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zoom RSS 箕輪初心:生方:群馬【イオン高崎は第二次世界大戦中の陸軍前橋飛行場?】

<<   作成日時 : 2015/08/15 05:18   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

8月15日、今日は昭和天皇の玉音放送があった日=終戦記念日。
群馬県高崎市旧群馬町の高崎・渋川バイパス沿いのイオンモー
ル高崎・トヨタの販売店・移転したばかりスーパー丸岡。そして、
東〜南東に広がる水田。中群馬用水&中部用水の用水で潤っ
ている。しかし、ここは第2次世界大戦中、棟高〜塚田は大日本
帝国陸軍の軍用飛行場であった。前橋飛行場=俗称:菅谷飛行
場・堤ヶ岡飛行場である。72年前、ここはアメリカ軍のグラマンの
空襲もあって、爆弾が落とされたり、機銃掃射があったりした場所
なのだ。
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〜〜〜第二次世界大戦:太平洋戦争〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方『日本のいちばん長い日』のあらすじ前編
http://53922401.at.webry.info/201508/article_13.html

箕輪初心:生方「日本のいちばん長い日」のあらすじ後編
http://53922401.at.webry.info/201508/article_14.html

箕輪初心:生方「群馬空襲&U子のいる中島飛行機小泉製作所」
http://53922401.at.webry.info/201508/article_12.html

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心▽太平洋戦争史@【日中戦争〜真珠湾攻撃〜東南アジア侵攻】
http://53922401.at.webry.info/201201/article_5.html

箕輪初心◆太平洋戦争史A【東南アジア・オセアニアへの破竹の侵攻】
http://53922401.at.webry.info/201201/article_6.html

箕輪初心◆太平洋戦争史B【日本の侵略最高潮→連合軍の反撃】
http://53922401.at.webry.info/201201/article_7.html

箕輪初心剔セ平洋戦争史C【マリアナ諸島→レイテ→硫黄島→沖縄→
本土→原爆】
http://53922401.at.webry.info/201201/article_8.html

★★ 箕輪初心◆広島の原爆投下 
http://53922401.at.webry.info/201105/article_23.html

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【1】現在の写真
@前橋飛行場の北西・・・イオンモール高崎
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A前橋飛行場のど真ん中
北西方面にはイオンモール高崎
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南東
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B前橋飛行場の西の官舎があった付近
 20年程前まで旧新潟鉄工の跡地の一部だった。
 10年程前までは遺構がはっきり分かった。
 現在は遺構が不明だった。・・・
 10年程前はあったが、今は見つからなかった。
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【2】前橋飛行場の歴史
●昭和18年(1943)
※陸軍航空本部は前橋飛行場を飛行機パイロット・メンテナンス要員
 の養成を目的とした教育用飛行場で計画した。

5月19日 ○前橋陸軍の担当者が国府村を訪問。
     地元に飛行場建設と予定地の強制買収を通知。


○5月20日 地主への説明会。

○5月21日 強制買収への承諾→用地買収。

○5月22日  測量を開始。

○8月1日 工事開始の通知。


○9月?日 工事開始。
   建設・・建設会社・住民・学徒動員・群馬県内の青年団、在郷軍人
   前橋刑務所の囚人や朝鮮人など。


●昭和19年(1944)
○2月15日  飛行場試験飛行。
     仮設滑走路に初めて数機の戦闘機が着陸。

7月 アメリカ軍はマリアナ諸島(サイパン島、テニアン島、
  グアム島など)を占領した。
 
11月〜 B-29「スーパー・フォートレス」が飛来。
   日本の都市爆撃を行い始めた。


○8月1日 前橋飛行場が完成。
飛行場の敷地面積は約160町歩:一辺1,300 ~ 1,500 mの正方形の
芝生地帯を設定し、全域を離着陸に用いるとしていた。
しかし、前橋飛行場は周辺の集落を避けるように造られたため、
東西1,500 m、北西から東南に1,800 mの不定形の敷地となっていた。
正方形+南東に出っ張りの小さい正方形の形が斜めについている。
旧堤ヶ岡村・国府村、中川村にまたがっていた。
現在の高崎市菅谷町〜塚田町一帯である。
・北端はイオンモール高崎の南駐車場
・東端は塚田町の関越道手前まで、
・西端は県道25号付近
・南端は県道10号付近
・南東端は出っ張りは高崎IC側の群馬高専の北3分の2を含んでいた。
・西側(旧新潟鉄工)付近・・飛行場の設備が建設された。

