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zoom RSS 箕輪初心:生方▲2015高崎【旧倉渕村の歴史散策】

<<   作成日時 : 2015/09/25 08:13   >>

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旧倉渕村と言えば、@小栗上野介&東善寺、A戦国時代の栗崎城
・権田城、Bはまゆう山荘、Cみょうが、Dます池の鱒丼・・・
位しかすぐには思い浮かばない。何が有名なんだろう?
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箕輪初心★高崎倉渕「碓氷貞次伝説」&倉渕の偉人
http://53922401.at.webry.info/201410/article_22.html

◆◆ 箕輪初心●群馬「倉渕の城砦=5城」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201103/article_9.html


箕輪初心●群馬倉渕『栗崎城=三ノ倉城』:全透院裏
http://53922401.at.webry.info/201302/article_16.html

箕輪初心●群馬:権田城=武田信玄の長野氏への攻撃拠点
http://53922401.at.webry.info/201103/article_10.html

◆◆ 箕輪初心●群馬倉渕「権田城」 ◆◆
2回目 http://53922401.at.webry.info/201302/article_14.html


◆◆ 箕輪初心●群馬倉渕「大明神砦」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201302/article_15.html

箕輪初心◆箕輪城101『落城悲劇:藤鶴姫の死』
http://53922401.at.webry.info/201302/article_17.html


箕輪初心■東京&群馬:小栗上野介C「権田村での隠遁生活」
http://53922401.at.webry.info/201107/article_1.html

箕輪初心◆高崎倉渕▲名山&名所旧跡
http://53922401.at.webry.info/201410/article_23.html





【1】旧石器時代


【2】石器時代


【3】縄文時代
 権田の「長井石器時代住居跡」・・・平らな石を巧み に敷き詰めた
 住居跡・・・★縄文時代の高い技術がうかがわれる。


【4】弥生時代
水沼の弥生時代住居跡
 後期弥生文化を知る重要な標識的遺跡である。
 昭和19年から7回にわたって発掘調査が行われた。
 8戸の住居跡から、樽式土器が多数出土した。
 さらに鉄鏃・砥石・紡錘車などが出土し、稲作と鉄器使用の文化の
 関連を知ることができる。


【5】古墳時代
石上部君と物部氏の広がり?・・・製鉄遺構


【6】奈良時代
●碓氷の君?


【7】平安時代


◆中世
碓氷貞次
新田義重の右腕として、元々は新田庄から八幡庄に入った。
現倉渕や松井田・安中地区を統治したらしい。
新田義重の長男:里見義俊は嫡男ではないため、分家し「里見」
を名乗った。里見義俊の長男:里見義成は高崎市旧榛名町里見
在住した。次男:里見千代丸→碓氷貞次の養子となった。→碓
氷三郎里見義雅→塚越氏の祖となった。本当か否かは不明であ
る。出典は「新田氏氏流:里見氏」:里見義成著である。・・・
碓氷貞光は源頼光に従って、「大江山の鬼退治」をしたという。
源頼光の子孫に源頼政、さらに高崎藩の大河内松平家がいる。



●権田栗毛伝説
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熊谷次郎直実の愛馬権田栗毛は一ノ谷の戦いで傷つき、介抱されて
生地の権田に帰った。しかし、すでに生家は絶えてなかった。
栗毛は主人:熊谷次郎直実の許に帰ろうとしたが、途中の
土城谷戸で逆水を飲み、遂に倒れた。
里人はここに馬頭観音を建てて葬った。
生地にはお母衣明神がある。


源頼朝の三原の狩→那須の狩伝説
里見義成山名義範の案内で
里見→倉渕→二度上峠→狩猪(北軽伊沢)
三原の狩をした。




【8】鎌倉時代
板碑・・・・鎌倉武士の信仰



【9】南北朝時代
榛名山座主の墓
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 榛名山座主:快尊・忠尊・快承の墓といわれる塚がある。
 鎌倉末期と推定される板碑や五輪塔の一部が残されている。
 榛名山の支配権をめぐる争いが、南朝と北朝の勢力に二分され、
 南朝方の快尊らは、北朝方の頼印と烏川沿岸で争い滅亡した。


