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zoom RSS 箕輪初心:生方▲群馬:【上泉城】&『上泉伊勢守信綱の生涯復刻版』

<<   作成日時 : 2015/08/02 07:21   >>

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★上泉城は築城年代は定かではないが上泉氏によって築かれた。 上泉
氏は大胡城主大胡氏の一族で、後に「剣聖」とうたわれた上泉伊勢守
秀綱の居城であると言われている。しかし、高崎市史では、大胡長野
氏の記述が最近の有力説である。現地上泉の案内板は未だに箕輪城落
城永禄6年説が掲げられている。現在では箕輪城落城は永禄9年説が
100%確定したのに・・・上泉伊勢守秀綱が柳生石州斎に認可した
のが、永禄8年であるので、不都合が生じるのであろうか。永禄年間
に上泉秀綱は武田晴信の「信」の字を貰って上泉武蔵守信綱と名乗っ
たのは【関東古戦録】【上毛古戦記】に載っているが、箕輪城にはいな
かったはずである。文書上では、内藤昌豊の信濃国の生島足島神社の
起請文に、内藤昌豊の家臣となったことが記録されている。とにかく
剣聖:上泉信綱の生誕地として上泉城は興味深いのは確かである。
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箕輪初心●箕輪城93【上泉伊勢守秀綱】箕輪城落城〜流浪の旅へ
http://53922401.at.webry.info/201212/article_24.html

◆◆ 箕輪初心●群馬【上泉城】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_23.html

◆◆ 箕輪初心★「上泉城:上泉伊勢守信綱と子孫」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_23.html

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【1】上泉城(群馬県前橋市上泉町)2回目
◆訪問日・・・平成27年(2015)8月1日
・前橋青果市場に用事があった。片貝神社を見てから、大胡街道に
出た。前橋市街に向けて走ってすぐ・・・500m程かな。
桂萱(かいがや)中学校があった。その道を挟んで500m
程の所にの桃の木川の橋の向こうに大きな「上泉伊勢守」とい
う、文字が見えた。

○戦国時代は桃木川は利根川であったはずである。
 以前、前橋市田口町の発掘調査に1日だけ参加した。
 利根川の川原石がずっと続いた。・・・そして、上泉町へ・・
利根川を利用した要害城であった。
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・橋を渡った。

○上泉町自治会館=二の丸の一部
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○二の丸案内板
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「戦国時代の赤城南麓地帯はその大半が大胡領と言われており、
大胡領は大胡氏のによって領有されていた。
上泉城は大胡城の支城として築かれ、一族の「上泉氏」が在城して
いた。
城域は、東西600m、南北400mに達し、県指定の「郷蔵」付近に、
本丸と二の丸の跡が残っている。また、西林寺付近は一の郭、
玉泉寺付近は出丸跡と推定されている。
中世の末期、剣道史に名を残した上泉伊勢守信綱は、永正5年
(1508)『上泉城』で生誕し、居城していたと伝えられている。
信綱は、『新陰流』の祖で、日本剣道史上の最高峰として、また
「剣聖」ともうたわれ、その名は広く知られている。 
 新陰流の理と技は、柳生但馬守宗厳(石舟斎)らに伝えられ、
現在も脈々と生きている。
  (★『城址案内板』)
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○看板「剣聖 上泉伊勢守生誕五百年記念碑」
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○上泉伊勢守の像
剣聖:上泉秀綱(信綱)の出生地といわれる上泉城である
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○郷蔵=本丸の一部
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二の丸には上泉郷蔵がある。
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 寛政8年(1796)前橋藩によって建てられた土蔵である。
郷蔵は穀物貯蔵庫で非常時の食料の備蓄を目的に建立された。
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○郷蔵の北に三の丸が見えた。

○二の郭・・・自治会館の東の一段高いエリア
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▼戻って、西林寺の行き方を教わった。
 車で移動した。
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○一の郭=西林寺
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○本堂裏へ
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○諸田政治著の碑
 「上泉伊勢守信綱は松本備前守より天真正伝香取神道流(神道流)を、
 愛洲久忠より陰流を修めた。・・・」
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○上泉伊勢守信綱の墓とされる墓地がある。
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城址の雰囲気もある。


