北条氏直(氏康長男)は由良・長尾を解放。
    北条氏邦(氏康3男)在城「武州文書」
      (★みのわの歴史)
  
 徳川家康は真田昌幸に上州沼田領の北条氏への明け渡し
 を命令。             
 真田昌幸は明け渡しを拒否し、徳川家康と対立。

・7月 真田昌幸は徳川配下から上杉景勝に接近。
        
  北条氏との間で沼田城をめぐって対立


■天正14年(1586)
  北条氏照(氏康2男)は厩橋城で上野国人衆を人質・支配

  垪和伯耆守康忠が箕輪城に在城した?


■天正15年(1587) 箕輪在番猪俣邦憲(沼田城と兼任)は林に命令
      「真田との戦闘態勢を強化せよ。」(唯一の文書)
 

 北条氏邦在城(鉢形城と兼任) 
  「武州文書」(みのわの歴史)
★私見「1587年に、箕輪城の強化。本丸西門の橋台が建造された
  のでは?
 根拠は、→秋本先生「@本丸西門の下の堀の中にある橋台石垣。
 小田原城3の丸と似ている。」

 ※本丸から蔵屋敷の橋台から10mの所に1mの石垣(北条流)もある。

「A3の丸の4mの土塁は、鉢形城と同じ形式。」
※笑い積み・・・大きな石のまわりに小さな石・・・大きさを表現。

「B三の丸拡張工事があったのでは?(長野時代の堀を発見)。」


→工事人夫の割り当て 
C玉村の宇津木氏の5人の人足割り当て
  (★宇津木家文書)

@北谷(多野鬼石の真下城・飯塚城)の百姓に命じて、今年の秋
  穫れた穀物を箕輪城に治めさせようとした。
  (★飯塚文書)

(★北条氏の時代だと思われる御前曲輪の橋台)
 
  その後、上野の沼田城の城主も兼任。
  北信濃に勢力を持っていた真田家の名胡桃城+岩櫃城に隣接し
  紛争状態。
 

・12月27日 猪俣邦憲は「榛名峠城法度」を林治部衛門を与えた。
  鉄砲など常備せせよ。
  ※高山村権現山城=榛名峠城(★群馬県史など)
  しかし、久保田先生は榛名の北側の砦ではないだろうか?


〜〜〜おまけ:太田金山城〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・天正11年(1583) 金山合戦。
  北条氏照軍は金山城攻略戦を開始。 江田城・反町城から・・
  金山城に残った横瀬勘九郎&家臣は由良国繁・顕長の変換を
  要求した。
 →北条氏政は弟:北条氏照&氏邦ほか3500騎で金山城、館林城
  を包囲した。
  太田城下の金龍寺、足利の長林寺住職らの仲介で和議が成立。
  由良国繁は金山城を退去し桐生城に隠居した。
     
・天正12年(1584)1月1日
  唐沢山城:佐野宗綱が由良国繁&長尾顕長領を襲った。
  須花坂合戦・・・由良国繁が戦死した。
  戦勝報告・・重臣:久米伊賀守、横瀬勘九郎を小田原城に
  派遣した。

  由良国繁は金山城を北条氏に明け渡した。
  @金山北城=北郭に宇津木氏久
   A金山西城=西郭に高山遠江守定重
(★由良氏の家老・・・高山彦九郎先祖)
  B金山根郭=八王子砦?下に大井豊前守
(★佐久:大井→武田家臣:高崎根小屋城→北条家臣)
    ★宇津木氏久達が在番した。

・天正15年(1587)
8月6日 北条氏直は清水正次を金山城主に命じ、513貫561文を
     宛行した。

9月2日 
  A北条氏直は清水太郎左衛門正次を派遣するため、
  10月中に城普請を終了させるよう宇津木氏久に命じる。
  (★群馬県史)
 B北条氏照(★北条氏康次男)は金山城には北条氏の家臣
  :清水太郎左衛門正次を派遣するため、
  10月中に城普請を終了させるよう宇津木氏久に命じる。
   (★宇津木家文書)
   ★氏直でも氏照でもどっちでもいいけど・・・
  