【10】室町時代
●全透院の開基:木部氏→中興:浦野氏
裏が栗崎城である。
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【11】戦国時代
木部→浦野→長野→武田→北条氏の支配
■大戸城主:浦野弾正忠重勝
「大戸浦野氏」=滋野流浦野氏の出自についての説
@禰津氏からの分流とする説・・・一般的
A大戸浦野は滋野一族海野氏の系流で、信州小県を本領とする説
 (★大戸村誌・群馬県史)
 海野氏は上信国境三原の庄(羽根尾)の領主である。
 
・鎌倉時代以降、浅間山の裾を通って西吾妻に進出した。
・建保3年(1215)浦野氏が信州小県郡から浦野玄藩重治が西上州に
来て、大戸に居を構えた。
(★烏子稲荷神社史料・・・現在、浦野氏の祈願所)
 そして、上野国に所領を持つ浦野氏は、大戸城を拠点とした。
  滋野の三家(:海野・禰津・望月)は同族としての結び付きが強
  かったので、浦野氏は海野氏に従っていた可能性もある。
・以後約200年間については史料が見つかっていない。

・延徳元年(1489) 木部新九郎が全透院を開基した。
  木部氏は応永年間(1420頃〜永正年間の始め頃までの約100
 年間にわたって三ノ倉地方を支配した。

・永正年間ころ(1504)〜 倉渕は大戸の浦野氏の支配下になった。
 

・永正6年(1509) 連歌師柴屋軒宗長の紀行文「東路の津登」
に「大戸というところ、浦野三河守宿所にて一泊し、九月十二日
草津に着きぬ。」とある。
  大戸に浦野三河守の屋敷があった。
 青柳(前橋)→浜川(長野系松田氏の館)→(倉渕)→大戸→
 草津→大戸句会→(倉渕)→地蔵峠?→碓氷→依田館で句会
 (★おろらく後閑城)→浜川で句会:多胡碑に石上が載っているの
 で、長野氏は凄いねえってとこか?

・永正9年(1512) 長野憲業が長年寺に壁書を書いた。

・永正10年(1513) 長野憲業が100疋を榛名神社に寄進。
         大戸城の攻略を祈願
         (★みさとの歴史)
箕輪の長野憲業に攻められて
 浦野氏は敗れた。
 後に和睦して均衡を保ち、長野氏から栗崎城を与えられた。
 浦野氏は、大戸を本拠地として、権田城・栗崎城を支城にして、
 大戸・三ノ倉地方を支配した。
 権田城に大戸真楽斎が住んだ。

