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zoom RSS 箕輪初心:生方▲箕輪城172峰岸純夫説を加味した『武田信玄の西上州侵攻&箕輪城落城』

<<   作成日時 : 2015/10/07 08:04   >>

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★武田信玄は西上州の侵攻し、攻略までに9年もかかった。一応、
10回の侵攻にまとめてみた。★中世の合戦と城郭:高崎市立六
郷小学校出身の峰岸純夫先生のサイン入りの本を参考にして、
以前書いた「武田信玄の西上州侵攻」をベースに加筆してみた。

赤字が峰岸純夫説である。ちなみに峰岸先生は永禄4年〜永禄9
年までを中之条の唐沢定市先生・山梨の柴辻俊一先生、群馬県史
をベースに書かれている。榛名町誌&高崎市史編纂の久保田順一
先生の記述に合致している古文書資料も多い。★峰岸先生は客分高家:石井
信房を鷹留城主と認めず、永禄9年(1566)5月に長野三河入道業氏
が戦死したとするところに特徴がある。
つまり、歴史学者特
有の江戸時代に書かれた戦記物や系図の信憑性をあまり信用して
いないのである。A4版約20ページ分なので、写真の掲載は4枚で
限界だった。
画像

(★埼玉の博物館パンフ)

箕輪初心:生方▲「武田信玄の西上州侵攻」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_16.html

■武田信玄:大永元年(1521)〜元亀2 年(1573)伊那郡駒場
で病死。
★「もし生きていれば、天下を取れていたかもしれ
ない武将であろう。織田信長以前では、最も多い所領を持っ
ていたのだ。人材登用・金脈・戦略に優れていたのであろう。」




●積翠寺・・・・・・・武田信玄の育った寺。要害山城下。
箕輪初心:生方▲山梨【積翠寺&要害山城】武田信玄生誕の地
http://53922401.at.webry.info/201504/article_24.html

●要害山城・・・・・武田信玄の詰め城

●躑躅ヶ崎館・・・武田信玄の館


▲西上州に侵攻
箕輪初心●群馬松井田:坂本城&愛宕山城=武田信玄の築城か?
http://53922401.at.webry.info/201210/article_4.html

箕輪初心●群馬松井田:人見城=遺構がよく残っている古城 
http://53922401.at.webry.info/201210/article_5.html

箕輪初心●群馬:旧松井田町(現安中市)の城9城一覧
http://53922401.at.webry.info/201210/article_3.html

箕輪初心●安中の武田信玄築城【磯部城・八幡平陣城】
http://53922401.at.webry.info/201211/article_15.html

箕輪初心●【南牧村の城20城一覧】&▲黒滝山登山
http://53922401.at.webry.info/201204/article_21.html

たくさんありすぎで表示できない。



【1】上州侵攻@坂本城&愛宕山城の築城?
・天文16年(1547)・閏7月から8月 小田井原の戦い
(長野県佐久市)
武田晴信(=信玄)の佐久の志賀城攻撃開始。 
志賀城主:笠原清繁の関東管領:上杉憲政への援軍要請
関東管領:上杉憲政は志賀城救援の軍勢を派遣。
※長野業政は参加せず。
東山道の入山峠(軽井沢プリンススキー場)を越えて
信濃へ入った。
 
甲斐守護武田晴信 VS 関東管領上杉憲政
武田晴信は板垣信方を迎撃に派遣。
両軍は小田井原にて合戦に及んだ。
小田井原(長野県東御市)で武田軍に迎撃され敗走。
武田軍の圧倒的勝利。
志賀城は落城。
武田晴信は佐久郡の制圧を完了する。

武田信玄は、勢いに乗って碓氷峠を越えて、上野に乱入。
東山道の坂本に拠点を築いて、上野勢と対峙した。
画像

おそらく、武田晴信が築いた臨時の砦=陣城が、坂本城
では、ないかと思われる。
武田信玄は愛宕山城も築城したのではないだろうか。


★碓氷川を挟んで南が坂本城で、北は愛宕山城である。
関東管領:上杉憲政軍はおそらく、松枝城=松井田城
で待機したのであろう。


★松枝城から坂本城を攻めようとすると、虚空蔵山が
あり、その先に碓氷川の深い渓谷がある。川を越えても
急峻な細尾根がある。つまり、城山=坂本城の北が切り
立った崖斜面になっていている
松井田城から直接の攻城は結構、無理がある。

★愛宕山城の歴史 
・天文16年(1547) 
武田晴信が碓氷峠を越え、愛宕山城に駐留の浅利・小宮山ら
が松井田(松枝)衆と競り合ったことが記述されている。
この戦いで松井田衆は32人討ち取られた?
  (★『甲陽軍鑑』)

松井田城を本拠とする数百人からなる武士団があった。
もちろん、松井田城主は安中忠政である。

★碓氷峠はこの時代は使用している可能性が少ない。
もちろん、東山道は1本ではないだろうが、
仮に東山道だとしても、中仙道以前の道であり、
馬が通るには困難な道ように思える。特に、
覗きや馬の背は・・・。

