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zoom RSS 箕輪初心:生方▲2015高崎【倉賀野の歴史&倉賀野一族】

<<   作成日時 : 2015/10/01 09:10   >>

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倉賀野は、古墳時代には東日本bRの浅間山古墳が造られた。鎌倉
時代からは倉賀野氏が土着し、倉賀野を発展させた。江戸時代には
倉賀野宿・倉賀野河岸として、繁栄した。※「木曽路街道六十九次
:倉賀野宿烏川図」渓斎英泉作が有名である。
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  @バックは赤城山。
A堀割で遊ぶ子ども
B皿洗いをする下女
C川面を見ている飯盛女:女郎=遊女
D高崎城下で組まれた筏
E浅い川でも進める高瀬舟
F牛馬に乗せられてきた米俵を積む船



箕輪初心●群馬の城「高崎:倉賀野城関係」
http://53922401.at.webry.info/201012/article_23.html
<< 作成日時 : 2010/12/12 22:05 >>


【1】 倉賀野の歴史
●古墳時代
・倉賀野に約400基を越える古墳があったと推定されている。
・明治17年(1884) 民営高崎線(現JR高崎線)敷設工事で、倉賀野
 の古墳の土と石を利用したことで、数の古墳が消滅した。
・昭和10年(1935)群馬県「古墳」の所在調査
  倉賀野町では207基の古墳があった。
   (★「高崎の地名」:田島桂男著)


400頃      浅間山古墳・・・東日本bR
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500頃     大鶴巻古墳築造
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510頃   小鶴巻古墳築造

・文武4年(700)  安楽寺古墳
・下毛野氏・・・現栃木県佐野市・三かも・栃木市
・上毛野氏・・・
  @太田天神山古墳を中心に・・・上毛野久比の子孫
  A前橋大室古墳を中心に・・・上毛野小熊の子孫
  上毛野氏族は対朝鮮外交で活躍した。
   (★『日本書紀』)   
・大野氏・・・・旧大間々
・三輪族・・・旧大間々〜桐生
・池田氏・・・・現玉村
・佐味氏・・・・藤岡
・車持氏・・・・旧榛名町・箕郷町
その他の豪族
・長柄族・・・・館林
・朝倉の君・・・前橋の天川付近 前橋天神山古墳
・有馬の君・・・渋川八木原・有馬・渋川・子持・伊香保
物部の公・・・倉賀野 浅間山古墳・鶴巻古墳
・佐野屯倉・・・高崎佐野
・緑野(みどの)屯倉・・・藤岡・鬼石
・碓氷の君・・・高崎八幡  
・磯部の君・・・安中
・坂本の君・・・安中市松井田
・新羅人・・・・吉井〜下仁田


●奈良時代
・天平9年(710)  安楽寺七仏薬師建立


●平安時代  ※なくよ鶯平安京
★坂上田村麻呂の東征
・延暦11年(791) 蝦夷東征
  大伴弟麻(正使)呂+坂上田村麻呂(副使)に任じられた。

・延暦12年(793) 蝦夷東征
「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下田村麻呂は四人の副使(副将軍)
の一人ながら中心的な役割を果たした。

・延暦15年(796) 坂上田村麻呂は陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を
  兼任する官職になった。
  翌年には征夷大将軍に任じられた。

・延暦20年(801) 坂上田村麻呂は蝦夷のあてるいを降伏させた。
高崎に清水寺を建てた。(伝)

・????倉賀野の坂上田村麿祭祀


・大同元年(806) 飯玉神社(現倉賀野神社)が創建。


・天恵3年(940) 安楽寺は建立。

・???? 宮原荘(みやはらのしょう)が置かれた。


◆中世〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
????年 武蔵児玉党の子孫が倉賀野氏を名乗り、土着した。
  
・嘉禄2年(1226) 正六観音菩薩現在地に祀る
・建長5年(1253) 倉賀野三郎高俊が飯玉神社の社殿建立。
         
●南北朝時代
・至徳3年(1386)  僧「秀乗」が養報寺開山。
                      
・応永元年(1394) 倉賀野三郎左衛門尉光行が倉賀野城を築城
   戦略的に重要な拠点として倉賀野城を築城した。                   


・宝徳3年(1451) 養報寺・・・江戸島弁財天の勧請
 
・文正元年(1466) 諏訪大社上社より諏訪明神勧請
        後、金井淡路守秀景は諏訪神社を建立した。
 


●戦国時代
・延徳3年(1491) 倉賀野城主:倉賀野五郎行信は九品寺を開山。 

・永禄4年(1581) 倉賀野宿の住人10名が舟により舟問屋の営業
 を始めた。
 
・永世13年(1516) 法印乗伝和尚が林西寺開基 
  
・享禄2年(1529)〜享禄4年(1531) 関東享禄の内乱
 第3代古河公方:高基から第4代・晴氏に継承される時に
 抗争が生じた。
 関東管領:山内上杉家でほぼ同時に家督相続争いが発生した。
          