・大永2年(1522) 大戸城主:浦野弾正忠重勝は栗崎城内に堂宇を
 建立した。室田の長年寺5世紹舜大和尚を招じて、全透院を中興
 開基した。

・大永6年(1526) 丙戌4月20日 浦野弾正忠重勝没51歳)
全透院の名前は、浦野弾正忠重勝の法名「青霄院関翁全透居士」
 にちなんで命名された(伝)。

・享禄3年(1530)吾妻の戦い
 長野憲業が戦死した。長野業政40歳?が家督相続したとする。

・???? 大戸中少輔は長野業政の娘を妻とした。
 後、斉藤憲弘の娘も妾にした。

・永禄年間・・
 大戸浦野氏は武田信玄の家臣:真田幸隆の支配下に入った。
 真田氏は砦を3つ造った。
 

  長年寺攻撃・鷹留城攻撃
  長野三河守ら80余命を討ち取った。
大戸浦野氏は甘利昌忠の紹介で武田信玄の家臣になった。

・天正12年(1582)北条氏邦の箕輪城入城。
  榛名松山城に上田氏が入った。
  倉渕に侵攻した。
  大戸浦野氏本流は岩下の対岸の根小屋城に移った。

・現在、群馬県吾妻郡大戸の浦野氏は多いが、本流は
  長野原の林城近くの浦野孫彦氏が本流である。
  古文書を群馬県立文書館に寄贈した。

◆参考文献
・浦野家文書(群馬県立文書館)等



●箕輪城主:長野業政の夫人:藤鶴姫の墓
 永禄9年(1269)箕輪城落成の時、業政夫人:藤鶴姫は家来と
 共に城を脱出してきたが、途中で敵に囲まれた。家来に防が
 せて一人逃れてきた。高野谷戸の辺で
 「オーイ。」と呼ぶ家来の声を敵と思い自害してしまった。
 家来はこ墓を造り姫の霊を供養したという。
箕輪初心 藤鶴姫で検索すると詳細が出る。
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◆刀工・上州権田住政重屋敷跡
戦国時代〜江戸末期まで、刀鍛冶である。
  刀銘は古刀期から「政重」がある。
権田政重の系譜を継ぐ蟻川若狭守は、北毛の鍛冶職人を統括し、
  沼田の土岐氏や川越の松平氏に仕えて鉄砲鍛冶として活躍した。
・江戸時代・・・「金重」の銘もある。
・昭和57年4月1日 倉渕村指定史跡
   名称:刀工・上州権田住政重屋敷跡


【12】江戸時代
●信州街道・・・大名2家が通行
  飯田城主・上田城主が通った。
  ★中山道碓氷峠より安全だった。
  大戸の加辺家も活用した。
  

●三ノ倉宿
 


●地蔵峠道の元禄5年の道しるべ
 中山道松井田宿〜旧細野村〜地蔵峠越えの榛名参詣道にある。
 江戸時代、榛名信仰が一般庶民に浸透するようになると多く利用
 されていた道である。
 「みぎは山みち ひだりはまついだ」
 と刻まれた。
 小栗の娘も峠を越えようとしたが道に迷って亡くなった。

●浅間焼けと飢饉
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●水沼村年貢増徴反対運動

●幕府御用材搬出御会所跡(倉渕村大字川浦字高芝27−5)
 はまゆう山荘の200m程先にある。
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●道祖神・・・113体
道祖神が交通の要衝であった倉渕には多く祭られている。
外界に通じる道は様々な災厄が侵入してくる場所でもある。
村人は村や集落の境に神を祭って、病気や悪霊などの災厄が入って
こないように祈った。

@落合の道祖神
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倉渕の道祖神を有名にしたきっかけともなった落合の道祖神。
 ★エロチックな夫婦和合の姿はなんとも言えない。



A熊久保の道祖神
・寛永2年(1625)の年号が刻まれた道祖神。県内最古である

B椿名神社の道祖神
 権田の椿名神社の境内にある。
  銀杏と杉の大木の根元がくっついた下にある道祖神である。

※男女の神が抱きあったりする双体道祖神、榛名町にもあるがキス
道祖神など珍しい道祖神がたくさんある。



【13】江戸時代末期:幕末

箕輪初心■東京&群馬:小栗上野介C「権田村での隠遁生活」
http://53922401.at.webry.info/201107/article_1.html
<< 作成日時 : 2011/07/01 06:20 >>

小栗上野介
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・1827年 譜代の旗本・小栗家に生まれた。
・万延元年(1860)34歳
井伊直弼大老の抜擢により、遣米使節として渡米。
日米修好通商条約の締結。
 世界一周の旅から帰国した。
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 外国、勘定、江戸町、歩兵、陸軍、軍艦、海軍の各奉行を歴任した
 ※江戸幕府の要職として日本近代化の礎を築いた。
◆◆「小栗上野介」の帰国後の業績&提唱◆◆
【1】 横須賀造船所の建設の構想+業績。
 @群馬:下仁田中小坂鉄山(群馬県下仁田)・・・鉄の供給。
 A横浜製鉄所・・・鉄鉱石→製鉄。
 B横須賀造船所=造船所・鉄→ネジなどの鉄製品・船などの製造。
  戦艦「三笠」の東郷平八郎も小栗を絶賛。
  「勝てたのは、小栗さんがいたからだ。」と遺児を食事に招待。
【2】@から、群馬下仁田中小坂の鉄鉱山開発の推進。
【○】Aへ運ぶ【江戸〜横浜】間の鉄道の建設構想
【3】A 横浜製鉄所・・ロッシュの提案で小さな製鉄所建設。
【4】 兵庫商社=日本初の株式会社の設立・
  ・大坂商人鴻ノ池など22人で発足。明治維新で廃止。
【5】 築地ホテル=日本で最初の水洗トイレ&株式会社
清水建設2代目:清水喜助が建築。明治5年の銀座の大火で延焼。
【6】 フランス式陸軍制度の導入&訓練
  ★「坂の上の雲」の真田兄も入学。洋式陸軍制度の導入。
 
