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zoom RSS 箕輪初心:生方▲北条早雲と伊豆の城K河津城跡:蔭山氏の詰め城

<<   作成日時 : 2015/08/28 05:53   >>

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河津城は河津駅の北東の「城山」標高181mの山頂から尾根伝いに
城郭がある。山頂n大日如来を祀ってあるので大日山とも呼ばれ
ているハイキングコースは河津駅からと今井浜駅のからの2ヶ所
からアプローチできる。河津城は足利氏の血をひく蔭山勘解由に
より築かれたが、北条早雲に麓から火攻めにあい、水がないので
兵糧米で火を消そうとしたが消し止められず落城したという。
天正18年(1590)豊臣秀吉の山中城攻撃で、蔭山氏広は戦った。
7月5日、北条氏降伏後は北条氏直に従って高野山へ赴いた。
その後、徳川家康の家臣になった。養女は家康の子を生んだ。
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◆訪問日・・・平成26年(2014)7月23日(日)
●雲見のダイビングを3本終えた私は湯ヶ野温泉に宿泊を予約
できた。湯ヶ野温泉:福田屋は「伊豆の踊り子」の宿泊地とな
った場所である。湯ヶ野温泉:国民宿舎に6800円を支払い、
福田屋を見学した。夕食時に何を思ったか、神子元のダイビン
グを予約してしまった。
●トレッキングマップに河津史跡へのコースマップをゲットした。
この時、河津城に朝行くことが決定した。
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●5:00に起床し、一風呂浴びた。
ナビをセットして
▲ 780河津城を目指した。

●河津駅

●『河津桜観光交流館』
  河津町観光局で情報収集ができるらしいが、
  開いているはずもない。
  Hpには、駐車場やトイレが完備されているので
  スタートはここからがおすすめであろう。
とあった。
しかし、もっと近くに車を置くところを探した。

●河津駅

○蔭山氏館(来宮神社)の前でうろうろした。


●河津駅北の登城口。
「城山ハイキングコース入口」の案内柱が立っている。
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●車で300m程進むと、アスファルトが途切れた。
 草が多い茂る道になった。

●民家のおばさんが偶然、草をむしっていた。
「すみません。河津城に行きたいのですが、
 車はどこに駐められるでしょうか?」
 と訪ねた。
 「上にはありません。その草むらに駐めてもかまわない
  ですよ。」
 とおっしゃって下さった。
 「よろしいのですか?ありがとうございます。
  ・・・帰りに、御礼の挨拶ができないかもしれません
  が、ご好意に甘えて、とめさせていただきます。」

●民家を3軒越えると、全く人家はなくなった。
 民家が途切れた途端、道が狭くなった。
 山道の様相を呈してきた。
 

●猪のペリットが多かった。
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●案の定、
「ブヒー・ブヒー・・・」
 と、鳴き声が聞こえた。
 猪の鳴き声だった。
負けずに
「ウォー・ウォー・・」
と叫びながら、進んだ。
一時は柑橘畑などがあったらしいが、今では世話がされて
いないの状態になっている。
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荒れたみかん畑の中をゆるやかに上った。
★ここは郭なのだろうか?
・振り返って見た。
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●つづら折りの道を7〜8分程歩いた。
道は歩き易いように石畳が敷かれていたり、急な所には
丸太の階段がつけられたりしている。


●竹筒から水が流れ落ちている休憩所に河津城跡の説明板が
あった。
●説明板
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●石仏・・・・「安政7年」
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●城山分岐
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 左が城山山頂への道・・・此方に進んだ。
 ★登城への期待感が高まってきた。

城山へは左へ左へと登る。
●竹藪に入ると道が少し登りが急になる。

●「笹原」・・孟宗竹が多くなった。
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  途中、覆いかぶさるような竹藪の中を道が続く。
猪への恐怖感を押さえ、何て幻想的な光景だろう
と思い込むようにした。
 「ウォー・ウォー・・・」
 と叫びながら、・・・
●平地は郭であろう。
●竪堀があった。
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●竹藪が途切れて視界が開けた。
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 竹藪を抜けると左が開けて明るい。
 道の斜面に河津桜の並木がある。
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 海を眺めると伊豆大島が見える。
 