結果・・上杉憲政の勝利
 倉賀野行政&倉賀野16騎は関東管領の上杉憲政に従った。  

・天正元年(1573) 倉賀野秀景(旧性金井)は 永泉寺を創建した。 
 

・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
   上杉景勝軍が倉賀野城を落城させた。

8月初旬 井伊直政が箕輪城に入封した。

・慶長3年(1598) 箕輪城が廃城
    中山道開通・・・江戸から京都まで67宿場を整備した。


●江戸時代

・慶長7年(1602)  倉賀野宿は江戸から12番目の宿場となった。
    本陣1・脇本陣2・問屋場3となった。
「本陣跡」・・・河岸問屋の勅使河原家が世襲した。
「脇本陣」・・・河岸問屋の須賀家が世襲した。
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・慶安?年  倉賀野宿に杉並木が植林された。
★杉並木は基本的には江戸への侵入を防ぐためである。

・慶安?年間(1648~1652)  烏川に倉賀野河岸が開設された。
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河岸とは河川の港のことである。
    倉賀野は烏川の就航点の港町としても発展した。
   河岸問屋9軒のほとんどが自分の船を持っていた。
江戸と日本海側の諸国とを結ぶ物資輸送の中継地と
      なった。

・正保4年(1647)  日光例幣使街道が開通した。
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 倉賀野宿の閻魔堂が分岐点となった。
 まだ、阿弥陀堂はなかった。
 
・元禄16年(1703)阿弥陀堂(現閻魔堂)が建立された。
  閻魔堂・・・常夜灯と道しるべがある。
                
・宝永7年(1710)  三光寺稲荷神社の造営

・天明3年(1783)  新堤溜池の築造開始
           浅間山大噴火

      
・寛政10年(1798)  倉賀野宿大火
阿弥陀堂・林西寺
   
・寛政12年(1800) 倉賀野宿の旅籠屋61軒
 江戸と諸国を結ぶ物資輸送の重要な中継地であった。
 宿場は参勤交代や旅人・船頭・人足・町人等で大いに賑わった。
 
 また、無宿渡世人も多くいた。人足としても働いた。
 ★木枯らし紋次郎の世界である。
 
 高崎宿には月6回の市がたった。
 倉賀野にも市の機能があったと言われている。
  今でも南町、上町、下町、桜木町、中町、田子屋町などの地名が
  残っている。 


・寛政12年(1800)
舟利用の運搬が盛んになり、全盛期には76業者があったという。
そして、倉賀野から江戸への通船は大名の荷物ばかりでなく、一
般の積み荷も扱っていた。
倉賀野河岸の小船や艀(はしけ)から大きな江戸廻り船まで
約119艘が就航したという。
※戸塚屋傳兵衛の記録が残っている。
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運賃は陸上交通の半分ほどで、一度に大量の荷物を運べるため利用度
 も高かった。

越後、信州・西上州から馬や牛で運んできた倉渕の木材、大名の米穀、
各地の生糸、高崎吉井の煙草、岩島の麻、味噌・醤油・その他が、
ここで舟に積みかえられた。 

●倉賀野には牛宿・牛街道があった程賑わっていたという。

●倉賀野の下り荷・・・3〜4日
  大名の米穀・煙草・絹・岩島の麻・綿などが江戸に運ばれた。

倉賀野の上がり荷・・17〜18日
 塩・藍・呉服・茶・ぬか・海産物(塩魚・こんぶなど)・干し物
 ・肥料である干鰯・陶器・小間物・化粧品・油・砂糖・
などが河岸から宿場へ上げ荷された。
  (★ぶらりたかさき・新編高崎市史)

帰りは、江戸から来た塩・藍・呉服・茶、海産物・干物、小間物など
を馬や牛に背負わせて故郷にに持って帰って行った。



・文化元年(1804) 453軒・・・旅籠屋71軒、茶屋9軒、
 商家34軒、造り酒屋2軒、農家192軒、その他145軒と
 いう宿場であり、商家がわずか34軒である。
 