【7】 フランス語学校の設立=日本初
★★「小栗上野介」の帰国後の提唱★★
【8】 ガス灯の設置の提唱
【9】郵便制度の提唱
   小栗→栗本鋤雲のアドバイス
       →後に…前島密+渋沢栄一が断行。
【10】 電信制度の提唱
【11】 新聞発行の提唱・・・福沢諭吉と計画
【12】 鉄道建設の提唱・・・江戸〜横浜
【13】 森林保護の提唱・・・
【14】 中央銀行の設立の提唱
【15】 商工会議所の設立の提唱
【16】 小布施の船の株式会社の建設構想
    小栗から高井鴻山はカンパニーの相談をうけ、
アメリカ人ウェンリーを頼んで設立したいと上申した。


・慶応 3年 (1867) 10月14日大政奉還が行われた。
 ※西郷隆盛は江戸の放火を命令→相良総三など500人が
 放火・強盗。 
12月25日 ●小栗は薩摩藩邸への焼き討ちを決行
→鳥羽伏見の戦いの火種に発展
★さらに、薩摩の恨みを買った。→倉渕で斬首へ発展。
 ※新田官軍(太田市の平安時代末期の新田一族)の動き
  ・大将・・・・・岩松俊純
  ・副大将・・・大館謙三郎
   新田官軍総帥達は相良総三と懇意で、幕府側:小栗の薩摩藩邸
   襲撃で、山形に敗走。
 ★新田官軍・相良総三の逃げ延び先は清河八郎の家かも
    しれない。
 ★勝海舟は相良総三の相棒:益満休之助と昵懇であった。
・慶応 4 (1868)年 42歳
 1月3日 ※鳥羽伏見の戦い・・・旧幕府軍が敗退。
 1月12日  ※徳川慶喜が京都から海路で横浜入り。
 1月15日  異国との抗戦論&薩長根への主戦論を主張→罷免。
※小栗上野介&榎本武揚は主戦論
 ●小栗の秘策・・「薩長軍を箱根峠で待ち伏せ、
洋式軍隊で攻撃。後続部隊を駿河湾から
新鋭艦8隻で攻撃・・・。」
※勝海舟は薩長に恭順の考え→徳川慶喜も恭順の意
 ●徳川慶喜の袖をつかんで説得した小栗だが→罷免。
※大村益次郎「実行されていたら、我らの首はなかった。」

※勝海舟と西郷隆盛が、江戸の洗足池の勝邸で密談
 西郷「幕府の金はどげんしたのか?」
     勝「わからない。小栗が隠したかもしれん。」
★★→勝海舟の安易な回答が、埋蔵金騒ぎに繋がった。
※江戸城の無血開城
1月28日●小栗・・幕府に、土着願い提出
2月 ●上野彰義隊の渋沢喜作(渋沢栄一従姉妹の訪問
小栗は官軍との交戦依頼を断った。
「大義名文はたたない。もうし群雄割拠なら、・・・」
     

●●【権田村での隠遁生活の時代】〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
知行所上野国権田村に移住
   @初代:小栗??・・系図では、徳川家康の祖父の弟?。
   「安詳譜代」・・古くからの譜代で徳川の特権階級
領地・・2500石+200石=2700石 
      上総の稲葉村
下総の五反田村・堀内村・大川村・田辺村
下野の高橋村・大沼田村
上野の倉渕村375石・下斉田村・与六部村
◆東善寺・・5代:小栗政信が現在の地に建立

2月28日 江戸出発・・桶川泊・・・深谷泊・・高崎泊
(旧暦のままのため)
総勢・・家族5人+家臣8人+権田足軽16人
3月 1日  権田村に土着。
      東善寺を仮住まいとして居住。