武田晴信は坂本城・愛宕山城から撤兵し、中信の村上
義清を叩くことにした。せっかく取った佐久が村上義
清に狙われたからである。

・天文17年(1548)2月 上田原の戦い
武田晴信 VS 村上義清



【2】上州侵攻A 瓶尻(かめじり)の戦い

■弘治4年(1557) 第三次川中島決戦
1)4月 武田晴信(信玄)の初上州侵略@
▲瓶尻(かめじり)の戦い
13000の兵を以って上州に侵入した武田軍は瓶尻(かめじり)に
おいて長野業政率いる軍と戦った。


長野業政は全軍の総司令官だった。・・
近藤先生曰く一緒に戦った人を同心()と呼ばれる。
同盟軍のようなもの。)
67歳?の長野業政は巧みに武田軍の出鼻を挫き、全軍に総攻撃
を命じた。
しかし、西毛の諸武将の足並みがうまく揃わず突撃に失敗し、武田
軍の反撃に会い、長野業政は箕輪城に退却した。

※瓶尻の所在は不明。
 妙義から松井田にかけた人見城(写真)付近か磯部西地域?

武田軍は勢いづいて・・法峰寺(当時は箕郷文化
会館東=現大須賀家)から箕輪城を攻撃した。しかし、長野業政の
巧みな指揮で城を落とすことができず、甲州へ引き返した。

 
 
結果・・・西上州侵攻開始・・・失敗。
 
*武田軍は、この戦いで鉄砲(天文12年1543年に鉄砲伝来)
を使用。
TV「風林火山」では、山本勘助が根来衆から鉄砲を購入?
 →長野業政は、箕輪城と倉賀野城などの支城網を駆使し
 撃退。



・弘治3年(1557) 長野業政が菩提寺:長純寺(高崎市
   箕郷町原山)を再建。
  (★長純寺文書)
   梁14丁、柱78本の寄付を家団にして貰った。   
  

・永禄元年(1558) 箕輪城着到帳
@一般家臣・・・509人 
A準特別職・・・・83人
B家老・・・・・・・5人
C客分高家・・・・12人
合計・・・・・・609人
★騎馬は4人1組で1500人と推定されている。



峰岸先生は客分高家:石井信房を鷹留城主と認めず、永禄9年
 (1566)5月に長野三河入道業氏が戦死したとする。


・永禄2年(1559)長尾景虎の第一次関東出兵
 ・長尾景虎は前橋の厩橋城に関東出兵の本拠以降の
  13回




【3】上州侵攻B若田ヶ原の戦い 
■永禄2年(1559)
9月  武田信玄は上州に出兵B  20000の軍勢
 信玄が板鼻に陣取った際に倉賀野氏が従った? 

  (★倉賀野の歴史より)
 倉賀野16騎の筆頭:金井淡路守景秀である。
 →倉賀野氏の内部分裂があったと見られている。
 (★新編高崎市史) 
 
▲若田原(高崎市八幡町)の戦い
  武田信玄は安中城を攻めるべく鼻高(少林山の西)に布陣した。
  急報を受けた長野業正は直ちに手勢を率いて若田原で武田軍と
  対陣した。
  睨み合いが続く中、雨が降り出した。
   長野軍が武田軍の眼前から消えた。
 武田信玄が雨宿りかなと思っていると・・・
  長野軍が背後から襲いかかった。
 そして、敵陣をかき乱すと去っていった。
 武田信玄は
 「長野業正を生け捕りにせい!・・」
 と、悔しがった。・・・とさ。
(★上毛古戦記)
  長野業政は武田軍を迎撃し撃退。



【4】武田信玄の西牧→妙義→松枝への直接攻撃
・永禄3年(1560) 桶狭間の戦い
※織田信長が今川義元15000を破る
  →今川家が衰退 
武田信玄は密かに駿河侵攻を視野に入れていた=考えていた。

武田信玄は西上州の根小屋城・・・築城?
  高田城:高田氏(妙義町)・松井田城:安中氏を攻撃。






【5】長野業正の死去→大戸浦野氏+真田幸隆&甘利昌忠の榛名侵攻1
■永禄4年(1561) 
2月 上杉謙信は小田原城攻めに失敗。
   鎌倉八幡宮で、関東管領の地位を獲得。上杉姓に改称。 
   上杉謙信は帰路途中、松山城(東松山市)上田氏を攻略
   ・・上杉憲勝が城主。
6月21日*長野業政が死去
     @説・・・長野業盛(箕輪軍記・小説箕輪城興亡史)が継ぐ。
     A説・・・長野氏業(群馬県史の近藤先生は業盛=氏業)が継ぐ。
 ※死亡を隠していたが、武田信玄にばれてしまった。
  ★風雲=不運、急を告げる。 
 
