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zoom RSS 箕輪初心:生方▲群馬『豊城入彦命の子孫:上毛野氏の歴史』

<<   作成日時 : 2015/09/11 09:30   >>

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東国へ移った近江毛野氏は荒河刀辧―豊城入彦命と『日本書紀』に
出てくる 系譜は次のようになる。豊城入彦命→八綱田命→彦狭島命
→御諸別命→大荒田別命→上毛野君→(分家の車持の君)・・・となる。
@太田天神山古墳を中心に上毛野久比の子孫系、A前橋大室古墳を
中心に上毛野小熊の子孫系がその地域を支配した。上毛野氏族は朝
鮮外交で活躍した。(★『日本書紀』)上毛野氏はヤマト王権の一員とし
て外征に度々参加した。(★ウィキペディア)軍編成には上毛野全域に
及ぶ支配権があった。
画像


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箕輪初心:生方▲2015高崎『万葉集東歌:エロい伊香保9首』
http://53922401.at.webry.info/201509/article_9.html

箕輪初心:生方▲2015高崎『万葉集上野国エロ東歌』
https://bblog.sso.biglobe.ne.jp/ap/tool/newsedit.do

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〜〜〜上毛野氏の歴史〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

1)毛野氏の系譜
@磯城県主の支流で彦坐王と同祖:多芸志比古命

A○→

B孫:豊城入彦命(能登国造の祖大入杵命)
・崇神48年 豊城入彦命が東国に派遣された。
(★日本書紀)

 墓は太田天神山古墳か?古墳の説明書きには
 豊城入彦命の子孫・・・そう書いてあった。
画像

 (★赤城神社・・・豊城入彦命を祀る)


C八綱田命(吉備氏族の祖:彦狭島命)
  八綱田命の兄弟が能美津彦命→能登国造:彦忍島命(大矢命)?
  なお、彦狭島命=吉備下道系の祖:稚武吉備津彦命である
・景行紀55年 彦狭島
(豊城入彦命の孫:群馬県の歴史山田武麿著)  
東山道15国の都督(かみ)任じられた。
  途中で死亡。・・・上毛野で葬られた。

D御諸別命の父?

2)大和の御諸山(三輪山)や三輪氏族
大和の御諸山(三輪山)や三輪氏族は両毛地方(上毛野・下毛野)
  の主要神社の祭神として大己貴命が祀られている。
  (★尾崎喜左雄)
  毛野氏族の系譜は、三輪氏族を含む海神族の東国での支流分と
  みられる。旧山田郡大間々地区

E御諸別命
・景行紀56年 御諸別命が東国に派遣され蝦夷を討った。
  (豊城入彦命のひ孫説:群馬県の歴史山田武麿著)
★信憑性に欠ける。(★群馬県の歴史山田武麿著)



3)毛野氏族
毛野は吉備の分流であることが分かってきている。
 毛野氏族の姓氏・分布など・・・

○毛野氏族の分布
1)茅渟(ちぬ)地方・・・起源地である。和泉(いずみ)国の沿岸の古称。
  現在の大阪湾の東部、堺市から岸和田市を経て泉南郡に至る一帯。

2)摂津・河内 (磯城・葛城)
  →近江→北陸道(能登)→信濃→毛野地方(上野・下野)
 に到る経路をとって、畿内から東国へ勢力広げた。

3)大和の御諸山(三輪山)や三輪氏族は両毛地方(上毛野・下毛野)
  の主要神社の祭神として大己貴命が祀られている。
  賀茂・三輪神社・・・渡良瀬川流域にある。
  ★旧山田郡大間々〜桐生である。
  (★尾崎喜左雄)

F上毛野氏の祖:荒田別(あらたわけ)・・御諸別命の子
・応神紀15年  荒田別は百済の学者:王仁(わに)を招聘し、
   百済に渡った。

  ※荒田=新田を開墾した。 (★尾崎喜佐雄説)
  荒田別(あらたわけ)は「あらた」の読みから
  新田郡と関連づける説である。
画像

 (★新田万福寺古墳)
 台源氏館の近くで、新田一族の墓が後世に造られた。
 ★新田郡衙も関係していると思われる


G竹葉瀬:荒田別の子
・仁徳紀53年  新羅に渡った。
         弟:田道だけが渡って苦戦した。(★関口説)
・仁徳紀55年 弟:田道が蝦夷で戦死。
(★『日本書紀』)
H竹葉瀬2世

I竹葉瀬3世

J竹葉瀬4世


K竹葉瀬5世:上毛野久比
  上毛野久比は呉(中国)に行き、権(はかり)を渡した。
渡来系の上毛野氏は、豊城入彦命(第10代崇神天皇第1皇子)の
 5世孫:竹葉瀬(たかはせ)を祖と称している。
  「上毛野君(公)」→「上毛野朝臣」姓を称した。
『新撰姓氏録』の上毛野朝臣(皇別 左京)条には
「豊城入彦命5世孫・多奇波世君の後」と注記されている。
支配権を象徴する天神山古墳の築造もこの頃と推測されて
いる。

●太田天神山古墳を中心に上毛野久比の子孫系
画像
  
 (★太田金山城から見た天神山古墳)
画像

 (★女体山古墳から天神山古墳を望む)


●前橋大室古墳を中心に上毛野小熊の子孫系
画像



L上毛野形名
・637年 蝦夷攻撃   妻の励ましの逸話・・


M上毛野稚子(わくご)
・645年 大化の改新
・中央貴族として奈良に戻って活躍した。
車持の君のよしこいらつめも采女に上がったかも?