●三島宿の場合、平旅籠の宿泊代は50文〜1貫600文(銭7kg
文)までであった。現在の旅館と同じである。
一般の旅人の宿泊代は平均200文〜400文と言われている。
 現在の値段に換算すると4,000円〜8,000円になる。
 ★倉賀野宿も同様であろう。高級宿はなかったけれど。
 


飯盛女:女郎を置いた家が倉賀野71軒、茶屋9軒があったという。
飯盛り女(女郎・商売女・・・間引きで売られてきた百姓の娘)も
滅茶苦茶多かった。
 
三島宿と倉賀野宿の宿数・女郎衆は同数であろう。


 徳川幕府は伝馬制度(使者や物資を馬で運ぶ交通制度)を五街
 道の宿場宿場に大名や公家の荷物や輸送を命じた。
倉賀野宿では、街道の長さ約1,2qある。上町、中町、下町が
 10日間ずつ交替で、3つの町が人馬の継立や助郷のふれを
 出し、伝馬を受け持った。

 宿場の宿は、莫大な経費をまかなうために、旅籠屋に飯盛女を
 1軒2人限り置く事を許し、そのはね銭を旅籠屋は伝馬宿の経費
 に当てていた。新町宿・倉賀野宿・高崎宿・板鼻宿・安中宿・松井
 田宿・坂本宿も当然、宿場女郎はいた。沖宿や神山宿でさえいた。


倉賀野宿では旅籠71軒に2人ずつの制限内でも単純に計算して
 142人の宿場女郎がいたことになる。しかし、実際には制限を無
 視して、3人〜5人も置いていたので、実質200人以上の飯盛女
 (宿場女郎)がいたことになる。
 
 飯盛女(女郎)が1人の客をとると200文〜300文であった。
 その金が全部飯盛女の所得になるのでなく、飯盛女の手に入る
 のは50文〜100文であった。時代が下ると、100文〜200文
 といったところであろうか?
 三島宿での天保時代頃の相場は300文〜500文で、飯盛女の
 手に入るのは100文〜250文であった。三島じょろ衆はの〜え・・・
 ★ほぼ同様な値段=収入であろう。
 (1両=銀60匁=銭4貫(4000文)=4分「1分・1000文」
 =16朱「1朱・250文」・・・

・享保15年(1731)頃「蕎麦・蕎麦切・・・8文〜10文」
・文政13年(1830)頃「「もり」「かけ」・・・16文〜20文」
          「天ぷら蕎麦」・・・・28文〜32文
          「並酒〜上酒1合・・・20文〜40文」
 ★寛永通宝4文銭・天保銭の影響で・・・4の倍数である。
   100年で、2倍の物価上昇・・・
 現在、かけ蕎麦1杯300円・天ぷら蕎麦500円として、
 飯盛女の手元に入る給料は1回1500円〜3000円程度
 ということになる。
 こんな倉賀野の女郎衆が貯めた給金で、お金を出し合って、洪水
 で流された橋を建て直したという。
  
 飯盛り女たちは現代のようにお金儲けや好きで飯盛女になった
 わけでない。百姓の口減らし&家族の生活のため、間引きとし
 て売られてきた百姓の娘であった。
 百姓の父親から身売りであったので、旅籠屋から前借金という名義
 で身代金を親なり兄姉なりが先に受け取ることになる。飯盛女:女
 郎の年期奉公は3年〜10年であったらしい。普通の飯盛女は7両
 〜10両で、上玉の飯盛女は10両以上であった。10両を親が3
 年以内に利息をつけて返せれば、娘を引き取ることができた。しか
 し、年期のあけるのを待つか、大店・金持ちの客に身代金を出して
 もらって、身請けされるかのどちらかのようである。
 ★当然である。高崎藩では、6公4民〜7公3民であった。百姓が稼
 げる訳はない。


※多胡碑の研究をした山名高台寺の木戸白満の「藤波屋」が有名
 で飯盛女が多かったらしい?吉井・高崎の煙草も扱っていたし?