・上杉謙信が越後に戻ると武田・北条が反攻開始
  (西は武田・東は北条)
 
・9月10日、第4次川中島大決戦(武田VS上杉)
画像

  甲軍は軍師・山本勘助の「啄木鳥の戦法」。
  真田幸隆父子は妻女山を攻撃。
  越軍は甲軍の動きを察知し「車懸かりの陣」。
   武田信玄VS上杉謙信の一騎うちの直接対決?
   ★「嘘かも?」
  *川中島の決戦跡の碑
 「山本勘助はきつつき戦法の失敗の責任を取って死にに行った。」
   両軍6,000人余の死者?
 第四次川中島の戦いは最大規模の合戦=死亡者となった。
 @武田信玄の実弟で武田軍副将武田信繁・・・
 A武田家重臣:諸角虎定・・・★八幡原西300mに墓
 B足軽大将:山本勘助・・・・・★胴合橋
 C足軽大将:三枝守直・・・有力家臣を失った。
 武田信玄も負傷し、甲府で温泉療養。


第四次川中島合戦を契機に武田信玄の信濃侵攻は
 一段落し、以後は西上州の出兵を開始した。

画像


4)11月 西上州への本格攻撃開始C
 武田信玄は佐久郡松原社(小海町)で高田・諏訪(松井田)の
 撃砕の祈願文を捧げた。
 西上州を侵攻を開始し、国峰に在陣した。
(★中世の合戦と城郭:峰岸純夫著)

・滋野系の同族:真田幸隆は大戸城の大戸浦野氏に味方に
 なるように説得した。大戸浦野氏が話に乗った。
 →浦野氏が室田(旧榛名町)の長年寺に放火。

霜月(11月)24日
  小幡に晴信様が御出張の時、直ちに参上し申し出て受け取った。
(★「長年寺文書」の「天産受連覚書」)
   

武田信玄は小幡信貞の従兄弟の小幡図書之介に乗っ取られた国峰城
 を奪い返して、小幡憲重・信実(重貞→信実→信貞)に復帰させた。
 武田信玄は貫前神社に制札を出した。





【6】大戸浦野氏+真田幸隆&甘利昌忠の榛名侵攻2
■永禄5年(1562) 
2月? 長野氏業(業盛)は三夜沢赤城神社に戦勝祈願

6)真田幸隆の誘いに武田方に上州鎌原城(鎌原氏:海野一族)
  →浦野氏が室田(旧榛名町)に放火。
  →浦野氏が長野三河守入道(たぶん業氏)ら80余名を討ち取る。
   (★関東古戦録)
  長野三河守入道=たぶん長野業氏だろう。
   (★まんがみさとの歴史・秋本太郎先生)

  ※峰岸先生は永禄9年(1566)5月と考えている。

 浦野氏は榛名の稲を刈り取った。
    (★受連の文書)
  →甘利昌忠は武田信玄に浦野中務少輔を家臣に推挙した。

関東幕注文等では大戸10騎なので、多くて50人。
   これでは80数名は殺せない。
   当然、真田幸隆&甘利昌忠がバックにいた。
 (★甘利経済再生大臣様、アトランタでのTPP、お疲れ様でした。)

 
    


【7】武田信玄の西上州への安中への直接攻撃&築城
■永禄6年(1563)
6月 鎌原幸重 VS 羽尾幸全
    (領土争いに真田幸隆は叔父?鎌原幸重に味方
     羽尾も同族であった。でも、斉藤家家老であった。)
   真田幸隆  VS  斉藤憲弘

10月 真田幸隆は岩櫃城を攻略した。
    やがて、斉藤憲弘の子:城こ丸も嶽山城で自殺させた。


6)信玄の直接攻撃
  南牧に砥沢砦(南牧村)を築城。
   →市川氏家臣とした。
  +松井田の愛宕山城・碓氷城・安中八幡陣城・磯部城拡張 
  (1562)+文殊寺城

12月 武田信玄は倉賀野城攻撃のため、木部城を再興して、
  陣をはった。
 (★浦野家文書)


12月5〜6日 大規模な箕輪城攻撃
 武田軍は箕輪に向かって『行(くわだて)』を行い、城外はもちろん
 長純寺まで悉く放火した。
  (峰岸先生・浦野家文書:榛名町誌:久保田順一先生)
 
箕輪軍記は落城をこの年にしているが、間違いである。

12月5日 武田の長年寺への制札
 ・・・乱妨狼藉・波却の事、これを停止おわんぬ。
(★久保田先生)
 



12月 長年寺受連覚書(高崎市旧榛名町)・・・・
   甘利は木部城に逗留(★浦野家文書)
   受連は甘利昌忠→武田信玄に2回目の制札を金持って貰いに
  行った。木部城(高崎市木部町)に行って、
 金を払って、信玄から制札(寺を襲わない約束札)をもらった。
 でも、長年寺に武田軍が侵攻し、殺害。生き残ったのは独り。
 