3月 2日 打ち壊し暴徒博徒:鬼定・鬼権が江戸から追従。
箕輪・金古・引間・有馬・渋川・などを襲撃。
「徳川の持参金・埋蔵金めあて」だったらしい。
家臣:大井は「500両は預かった。」と鬼定に伝えた。
3月 4日  暴徒7000人来襲(★群馬郡誌のみ)
        暴徒2000人来襲(★ほとんどの資料)
     →洋式の鉄砲・軍隊で約20人+村人で撃退。
       塚越家から避難していた妻:道子達が帰って来た。  
  ※先導者:金井荘助・・・西郷隆盛の雇われ大将説あり。
  ※勝海舟・・・・熊谷まで出向いて、東山道総督:岩倉に面会
    「関東には官軍に従わない不心得な旗本がいる。」
   と、わざわざ告げ口に行った。その後、板垣は近藤勇の
   甲陽鎮撫隊を撃破した。→江戸に向かった。
   勝海舟の情報提供による可能性が高い。・・・
  ★勝海舟はわざわざ、板倉退助に
  「官軍の敵は、小栗上野介&近藤勇である。」と知らせたのでは?   
 3月 5日 ●小栗「権田村から太政大臣を出すぞ。
 東善寺に勉強に来なさい。」と言ったとか?
3月 6日  ●観音山の邸宅予定地を下見。
 ※熊谷次郎直実の愛馬:権田栗毛を祀った観音堂の上

     (★マス重・・・これはおいしい)
     (邸宅の入り口は、マス重の看板の反対から)
     (邸宅は、群馬県前橋市総社町の都丸邸に移築)
     (浅間隠山を望む)
 3月 11日 ●邸宅の測量開始・・・フランス式
小栗又一と荒川祐蔵が測量・設計か?
●小高用水着手。※小栗は完成を見ないで斬首。

●アラビア馬で散策。
●「サンキュー」と度々使っていた。
●服装も西洋式だった。靴も履いていた。
       ★以外と西洋かぶれだった。

4月22日 東山道総督が高崎藩・安中藩・吉井藩に小栗の追補命令。  
※東山道総督:岩倉具定(具視の子17歳)
東山道福総督:岩倉具経(具視の子16歳)
参謀:板垣退助 & 伊知地正治・・・実質的な指令。 
「小栗上野介・・陣屋を厳重に相構え・・・。」

4月29日  東山道総督の命  神山宿で大井・沓掛が面会。
      →三藩は追補兵を三ノ倉に宿陣(全透院)。
閏4月 1日  三藩は観音山等を検分。
       逆謀私心無き事を知り、銃5挺などを押収。
閏4月 2日  養子又一、用人塚本真彦、沓掛藤五郎、多田金之助を
       随員として高崎藩へ 無実弁明のため出向いた。
閏4月 3日 妻の脱出計画。・・・後。会津へ。
閏4月 4日 ※東山道鎮撫総督府軍監副巡察使:原保太郎・豊永貫一郎
「小栗上野介は大罪人であるから、追補せよ。」と激怒。
「従わない場合は、3藩に保証はない。」と脅迫。
巡察使:大音龍太郎の意向もあった。(★村上氏)
※大音龍太郎・・・近江伊香郡木之本村大音(小谷城近く)
の出身で、勤王浪人・・・箕輪村龍門寺(井伊直政建立の
鬼門の寺)に2年程滞在・・巡察使・・初代:岩鼻県知事)
 ★箕輪の龍門寺19世に大音は世話になった。上野通なのだ。

閏4月 5日 3藩の兵が東善寺裏山より侵入。
    小栗上野介らを捕縛→三ノ倉の陣屋(戸塚宅)に連行。
閏4月 6日  取り調べなく、水沼川原で家臣とともに斬殺。
大井礒十郎・渡辺太三郎・荒川祐蔵・・斬首。
小栗上野介を斬首。
・・安中藩徒目付:浅田五郎作が原に命じられ、斬首。