◆上州倉賀野宿 ( 群馬県 ) 群馬県近隣の名所・旧跡を訪ねて
http://blogs.yahoo.co.jp/minigter/70233951.html 
を参考に編集。素晴らしい研究である。
 
倉賀野町にある上野国以外出身の娘の墓を調査した記録がある。
 上野国以外出身26人中、越後出身が19人である。
12〜29歳が多かった。
(★「高崎の散歩道 第二集」「高崎漫歩」)
年期奉公が開ける前に死んでいった悲しい女性達であった。
 九品寺などに多い。
 

・享和3年(1802) 家数:453軒、旅籠:64軒、
 割烹茶屋4人・銭質屋4人・鍛冶屋4人・豆腐屋10人・
 荒物小間屋18人・髪結6人
 酒屋3軒・小売り酒屋10人・
 人口2156人(男1148人・女1018人)であった。
 (★ぶらりたかさき:内山信次著)


・文化10年(1813)
  ・林西寺の再建
  ・松井田五料宿:高砂屋文之助は常夜灯建立:閻魔堂

・天保14年(1843)297戸2032人・本陣1・脇本陣2・旅籠32
  減ってきた。何故?

・嘉永5年(1852) 倉賀野河岸保有船数133艘
   河岸問屋十数軒。



●【12】 倉賀野宿
・追分(日光例幣使街道)・・
追分(下町交差点の所)・閻魔堂・道標・常夜灯が立つ。 
※中山道を倉賀野宿で分かれ日光へ至る日光例幣使街道
との追分。日光東照宮の毎年の例祭に合わせて、京の朝廷
 から金の御幣を託された例幣使の日光への参拝道。
 
・閻魔堂・・阿弥陀堂。
 閻魔さんが座っている。

・「従是 右 江戸道 左 日光道」
・説明板

・常夜灯・・・・中山道と日光例幣使街道との分岐点。
(烏川から利根川を経て江戸に行く川舟が出て、
  多くの蔵。=倉賀野という。)
・下の木戸跡・・
・「吉野家」・・・屋号が叶屋の造り酒屋。

・大山家
・中山道倉賀野宿石柱
・石灯籠・双体道祖神

・大鼓橋跡
・小林本陣跡碑
・弁財天社(弁財天公園)・・天明3年(1783)の建立。
  芭蕉句碑と道祖神
 「むすぶより はや歯にひびく 泉かな」
  旅人の喉を潤した清水を詠んだ句。

・旅籠・・
・諏訪神社・・
・池鯉鮒神社
・養報寺・・・・倉賀野城主金井淡路守景秀によって建てられた
         山門
・倉賀野町元標(中町交差点)
・九品寺・・・・1つの光背の前に三尊を置く善光寺式の本尊。
・倉賀野河岸の船着場・・・・共栄橋。
    周囲には往時を偲ぶ物はない。
    今はこのあたりの流れは急だ。
※倉賀野宿烏川・・・英泉画・・去年の高崎学出題

●倉賀野城
・雁公園・倉賀野城址・・・
鎌倉時代、武州児玉党の流れを汲む一族が倉賀野氏を名のり、
14C末にその子孫が築城。
※倉賀野城16騎・・・倉賀野城の16人の武将
上杉、武田、後北条の勢力の挟間で揺れ動いた。
倉賀野氏→金井淡路守
   (1566年頃に武田信玄が改姓させた。)
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際に陥落した。
『倉賀野マップ』
・正保3年(1646)廃城
・倉賀野城の三ノ郭の井戸・・
   
・大神井戸八幡・・・・裏には三猿が彫られた数基の庚申塔。 
・中町の御傳馬人馬徒立場跡の碑・・
 仲町山車倉の前 
 立場は北側にあった。
  天保14年(1843) 3ヶ所に継立場があった。

・脇本陣跡碑=脇本陣跡須賀家・・河岸問屋で脇本陣。
  倉賀野宿には脇本陣は2軒あった。
  
  明治時代の建物である。
  連子格子の主屋、付属屋(番人小屋)、白壁の塀である。
  裏に江戸期の薬医門、土蔵、味噌蔵などが残るそうだ。

・上町問屋場(現須賀医院)の高札場跡
   (高さ2間、幅3間、奥行き1間に8枚の高札)
・高札場跡

・大杉神社跡
・牛街道・・
・倉賀野神社・・
・上の木戸跡
・安楽寺(安楽寺古墳・異形板碑・勝軍地蔵尊)・・
・一里塚跡
・松並木・
・正六観音堂



●倉賀野古墳群
・大鶴巻古墳・・
・小鶴巻古墳・・
・浅間山(せんげんやま)古墳・・


→粕沢川 享和三年の粕沢橋
→佐野
・定家神社
・常世神社・・北条時頼が一夜の宿をかしたとき、
   秘蔵の盆栽の梅の木を焚いてもてなしたと言う
   佐野源左衛門常世の家。
→和田多中    
・観音・・・台座に「左 婦ぢおか ちちぶみち 右 高崎」