戦国時代で最も魅力のある人物の1人である。

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○西林寺の前の道・・・
 土塁と思われる遺構と堀跡と考えられる。  
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○出丸=玉泉寺
  道は土塁と思われる遺構と堀跡と考えられる。


★桃木川に沿って東から二の郭〜本丸・二の丸・三の丸〜一の郭
(西林寺)〜 〜出丸(玉泉寺)と東西600m・・・なかなかの
規模を持っていた。広大な城であった。土塁の遺構しかないが、
縄張りが分かりやすかった。


◆◆ 上泉伊勢守信綱&上泉秀胤&上泉泰綱 ◆◆
【0】上泉伊勢守信綱に関する疑問 
謎@・・上泉伊勢守の妹は、箕輪城主長野業政の妾説?
    (★剣の天地:池波正太郎説)
謎A・・上泉伊勢守の祖父は大胡氏説(多数説)である。
大胡城に拠った藤原秀郷流の大胡氏の一族とみられる。     
     大胡右馬充は長野一族説であるという反対説。
     (★高崎市史説・・主に久保田順一先生)
謎B・・上泉秀綱は箕輪城で武田軍と戦いと箕輪城落城時の
     場所と活躍した小説も多そうであるが・・?
謎C・・武田信玄が家臣にしようとしたが、家臣にならなかった
    ので、「信」の字だけを与えた。名を秀綱から信綱に改名
    した。『甲陽軍艦』だけ、信じてよいのだろうか?
謎D・・上泉秀綱は武田信玄の重臣内藤豊後守昌豊の家臣と
    なったと生島足島神社の起請文にはあるが、
    柳生の里にいつ行ったのであろうか?
    箕輪城落城後か? 武田氏滅亡後か?
    柳生など多くの武芸者に新陰流を伝えたらしい。



【1】上泉伊勢守信綱
・永正5年(1508) 上泉武蔵守義綱の2男として生まれた。
  幼名は源五郎

・永正10年(1513)5~6歳
初めて木刀を握った。

・大永元年(1521) 13歳
常陸国(茨城県)鹿島の鹿島神傳直心影流を習った。
  第2世を相伝したと伝えられています。

・その後、上泉に来訪した陰流の祖:愛洲移香斎に出会った。
   陰流の指導を受けた。

・享禄4年(1531) 23歳
  陰流を全てマスターした。

さらに神道流、念流などの流派を学び、その奥源を究めた。
 諸流を工夫して新陰流を打ち立てた。

・天文24年(1555)年 北条氏康の大胡城攻撃に会い開城した。

・????年 上泉秀綱は箕輪城主:長野業政に仕えた。

◆◆結論〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・永禄4年(1561)長野業正(正式の名)の死
  西から武田信玄・・
  南から北条氏康・・・北条氏邦からの圧迫に苦しんだ。
  上泉信綱は長男:秀胤を人質として小田原に送った。
  上泉秀胤は北条氏康に仕官した。


・永禄6年(1563) 旅に出た。
 京へ向かう途中で伊勢の北畠具教を訪ねた。
 北畠具教から奈良宝蔵院の胤栄のことを聞いてそこへ向かい、
  胤栄と柳生宗厳と出会いこれを下した。

・永禄7年(1564)以前・・疋田文五郎景兼・神後
            鈴木意伯に印可状を与えた。
※「兵法由来覚」では疋田景兼・香坂要も免状を受けた。

・永禄6年(1563)または永禄7年(1564)1月国府台合戦
  国府台(市川市)で重傷を負った、
  1月23日 上泉秀胤は死去した。
後北条家家臣:上泉秀胤が「第二次国府台の戦い」で
  討死した後、孫:上泉泰綱が上泉家督を相続した。
★上泉泰綱の妻は北条氏忠の娘である。
  (★「兵法由来覚」上泉孫四郎)