 ★一部に遺構が残ってたが調べたのが10年前で写真はない。
 本部1棟、兵舎2棟、大格納庫3棟(45m×45m)、小格納庫4棟
(25m×35m)、講堂や修理工場、グライダー庫1棟、衛兵所1棟
 食堂1棟、炊事場1棟、便所、飛行機模型を置いて講義をする講
 堂1棟、学科をする講堂1棟、修理工場1棟、雑品庫2棟、発動
 機修理工場1棟、防火用貯水池大4、小3であった。

     宇都宮陸軍飛行学校前橋教育隊が開設。
     古河飛行場から約80名の少年飛行兵が転属。
      特別操縦見習い士官が約150名が入隊。
     練習機とグライダーによる飛行訓練が開始。

○10月9日 前橋教育隊は閉鎖→熊谷陸軍飛行学校前橋分教場
     中島飛行機の九三式中間練習機による飛行訓練。


○11月1日 飛行場警備のため、13323部隊堤ヶ岡隊が創設。



●昭和20年(1945)
昭和20年(1945)になると、アメリカ軍に占領されたマリアナ諸島
(サイパン島、テニアン島、グアム島など)から飛来する大型爆撃
機B-29・空母搭載のグラマン・ムスタングなどがに日本本土空襲が
本格化してきた。


○2月9日 熊谷分教場も閉鎖→特別攻撃隊の訓練。

◆2月10日 
中島飛行機の誉エンジンの製造をする武蔵製作所&陸軍・海軍の
戦闘機を造っている小泉製作所&太田製作所が第一攻撃目標と
なった。
アメリカ軍の大型爆撃機B-29や艦上戦闘機などがマリアナ諸島
(サイパン島、テニアン島、グアム島など)から伊豆諸島上空
千葉の木更津上空→東京湾上空→東京上空→(※中島飛行機武蔵
製作所)→利根川上空→(埼玉)→藤岡上空→高崎上空→▲観音
山(目印)上空で右旋回(目印)→前橋・伊勢崎上空→太田市(旧
大泉町)の中島飛行機小泉製作所→太田製作所コースとなっていた
ようだ。中島飛行機(現富士重工)は愛知の三菱の零戦より、生産
台数が1.5倍・・・圧倒的に多かった。アメリカ軍の第一攻撃目
標になったのだ。
昭和19年(1944)度の戦闘機生産台数は3500機であった。
 
 昼、アメリカ軍は東京都大田区を空襲した。
  
 夕刻、U子のいる中島飛行機小泉製作所を空襲された。
初めてのアメリカ軍の小泉製作所の攻撃であった。
サイレンが鳴った。うーーーー。
「空襲警報。・・・全員、防空壕に避難してください。」
と館内放送が流れた。
U子は、必ず、ここも攻撃されると思っていた。
「急ごう。」
と新井課長はみんなを促した。
工場の周りにはいくつも防空壕があった。近くの農家の人が
強制的に防空壕を掘らされていたからである。
U子は10分ほど歩いた防空壕に逃げこんだ。
B-29爆撃機84機から約170tの爆弾と焼夷弾が投下され、通常爆弾
  97発が工場に命中した。
  生産途中にあった疾風が74機が破壊された。
  従業員全員が避難して被害はなかった。
  →群馬県太田市も太田製作所を中心に空襲された。
B-29:118機のにより、152人が死亡し、2139人が被災した。
※アメリカの攻撃目標は疾風・隼・零戦など造っていた中島飛行
  機小泉製作所&小泉飛行場・太田製作所、そして、誉エンジンの
  武蔵製作所を本土攻撃の第一目標にしたのであった。
それ故、日本陸軍や日本海軍は中島飛行機に予備の工場を造る
  ように命令した。戦闘機が必要であった。