(国道17号)・・・(上越新幹線)・・・(上信電鉄)


●明治時代
・明治6年(1873) 倉賀野小学校が九品寺に開校した。
・明治14年(1881) 倉賀野小学校が永泉寺に移転した。

・明治17年(1884) 民営高崎線(現JR高崎線)開通
     (高崎〜上野)
  
・明治19年(1886) 倉賀野小学校新校舎(現倉賀野公民館・農協)
               
・明治20年(1887) 倉賀野駅が開業
 
・明治22年(1889) 町村制施行により「西群馬郡倉賀野町」となった。
 
・明治29年(1986) 「群馬郡倉賀野町」となった。
 
 
●大正時代 
・大正11年(1992) 倉賀野小学校が現在地に新校舎移転した。

●昭和時代〜
・昭和38年(1963)  高崎市に吸収合併→「高崎市倉賀野町」となった。

・昭和40年(1965)  倉賀野工業団地開設.
第一屋製パン梶Eキリンビール
   専売公社高崎工場が操業開始した。

・山田かまち・・・絵

●現在
・もりなが製菓
・ガトーフェスタ・ハラダ

・松井常松・・・・
・氷室京介・・・・




◆参考資料
・倉賀野マップ:高崎市
・「高崎市倉賀野町 合併50周年記念誌 未来への道しるべ」
・高崎散歩第2集
・高崎漫歩      
・ぶらりたかさき
・新編高崎市史
・中山道の本3冊
・上州の街道



【2】「高崎:倉賀野の城一覧」

116 上稲荷前屋敷 *倉賀野城の外砦
117 倉賀野新堀屋敷 *倉賀野城の外砦
118 養報寺 *倉賀野城の外砦
119 朝日長者屋敷 *倉賀野城の外砦
120 万福寺屋敷  大鶴巻古墳南 *倉賀野城の外砦
121 宮之前屋敷   倉賀野中学校西 *倉賀野城の外砦
122 倉賀野西城   倉賀野中学校北西50m *倉賀野城の支城
123 永泉寺の砦 ×倉賀野駅前北西 *倉賀野城の外砦
124 倉賀野城×  倉賀野中〜倉賀野河岸〜中山道  
    800m×400m

◆倉賀野城:倉賀野氏→金井氏の歴史  
○○○○年  武蔵児玉党の一派秩父三郎高俊が倉賀野氏を名乗る。
      武蔵児玉党の子孫が倉賀野氏が土着した

・治承4年(1180) 源頼朝の挙兵
倉賀野三郎高俊も参加。

・建久元年(1190) 11月7日「倉賀野三郎高俊」が
   源頼朝に遂行した。
    (★吾妻鏡)

・建長5年(1253) 倉賀野三郎高俊が飯玉神社社殿建立

                      
・応永元年(1394) 倉賀野三郎左衛門尉光行が倉賀野城を築城
   戦略的に重要な拠点として倉賀野城を築城した。
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・天文15年(1546) 川越の夜戦
   倉賀野行政が戦死。
  
 倉賀野16騎が 病弱であった嫡男:倉賀野為広を補佐した助け、
 倉賀野城を守った。  


・天文16年(1547) 小田井原合戦・・・
  上杉憲政が武田晴信(信玄)に攻撃。
  籤引きで先鋒に選ばれた倉賀野為広の名代として上杉勢を率いた。
  倉賀野十六騎の金井秀景が先陣。 
      800m×400mの城
 志賀城後詰.
  武田晴信と戦うが、大敗を喫した。
 
   
・その後、倉賀野為広が死去。
   倉賀野尚行が跡を継いだ。

・享禄2年(1529)〜享禄4年(1531) 関東享禄の内乱
第3代古河公方:高基から第4代・晴氏に継承される時にも永正の乱
よりは小規模だったものの、再び新たな抗争が生じた。
関東管領:山内上杉家でほぼ同時に家督相続争いが発生した。

 上杉憲政幕下の重臣となった。
倉賀野行政&倉賀野16騎は関東管領の上杉憲政に従った。  

・????年  倉賀野五郎は長野業政の娘を娶る。
★長野業正女たぶん、倉賀野五郎=尚行であろう。
  しかし、年齢的に見て、金井秀景が有力説である。


・弘治3年(1557) 武田晴信(信玄)による西上州侵攻が激化。
 長野業政は、箕輪城と倉賀野城などの支城網を駆使し撃退。 
  
・永禄2年(1559)9月 武田信玄が板鼻に陣取った際に
  金井秀景は武田信玄に従ったと言われているが・・・・?
 金井秀景は一転して武田信玄に仕える。
 武田信玄の家臣となり、金井淡路守秀景→倉賀野秀景に改名。
      (★現地説明板では・・これ変かも?)
 倉賀野城で内部分裂があったとも見られている。
    (★高崎市史)
   