・永禄7年(1564) 新陰流を普及するため上洛した。
 13代将軍足利義輝に新陰流兵法を披露した。指南もした。

・永禄8年(1565) 柳生石舟斎宗厳に印可状を与えた。
         宝蔵院胤栄に印可状を与えた。

・永禄9年(1566)※武田信玄の攻撃で箕輪城落城した。

・永禄10年(1567) 丸目蔵人佐に目録を与えた。
  駒川国吉・奥山休賀斎にも印可状が与えた。

・元亀元年(1570) 正親町天皇に新陰流兵法を披露した。
   剣聖の名を名実ともに不動のものとした。

・元亀2年(1571) 北条氏康の死去。
 
 
・元亀3年(1572) 三方ヶ原の戦い
  ★上泉伊勢守信綱は参戦? または、流浪の旅?

・元亀4年(1573)4月 武田信玄が死去。

・天正3年(1575) 長篠の戦い
  ★上泉伊勢守信綱は参戦? または、流浪の旅?
 
@天正5年(1577)1月16日没説
A天正10年(1582)没説

・天正18年(1582)
武田氏滅亡・・織田信長が死亡・・神流川の
  戦い(厩橋城:滝川一益が敗戦)
  北条氏邦は箕輪城主・・・・
 
★兵法は上泉信胤から上泉泰綱に伝えられた。
  この時、小幡信貞の家老:熊井土熊井戸実業=岡本実業の子は
  岡本半介は小笠原氏隆流系上泉流の軍学&剣術を学んだ。
  岡本半助は、上泉信綱の孫:上泉泰種(泰綱)に教わった。
 何故なら、上泉秀胤が死んだ時、岡本半助は2歳なのだから・・・
  これで、井伊達夫先生の説疑問となった?
後、岡本半助宣就は北条氏滅亡後、井伊直政の兵法指南として
  上泉流を受け継ぎ、井伊家の兵法とした。

 箕輪初心★箕輪城96【井伊直政家臣:岡本半介宣就】
http://53922401.at.webry.info/201301/article_9.html

・天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻撃
北条氏滅亡。
 「小田原の役」で浪人になった。
 
 上杉景勝の勧誘・・・
上杉泰綱は越後上杉景勝の家臣となり、直江兼続の配下となった。
会津一刀流の開祖となった。 

・慶長5年(1600)  関ヶ原の戦い

「長谷堂城の戦い」
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箕輪初心●山形【長谷堂城の戦い】直江兼続VS最上義光
http://53922401.at.webry.info/201307/article_9.html
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 最上家の志村光安と戦って討死した。
 前田慶次郎もここでなくなった。
上泉泰綱の娘の元へ志駄義秀の子が養子として入婿した。
 300石で跡を継ぎ上泉秀富と名乗った。
 以降、子孫は米沢藩士として続いた。
 海軍中将:上泉徳弥は子孫にあたる。
 (★ウィキペディアより)


【2】上泉伊勢守秀綱の長野業政の同心時代
『箕郷町誌』P988・・永禄元年(1658)着到帳
=「上野国群馬郡箕輪城主長野信濃守在原業政家臣録
(永禄元戊午年正月廿九日改軍評定到着帳)」
  「勢多郡上泉の住人:「上泉伊勢守時則」:
     下柴砦の主。
『箕輪軍記』『箕輪記』・・「上泉伊勢守」とだけ表記。
『上州治乱記』・・・・・・「上泉伊勢守豊成」と表記。
  (★近藤義雄先生)


【3】上泉伊勢守信綱の流浪の時代・・門弟と旅?
江戸時代の戦記物『箕輪軍記』『箕輪記』『上州治乱記』
『関八州古戦録』『甲陽軍鑑』などに記載された箕輪城
永禄6年落城説が通説であった。しかし、『長年寺古文書』
(高崎市榛名町)が発見された。受蓮の制札である。
 永禄9年(1566)落城説が有力となった。
 今では、通説になった。
しかし、