  (★まんが箕郷の歴史・峰岸純夫著・久保田先生)
 
 ※武田信玄は北条氏康との連合軍で松山城(武州)上田氏を
  攻撃中であった。



12月 *和田城主:和田業繁が武田氏に降伏した。
   (★山田博久氏:残雲・・中世の合戦と城郭:峰岸純夫著)
   後、跡部資勝の長男を和田業繁の養子:信業となった。
   和田業繁は譜代並みの扱いになっていった。

閏12月 武田信玄は利根川を越えて、太田金山城の由良成繁を
  攻撃した。
(★峰岸純夫著)



〜〜〜関東古戦録〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・安中氏息子と依田(あしだ)氏(この時は板鼻城)を攻撃
  →武田方につく。
 ・国峯城の小幡重貞(箕輪城の長野業政の長女が妻)は敗北
  →武田方に参陣
▲若田原(高崎市八幡町)の戦い
   長野氏業の家老藤井が中心になって反撃。
 *中曽根氏(中曽根康弘氏の親戚で、高校先輩 ・
  おそらく曽根昌世系の子孫・・数学者中曽根真吾の曾孫)が曰く
 「若田原の俺んちの畑から武具(刀や槍の先・鎧の一部)が多数
  出土している。」
 ★私見「この年の戦いか否かは不明だが、確実に若田浄水場付近
  で戦いがあったろう。」

 ・武田軍は箕輪城を激しく攻撃。落城しないので、
  城外の長純寺(長野氏の菩提寺)・白岩の長谷寺(板東16番)
 を放火。 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
画像




【9】武田信玄の西上州侵攻
■永禄7年(1564)
5月 武田信玄が西上州侵攻
  @適地の麦を刈り、・・・
  A和田城(高崎)を攻撃
  B天引城(吉井)を攻撃
  C高山城(藤岡)を攻撃
D倉賀野の苗を薙ぎ払い、・・・倉賀野城を攻略。
  E安中・松井田の苗を薙ぎ払い・・・
  F本庄・久々宇に放火。


6月27日 上杉謙信→里見義弘
  倉賀野直行は若輩故油断があった。・・
  私が川中島に侵攻し、信玄を背後から襲うのでよろしく・・
  
 (★峰岸先生・久保田先生)


11月17日 長野氏業→赤城神社:奈良原紀伊守の手紙
  河西の戦乱を鎮められるよう、・・妙法僧を送ってくださり、
  ありがとうございました。・・・鎮められた暁には、代官を
  参内させます。
(★峰岸先生・久保田先生)





【10】武田信玄の甘楽富岡への直接攻撃
■永禄8年(1565)
7)信玄の箕輪城攻撃
2月 信州佐久の臼田の新海三社神社に戦勝祈願説 
(★中世の合戦と城郭:峰岸純夫著)

・永禄8年(1565) 2月7日 諏訪明神・新海三社神社(佐久)
 で戦勝祈願。
 「箕輪城(高崎市)を攻略した後は、惣社(前橋市)・白井(渋川市)
 ・嵩山(中之条)の四邑、たやすく予の掌握に属し、凱歌を奏し
   帰楽安泰せば、・・・」
 
★★8月説 新海三社神社の案内板の8月は
 私の感違いかな?



3月 武田信玄は倉賀野に出陣した。
  (★中世の合戦と城郭:峰岸純夫著)
→田口峠→築城していた砥沢城(群馬の南牧村磐戸)→下仁田
  →富岡宮崎城→
  (1562年築城の安中の磯部城・八幡陣城)+国峯城(富岡)
  の小幡信貞→
  ・富岡・吉井の城を次々に攻略し傘下に。
 ・奥平城(徳川家臣奥平信昌の父)・庭谷城など吉井の約20城に
  侵攻。

 ・一郷山城の侵攻・・・藤岡の牛伏山の東250m
    安部中務尉之友は、武田の攻撃を受け、戦死。落城。
  (★一郷山城の資料)

  
3月 倉賀野城落城→倉賀野尚行が逃亡。
   倉賀野城主となった。
   金井淡路守秀景→倉賀野秀景→と信玄が命名。
  (★子孫の会・高崎市の街巡りパンフレットを参考)

3月5〜6日  さらに、箕輪城を攻撃した。
 其の5日6日向箕輪被及御行、城外為始長純寺被成放火、一昨日
 至宇干当地木辺(木部)被寄陣、・・・略・・・(★浦野家文書)
 長純寺を焼いた後、木部に引き上げた。そして、10日程で木部
 城を再興して陣城とした。・・・
(★峰岸純夫著)
「箕輪城に詳しい元長野業政の娘婿を味方に抱き込んでの
    出陣計画。
  ・箕輪城1500 VS  武田35000人の兵。
   (★ほとんどの小説)
 ★私見「攻撃数は資料がないからわからないが、甲州+信濃勢の
  メンバー全員。」