  C金山城本城に清水太郎左衛門正次
      (★群馬県史・太田市史)
  
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
★水太郎左衛門正次は伊豆下田城主:北条氏bSの実力者。
箕輪初心:生方▲北条早雲と伊豆の城G【下田城】:水軍の城
http://53922401.at.webry.info/201507/article_22.html
http://53922401.at.webry.info/201509/article_1.html

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■天正16年(1588) 〜天正17年? 
★箕輪初心私見「垪和伯耆守康忠が死亡説?
       →垪和信濃守が倉賀野城相続。
       多米出羽守平長定が箕輪城城主。

「第15代:多目(多米)出羽守平長定」(多目周防守元忠の子)
★多米出羽守平長定が15代の箕輪城代ではないだろうか?
何故なら、静岡県三島市の山中城に宗閑寺に箕輪城主:多米出羽守
 平長定の墓がある。
理由@ 駿河の山中城の宗関寺に静岡県三島市教育委員会の看板に
      「群馬県の箕輪城主多米・・」
  山中城で、松田・間宮らと戦死した時に
 「元箕輪城主を意味するので」

(※写真は静岡県三島市の山中城三の丸の宗閑寺の看板の写真)



■天正17年(1589) 関白豊臣秀吉の裁定
?月 真田信之が徳川家康養女(本多忠勝娘)の小松姫と結婚。


〜〜〜豊臣秀吉の小田原城攻撃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
          
・天正17年(1589)
 8月 関白豊臣秀吉の裁定
   ・沼田城を含む沼田領の三分の二が北条氏の領土.。
   ・名胡桃城を含む三分の一が真田氏の領土。+伊奈
   →真田信幸は沼田城を北条氏直に渡す。
       名胡桃城は真田氏に残す。
     矢沢頼綱は沼田城から退去。
   

・8月?日 北条氏邦は真田家に対抗するため、沼田城に猪俣邦憲を
     配置した。

画像




10月名胡桃事件
 猪俣邦憲は南西の榛名峠城から名胡桃城を奪取
 北条氏邦の右腕で、沼田城主:猪俣邦憲は、名胡桃城主:
 鈴木主水の配下、中山城主:中山九兵衛を調略し、偽の
 真田昌幸からの手紙で、鈴木主水を城外に誘った。
南西の榛名峠城(=権現山城)から名胡桃城を奪取した。
鈴木主水は沼田の正覚寺で自刃した。(名胡桃事件)
※小田原征伐勃発の口火を切った城である。
{★月夜野町(現みなかみ)教育委員会}
画像


