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zoom RSS 箕輪初心:生方★2015高崎『山名義範』に関わる疑問点&久保田順一先生・山本隆志先生の研究

<<   作成日時 : 2015/10/21 04:32   >>

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★山名義範は現高崎市山名町にいたが、源頼朝の挙兵で真っ先に
配下になり、鎌倉時代に重用され、山名氏は重要ポストに就いて
いた。山名義範に関して疑問点や諸説がある。@山名義範は
新田義重の3男が有力説であるが、矢田義清の子で猶子では・・。
A山名氏館は光臺寺と言われているが、木部堀の内では?・・・
B山名義範が山名城(寺尾下城)を築いたと言われているが、
山名時氏では?・・・C社伝によれば、山名八幡宮は安元年中
(1175〜77)豊前国(大分県)の宇佐八幡宮を勧請して社殿を造
営したとしているが、文治元年(1185)に堀の内(木部)に古山名
神社があるという説もある。
久保田順一先生の新田義重
説〜榛東村出身の筑波大学名誉教授:山本隆志先生は講演会
での資料には、鎌倉時代後期、山名氏は山名重国の長男:朝家
の系統から次男:重村の系統に移った。と書いておられた。
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箕輪初心★久保田順一先生20141129『河内源氏&上野国:八幡荘』
http://53922401.at.webry.info/201412/article_11.html

箕輪初心★久保田順一先生20141129『河内源氏の上野国
:八幡荘』後編
http://53922401.at.webry.info/201412/article_12.html

箕輪初心●群馬:高崎「山名義範館」=子孫は山名宗全 
http://53922401.at.webry.info/201102/article_31.html

箕輪初心★「上野国:山名義範〜応仁の乱:山名宗全」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201309/article_26.html

箕輪初心●兵庫:有子山城=山名宗全の城 
http://53922401.at.webry.info/201304/article_20.html

箕輪初心:生方▲高崎『20151015山名八幡宮の例大祭
http://53922401.at.webry.info/201510/article_18.html


〜〜〜B源頼朝&上野国編〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
★源氏一族→新田一族・新田・里見・山名・額田等。
●【0】河内源氏@源頼信→A源頼義→B源義家→C源義国→
D新田義重
箕輪初心★久保田順一先生20141129『河内源氏&上野国:八幡荘』
http://53922401.at.webry.info/201412/article_11.html

箕輪初心★久保田順一先生20141129『河内源氏の上野国:八幡荘』
後編
http://53922401.at.webry.info/201412/article_12.html


●【1】新田義重の関係〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★高崎:新田義重&茶臼山城
http://53922401.at.webry.info/201309/article_27.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201309/article_27.html

箕輪初心●群馬:寺尾の城《新田義重をめぐる旅》
http://53922401.at.webry.info/201102/article_29.html

◆◆ 箕輪初心●群馬高崎:寺尾中城1回目 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201012/article_20.html

◆◆ 箕輪初心●茶臼山城=寺尾城本城・新田義重の城◆◆
http://53922401.at.webry.info/201012/article_19.html
平成25年(2013)2月10日の探検では、看板設置&
下草刈りがしてあって、大きな堀ははっきり見えた。
主郭の土塁や井戸跡・二の郭が目立っていた。南郭と
あったが、烽火台であろう。

箕輪初心●群馬『寺尾中城2回目』=新田義重の城か?
http://53922401.at.webry.info/201302/article_27.html


●【2】里見氏関係:里見義俊〜
箕輪初心●里見一族@「新田から里見へ」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_33.html

箕輪初心●里見一族A「初代:里見義俊→2代・義成
〜3代:義基」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_34.html

箕輪初心●里見一族B「4代義秀〜10代家基」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_35.html

箕輪初心●里見一族シリーズA「初代:里見義俊→2代・
義成〜3代:義基」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_34.html