●丸太の段を少し上がるとさらに展望のよい休憩小屋がある。
目の前に円錐型の片瀬山や河津、河津浜・今井浜の海、伊豆七島
 が望める。

●休憩小屋

 ここでしばし立ち休み・・・
 呼吸を整えるついでに、水分補給をした。
 景色を楽しんだ。
  休憩所までは普通のハイキングコースであった。
平地は郭であろう。 ここから矢を射るのがBestであろう。

▲休憩所からは急坂になる。
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 一休みしたら丸太の階段を登る。
 階段は200段近く続いている。
 ★心臓破りの難所だ。
 急な階段を登りきるといよいよ山頂である。
.
▲復元城門が見えた。虎口である。
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▲2の郭に到着。
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★さほど広くはない。15m×20mといったところか?
・さらに、奧の階段を登りきった所より3m程高い位置に山頂
 の小屋が見える。
・城址説明板・・・城跡入口に説明板・・・
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  火攻めにあったと伝わる城のイラストが書かれている。
  イメージイラストなので多少のデフォルメされているだろうが
  郭の位置や城道が参考になる。
  しかし、正確な縄張り図はない。
 ★今まで通って来た場所が5の郭?・4の郭・3の郭(見晴らし小屋)
  そして、ここが2の郭。そして、この先は主郭=1の郭かあ。
  尾根筋に築かれた山城なのに空堀&縦堀がないようである。
 戦うための城というよりも、街道や海上ルートの監視のために築かれ
 た城であろう。

※焼米伝説が伝わる

ぐるりと見渡すと、
・真ん中には土俵・・・★流石、河津三郎の「河津掛け」
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・方位盤。

・西は急峻な山肌のため視界が開けている。 
・南東〜南〜南西の街並みの写真
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・河口や河津浜〜河津の街並み〜天城へと続く河津川
  を展望が開けている。
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 ★街道を見渡せる城かあ。いいところに造るもんだ。
2の郭は、河津桜の隠れたお花見スポットなんだろうな?
2月濃いピンク色に染まった町を一望できて 最高だろうな?

・東にそそり立つ片瀬山・・・。


▲山頂=1の郭に向かった。
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・2の郭の奥には大きな石が組まれ石像がある。
●大日如来像
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  元文2年(1737)と文久3年(1863)・・・
 この城山が「大日山」とも呼ばれる理由である。

▲木の階段を登った、
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▲1の郭=主郭=本郭跡。標高180.9mである。
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 現在は樹木に覆われている。
かつては木を切ってあったはず。・・今井浜方面の見通しがよか
 ったのであろう。

▼さらに北に下った。
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本郭の北には比高6〜7m程下がった位置に北の郭?があった。
さっきの想像図は大きすぎる。デフォルメしすぎ・・

●3の郭
 水道タンクが設置されていた。


●東に堀切と土塁があった。
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 ★やっと空堀があった。
 北からの攻撃に備えているのである。

●3の郭の北の先には2本の堀切が見えた。
  ★城の北端かな。

▲1の郭に戻った

▼下山した。

●分岐から片瀬山、今井浜方面に少し向かった。
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●パンフレットを見た。
左にぐっと曲がった所にも石仏が三体ある。
そのすぐ先が片瀬山への分岐。
真っすぐ行けば今井浜・今井浜海岸駅へと下っている。


▼戻った。


※後で、余湖さんのHpで調べると、
今井浜方面には大きな堀切があると分かった。
.
▲出土品や本郭の竪穴状遺構完掘状況
http://www.sengoku-shizuoka.com/topics/izu/007/
http://www.sengoku-shizuoka.com/castle/3106003/point.php


◆◆ 河津城の歴史 ◆◆
・永享6年(1438)永享の乱。
足利将軍に反抗的であった鎌倉公方:足利持氏は討伐を受けて
 滅んだ。
 
・永享7年(1439) 
 関東公方足利持氏の7男:広氏3歳は、乳母に連れられて、鎌倉から
 河津の地まで落ち延びてきた(伝)。
 その後、蔭山氏に庇護されて、蔭山氏の婿となったという。
  (★『寛政重修諸家譜』)
 