箕輪初心●群馬【名胡桃城A】=北条氏滅亡のきっかけの城
http://53922401.at.webry.info/201202/article_22.html

★★箕輪初心●【横尾八幡城】
http://53922401.at.webry.info/201202/article_12.html

★箕輪初心
名胡桃城は、沼田城からは5km程の距離で、利根川沿いの上流を
見れば、谷川岳の手前に見える。沼田城を守る猪俣邦憲からすれば、
名胡桃城は「目の上のたんこぶ」である。ついつい攻略したくなっ
てしまったのでだろう。北条氏邦の沼田城代:猪俣邦憲は、中山城
主:安芸守の2男:中山九郎兵衛に、「貴殿は中山城主であって当
然だ。北条につけば、名胡桃城&小川城は貴殿のものになる。」と
言葉巧みにそそのかした。中山九郎兵衛は姉婿の名胡桃城代:鈴木
主水(重則)に「伊那郡(もう一つの豊臣秀吉の分与地)の城取り
の相談あるから、上田に来るよう。」と偽りの真田昌幸の書状を出し、
鈴木主水を城外におびき出した。鈴木主水が異変に気づいて名胡桃
城に戻ったときには、中山九郎兵衛が名胡桃城を乗っ取ってしまっ
た後だった。鈴木主水は妻子を沼田城に取られたので、北条の味方
になるふりをしたが、鈴木主水は真田昌幸から預かった名胡桃城を
乗っ取られた責任からか、腹を掻っ切って果てるしかなかった。沼
田の正覚寺で自刃したという。この年に結婚した真田信之の妻:小
松姫(徳川家康養女)の墓のある場所である。話が出来すぎの感が
あるが、とにかく、猪俣邦憲は簡単に名胡桃城を手に入れた。きっ
と北条氏邦が「でかした。」と褒めたであろう。その後、北条氏邦は
真田昌幸の岩櫃城に総攻撃をかけようと、中山口・白井口・大戸口
から岩櫃城に向かった。中山口は猪俣邦憲が大将で、中山・尻高・
富永が攻撃開始をし、中之条の横尾八幡城で戦った。白井口は北条
氏邦の本隊軍で、中之条古城で戦った。大戸口からは上田を大将に
手古丸城を落とし、大戸の仙人窟陣城から様子を伺っていた。★も
しかしたら、箕輪城代:多米周防守や倉賀野城代:塀和伯耆守も応
援していたかもしれない。・・・・しかし、真田昌幸から、これを
聞いた豊臣秀吉は烈火のごとく怒り、北条氏政&氏直に宣戦布告状
を叩き付けた。・・・北条一族は、岩櫃城攻撃を断念した。猪俣邦
憲は名胡桃城の乗っ取り作戦の成功が原因で北条氏を滅亡に追い込
むなんて思ってもいなかったのである

 (★上毛古戦記:山崎一著)



◆◆ 名胡桃事件の発端に関する諸説 ◆◆
@猪俣邦憲の独断説=通説多数説
  (★鉢形城開城:鉢形城博物館)
 猪俣邦憲は猪武者で、虚突猛進型の軽率な人間と評価する説

★元職場に猪俣邦憲の子孫がいて、びっくりだった。

A北条氏邦の命令説
猪俣邦憲は北条氏邦の命令を受けて、名胡桃城を攻撃した説
・・・北条氏邦が真田昌幸の岩櫃城に総攻撃をかけようと、
 3方向から、攻撃したこと考えると、猪俣より直情型の氏邦
 が命令したと解釈する方が当たり前だろう。何故なら、氏邦
 が小田原城の籠城より、武蔵国(埼玉県寄居町)の籠城を考
 え、すぐに鉢形城に戻ったような戦術優先型の人物である。

B徳川家康の陰謀説(★真田太平記)
 徳川家康の手紙を忍者に持たせた。この時点では、徳川家康は
 自分から、上杉景勝に真田信繁(=幸村)を人質だして、反抗
 する真田昌幸をなんとか自分の配下にもう一度なびかせたかっ
 た可能性がある。天正17年(1589)・・この年に結婚した真田
 信之の妻:小松姫(徳川家康養女←本多忠勝の娘)を内偵の役
 目をさせたかったのかもしれない。そして、1年後には、真田
 信之は沼田城主になったのだ。・・・できすぎだなあ?
 
C豊臣秀吉の計略説(★箕輪初心の勝手な妄想)
 なかなか自分になびかない北条氏政&伊達政宗が気になって
 いたのではないだろうか?・・・つまり、沼田領の分配計画
 は大規模な北条氏抹殺&真田封じ込め計画があったのでは?
 真田に反感を買わせるような作戦ではなかったのではないだろ
 うか?