・永禄6年(1560) 新陰流を普及するため上洛した。
 ★となると、上泉秀綱は箕輪城落城時には、旅に出ていたので、
 いなかった。ことになる。

@永禄6年(1563)〜永禄10年説
『箕輪軍記』・『関八州古戦録』・『甲陽軍鑑』など
・永禄6年(1563箕輪落城後、新陰流を普及させるため門弟
 と旅に出た。
『本朝武芸小伝』・・神後伊豆守・疋田文五郎など、
永禄6年(1563) 上洛。
『柳生家文書』・・・疋田分五郎と鈴木意伯。
『甲陽軍鑑』・・・・古河公方・足利義氏に招かれた。
『兵法由来覚」・・・上泉信綱一行は伊勢神宮で柳生のことを
          聞き大和へ行った。
『正伝新陰流』・・・
  ・永禄6年(京洛へ向かう途中で伊勢の北畠具教を
  訪ね、彼から奈良宝蔵院の胤栄のことを聞いて大和に向か
  い、柳生宗厳と出会い、柳生宗厳を下した。
★上泉信綱が永禄6年から諸国を巡った伝承や印可状・
目録がおかしいことになる。もし、正しいとするならば
箕輪城の落城には箕輪城にいなかったことになる。
・天文24年(1555) 上泉伊勢守秀綱は北条氏康に攻められ、
 上泉城&大胡城を開城降伏したという。
長尾景虎に協力して大胡城を奪回した。
・永禄元年(1558) 箕輪城主長野信濃守業正の麾下となっ
た。・・・(★箕輪町誌:箕輪城着到帳)


・永禄4年(1561)長野業政の死後、嫡子:右京進氏業=業
 盛が箕輪城主となったが、・・・どうなのであろうか?

・永禄5年(1562)長野氏業=業盛は、三夜沢の赤城神社に
 戦勝祈願に行った。
 ※ここは、永岡慶之介の小説では、
 「上泉伊勢守秀綱の修行場であった。」という。
上泉伊勢守信綱箕輪城主:長野業盛に仕えて上野一番槍に評された。
 長野十六人槍に数えられた。上野一本槍の感状を受けた。


★永禄6年(1563)の落城説後、
 永禄7年・永禄8年は武田信玄の侵攻に対して、上泉信綱が、
 箕輪城を離れるのは非常におかしい。
★上泉伊勢守信綱は嫡子:上泉秀胤を北条氏康のもとに
 人質となり、小田原に送り圧力の緩和を策した。
 その後、上泉秀胤はそのまま後北条家に仕官した。
 永禄7年(1564)「国府台の戦い」で重傷を負い死去
 した。という説もある。
 ・・・上泉伊勢守信綱西林寺建立し、菩提を弔った。
 つまり、この時にはまだ旅に出ていない可能性も高い。

A永禄9年(1569)の流浪説
箕輪城落城後に諸国流浪をしたことになる。
 (★高崎市史など)

B永禄12年(1569)1月15日 〜元亀2年(1571)7月21日説
 『言継卿記』・・山科言継の日記では、上泉信綱の上洛期間
 は永禄12年(1569)1月15日 〜元亀2年7月21日までであ
 る。元亀2年(1571)7月21日に京を去り故郷へ向かった。
とういう確かな古文書もある。

C元亀元年(1570)以降の内藤昌豊家臣時代説
内藤昌豊の家臣になった元亀元年(1570)年以降の
 旅立ちとなる考えである。
 ★『甲陽軍艦』での旅立ちはここかもしれない。

【4】内藤昌豊の家臣時代
・永禄11年(1568) 工藤=内藤昌豊は武田家譜代内藤家を継ぐ
 ことを許されて内藤修理亮と名乗った。
・永禄12年(1569) 三増峠の戦い
 内藤修理亮は小荷駄隊を率いて、津久井城に入った。
 そののち、厩橋城主・北条高広と共に、武田・上杉・北条による
 三国同盟の締結を画策し、跡部勝資(長男の妻は昌豊の娘)に
 援助要請するが、最終的に失敗した。