閏4月 7日  高崎藩牢屋敷処刑場で
       養子:小栗又一・用人:塚本真彦、
       沓掛藤五郎、多田金之助を斬首。

  ※勝海舟の陰謀説もあるが、不明である。
  ★でも、勝海舟は小栗が嫌いで、陰険な男で
     性格であった可能性も大いにある。
    つまり、幕府の中に、小栗の敵がいたことになる。
●=〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
4月   大音龍太郎の届け出 
「小栗上野介は松平容保・小笠原壱岐守と結託し、碓氷峠で
   官軍の待ち伏せを計画するため、権田村に引き込んだ。
   百姓が蜂起すると、罪のない百姓を殴打した。
   官軍たりとも我が地に踏み込んだ者は取ってやる・・・
   そこで、高崎・安中・吉井の3藩を・・差し向けたところ
   機械を隠し・・・「中略」・・・鉄砲数十挺を土の中に・・
   上野介父子並家来六人を斬罪にしました。・・・」
   ★捏造だった。
※小栗上野介忠順終焉の地
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 慶応4年閏4月5日、小栗上野介と家臣3人は捕縛され何の取り
 調べもなく、翌日、水沼川原において斬首された。上野介42歳。
・昭和7年「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」
 と刻まれた碑が地元の有志等によって建てられた。

箕輪初心★小栗上野介M童門氏VS村上泰賢先生TV討論
http://53922401.at.webry.info/201212/article_18.html

箕輪初心★高崎:小栗上野介15【小栗上野介忠順の抹殺】
http://53922401.at.webry.info/201410/article_20.html

箕輪初心■群馬倉渕の文化財&小栗上野介&温泉・酒
http://53922401.at.webry.info/201302/article_18.html





〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【1】関立志・・・俳人
・江戸で4代立志(浅見立志)の後、5代目を継いだ。
・宝暦11年(1761) 随筆「腐〓(「糸覓」(ふべき)集」を著した。
(★倉渕村誌)


【2】法橋烏川(ほっきょう うせん)・・・南画
@水沼神社本殿の墨絵・・・・
A東善寺の涅槃図12図・・・
   お釈迦様   
  お釈迦様を取りかこみ嘆く弟子たち
   猫など・・・
・享和3年(1803) 死亡。


【3】永井戒定・・・長谷寺40代の僧。
・寛延3年(1750) 倉渕の永井家に生まれた。
・・・・20歳 大和(奈良県)の真言宗:長谷寺に入った。
      真言宗・法相宗・華厳宗を学んだ。
※「二十唯識論述記帳秘録」「華厳五教章帳秘録」などの著作。
・享和3年(1803)  江戸中野の宝仙寺の第40代の住職。
・文化2年(1805) 1月23日死去。56歳。
※永井家の僧:戒定の供養搭


【4】朝香文敬・・・医師・国学者



【5】塚越桃翁・・・心学者
・文化2年(1805)  岩氷で生まれた。
・???? 室田の清水春斉に師事。
          自謙舎の菊池冬斉に師事。
・安政年間・・・・岩氷に会友社を設立。
  桃翁の心学の教育的感化は大きい。
※塚越桃翁の墓
・明治29年(1896) 地元有志が元岩氷小学校の庭に
  顕彰碑を建立。


【6】豊田角仙・・・狂歌



【7】下平可都三(しもだいら かつみ)・・・俳諧
・上野水沼村の名主。
馬庭念流の師範
 久米逸淵門下。
※辞世の句「名月や 思ふまじきハ 過去未来 」


【8】大給親存(おきゅう ちかひさ)・・地誌・国学者・書画
下平可都三の長男
  馬庭念流の目代
  戊辰戦争・・・越後で薩長軍に属し、幕府軍を画策した。
  『古今往来』『古事記』・『象山遺文』の研究者。
  「科野国名考 」の著書
 


【9】塚越停春・・文学者・歴史家。
・元治元年(1864) 塚越芳太郎3月3日、生まれた。
・????年 ・群馬県で教員となった。
・明治21年(1946) 倉渕の小学校の教職についた。
   烏渕村自助会を設立・・・
   自由民権運動,廃娼(はいしょう)運動に加わった。
★全国に先駆けて廃娼運動に活躍した。
・明治22年(1889)上京
  民友社(徳富蘇峰主催)の記者・編集者・・・
  ★嘗て、内村鑑三もいた。
  歴史家として、「東京市史稿」「大震災録」「読史余録」
  などを著書。
  雲野通路・春風道人の号を持っていた。。
・明治39年(2006)〜41年間、東京市史編纂に尽力した。
・昭和8年(1934) 東京市から自治功労賞を贈られた。
・昭和22年(1947) 12月31日死去。84歳。
※文学者塚越停春の墓
    