★真実は不明である。
  

真田昌幸が徳川家康に苦情
    →豊臣秀吉は北条氏政に質問

11月21日 真田昌幸宛の豊臣秀吉からの書状
  「秀吉に上洛しない北条が、一部の部隊とはいえ、
   秀吉の裁断を破って真田領を侵した
   ことは〜〜〜。」と激怒。



12月 北条勢:猪俣邦憲は3方向からの岩櫃城攻撃。
岩櫃城周辺に大戸から攻撃。
    @中山口→横尾八幡城の戦い
    A白井口→中之条古城の戦い
    B大戸口→手古丸城占領→仙人窟陣城で監視
          (東吾妻町大戸)

 
→豊臣秀吉の小田原征伐の口実で北条氏追討の指令。
  猪俣邦憲が兵を撤退させた。

 


■天正18年(1590) 
*近藤説・・・「北条氏が籠城手配は4城
1)白井城
2)松井田城
3)西牧城
4)館林城

箕輪初心私見「「垪和信濃守+保科正直は城の拡張工事のため、大
 手口は西側に変更し、宿の地名が残る南西部に町人の居住区を建設
 したのではないだろうか?」


3月 豊臣秀吉の小田原攻撃
豊臣軍約200000騎?VS 北条軍34250騎    
 (★秀吉が調べた北条家人数覚書:毛利家文書)
*北条氏邦・・・・・5000騎
 (鉢形城・深谷城・倉賀野城・厩橋城・箕輪城・沼田城)
*大導寺政繁・・・1500騎(川越城・松枝城)
*波賀駿河守・・・見失      
 (★毛利家文書・・・鉢形城博物館の本)


A、秀吉軍の北国軍(前田・上杉・真田昌幸ら)が北条の城を攻撃。
3月?日 前田利家が福井経夕→東山道木曽→佐久郡へ到着。
        上杉景勝と真田昌幸が合流、北国軍。

3月?日  北国勢の前田利家・上杉景勝は碓氷峠を越えて上野
       に入った。 

3月15日 真田氏先兵が碓氷峠で大導寺政繁と交戦。
上杉景勝軍所属の真田昌幸3000は愛宕山城
      (松井田坂本)から出撃した。

3月18日 北国軍が碓氷峠で北条先兵を破る。 
   
3月28日 松井田城を包囲攻撃、落ちず。

   
4月?日 西牧城(多米元忠?)への攻撃→多米元忠が西牧砦で討死。
「幽崖城」を攻めたのは、松平康国で、多目周防守長定は奮戦した
  ものの城から逃亡した。
  長定がふと見ると岸壁があり、そこ下には
  藤のつるが伸びていた。つるを伝わって岩の下まで登った。
 そして、登りきると、つるを切った。翌日、そこからおりられず、
 小田原城の方を向いて、腹を切った。
 里人は悲惨な話から、「物語山」を呼ぶようになった。   
  (★下仁田町史「町に残る伝説」より)


4月?日 厩橋城(?)を攻略。・・・・浅野長政ら
   
4月7日  秀吉から真田昌幸が松井田に付城普請を命じられる。
   
4月12日 真田昌幸が手勢を連れて碓氷峠で80人を討取る。
   
4月20日 松井田城(大導寺政繁+子直繁1500騎)落城
           →大導寺政繁は前田の道案内。
   
4月?日 和田城(和田○○)も落城
   
4月?日 倉賀野城(併和○○)も落城
   
4月24日 →大導寺政繁は前田の道案内した。
      が箕輪城へ・・。
    (鉢形城開城:鉢形城博物館)
    ・箕輪城(垪和康忠の子)も降伏開城・・・・
・前田・上杉軍の前に4月24日、闘わずに降伏開城。
  真田昌幸が入城。
 @北条氏の垪和氏・保科氏が守備
   (★新編高崎市史の資料)
 A北条氏の芳賀信濃守・保科正直が降伏。
   (★漫画みさとの歴史)
 B芳賀信濃守は逃亡し、保科正直が降伏。
   (★近藤先生:箕輪町誌の松城通記)
 C4月24日、垪和信濃守は北国勢に降伏。
   (★近藤先生:箕輪町誌の「箕輪城と長野氏」)
 D去弐四日書状今日弐九披見候箕輪城之儀羽賀信濃守追出
   保科居残城相渡候付て羽柴孫四郎・・・
     