・天智天皇2年(663)
 上毛野稚子(わくご)は新羅討伐の副将軍として、新羅に渡った。
@前将軍:阿曇比羅夫連・川辺百枝臣・上毛野稚子・間人連
 A中将軍:巨勢神前臣・三輪君根麻呂(大間々?)
 B後将軍:阿部引田比羅夫臣・物部連球磨・守君大石・大宅臣鎌柄

 白村江の戦い・・・海戦で百済&日本連合軍は、新羅&唐連合軍
  に壊滅させられた。
  王:豊璋は北方へ逃げ百済は完全に滅亡した。
  新羅に大敗した。
  倭国主力軍の将軍として上毛野君稚子が戦果を収めた。

  日本軍の生き残りは百済の亡民を保護して日本に戻った。
  その後も百済から日本への亡命者が絶えなかった。
近江・上毛野の吉井などに多くの百済人が住み着いた。
  百済寺・多賀大社など

※防人・・新羅の来襲を恐れて。
 北九州に防塁を築く必要があった。・・・太宰府を守るための
   @博多湾の防塁 
    A大野城〜水城〜基い城の要塞&巨大防塁
 
★防人は福岡の大野城&水城・博多湾の防塁築造に行かせ
られた。新羅からの攻撃に対する防備が中心だった。
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箕輪初心●福岡【大野城】=東国防人の呻き声が聞こえる城
http://53922401.at.webry.info/201112/article_18.html
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●防人の歌
◇3567: 置きて行かば妹はま愛し持ちて行く梓の弓の弓束にもがも

◇3568: 後れ居て恋ひば苦しも朝猟の君が弓にもならましものを

◇3569: 防人に立ちし朝開の金戸出にたばなれ惜しみ泣きし子らはも

◇3570: 葦の葉に夕霧立ちて鴨が音の寒き夕し汝をば偲はむ

◇3571: 己妻を人の里に置きおほほしく見つつぞ来ぬるこの道の間





N上毛野三千(みみち)
・天武天皇9年(680) 上毛野三千は国史『帝紀』を編纂した。
・下毛野氏・・・現栃木県佐野市・三かも・栃木市
・上毛野氏・・・
  @太田天神山古墳を中心に・・・上毛野久比の子孫
  A前橋大室古墳を中心に・・・上毛野小熊の子孫
  上毛野氏族は対朝鮮外交で活躍した。
   (★『日本書紀』)
  
・大野氏・・・・旧大間々
※三輪族・・・旧大間々〜桐生
・池田氏・・・・現玉村
・佐味氏・・・・藤岡
・車持氏・・・・旧榛名町・箕郷町

その他の豪族
・長柄族・・・・館林
・朝倉の君・・・前橋の天川付近 前橋天神山古墳
・有馬の君・・・渋川八木原・有馬・渋川・子持・伊香保
・物部の公・・・倉賀野 浅間山古墳・鶴巻古墳
・佐野屯倉・・・高崎佐野
・緑野(みどの)屯倉・・・藤岡・鬼石
・碓氷の君・・・高崎八幡  
・磯部の君・・・安中
・坂本の君・・・安中市松井田
・新羅人・・・・吉井〜下仁田




・天武天皇13年(684) 八色の姓
 1)間人・・・13人
 2)朝臣・・・50人
 3)宿弥・・・50人
 4)忌寸・・・11人

 第2ランクに朝臣に
 上毛野朝臣、下毛野朝臣、佐味朝臣、池田朝臣、
車持朝臣、大野朝臣のいわゆる「東国六腹朝臣」が「朝臣」姓
 を賜りった。中央の中級貴族として活躍した。
 君姓から朝臣(あそん)姓に改姓された。
 部民は河内,伊賀,上総,近江,越前,越中,播磨,豊前など全国に
 分布している。
   (★古事記)
ほかに、群馬県は、胸方朝臣・綾君・坂本君なども朝臣になった。
   (★古代上毛野をめぐる人々:関口功一著 P110)


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○7C末期 上毛野小足は吉備惣領として活動した。
毛野氏族から出た地方の国造としては、上毛野国造、下毛野国造、
針間鴨国造、浮田国造(及び能登国造)があげられる。
下野国河内郡宇都宮の二荒山神社(宇都宮大明神)及び豊城入彦命を
祭る示現太郎宮がある。
 
○8C  700年代
743年 律令下で2文字・・・
 【上(毛)野国】となった。
 上毛野→上野となった。
例・・・井→井伊(現浜松市)・・後井伊共保→井伊直政→井伊直弼