3月16日 長野氏家臣:中室田の田中隼人佐は
  成田氏長のもとに使者で行く途中長楽寺に寄った。
  義哲は酒&肴を振る舞った。
  (★長楽寺永禄日記:峰岸先生)



7月20日 武田信玄は金敷平(榛名白川を挟んだ西)から撤退した。
  と由良家臣:小此木左衞門から聞いた。
  (長楽寺永禄日記:義哲著)


8月23日 武田軍は和田の陣を引き払った。


9月 長野氏業は赤城神社神主に書状を送った。



★私見「@武田本隊・倉賀野城金井氏・和田城和田氏・国峯城小幡氏
 →南ルートからの侵攻。  

A岩櫃城の真田幸隆+大戸城の浦野氏→北ルートからの侵攻
11月 真田幸隆が嶽山城の池田佐渡守を調略し味方につけた。
    斉藤憲宗・・・嶽山城の東峰から飛び降り自殺した。


   
12月
@武田軍が金敷平(大手虎蹈門西の岸)に在陣し箕輪城を攻撃。
   (★秋本先生)
 ★「愛宕の腰掛け石」&「見返り坂」伝説・・・箕郷町善地
 鷹留城と箕輪城の中間地点である。


11月〜12月 北条高広が上杉謙信を裏切った。
 (★互尊文庫・謙信→本庄氏への手紙:群馬県文書:峰岸先生)


12月 厩橋城の上杉謙信の家臣:北条(きたじょう)高広が
    後北条氏に内通した。




【9】武田信玄の箕輪城攻撃→西上州支配
■永禄9年(1566)
5月 鷹留城が落城。
    城主:長野三河入道業氏が死亡。(★浦野家文書)

(★中世の合戦と城郭:峰岸純夫著)
峰岸説では受連2回目・・・
  ★関東古戦録や箕輪城着到帳などと異なる説である。


6月 長野氏業家臣:小暮弥四郎が武田信玄に通ずる
    (★小暮文書)
(跡部伊賀(資勝)→ 小暮弥四郎殿への手紙)

(★:峰岸純夫著・榛名町誌:久保田先生)


閏8月 金山城の由良成繁・国繁が後北条氏に通ずる。
    宇都宮・皆川・成田が後北条氏に通ずる。
    (閏8月25日の北条氏照→正木氏への手紙)
(★中世の合戦と城郭:峰岸純夫著)

 
9月 由良成繁・国繁が北条氏康・氏政と同盟を結んだ。
(★中世の合戦と城郭:峰岸純夫著)


9月27日 武田軍は総攻撃を開始した。
●武田信玄は保渡田砦から箕輪城を攻める際に、現ドンレミー前
&諏訪神社にあった善龍寺を焼いた。

9月28日
箕輪城内に残る城兵は1500人からわずか200程に減少して
いった。戦死する者、降参する者、逃亡する者が出たから
である。

9月29日
死力を尽くして戦う長野勢・・・しかし多勢に無勢では、
いかんともしがたい状況になっていった。

★箕輪初心私見
「長野氏時代の箕輪城を攻めるには東から入るのが一番手っ
 取り早いのでは?
そして、武田信玄との攻防戦における最大の激戦地だったの
 ではないだろうか?
長野業盛は持仏堂に籠もり、辞世の句を詠んだ。一般的には
「春風に 梅も桜も 散り果てて 名のみぞ残る 箕輪の山里」
であるが、文書資料では、「陽風に 氷肌(むめ)も桜も散り
果てて名のみ残れる みわの郷かな」である。
→そして、持仏堂で自刃した。
多くの小説では、御前曲輪であるが、御前曲輪は井伊直政の時
代のなので、間違いの記載である。ましては、長野時時代には
御前曲輪堀はなく持仏堂は玉置山にあったと考えるのが妥当で
あろう。御前曲輪の北から西にかけての水堀はなかった。
これは、秋本太郎先生の発掘調査の第一期の説明からも証明さ
れつつある事実である。
「長野氏の遺構は基本的には本丸・御前曲輪付近だが、木俣に
も遺構が発見された。」
(★秋本太郎先生)