○2月11日?〜 
  前橋飛行場は土盛り式の掩体壕の製造開始。
    

○2月15日 前橋飛行場に中島飛行機の分工場が移転。
      疾風の製造を開始。

○2月下旬? アメリカ戦闘機への対空機関銃座の設置。


◆2月25日 アメリカ海軍艦載機が来襲し、中島飛行機小泉製作所を
空襲した。→中島飛行機太田製作所も空襲された。
 太田製作所に111発の通常爆弾を投下し43発が東半分の建屋を中心に
命中し、組立中の銀河43機に損害がでた。更に治工具に被害が及んだ。
 その後の銀河の生産が極めて困難となった。
 また、死傷者も21名に及んだ。
発動機を造っていた福島氏の叔父は
「パラシュートで降りてきたアメリカ人兵をみんなが竹やりで、
寄ってたかって、突き殺した。」
のを目撃したという。

 中島飛行機のエンジン工場であった武蔵製作所の相次ぐ空襲、
 東京や日立方面の部品工場の爆撃により、生産計画はままなら
 ぬものになっていった。
つまり、部品工場の空襲により、生産工場の太田製作所や小泉
 製作所は次第に資材不足になっていった。

 小泉製作所は武蔵製作所の空襲、次第に資材不足になっていった。
 代替の材料での品質低下と納入遅延に繋がっていった。
  
 また、小泉製作所は熟練工は兵役に召集となり素人徴用工が主体
  になっていった。
 飛行機の航続距離も当然落ちて、戦闘能力不足になった。
  
武蔵製作所は十数回の爆撃を受け爆弾500発以上が命中し、
200人以上の死亡し、500人以上の負傷者を出して、工場は全く
 の廃墟と化した。

太田製作所や小泉製作所の周りにも発動機などの関連工場は
あったが、生産力は急激に衰えていった。
福島氏の叔父も新田?の発動機工場の熟練工であった。

★結果・・これにより、さらに前橋飛行場での中島製作所の工場
  の整備が進んだ。


○3月5日 第8飛行師団の第36・37・38飛行隊に所属する九八式
 直接協同偵察機36機が到着。
 訓練は飛行練習や照準練習が中心であった。
 前橋飛行場で特攻訓練を行った。

○3月26日 太刀洗飛行場に出発。

○3月下旬まで・・・前橋飛行場の3度の拡張工事。
約30箇所の土盛り式の掩体壕が掘られた。


○4月6日 新田原飛行場から沖縄へ出撃した。
    隊員36名中、出撃前の事故で3名、
     3度の出撃で26名・・・合計29名が戦死。
   ★不備の飛行機では特攻前に、機体が壊れること
    ことが多かった。零戦や隼が使われた。



●アメリカ軍の本土空襲が本格化〜〜〜〜
○6月?日〜
  戦況の悪化で兵舎は解体されて半地下式になった。
  飛行機の確保・隠匿が優先された。
  格納庫に代わり、地形を利用して分散した多数の掩体が作られた。
  前橋飛行場は大型掩体壕を30基ほど作ったそうである。
   (★鈴木越夫先生など)
  飛行機や燃料、弾薬は掩体壕に分散格納されていた。
  

  ※時には機体を秘匿・・・旧箕郷町和田山など
   燃料不足のため、人力で運んだ。

   (★地域の大先輩の話)

  ※燃料は箕輪城に穴を掘って燃料備蓄基地とし保管。
  二の丸下に3、御前曲輪に1確認されている。
  
 3,11東日本大震災の時、二の丸の地面にひびが入った。
   御前曲輪の橋台横が崩れた。
  奥行き10m、幅5m?・高さ2m・・・
  
  平成23年(2011)1月12日
穴埋め作業が開始された。
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 (★二の丸の大堀切側)


 (★御前曲輪の橋台横)・・ここが不明ではあるが・・・
  現在、二の丸下の備蓄した場所&大堀切の入り口3ヶ所は
  土を入れ、入り口をセメントで補強した。
  また、橋台横もセメントで補強した。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪城98「バイオトイレ&四阿修理&防空壕埋め戻し工事」
http://53922401.at.webry.info/201301/article_17.html