 上毛野小足・・・・従4位下陸奥守
 上毛野安麻呂・・・従5位下陸奥守
 上毛野広人・・・・陸奥按察使(718年)
 
後半には
 上毛野馬良・・・・出羽介・出羽守
上毛野稲人・・・・陸奥介に任じられた。
   蝦夷に対する活動が行われた。
 (★群馬県史通史編2P299)
・下毛野石代・・・副将軍、
・大野東人・・・・陸奥按察使兼鎮守府将軍・参議
池田真枚・・・・鎮守府副将軍に任じられた。


 後に陸奥国の豪族に「上毛野陸奥公」や「上毛野胆沢公」等の賜姓が
 なされた。
 俘囚の多くが上毛野氏系の部民に多い「吉弥侯部」を名乗った。

 上毛野広人・・・蝦夷の反乱に遭い殺害された。
 上毛野宿奈麻呂・・・長屋王の変に連座して配流された・
  
後は没落した。
 以後は、代わって田辺史系の上毛野氏が中核を占めるに至った。
   (★群馬県史通史編p303)

・天平勝宝2年(750)  田辺史から上毛野公と改姓した。

「田辺史、上毛野公、池原朝臣、住吉朝臣らの祖、思須美(しすみ)、
和徳(わとく)の両人、大鷦鷯天皇(おおさざき-、仁徳天皇)御宇
の年、百済国より化来す。しかして言うに、おのれらの祖、これ貴国
将軍上野公竹合(たかはせ)なりといえり。天皇、矜憐して彼の族に
混ず。しかして、この書に諸蕃人(= 渡来人)というなり。」

※田辺史→上毛野公
※池原朝臣→住吉朝臣

・天平勝宝7年(756) 上毛野駿河は防人の歌を掲載された。
◆上毛野の豪族の詠んだ防人(さきもり)の歌
 上毛野牛甘が上毛野の豪族の歌を12首提出したが、4首が
 採用された。
1)難波道を 行きて来までと 吾妹子が 
    着けし紐が緒 絶えにけるかも
上毛野牛甘=駿河
  ※国司4等官として、防人引率を任された。

2)我が妹子が しぬひにせよと 着けし紐
    糸になるとも 吾が解かじとよ 
朝倉益人
※朝倉益人は前橋天神山古墳の主?・・伊勢崎那波まで
   中央に采女を差し出した。蝦夷への軍事物資輸送に携わった。

3)我が家路に 行かも人もが 草枕
   旅は苦しと 告げ遺らまくも  
大伴部節麻呂
※大伴部は続日本紀で15人がなった。
    甘楽・邑楽など

4)ひなもくり 碓日の坂を 越えだにし
   妹が恋しく 忘らえぬかも
   他田部小磐前
※池田部は『東国六腹朝臣』の1人である。『金井沢の碑』
   にでてくる「目頬刀自(くろめとじ)」の可能性もある。





・神護景雲元年(767)〜承和8年(841)
12回にに渡り、上毛野公関係は一族を連れて陸奥へ移住した。
  官位は従五位下〜従8位。



●坂上田村麻呂の東征
・延暦11年(791) 蝦夷東征
  大伴弟麻(正使)呂+坂上田村麻呂(副使)に任じられた。

・延暦12年(793) 蝦夷東征
「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下田村麻呂は四人の副使(副将軍)
の一人ながら中心的な役割を果たした。

・延暦15年(796) 坂上田村麻呂は陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を
  兼任する官職になった。
  翌年には征夷大将軍に任じられた。

・延暦20年(801) 坂上田村麻呂は蝦夷のあてるいを降伏させた。
高崎に清水寺を建てた。(伝)

・弘仁元年(810) 「上毛野朝臣」を賜姓された。
以降は朝廷の要職に就き、東国系氏族に代わり上毛野氏の中核をな
 した。

・弘仁2年(811)
上毛野朝臣穎人(かいひと)『 新撰姓氏録』の編集に
  関わった。

・その後、
  上毛野公道信・上毛野公諸兄・上毛野公藤野・上毛野公赤子
  など男女7人が朝臣を賜った。
  (★群馬県史通史編2P446)

・貞観3年(861)〜寛平9年(897)
 上毛野朝臣滋子は従5位下→典侍 従3位で死んだ。
  清和源氏の祖:清和天皇の母:藤原明子(めいし)であり、
 藤原良房が外戚として摂関政治行っていた。 
上毛野朝臣滋子は皇太后明子の力で官位が上がって行った。

・平安時代
  やがて、上毛野氏は中級〜下級の貴族になっていった。

・12C 武士の台頭してくる頃
・康平5年(1063)  
上毛野宿弥安国は備後じょう従7位上となった。

・やがて、消滅したのか?
上毛野氏は歴史に見られなくなる。



◆参考図書・文献
・群馬県史通史編2
・榛名町誌
・箕郷町誌
・みさと散策:斉藤勲著




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