・永禄3年(1560) 倉賀野五郎が長尾景虎の第一次関東出兵に参加
     (長野一族と同じ檜扇・・・関東幕注文)
   
・永禄4年(1561) 武田信玄の倉賀野攻撃・・・死守。
   
・永禄6年(1563)             
   
・永禄8年(1565) 倉賀野城落城。
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・永禄9年(1566)
  金井秀景は武田信玄の箕輪城攻撃に剣崎城主として参加。

9月29箕輪城が落城。
  箕輪城主の長野業盛は自刃した。
  倉賀野尚行は上杉謙信のもとに逃亡した。

・元亀元年(1570) 倉賀野城主となり名字を倉賀野に改める。
 金井淡路守秀景→倉賀野秀景に改名。
  (子孫の会と高崎市の街巡りパンフレットを参考。
   
・永禄11年(1568)武田信玄は倉賀野城南西方向2.5qの所に
   根小屋城を築城。
  根小屋城・・・佐久の伴野氏・大井氏が城番
   
・天正10年(1582) 
3月11日 武田氏滅亡。
   →倉賀野秀景は滝川一益に伺候し、滝川一益に従属→
   倉賀野秀景は武田豊信に出仕を促し、梶原政景を仲介するなど
   滝川一益の補佐役に位置する立場にあった。
             
6月2日 本能寺の変で織田信長死去。
  
6月18日〜19日 神流川の戦い

滝川一益+倉賀野秀景+和田信業・元長野・武田の人質軍団
    VS 
北条氏邦800
   
北条氏直率いる軍勢と戦い奮戦した。
9月19日 北条氏政&氏直軍が到着。
滝川軍敗退。
 滝川氏撤退→倉賀野城→厩橋城
 滝川一益が供養・・・
9月22日 箕輪城で宴会。
倉賀野秀景は真田昌幸等と滝川一益との別れを惜しみ、木曾まで
 滝川一益を警固した。

 倉賀野氏は北条氏に従属。
 和田信業等と共に北条氏の軍門に下った。

 北条氏康の重臣:垪和(はが)伯耆守康忠が倉賀野城主。
  北条氏康の重臣:垪和(はが)伯耆守康(泰)忠の子
  垪和(はが)伊予守氏続の子・・・
  倉賀野城代→厩橋城代→箕輪城代
  垪和信濃守?が倉賀野城主となったらしい。



 →倉賀野秀景は小田原城へ出勤〜〜〜あああ〜〜〜。
    
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
画像
 
垪和(はが)伯耆守康(泰)忠が箕輪城にいて、
 真田昌幸に箕輪城を引き渡した。
 直前に逃げた説もある。

7月5日・・小田原城落城。
倉賀野秀景は小田原で籠城
早川口の守備についた。

7月28日(8月26日) 金井秀景(倉賀野秀景)は死去。
墓所・・・高崎市倉賀野町 永泉寺
 ※清和源氏新田氏族金井氏→倉賀野氏と改姓
 また、今も倉賀野城祉が残っている。

 
◆箕輪初心★倉賀野城◆
http://53922401.at.webry.info/201012/article_23.html

箕輪初心■箕輪城シリーズ25「箕輪城&北条氏滅亡」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_39.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201010/article_39.html

箕輪初心■箕輪城シリーズ24「第16代:垪和信濃守」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_38.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201010/article_38.html




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コメント(2件)

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・松井常松・・・・
・氷室京介・・・・
彼らとは同世代で、なにやら楽しくなる成分の入った飲み物を一緒に飲んだ記憶があります。布袋氏とも・・・
もうかなり昔の話になってしまった。おじいちゃん実家も江戸時代は豪商で、木部ではなく倉賀野に店を出していたのかもしれませんね。
棟治
2015/10/02 22:42
凄いですね。山田かまちさんも御存知なんですか?
富岡武蔵さんは、氏族の研究をされていて、城郭の研究会にも所属しています。是非、お会いしてください。パソコンは暮れになるかもしれません。
棟治様へ
2015/10/03 06:56

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