箕輪初心★2代目:里見義成
http://53922401.at.webry.info/201309/article_30.html

箕輪初心★里見一族の歴史:リニューアル版
http://53922401.at.webry.info/201309/article_29.html

箕輪初心★木曾義仲:上野国多胡庄2ヶ月→信濃依田城で蜂起
http://53922401.at.webry.info/201310/article_3.html



◆◆ 久保田順一先生の山名一族の歴史 ◆◆
【3】新田義重
・永久2年(1114)?保延元年(1135)
  〜建仁2年(1202)1月14日(12月8日)
@源頼信→A源頼義→B源義家→C源義国→新田氏の始祖:新田義重
と続く清和源氏義国流である。武家の棟梁として名を馳せた八幡太郎
 義家の孫である。
・永久2年(1114)?保延元年(1135) 生まれた。
父:源義国
母:藤原敦基の娘

兄弟
長男:新田義重、
次男:足利義康 異母弟
3男:新田季邦

妻・・・正室:源親弘の娘

・源義国の庇護の下、しばらくは下野足利荘で育った。

*長男:新田義重は源頼信→頼義→義家→義国と伝領した摂関家領
 上野八幡荘を継承した
*次男:足利義康は父:源義国が開墾した下野国足利荘を継承した。


●ライバル・・・
上野国の源義賢・・・多胡郡(群馬県高崎市吉井町)
→後、秩父氏系棟梁:畠山重忠の娘を嫁にし、
秩父大蔵館に住んだ。木曽義仲を生んだ。
武蔵国の秩父氏・・・秩父氏系棟梁:畠山重忠
下野国の藤姓足利氏・・足利利綱・・・佐野氏など



※南関東の支配者・・・源義朝&源義平父子
新田義重は弟:足利義康と相婿:源義朝・義平父子と提携した。
娘:祥寿姫を源悪源田義平の室としている。
また、甥:足利義清を猶子とし、娘を嫁がせている。


・仁平3年(1153) 新田義重は内舎人に任官した。
  (★山槐記)
保延元年(1135)生誕説では、18歳頃? 
  京都に上洛したことになる。
 
  式部大夫→検非違使&新田加賀介となった。

・久寿2年(1155) 8月16日 大蔵合戦 
  源義平が源義賢の拠点:大蔵館を襲撃した。
  源義賢と秩父重隆を攻め殺した。
  ★保元の乱の前哨戦ともされる。

・久寿2年(1155)8月16日 秩父足利合戦
源義朝 VS 藤姓足利氏・秩父氏ら
渡良瀬川の強行渡河作戦で撃破した。
 →北関東における地盤を確固たるものにした。


・保元2年(1157) 平家系の藤原忠雅を領家として新田荘の立券に
成功した。新田荘司と称し、新田荘を開墾した。
 上野国司:藤原重家の舅(しゅうと)が鳥羽院御願寺金剛心院の
 造営に深く関与をした藤原家成であった。・・・藤原氏北家花山
 院流忠雅の母の兄が藤原家成であった。

※父:源義国とともに新たに上野国新田郡の開拓事業に乗り出
 した。

・父:源義国が加冠を行った源義清の子:武田信義の子:信光に
 自分の娘を嫁がせた。
 武田信義の弟:加賀美遠光の加冠を新田義重が行なった。

 新田義重は源盛義とも親交が深く、平賀氏一族:義隆、義澄、
 義資(義職)を猶子としている。

・???年 従五位下大炊助に任ぜられた。


◆◆ 『新田町誌』〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
義俊・義範・義兼・義季・経義の順としている。
@長男:里見義俊・・・新田太郎
  (★「長楽寺草写本源氏系図(長楽寺系図)」では四良)

A次男:山名義範・・・・・新田太郎三郎、山名三郎
    (★「長楽寺系図」では四良義俊の次で伊豆守)
尊卑文脈の足利系図・・・にも表れている。
 ●久保田先生・・・足利家の娘婿になった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・長保元年(999) 9月2日 源頼信上野介に任官した。この時から、
上野国の交通の要所=八幡荘は河内源氏が継続して支配した。4代
目:源義国は八幡荘から、足利荘→やがて新田荘を開拓した。長男
:新田義重は源頼信→頼義→義家→義国と伝領した摂関家領上野:
八幡荘を継承した。次男:足利義康は父:源義国が開墾した下野国
足利荘を継承した。子どもは里見義俊、山名義範、新田義兼、世良
田(得川〜義季、額戸経義、祥寿姫、足利義清室、武田信光室、那
須与一室?、得河義秀?である。新田義重は現高崎市寺尾、長男:
里見義俊は現高崎市旧榛名町室田、次男:山名義範は現高崎市山名
を本拠地とした。


【4】山名義範

 山名義範は新田義重の子どもである。
・保元4年平治元年(1159) 山名義範が生まれた?