※足利持氏の遺児のうち春王丸、安王丸は結城合戦で
  翌年、死んだ。

※足利成氏は古河公方となって幕府との抗争を続けた。

 そして足利広氏は河津郷で成長して蔭山勘解由と名乗
 った。
 
※足利広氏が実在の人物であったかどうかについては、疑問視   
する人もいるそうである。


・???年 足利広氏→蔭山勘解由広氏によって築かれた(伝)。   
  河津城築城年代は定かではない。
   
 
・延徳3年(1491)伊勢新九郎長氏(北条早雲)が伊豆に侵入し、足利
  茶々丸を滅ぼし、更には河津庄に兵をを進めた。そして、北条早
  雲が火攻めにして落城させた。・・・
  と10位のHpにほとんど書かれている。
河津町役場 産業振興課 TEL0558-34-1946 河津町観光協会 
  TEL0558-32-0290のパンフレットには書いてある。
★かわづのトレッキング『河津城山コース』
 『河津城は北条早雲に伊豆攻撃軍に山の麓から火攻めにあい、
 水がないので、兵糧米で火を消そうとしたが、消し止められず、
 落城した。今でも山頂を掘ると、焼米が出てくる。この焼米を
 牛馬に食わせると病気をしないと伝えられている。』

しかし、この年ではないと思われる。
延徳3年(1491)の北条早雲の伊豆侵攻の際には、河津氏は、伊東氏
 ・狩野氏らと共に抵抗していたからである。




・延徳3年(1491) 7月1日 
  足利茶々丸は義母:円満院と潤童子を殺害し、家督を剥奪。
堀越公方となった。

・明応2年(1493)10月
  「堀越御館の乱」
  →腹違いの弟を殺したことに、伊豆の武士は猛反発。
   足利政元が足利義材を廃位して清晃を擁立
   ・・・清晃から足利義澄と改名した。
  足利義澄は伊勢宗瑞(北条早雲)に茶々丸討伐を命じた。
  伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆侵入を招いた。
  
  →伊勢新九郎(=北条早雲)は「不孝者・茶々丸の成敗」を
  大義名分に、伊豆の武士団を味方につけた。
  興国寺城にいた伊勢新九郎(北条早雲)は足利政知の子:茶々丸
  を急襲。
  ●狩野氏総領家の当主:狩野道一は伊勢新九郎の伊豆制圧に反旗。
  ●伊勢新九郎は狩野一族を攻める足がかりとして柏久保城を築城(伝)。
     ※@狩野氏の支城説
     ※北条早雲が築城説
           
伊勢新九郎 VS 狩野道一
  (→柏久保〜伊東周辺で両勢力の衝突・戦さ。)

・明応3年(1494)長享の乱の延長

  関東では山内上杉家と扇谷上杉家の抗争が再燃した。
 扇谷家の上杉定正は北条早雲に援軍を依頼した。
 上杉定正と北条早雲は荒川で山内家関東管領:上杉顕定の軍と
 対峙した。
 上杉定正が落馬して死去したことにより、北条早雲は兵を返した。
 扇谷家は扇谷定正、三浦時高、大森氏頼の3人が死去するという
 不運に見舞われた。

・明応6年(1497) 伊勢氏と狩野氏との間に激しい戦い   
  結果・・・伊勢方の大見三人衆の働きにより勝利。
     伊勢新九郎は堀越御所を包囲。
    足利茶々丸は御所の裏山の守山城に籠城後、守山城の麓の
    願成就院で自害。
     →伊勢新九郎が伊豆を支配。堀越御所も廃止。
  茶々丸はやがて伊勢宗瑞に敗れ自殺。
@自殺説
@深津城逃亡説
B三浦家逃亡説
C甲州武田逃亡説・・・等がある。
  堀越公方は僅か2代で終わってしまった。
  しかし、足利義澄の子孫は代々将軍を輩出していった。
        