4月24日 真田昌幸→石垣一夜城の豊臣秀吉への報告


4月29日 秀吉から真田昌幸は、箕輪城の武具受領や百姓環住など
  の仕置きを指示。人身売買の禁止。  

 (★近藤先生:箕輪町誌の4月29日の秀吉書状4月24日の
     真田の報告に答え、箕輪城で在城処理。
        
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
5月?日 館林城は開城・・・・・・・・石田三成2万

5月?日 金山城も落城廃城・・・・石田三成

5月?日 松山城(北条氏房)が落城。
     川越城(大導寺政繁)が落城。
    ★既に松井田城で前田利家の家臣になっている。

5月中頃 北条氏邦は小田原城に篭城するより、豊臣軍と戦うこと
  を主張。
 結局、北条家は小田原城で篭城決定
  →北条氏邦は350の兵で鉢形城へ
    
5月20日 岩槻城が落城。
・鉢形城攻撃開始 上杉勢が中心
  
   北条氏邦が岩槻・鉢形・八王子・忍・津久井の助命を嘆願。
  →秀吉は許可せず。

6月14日  
 上杉勢が中心・真田・上杉+浅野長吉+本田忠勝。
・鉢形城落城
   城兵の命を助けるという条件と引き換えに降伏。
 ★箕輪初心私見「真田は箕輪城に在城処理。」
  (根拠・・鉢形城博物館の発刊の本には真田の名前がない。
    その後、忍城攻撃の応援に行った。)
 
  ※北条氏邦は前田利家の能登七尾で1000石。

  


6月中旬・武州忍城の開始。水攻め失敗・・・・・・石田三成 
      →前田勢(大導寺政繁が前田利家の道案内役。
       北条家の領内の忍城を攻撃。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●埼玉『忍城』=城代:成田長親【のぼうの城】
http://53922401.at.webry.info/201211/article_6.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


6月23日 八王子城(北条氏照)が落城。
 

6月下旬 津久井城(旧武田家臣→北条家臣の内藤景豊
      :昌月の子)が落城。
    
 
■天正18年(1590)         
B,秀吉本軍・家康軍10万人
2月 徳川家康隊出発
3月1日 豊臣秀吉隊が京を出発。
3月29日 山中城(静岡県三島市:100名城)落城
   (小田原攻めの最初の戦場)
   元箕輪城主多米出羽守平長定などの死
    (山中城3の丸跡の宗閑寺の立て看板
     ・・・静岡県三島市教育委員会)
   しかし、箕輪(高崎市)の教育委員会の刊行物には、
    多米氏はない。
  *宗閑寺は静岡市の華陽院の末寺。
  開山は了的上人、開基は間宮豊前守の女お久の方(伝)。
  山中城落城の際、北条軍の間宮豊前守康俊兄弟とその一族、
   城主松田右兵衛太夫、
  箕輪城主多米出羽守平長定・間宮豊前守の墓と
   豊臣軍の先鋒一柳伊豆守直末の墓碑が並んでいる。

4月2日 石垣山城(一夜城)の築城。

4月21日 玉縄城(北条綱成)が落城。  
    海から毛利水軍。(小田原城博物館)

4月23日 50日の篭城後、下田城(清水康英)開城


6月下旬 韮山城(北条氏規)が落城。

7月5日  3万人籠城の小田原落城
 
7月5日  ・小田原城(北条氏直・氏政)が開城。

7月11日・北条氏政・北条氏が切腹。
      介錯は北条氏直であった。
      自分も死のうとしたが、取り押さえられた。
    ・大導寺政繁・松田憲秀が切腹。 
  →大導寺政繁は裏切り行為が秀吉の勘気に触れ、切腹。
        松井田町の補陀寺に墓がある。

7月16日 ・武州忍城(成田氏長)降伏。
   前田+上杉+真田が後から合流。



7月??日 北条氏直は高野山に行った。
お供には和田信業&倉賀野景秀がいた。

箕輪初心▲神奈川【小田原城の歴史詳細】:大森氏→北条氏5代
http://53922401.at.webry.info/201411/article_26.html




★真田3代は11月〜12月にしよう。

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