●▲■ 箕輪城落城物語 ■▲●
*信玄は箕輪城攻撃のため、降伏した倉賀野氏(=金井淡路守)
 に剣崎城主を命令。
しかし、現地案内板は別の人  
(★高崎市の「街巡りパンフレット」を参考)
1)『箕輪軍記』:大悍塩(元高崎市史編纂)
・永禄6年(1563) ・・・★永禄9年(1566)9月
@武田信玄は15000の兵で箕輪城を囲んだ。城
A城主である業政の子業盛は19歳。
 城兵は城主長野業盛以下1500人。
 最後、突撃した業盛は自ら薙刀を揮って28人の敵兵を切り伏せた.。
B大手口は山県昌景、馬場信房。搦手口は武田勝頼、原胤元、
  内藤昌豊といった信玄旗下の猛将達。この時、長野家の家臣:
  藤井友忠という武将がわずかな兵を率いて城外に打って出て、
  搦手攻撃軍を襲い、一時は武田勝頼を討ち取る寸前まで行ったが、
  多勢に無勢。背後に回った原胤元に斬られてしまった。
C箕輪城の曲輪が落とされた。これまでと観念した城主長野業盛は御前
  曲輪に入ると、業政の位牌を拝み自刃した。
 「春風に梅も桜も散り果てて 名のみ残れる箕輪の山里」
  (長野業盛辞世の句)
D長野家は滅亡した。しかし、落城直前に長野業盛の一子亀寿丸は
  家臣に連れられて城を脱出し、
  和田山(箕輪城の南南西約3km)に極楽院で匿われた。 
  (箕輪軍記)
現在の長野家の当主は、亀寿丸の子孫である。
(長野正夫系図)

2)関東古戦録:久保田順一訳
 箕輪の城に飯富(おぶ)兵衛・馬場信房・小山田信有らが・・(中略)・
 一隊は搦め手口、自身は法峰寺の一の門に押し寄せた。
 城主左衛門太夫業政(本当は1561年死去)は
 「吾は・・・関東管領の上杉様を再び関東にお迎えしたい。・・・。」
 と業盛に語った。
 大熊は越後の譜代の武士で、輝虎(謙信)に背いて、飯富の手下に
  なった。 
 (*大熊備前守は元上杉謙信家臣で箕冠城主(春日山城の南東部)。
 大勢の中かに割って入り、5人の突き伏せた。その首を取って引き
  上げたが、指物を落とし、城兵に奪われてしまった。
  ・・・・(中略)・・・
   後日、信玄はこの働きに感じて、備前守と改名させ、同心30名、
 足軽5名を預け、小畑山城入道日意の娘・・・と娶らせ、遠州小山の
 城代に据えた。・・(後略)・・                                                              
3)甲陽軍鑑
「2万の兵で攻め、長野信濃守(業政)の女房、子供を悉く成敗した。」
と記している。


4)小説:司馬遼太郎
 武田信玄の椿山入り口(箕輪小東から侵攻に対し、伊勢守が奮戦。
 信玄は
 「上泉伊勢守を大胡に帰れ。殺すには惜しい。」
 と許した。
そして、上泉伊勢守は信玄の一字をもらって、「信綱」となった。  
★箕輪初心私見
  「上泉伊勢守はこの時は箕輪城にいない。でないと柳生石州斎に
  認可はできない。永禄6年に柳生に行った可能性がある。」
 
 
5)「小説箕輪城」:野口泰彦著)
 上泉伊勢守は笠置山を守っていたが、業政の自刃の知らせを聞き、
 ・・・                      
箕輪初心●箕輪城93【上泉伊勢守秀綱】箕輪城落城〜流浪の旅へ
http://53922401.at.webry.info/201212/article_24.html


●『受連』〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
数回の箕輪城攻め軍勢が榛名に進出した時は、私は1人長年寺に残り、
その御判のついた制札をささげ持って、諸軍勢に立ち向かい、問答
すること7年に及んだ。
直接戦ったことが1度、衣類を剥ぎ取られることが3度・・・。


・永緑9年(1566)9月29日箕輪が落城したので、晴信様に面会し、
 当寺の寺領は前々の通りとすると、相違なくお渡しくだされた。
・永禄10年(1567) 丁卯3月7日 受連(花押)
 
 (★峰岸先生・久保田先生)
画像

 (★はるなの文化財:樋口秀次郎著)




〜〜〜〜落城後〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
9)9月29日 *武田氏は上野西部を制圧。

  →数日後、箕輪城に在城。
 *武田信玄は箕輪城に在城し、安堵状(生島足島神社)
  や宛行状(甲斐国誌)を発布。


※内藤豊後守昌豊の箕輪城の家臣一覧表    
 箕輪城落城後に、300騎になった説もある。
 武田信玄は長野旧臣として花形勝業、町田吉信、八木原家方、
矢島貞勝らを登用した。
 「美方民部左衛門勝業、道寺久助、町田兵衛義信、
  神尾図書兼、上泉伊勢守秀綱、寺尾豊後守長成、 
  長塩長八郎道方、八木原伴七家方、久保島重蔵時頼、
 矢島久左衛門定勝など。
 配属・・・大熊伊賀守(高浜砦)、新井筑後守(三ッ子沢砦)、
  内山播磨守(白岩砦)、
 清水太郎左衛門(松の沢砦?→和田山砦)、青柳治部(下芝砦)
 *内藤豊後守昌秀(昌豊)に、(保渡田組)
  大熊備前守・塚越半七・吉田伊豆守(豊岡砦→中里)
  は反攻。
     
  (★箕輪記→山崎一著「群馬の古城」)