★「伊勢新九郎は、この後、きっと北条という姓を勝手に使うことに
   したのであろう。」 
 
12月 大見3人衆が大見城に籠城。
  伊東氏の鎌田城築城。(伊東市教育委員会)
  伊東氏 VS 北条氏
  修善寺から伊東にかけて激しい戦いがあった。

北条早雲はまだ、伊東氏と手を組んだばかりである。
伊豆の東にやっと進出したばかりである。

関戸吉信は伊勢新九郎の軍勢襲来の際に新公方となった茶々丸を
 伴って堀越御所を脱出し、深根城に籠った(伝)。

・明応7年(1498) 深根城に伊勢新九郎(宗瑞=早雲)の軍勢が迫った
   とされる。
 北条早雲が率いる2000の軍勢は西伊豆松崎に上陸し、松崎街道を
 東進し、深根城を襲った。
 北条早雲は付近の民家を壊して堀を埋め、城内に斬り込んだという。
 多勢に無勢、関戸吉信は自決した茶々丸の首を抱えて城を脱した。
 関戸吉信は梨本(河津町)で自刃したという。
 関戸吉信の妻:尉奈の前(じょうなのまえ)=上杉憲実の娘も自刃した。
 そして、城兵と城内にいた老若男女全てが北条早雲勢によって殺され、
 首は城の周囲に晒された。その数、1000人といわれる。
 悲惨を極めた。

河津城の攻撃は深根城攻撃の後であろうと推測
 している。兵火により河津城は炎上。
 

 蔭山氏広は北条氏の家臣団に組み込まれることに
 なった。


〜〜〜略〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

※その後、蔭山氏は広親・広忠・家広・忠広と続く。
蔭山氏は後北条氏の重臣(小田原衆)となって活躍した。
  
 ★やはり鎌倉公方家の血筋が物をいうのだろうか。
 6代目:蔭山氏広は北条氏政?の「氏」を字を貰った。


〜〜〜略〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・天正18年(1590)2月24日の宣戦布告を受け、城の強化に
 当たった。
・3月29日
▲山中城には北条軍約4000 守備についていた。篭城?
・本丸・・・山中城主:松田康長&松田康郷&玉縄城主:北条氏勝
 ・2の丸・・元箕輪城代&鶴見青木城主:多米周防守平長定        
・3の丸・・間宮康俊・
       河津城主:蔭山氏弘&朝倉元春・長谷川近秀
・西の丸・・追沼氏雅・行方弾正・山中大炊助など?
 ・出丸岱崎砦・・玉縄城代:間宮康俊&北条氏勝軍
  10000人で守るべき城を約4,000の軍勢で守るのだ。
  ・・・★推定である。
 3月5日  宇津木泰朝(元は上野:玉村出身・太田金山城城代)
  が籠城兵に追加招集。
新旧地25貫文・・15人7ヶ月分の銭を受け取った。
 (★宇津木家文書)
 ★宇津木泰朝は最終的には小田原籠城せず、井伊直政の家老になる。 
 ★ちなみに私が勝手に想像した陣形である。


●豊臣秀次の陣立て
 @南西側・・・羽柴秀次が総大将
 先鋒右翼に中村一氏、第二陣として山内一豊、堀尾吉晴・
 先鋒左翼に一柳直末を配置した。
  一柳直末らが岱崎砦を攻撃。→
  
 A南側・・・・堀秀政・丹羽長重・木村重高・長谷川秀一
  
 B北側・・・・徳川家康+本多・榊原・鳥居・大久保は籠城兵
        の逃亡者狩り。
井伊直政はフリー遊撃隊。

3時間余りで山中城は落城した。
   蔭山氏広は河津城に逃げ帰った。


4月23日 清水康英は手兵600余で約50日にわたって籠城し
 たが、下田城開城。
 脇坂安治や安国寺恵瓊らと起請文を交わし、降伏、開城した。
 (★高橋文書)
  
 
4月?日  豊臣水軍は河津城にも迫った。
蔭山氏広は海上を圧する豊臣の大軍船団を前にして戦わずに
  開城した。
 蔭山氏広は妻子とともに伊豆加殿村(修善寺)の妙国寺に
  移った。