箕輪初心★箕輪城100【箕郷NPO法人】&『箕輪城』
http://53922401.at.webry.info/201302/article_2.html

箕輪初心★箕輪城102「梅満開の箕輪城&みさと梅公園」   
http://53922401.at.webry.info/201303/article_23.html  
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 
 従って、滑走路までの運搬時間に最低4時間程かかった。
  敵機来襲の場合は、夜間の航空機の運搬は不可能であり、
  出撃準備や機体の移動は夜明け前に限定された。
  従って、戦闘機の飛行場としての機能はほどんど失われていた。

○7月10日 
アメリカの航空母艦から飛び立った小型艦載機230機余りが
 群馬県内各地を空襲した。高崎も初めて空襲された。
 早朝から、空襲警報発令・・再三にわたり多数の艦載機:グラマン
 が来襲した。
 高崎の北通町の本元寺や田町、羅漢町などが機銃掃射やロケット弾で
 攻撃され多くの死傷者が出た。

 前橋飛行場もアメリカ軍の艦載機:グラマンの空襲を受けた。
 常陸教導飛行師団第2教導飛行隊の戦闘機29機
 (九七式戦闘機15機・一式戦闘機9機・二式複座戦闘機3機)、
 操縦士67名と、航空輸送部第9飛行隊前橋派遣隊が配置され
 ていた。
 しかし、準備が間に合わず、日本軍戦闘機による迎撃はなく、
 対空射撃もほとんどない状態であった。
  
 艦載機:グラマンによる爆弾・ロケット弾による攻撃で航空機や
 掩体壕は破壊され、飛行場周辺を中心に被害が出た。

 
民間人2人の母子が機銃掃射を浴び死亡した。負傷者も出た。
(★群馬町誌)

アメリカ軍の指令は動く物なら何でも撃て・・・であった。
  (★8月14日、TV)

07月12日 宇都宮空襲
※中島飛行機の宇都宮工場が標的の中心であった。  

○7月15日 高射砲陣地が飛行場の対空防御のために構築。
  
場所は飛行場の北?・・国府小学校校庭?。・・不明。


◆8月14日
@高崎
 深夜から15日早朝 アメリカ軍のB29十数機に高崎上空に飛来し、
 爆弾を降下させたり、焼夷弾攻撃を受けたりした。
 暗闇の高崎市内に爆弾、焼夷弾を次々に投下し、各地で火災が発生した。
 多くの被害が出た。
 高崎15連隊(明治17年)の高射砲が初めて実弾を込めて発射された。
 
※日本の高性能の高射砲は小笠原・硫黄島・戦艦に搭載さていて、
  本土の高射砲では8000mしか届かなかった。
  B-29は高度10000mを飛んでいた。
竹槍で突けば、B-29に届いたかもしれないのに・・・?
 

 燃え上がる家屋にわずかな消防力ではどうすることもできず、
 ほとんどが焼失した。
   B-29により繰り返し行われた焼夷弾爆撃で、江木町・東町の軍需工
 場、旭町・白銀町・通町・田町・連雀町・宮元町などの官公庁、
 住宅の密集する市街地が狙われた。
 また、下斉田町・台新田町や下佐野町・上佐野町、石原町などの市南東部
 と、北部の飯塚町・塚沢町にも多くの焼夷弾が落とされた。
 高崎市内各地で火災が発生した。
 高崎中心市街地の住民の多くが疎開していたが、多数の人たちが死傷したり
 家を失った。

結果・・ 死者22名、負傷・行方不明者不詳、焼失家屋数701
  高崎が受けた最も大きな空襲であった。
  高崎一帯は8月16日になってもまだくすぶっていたという。
  福島氏・・・前橋の街も熱で熱かった。


●8月15日 天皇の玉音放送・・・終戦

○10月16日 アメリカ兵20名が前橋飛行場に来場。

○現在 西に一部にコンクリート基礎や滑走路用の金網が
   住宅地に残されているだけである。
(★鈴木越男先生の講座・ウィキペディアより編集)
10年前はあったが、今は見つからなかった。


◆参考資料&図書
・群馬町誌下巻
・鈴木越夫先生の講演資料
・【戦争遺跡の発掘・陸軍前橋飛行場】 菊池実著
★群馬県の埋文の調査が掲載されている。

◆参考サイト
・ウィキペディア



★8月16日の鈴木越夫せ先生の『前橋陸軍士官学校』
 の講演会には受けなかった。
★明日はお盆中の榛名南麓ぶらり旅かな?
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