・元亀元年(1570)頃
9月10日 家老内藤豊後守昌秀(昌豊)が箕輪城現地統治。
 ★工藤姓→内藤姓
@内藤豊後守昌豊が上州7つの郡代・・・
  在地領主領国安堵状(★生島足島神社蔵)
 「安中・小幡一族・後閑・一宮・高田・高山・和田・松本
  ・馬庭・酒井・依田・桃井・富所・猿渡・荻原・須藤
  ・小沢・市川・神保・土屋・高橋・黒沢・高瀬・上条
  ・武河・南蛇井・伴野・尾崎・湯浅・」
 *内藤豊後守昌秀(昌豊)
  家臣50騎+長野氏の元家臣200余人=約250騎
★箕輪城落城後に、300騎になった説もある
 「美方民部左衛門勝業、道寺久助、町田兵衛義信、
  神尾図書兼、上泉伊勢守秀綱、寺尾豊後守長成、 
  長塩長八郎道方、八木原伴七家方、久保島重蔵時頼、
 矢島久左衛門定勝など。
 配属・・・大熊伊賀守(高浜砦)、新井筑後守(三ッ子沢砦)、
  内山播磨守(白岩砦)、
 清水太郎左衛門(松の沢砦?→和田山砦)、青柳治部(下芝砦)
 *内藤豊後守昌秀(昌豊)に、(保渡田組)
  大熊備前守・塚越半七・吉田伊豆守(豊岡砦→中里)
  は反攻。
     (★箕輪記→山崎一著「群馬の古城」)
  ★内藤豊後守昌豊の箕輪城の家臣一覧表    
◆◆ 箕輪初心●箕輪城:【内藤豊後守昌豊】◆◆
http://53922401.at.webry.info/201010/article_25.html

★『甲陽軍艦』での旅立ちはここかもしれない。



◆◆ 箕輪初心が読んだ上泉信綱が登場する小説 ◆◆
@『上泉伊勢守』池波正太郎著(朝日新聞社)
A『信玄忍法帖』山田風太郎著
B『忍者武芸帳』白土三平著・・・漫画
C『剣の天地』池波正太郎著(新潮文庫版2002年)
D『邪法剣』柴田錬三郎著(新潮文庫1985年)
E『秘剣・豪剣・魔剣』・・戸部新十郎:縄田一男編(新潮文庫)
F『上泉伊勢守信綱』永岡慶之助著(叢文社1997年)
『上泉信綱 』永岡慶之助著(人物文庫2009年)
G『バガボンド』井上雄彦(講談社、週刊モーニングコミック)
H『上泉伊勢守物語』生誕500年記念編集プロジェクト
※錯乱した男が赤ん坊を人質に取って農家に立てこもった。
上泉伊勢守は自らの髷を落とし、借り物の僧着を着て、
お坊さんに成りすました。ゆっくりと家に近づいて、手に
持っていたおむすびを食べるようにすすめ、中へ投げ
入れた。と、その瞬間には家の中へ飛び込みます。
上泉伊勢守は刀を押さえ、無刀取りを披露した。
やがて、上泉伊勢守はは赤ん坊を抱いて飄々とした
表情で出てきた。
・・結果的に、この無刀取りを柳生石洲斎に伝えた。
    ・・・(★この冊子の名場面)


I『業法滅法:小説箕輪城』(★野口先生の「箕輪城」より)
 上泉伊勢守は笠置山を守っていたが、業政の自刃の知らせ
  を聞き、・・・ 
J『残月』:田村貞男著・・・上泉信綱は出てこない。
K『残雲』・


★永禄9年(1566) 武田信玄が箕輪城を攻撃時、上泉伊勢守
秀綱は箕輪城在城し、活躍したのは本当だろうか?
上泉伊勢守信綱が本当に箕輪城での長野氏業=業業の自決後
に修行の旅に出たのだろうか?



★明日は井伊直政&山中城かな?

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