7月5日 小田原城が開城。

7月11日 北条氏政・氏照は切腹。
      介錯は北条氏直であった。
 
7月?日 蔭山氏広は北条氏直に従って高野山へ赴いた。

?月?日 蔭山氏広は徳川家康の家臣になった。

?月?日房州勝浦城の城主正木頼忠&娘:お万親子は人質として
 小田原城に預けられていた。急死した実兄:正木時通の後を継ぐ
 ため正木頼忠は単身上総勝浦城主となった。
 お万の母&お万は小田原に残された。
 蔭山氏広はお万の母と再婚することになった。
 お万は蔭山氏広の養女となった。


・文禄2年(1593) 蔭山氏広の養女:お万16・7歳?は徳川家康の
  側室となった。養珠院お万の方は「蔭山殿」と呼ばれた。

・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い
  
・慶長7年(1602) 3月 お万は長福丸(紀州徳川頼宣)を生んだ。
・慶長8年(1603)8月 お万は鶴千代(水戸徳川頼房)を生んだ。

 7代:蔭山貞広は徳川家康に仕え旗本として1200国を領した。   
 その後、蔭山氏の子孫は下田奉行等の要職を歴任した。

・慶長15年(1610) 蔭山氏広が没。
 法名「日景」・・・日蓮宗を信仰していた。
静岡県河津町の林際寺に墓があったらしい。
 静岡県三島玉沢の妙法華寺に蔭山氏広&お万の方の
 墓があるそうである。
  

〜〜〜戦国時代の伊豆・駿東〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心▲伊豆【堀越公方:足利政知館】→北条早雲&伊豆の城@
http://53922401.at.webry.info/201503/article_12.html

箕輪初心★北条早雲&伊豆の城A【北条早雲の生涯】復刻版
http://53922401.at.webry.info/201503/article_13.html

箕輪初心▲北条早雲&伊豆の城B【韮山城】:早雲25年?
49年間の城?
http://53922401.at.webry.info/201503/article_14.html

箕輪初心▲北条早雲&伊豆の城C【江川屋敷&江川郭遠望】
http://53922401.at.webry.info/201503/article_15.html

箕輪初心▲北条早雲&伊豆の城D【狩野城】:狩野茂光築城?
http://53922401.at.webry.info/201503/article_27.html

箕輪初心▲北条早雲&伊豆の城D【柏久保城】:狩野城攻略の城
http://53922401.at.webry.info/201503/article_28.html

箕輪初心★北条早雲の生涯=伊豆・相模国盗り物語
http://53922401.at.webry.info/201309/article_25.html

箕輪初心●静岡:韮山城&江川邸★江川太郎左衛門
http://53922401.at.webry.info/201106/article_17.html

箕輪初心▼相模&駿河【足柄城】:北条氏の武田氏対策の城
http://53922401.at.webry.info/201412/article_2.html

箕輪初心▼駿河:【深澤城】:今川義元→北条綱成→武田信玄
http://53922401.at.webry.info/201412/article_4.html

箕輪初心▲静岡裾野【葛山城】大森弟系葛山→北条綱成娘婿:
葛山広元→武田信玄6男
http://53922401.at.webry.info/201412/article_5.html

箕輪初心●静岡【興国寺城】:北条早雲築城→今川→
北条の塀和→武田信玄
http://53922401.at.webry.info/201412/article_6.html

箕輪初心●静岡:韮山城&江川邸★江川太郎左衛門
http://53922401.at.webry.info/201106/article_17.html

箕輪初心:生方▲北条早雲&伊豆の城E:深根城
http://53922401.at.webry.info/201507/article_17.html

箕輪初心:生方▲北条早雲と伊豆の城G【下田城】:水軍の城
http://53922401.at.webry.info/201507/article_22.html

箕輪初心:生方▲源頼朝41【鎌田俊長】北条早雲と
伊豆の城11【伊東鎌田城】
http://53922401.at.webry.info/201508/article_24.html







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