1)疑問点@・・山名義範は新田、足利のどちらか不明である。
@山名太郎義範・・・『源平盛衰記』
長男・・『尊卑分脈』新田氏の項・『筑後佐田新田系図』
A山名次郎範義・・・『平家物語』
次男・・『長楽寺系図』と『新田由良系図』
B山名三郎範義・・・『吾妻鏡』
  3男・・・『新田の長楽寺系図』・『鑁阿寺新田足利両家系図』
      『新田横瀬由良正系図』
  『吾妻鏡』に28回登場。
C5男・・・『新田岩松古系図』
D新田義重の養子:山名義範説・・・「尊卑分脈」足利氏の項
  足利義兼の長男→矢田義清(木曾義仲の仲間:吉井矢田在)
  の長男→山名義範となっている。山名義範は足利氏一門の
  矢田義清と新田義重の娘の間の子と記され、山名氏は足利
  一門として扱われている。つまり足利系として記されてい
  るのである。
  山名義範は父:矢田判官足利義清が備中で平家と戦い戦死し
  伯父である新田義重が 引き取って猶子=養子にした説がある。

★山名義範が新田、足利のどちらかか不明である。
 『新田義重』久保田順一著では八幡荘を山名まで入れて考えて
  いるが、20141129の久保田先生の講演会では、八幡荘を山名
  に入れない方が良いかもしれない。とおっしゃった。また、
  新田義重への猶子説の可能性もあると悩んでおられた。
E山名冠者義範の有道姓山名義範説
  『東鑑』に「行」文字があるので、有道姓山名氏か?
 ※『東鑑』・・・山名義範・山名中務俊行・山名小太郎重国
  ・山名進二郎行直・山名進二郎行忠が出てくる。
 ★秩父氏の娘を貰って、秩父氏と親戚になったのだろう。
  


2)疑問点A・・山名義範はどこに住んでいたのか?
 @新田義重の子:義範が上野国多胡郡山名に住し、山名三郎を
 称した。
(★『新田氏系図』)
 ★久保田順一先生は八幡荘と言っている。


A山名氏館は光臺寺と言われている説
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(★山名氏一族の会)
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 ★山名義範が住んだと書いてあるが、
   発掘調査では、鎌倉時代〜室町時代の遺構は
   出てこなかったらしい?
  
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 B木部堀の内説・・・東山道上道の山名宿=
   現木部町堀の内をいう考えである。
   古山名八幡宮があった。
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3)疑問点B・・・山名城の築城者はだれか?
 @山名城は山名義範が築城した。
   (★山名八幡宮社伝)
 A山名時氏か?
  (★箕輪初心・・・山名→伯耆国へ移動
    山名氏中興の祖である。)

 ★木部氏が修築・・・技巧的な山城である。
 



4)疑問点C・・・山名八幡宮の創設はいつ、どこ?
・安元年中(1175〜77) 豊前国(大分県)の宇佐八幡宮を勧請
 して社殿を造営し武神として崇敬した。(社伝)  
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 A文治元年(1185)?堀の内(木部)に古山名八幡宮がある
  という説である。
 ★つまり、山名義範が伊豆守になった年である。




5)疑問点D・・・勧請しきてのは?

@現地案内板
 八幡宮は宇佐八幡(大分)を勧請したとある。
  (★社伝)

A八幡宮は源氏の守り神:京都石山八幡宮より勧奨した
 神社である。

B山名一族が鎌倉八幡宮より勧進?
 