@武田信玄書状写 
・・・(略)・・・ 騎馬30騎と足軽75騎を預け置かれた。
 大態(本当は熊)備前守殿  永禄6年2月
 (★本当は永禄9年)
  ★「関東古戦録」久保田順一訳
  「高崎市1994新編高崎市史」の信憑性はOK。
 


■永禄10年(1567)
2月 武田信玄は内藤昌月に箕輪城に在城を命じた。
  (★手塚良一文書:中世の合戦と城郭:峰岸純夫著)

4月〜7月 発給文書


8月 武田信玄の起請文が発布された。
(★中世の合戦と城郭:峰岸純夫著)

結果・・・長野氏時代の家臣が再編成された。(★峰岸)
@高山定重・・・高山衆3名(小林など)・・★藤岡
A高山行重(高山定重の嫡男)・・・・・・・★藤岡
B小幡三河守信尚・・・・・・・・・・・・・★下仁田
C小幡憲行・・・・・・・・・・・・・・・・★宮崎城・神成城
D小幡具隆・・・・・・・・・・・・・・・・★小幡城
E小幡信実・・・・・・・・・・・・・・・・★国峰城
 小幡親類5人+尾崎連判10人+南牧衆6人 
        山中衆5人+松本・友松連判
F一宮氏助・・・・・・・・・・・・・・・・★貫前神社
G高田繁頼・・・・・・・・・・・・・・・・★高田城・菅谷城
H安中景繁・・・安中衆2人・・・・・・・・★安中城
I後閑信純・・・・・・・・・・・・・・・・★後閑城
J和田業繁・・・・・・・・・・・・・・・・★和田城(後高崎城)
K海野幸貞・・・・・・・・・・・・・・・・★羽根尾城
L飯島為方・・・・・・・・・・・・・・・・★?
M浦野幸次・・・・・・・・・・・・・・・・★大戸城・権田城・栗崎城?
N長根衆2人・・・・・・・・・・・・・・・★吉井
O須藤・松本連判・・・★個人的には安中衆(安中ふるさと館の裏山)
P萩原連判6人・・・・・・・・・・・・・・★安中秋間?
Q依田等連判3人・・・・・・・・・・・・・★板鼻城

★は箕輪初心:生方が勝手に想像した城である。






@城代は甘利昌忠→A真田幸隆→B浅利信種・・・
 城番、土屋・金丸・曽根・伴野・・・など
 ★詳細メンバーは現地の城も含め今年12月頃紹介したい。

C内藤昌豊=昌秀は箕輪城は旧臣に任せ、保渡田砦を改修工事
し、保渡田城を新たに居城とした。
★上泉信綱は内藤昌豊の時に生島足島神社に起請文をだしている。
=武田家臣になっている。

・永禄11年(1568) 工藤=内藤昌豊は武田家譜代内藤家を継ぐ
 ことを許されて内藤修理亮と名乗った。

・永禄12年(1569) 三増峠の戦い
 内藤修理亮は小荷駄隊を率いて、津久井城に入った。
 そののち、厩橋城主・北条高広と共に、武田・上杉・北条による
 三国同盟の締結を画策し、跡部勝資(長男の妻は昌豊の娘)に
 援助要請するが、最終的に失敗した。

・永禄12年(1569) 10月8日 三増峠の戦い
 箕輪城代:浅利信種が戦死した。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●相模:津久井城=三増峠の戦いの地
http://53922401.at.webry.info/201411/article_17.html

箕輪初心▲武田信玄:鉢形城〜滝山城〜小田原城〜
三増峠の戦い
http://53922401.at.webry.info/201411/article_19.html

箕輪初心:●箕輪城シリーズP「第9代:内藤昌豊」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_25.html

箕輪初心▲箕輪城147【善龍寺】=長野業正長男:長野吉業の墓
・内藤昌豊&昌月の墓=会津藩
http://53922401.at.webry.info/201412/article_7.html

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


・元亀元年(1570)頃
9月10日 家老内藤豊後守昌秀(昌豊)が箕輪城現地統治。
 ★工藤姓→内藤姓
●武田信玄は内藤昌豊を信濃:林城・松本城から移封した。
内藤昌豊は保渡田砦を修築拡張工事をし、保渡田城に住んだ。
同時に、武田信玄は善龍寺の再建を命じ、金を与えた。現在の
地に善龍寺が再建された。
開山は勅徳賜:徳光円通禅師であった。

@内藤豊後守昌豊が上州7つの郡代・・・
  在地領主領国安堵状(★生島足島神社蔵)
 「安中・小幡一族・後閑・一宮・高田・高山・和田・松本
  ・馬庭・酒井・依田・桃井・富所・猿渡・荻原・須藤
  ・小沢・市川・神保・土屋・高橋・黒沢・高瀬・上条
  ・武河・南蛇井・伴野・尾崎・湯浅・」
 *内藤豊後守昌秀(昌豊)
  家臣50騎+長野氏の元家臣200余人=約250騎


  
・元亀2年(1571) 北条氏康の死去。

・元亀3年(1572) 三方ヶ原の戦い
★上泉伊勢守信綱は参戦? または、流浪の旅?