【14】明治時代
●旧幕府御用材搬出御会所跡(倉渕村大字川浦字高芝27−5)
 はまゆう山荘の200m程先にある。
富岡製糸場の建物の杉材はここから筏で運ばれたと
 富岡製糸場のある説明で書かれているが、倉渕村誌には
 掲載がない。井伊直政の高崎城築城だって、倉渕の杉が
 使われているのではないかと考えたが、掲載されていない。

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・明治22年(1889) 4月1日
町村制施行により、西群馬郡倉田村、碓氷郡烏淵村が誕生。
烏川を挟んで・・・

・明治29年(1896)4月1日
西群馬郡と片岡郡が合併し、群馬郡が成立。


【15】大正時代


【16】昭和時代〜
塚越賢爾:飛行機パイロット
・昭和12年(1937)5月12日
朝日新聞社はロンドンで行われるジョージ6世の戴冠式奉祝のため
 亜欧連絡飛行を計画した。本機の試作2号機を払い下げるよう陸
 軍に依頼した。当時、日本とヨーロッパを結ぶ定期航空路はなく、
 パリ〜東京間100時間を賭けるフランスの試みも失敗を繰り返し
 ていた。陸軍からの了承も得て、乗員には飯沼正明操縦士と
 塚越賢爾機関士が選ばれた。機体愛称は公募中から東久邇宮
 稔彦王によって「神風」が選ばれた。
 塚越賢爾は東京〜ロンドン間の飛行時間で世界新記録を
  打ち立てた。


・昭和30年(1955) 2月1日
群馬郡倉田村と碓氷郡烏淵村が合併し、倉淵村誕生した。

・昭和56年(1981)12月14日 横須賀市との友好都市提携
  横須賀製鉄所を建設した小栗忠順の縁で横須賀市と
 倉渕村との交流が始まった。
 倉渕村には横須賀市の市制施行80周年記念事業の一環と
 して横須賀市民休養村「はまゆう山荘」が建設された。

・平成8年(1996) 7月1日 倉淵村から、倉渕村に改称した。
 
・平成17年(2005) 10月1日
  「はまゆう山荘」が横須賀市から倉渕村に譲渡された。
高崎市民は安くなっている。


・平成18年(2006)1月23日
 多野郡新町、群馬郡群馬町&箕郷町とともに高崎市へ
 編入された。


【17】現在
◆郷土の偉人
下村博文:衆議院議員7期
内閣官房副長官、文部科学大臣政務官、法務大臣政務官
  などを歴任。第18・19代文部科学大臣。
  9月24日、今朝もニュースに出ていた。

●中村次郎:気象キャスター
 1975年にNHK総合テレビに初出演〜2005年3月まで
 約30年間、気象キャスターとして活躍した。

市川光一先生:教育者&歴史学者


村上泰賢先生:小栗上野介研究の第一人者
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◆名所

●椿名神社・・・春と秋に神楽が奉納される。

●川浦諏訪神社の獅子舞

●水沼神社の獅子舞

●祭りやどんどん焼き

●道の駅「くらぶち小栗の里」・・・1回
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◆温泉
●倉渕福祉センター せせらぎの湯・・・0回

●クラインガルテン・・・・・3回

●相間川温泉ふれあい館・・・1回

●倉渕温泉長寿の湯・・・・・3回

●はまゆう山荘・・・・泊1回
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●わらび平森林公園キャンプ場・・2回


●農産物等
みょうが・トマト・ほうれん草、なめこ・しいたけ
・米(はんでえ米)・酒(大盃・牧野酒造)

●笹塒山のヒカリゴケ及びウサギコウモリ生息洞穴
 昭和59年7月3日 国指定(倉渕町川浦)







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箕輪初心:生方▲2015高崎【旧倉渕村の歴史散策】 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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