とこが正しいのだろうか?。



1)源頼朝が伊豆で挙兵した時
・治承4年(1180) 源頼朝の挙兵
 新田義重の甥:足利義兼&子:山名義範&孫:里見義成らが
 早期にその麾下に帰参した。

父:新田義重が寺尾城(高崎市寺尾町)に立てこもった。
 新田義重は一時日和見的態度を取った。
 理由@北関東での主導的地位にあった。
 理由A八幡太郎義家の孫だ。・・源頼朝を格下に見ていた。
 理由B新田荘が平家方の荘園であったこと
 理由C木曾義仲が多胡郡で味方集めをしてた。
・・・多胡郡は源義賢のかつての所領であった。
    親子2代に渡る隣合わせの所領を持っていて宿敵関係
   であった。
   従って、木曽義仲を牽制する必要があった。

12月 新田義重は源頼朝の威勢興隆を目の当たりにし慌てて鎌倉
  に駆けつけた。
  容易には源頼朝の不信感をぬぐうことはできなかった。
  安達盛長の取り成しでようやく帰参が叶ったという。
(★やがて、比企能員→安達盛長は八幡荘で上野奉公人になった。)
  さらに、新田義重は娘:祥寿姫を源頼朝の兄:義平の未亡人:
  源頼朝の側室にと乞われるもこれを拒否した。
  ・・・という。より一層、源頼朝の不興を買った(伝)。
  新田義重の猶子:娘婿:矢田義清が木曾義仲に走った。
  このことが源頼朝の反感をさらに買った要因のひとつとされて
  いる。
 
  甥:足利義兼がいち早く頼朝の下に駆けつけて活躍した。
  以後、代々北条氏と姻戚関係にあって強固に結びつけていった
  足利氏は幕府内での地位を保った。
  新田義重の鎌倉政権内における立場は常に微妙であった。
  
  足利・新田両氏の処遇の差となった。
  新田義重は後代まで尾を引いていくことになった。
  但し、新田義重自身は源家の最長老であり、鎌倉幕府成立時点
  で八幡太郎義家にもっとも血統が近い者として一定の敬意を受
  けていた。

     山名義範は新田一族の中で一番早く源平合戦に参戦。

・治承4年(1180)木曽義仲の討伐
・治承8年(1184)
2月 山名義範は源範頼・源義経(源頼朝の異母弟)率いる平氏
  追討軍に従軍した。
・寿永3年(1184)一の谷の合戦
  山名義範は源義経のもとで功績をあげた。
  

  山名義範は軍功を重ねた。源家の一族として重んじられ、北条
  時政・義時父子に次ぐ位置を与えられた。
源氏一門の御連枝衆として優遇された。

・文治元年(1185) 「平氏追討源氏受領6人」
源家一族の中から6人・・・
    源義経、大内惟義、足利義兼、
    安田義資、加賀美遠光、山名義範
  が抜擢されて諸国の受領に任じられた。
  山名義範は源頼朝と同族の「御門葉」を許された。
   源家の血筋でも、源姓をを名乗ることは許されていなかった。
  新田義重は「御門葉」にはなれなかった。

「平氏追討源氏受領6人」の1人として
  →鎌倉幕府から「伊豆守従5位下」称号を恩賜された。
 
・この年に山名八幡宮を創設した説がある。

・文治5年(1189)『奥州の戦い』
7月 山名義範は源頼朝自らの奥州藤原氏を討伐する奥州遠征に
   従軍した
・藤原泰衡の討伐


・建久元年(1190)
山名義範は源頼朝の上洛に供奉した。



・建久3年(1192)源頼朝が征夷大将軍になった。
 山名義範は源実朝の補佐する役目として期待された。

・建久4年(1193) 上野→下野→駿東の富士の巻狩り
3月 源頼朝は上野国&信濃国御家人を招集して
     上野国の三原野で巻狩りをした。
5月 富士の巻き狩り・・・
   曽我の仇討ち(※曽我物語)
  山名義範は工藤祐経(すけつね)を討った曽我五郎
  の審問に当たった。