・元亀4年(1573)4月 武田信玄が死去。

・天正3年(1575) 長篠の戦い


D不在時代(瀬下が管理)〜E内藤昌月が城代になった。
・天正5年(1577)2月9日 内藤昌月→瀬下隼人への書簡 
  内藤昌月が箕輪城着陣。
 @若輩者ですが・・・2月11日に甲府を出発。
   2月14日に箕輪城に到着。
 A瀬下隼人から引き継ぎをおねがいします。
  (★瀬下家文書)
・天正10年(1582)3月
 保科正俊は飯田城を守備した。
    
 織田信長の武田攻めで武田勝頼が自害
→武田氏が滅亡。

●織田信忠の飯田城攻撃
保科正俊&保科正直父子は逃亡した。
@保科正直の妹の嫁ぎ先・・・松本の小日向家だった。
A保科正光の妻の実家・・・・上田の真田家であった。
真田昌幸の娘が妻である。
B保科正俊3男:内藤昌月がいる保渡田城へと逃れていった。
●父保科正俊&兄:保科正直は高遠城を追われ、実弟:内藤
昌月の保渡田城に住んだ。
★内藤昌月は信濃を追われた父:保科正俊と兄:保科正直を箕輪城
に迎え入れたのかもしれない。
 
そして、上野一国を拝領した滝川一益が入国すると他の上野国衆
と同様に滝川一益に降り、箕輪城を明け渡した。
織田家家臣:滝川一益が箕輪城に入城した。
 
保渡田城の内藤昌月らと旧武田家臣は滝川一益の家臣と
なって、人質を箕輪城に差し出した。
保科家&内藤家は武田氏滅亡→後北条氏に臣従した。

北条高広は厩橋城を、真田昌幸は沼田城を明け渡した。
沼田には滝川一益の嫡男が入城した。
★真田昌幸の所領ほどんどは安堵された。
滝川一益が本拠を厩橋城に移した。

6月 本能寺の変で、織田信長信・嫡男:信忠が死んだ。
神流川の戦い
→滝川一益が敗北。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心▲埼玉上里【金窪城】&『神流川の戦い』詳細
http://53922401.at.webry.info/201409/article_21.html

神流川で、滝川一益VS 北条氏邦&氏政の合戦があった。
内藤昌月は滝川勢として戦ったが敗北した。

滝川一益は箕輪城で、旧長野業正家臣→武田家家臣:内藤昌月らは
別れの酒を酌み交わした。
真田昌幸&倉賀野景秀が下諏訪まで滝川一益を送っていった。
さらに、倉賀野景秀は木曾まで送った。

北条氏邦が箕輪城に入城した。北条氏直に降った。

保科正俊&長男:保科正直&3男:内藤昌月は北条氏直の家臣
となり、北条氏邦の支配下となった。
内藤昌月・倉賀野景秀・和田信業は後北条氏では他国衆として遇された。

その後は後北条家8年・・・・
→井伊直政8年・・・・箕輪城は廃城となった。




★明日は?

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
お世話になります。
そろそろ、武田氏の西上野侵攻をまとめようかなと思ってるところへ、ジャストミート!
>>6月 長野氏業家臣:小暮弥四郎が武田信玄に通ずる
    (★小暮文書)
(跡部伊賀(資勝)→ 小暮弥四郎殿への手紙)

上記の木暮(小暮より改姓)氏に関する史料本、図書館で見つけたので今読んでるとこです。多野郡小暮村に鎌倉以前からある氏族らしく、山内上杉憲政が越後へ退去後に高浜村へ移り木暮に改姓したとか。その本には引間砦の木暮丹後守直政は高浜木暮氏の一族という伝承があると書いてあった。まさにこれこそ12高家地方知行持衆にふさわしいのだが、どうなのだろうか?
 たしかにそこでも、武田方よりの諜略があり、むしろその文書をもって春日山に赴いて指示を仰いだ旨の記述があり、落城後の所領安堵はあったが、臣従(家臣)はしてないとか。また名門ゆえ武田氏との取次ぎ役としての働きがあったとか記してあった。非常に興味深いので思わず書き込みました。また今度いろいろお話聞かせてください。ではまた 棟治

(★:峰岸純夫著・榛名町誌:久保田先生)
棟治
2015/10/07 23:40
榛名町誌P635に永禄9年6月22日小暮弥四郎は
武田信玄から朱印状を貰った。弥四郎の申したことが実現すれば、本領安堵、重恩も与える。小暮文書・・吉井町小暮出身と思われると久保田先生が言っています。
棟治様へ
2015/10/11 08:25

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箕輪初心:生方▲箕輪城172峰岸純夫説を加味した『武田信玄の西上州侵攻&箕輪城落城』  城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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