・建久6年(1195) 源頼朝の2度目の上洛
   山名義範は源頼朝の東大寺供養の際に近侍した。
   その次嫡子・頼家の参内にも同伴している。


????年 山名義範の子:義節が跡を継いだが、早世した。

????年山名義節の子:重国は祖父:山名義範と共に源頼朝に仕えたという。


しかし、山名義範→山名義節→山名重国
 では年齢的に考えて無理があるかもしれない。
山名重国を山名義節の弟とする説が有力である。



※新田義重は晩年、嫡男:新田義兼とともに新田家の家督を継いだ
  ばかりの曾孫の:世良田政義の後見役を務めた。

・建仁2年(1202) 新田義重は老衰のために新田荘で没した。
   享年89(★『新田足利両家系図』
    享年68(★『尊卑分脈』)
●墓所・・・円福寺:群馬県太田市別所町


・建仁3年(1203)比企能員の変
9月2日 北条時政は比企能員を自宅に呼び出して謀殺した。
   源頼家の将軍の位を廃して伊豆国修善寺へ追放した。

   北条時政は頼家の弟:実朝を3代将軍に
   擁立した。
   自宅の名越亭に迎えて実権を握った。

〜〜〜◆◆ 初代:執権『北条時政』 ◆◆〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 9月16日 12歳の源実朝に代わって北条時政が
    単独で署名する「関東下知状」が発給された
    (★『鎌倉遺文』)
    御家人たちの所領安堵などの政務を行った。

 10月9日 北条時政は大江広元と政所別当に就任した。
  ※北条時政は3代将軍:実朝や大江広元の権限を抑えて
   幕府における専制政治を確立した。北条時政が初代
   「執権」に就いたのである。
  北条時政は三浦や畠山と並ぶ軍事力を持ったので
  ある。

・源氏将軍家が三代で断絶→北条氏による得宗専制が成立
北条得宗家の専制政治が行われるようになり源氏系御家人
 の多くが滅亡あるいは没落していった。
 北条氏得宗家の被官が「御内」と呼ばれ、一般の御家人
 が「外様」の扱いをされるようになった。
 山名氏は外様の代表格の1人と見做され、山名氏の地位は
 低下した。新田一族も同様であった。



・建保7年・承久元年(1219)
2月 山名義範は没した(伝)。61歳?
(★『 山名家譜』)

 以後、山名氏は歴史の表面にはほとんどあらわれてこない。
  山名氏・里見氏・大井田氏・大島氏らの新田一族諸氏とともに
  新田氏を惣領として仰ぎ、多胡郡の領地経営にあたった。
 
・承久3年(1221) 承久の乱

・正安3年(1301)
8月 山名氏嫡系:山名俊行が、謀反の風聞によって召し捕られ、
   斬られた。  
 

※『東鑑』・・・山名中務俊行・山名小太郎重国 ・山名進二郎行直
 ・山名進二郎行忠が出てくる。
 ★秩父氏の娘を貰って、秩父氏と親戚になった
 のだろうと勝手に推測している。
  

 

◆◆ 山本隆志先生の講演会資料 ◆◆
8月25日
「山名新二郎行直・同中務丞俊行・同三郎五郎為俊等
 将軍家の仰せに背き叛逆を起こすによりて誅殺された。
 これによりて其の一跡以て義俊に宛がわれる。」
 (★山名家譜)

@山名重国長男の系統
 重国→朝家→義行→行氏→俊行・行重の系統は
「小太郎」・「又太郎」と称した。
 山名重国→朝家→義行→行氏→俊行は代々
 引付衆であった。
 北条師時が執権で、北条時村が連署であった。
 2人とも得宗家北条貞時の娘婿であった。
 山名嫡流はこの2人と対立したのであろう。

A山名重国の次男の系統
 重国→重村→義長→義俊→政氏→時氏の系統は
『山名二郎』・『山名彦二郎』・『山名孫二郎』と称した。

B山名重国の弟の系統
重家→氏家→景家→景長・・・
 備前国裳かけ郡の地頭であったが没収された。
 (★小早川家文書)

 (★新編高崎市史資料編4:山名武男氏所蔵系図
   当時、高崎市史中世部会)

※山名氏は山名重国の長男:朝家の系統
   から次男:重村の系統に移った。

 山名重村→山名義俊→山名政氏→山名時氏と続く。
 (★新編高崎市史資料編4:山名武男氏所蔵系図)
 (★山本隆志先生の20151017講演会資料) 
 

  





★明日も高崎関係にしようと思う。

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