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zoom RSS 箕輪初心:生方▲北海道bT−12【釧路:港文館】&「石川啄木の生涯」

<<   作成日時 : 2015/06/17 05:51   >>

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網走観光バスのガイドさんが「石川啄木は釧路に2ヶ月ちょっと
いました。子どもの時の名前を知っている方、いらっしゃいます
か。」と訪ねた。誰も知らなかった。一(はじめ)ちゃんはおぼちゃ
んで、我儘に育ちました。頭がとてもよかった一ちゃんは、0点を採
ってしまいました。すると、「先生が僕の考えを理解してくれてない。」
と父に言いました。父親は「そうだとも、先生が悪い。」と弁護しまし
た。明治41年(1908)1月21日の夜、石川啄木は釧路駅に降りまし
た。 石川啄木は釧路には、釧路新聞の新聞記者として76日間滞在し
ました。新聞記者として頑張りました。現在、釧路市内には石川啄木
の歌碑が27基ございます。他界した時は社葬:若山牧水・金田一京
助などが参列しました。港文館はこれから行くフィシャーマンズMOO
の反対の赤レンガの建物です。あれです。石川啄木の記念館になって
います。」
私は石川啄木 は「はたらけど はたらけど猶 わが生活楽に
ならざり ぢっと手を見る。」「たはむれに 母を背負いて そのあまり
軽き(かろき)に泣きて 三歩あゆまず」など『一握の砂』のイメー
ジが強く、貧乏だけれど、家族思いの人物と思っていた。しかし、北
海道旅行で★石川啄木っていう人物は可愛い顔ではあるが、我が儘で、
自分勝手=超自己中心型の人間であり、妻子の苦しみを顧みず、現地
愛妾を可愛がる人物のように悪いイメージに変わってしまった。石川
啄木の本質は分からなくなった。

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〜〜〜北海道シリーズ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方▲北海道旅行5−1「北海道知床グルメ旅」
http://53922401.at.webry.info/201506/article_5.html

箕輪初心:生方▲北海道bT−2「羽田〜女満別〜オシンコシンの滝」
http://53922401.at.webry.info/201506/article_6.html

箕輪初心:生方▲北海道bT−3【世界遺産:知床@知床の海からの眺め】
http://53922401.at.webry.info/201506/article_7.html

箕輪初心:生方▲北海道bT−4【世界遺産:知床Aオロンコ岩】&夕陽台
http://53922401.at.webry.info/201506/article_8.html

箕輪初心:生方▲北海道bT−5【世界遺産:知床B:知床5湖&知床峠】
http://53922401.at.webry.info/201506/article_11.html

箕輪初心:生方▲北海道bTー6「羅臼〜ラムサール条約批准地:風蓮湖」
http://53922401.at.webry.info/201506/article_13.html

箕輪初心:生方▲北海道bT−7「納沙布岬:日本最東端」
http://53922401.at.webry.info/201506/article_14.html

箕輪初心:生方▲北海道bT−8「百名城:根室半島チャシ跡群」
http://53922401.at.webry.info/201506/article_15.html

箕輪初心:生方▲北海道bT−9「釧路モシリヤチャシ(砦・柵)跡」
http://53922401.at.webry.info/201506/article_16.html

箕輪初心:生方▲北海道bT−10「釧路:鶴ヶ岱チャランケチャシ(砦・柵)跡」
http://53922401.at.webry.info/201506/article_17.html

箕輪初心:生方▲北海道bT−11「釧路湿原」:ラムサール条約批准地
http://53922401.at.webry.info/201506/article_18.html

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◆訪問日・・・平成27年(2015)6月2日
●フィシャーマンズMOO

●旧釧路川に架かる「幣舞橋」を渡って、旧釧路川を越えた。

●河口に近く、漁船が係留されて、港になっている。

●泊まった釧路プリンスホテルが見えた。

もしかして、本当の旧釧路停車場はC58のあった場所かも?


●港文館
住所:釧路市大町2-1-12
電話:0154-42-5584
釧路市大町の港文館は石川啄木が勤務した釧路新聞社を原寸大で復元
した建物である。

●赤レンガの建物の前に、銅像と歌碑がある。
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●石川啄木銅像

●歌碑「さいはての駅に下り立ち」
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※碑に刻まれている文字
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「石川啄木 釧路 港文館前の歌碑
  石川啄木のよめる明治四十一年一月二十一日釧路駅で
     さいはての駅に下り立ち
     雪あかり
     さびしき町にあゆみ入りにき
                 小奴
※小奴が揮毫したという粋な歌碑である。
  ★碑が興味深いのは、小奴が揮毫していることである。
   奥さんがありながら、・・・
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※昭和47年(1972)10月14日、鉄道百年・釧路市制50年を記念して、
 ★旧釧路停車場跡に建立されたものである。
  港文館建設の際に、現在の場所に移設された。
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●釧路港文館
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●1階 喫茶コーナー
  椅子に座ってのんびりするのもいい。
  でも、忙しかったので、・・・


●2階 展示コーナー
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・生涯
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・写真集
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・愛した女性シリーズ
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  釧路時代に石川啄木はいっぱい女性と関係を持ったようである。
私はどんな関係かは分からない。でも、こんな写真があれば、・・

・釧路新聞社の団体写真 
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・料亭「しょも寅」
・石川啄木が通った料亭の火鉢や徳利。
・本
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・昭和36年(1961) 北海道新聞釧路支社が使っていた。
   ガソリンスタンドが跡地に出来ることになった。
  ※保存する活動も行われたが、取り壊された。

・平成5年(1993) 6月 復元された。
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◆◆ 石川啄木の生涯 ◆◆
・明治18年(1885) 10月28日 誕生説。
・明治19年(1886) 2月20日 誕生説・・・戸籍
   岩手県南岩手郡日戸村(現盛岡市玉山区日戸)に、曹洞宗日照山
   常光寺住職の父:石川一禎と母カツの長男として生まれる。

・明治20年(1887) 3月 父が渋民村(現盛岡市玉山区渋民)にある
宝徳寺住職に転任した。一家で渋民村へ移住した。
・盛岡市内に居住した。
一ちゃんはいいとこのおぼちゃんで、我儘に育ったらしい。

・渋民尋常小学校
・盛岡高等小学校(現下橋中学校)
・岩手県盛岡尋常中学校(翌年、岩手県盛岡中学・現盛岡一高)
※ガイドの話
「頭がとてもよかった一ちゃんは、0点を採ってしまいました。
すると、
「先生が僕の考えを理解してくれてない。」
と父に言いました。父親は
「そうだとも、先生が悪い。」と弁護しました。


※中学時代に、後に妻となる堀合節子や親友の岡山不衣、金田一京助らと
知り合った。

※『明星』を読んで与謝野晶子らの短歌に傾倒した。
※上級生の野村長一(野村胡堂)や及川古志郎らの影響を受け、文学への

志を抱いた。短歌の会「白羊会」を結成したのもこの頃である。


・明治34年(1901) 12月〜明治35年(1902)
『岩手日報』に短歌を発表した。「翠江」の筆名で掲載される。
  初めて活字となった石川啄木の短歌だった。

・明治35年(1902)
11月9日
  雑誌『明星』の新詩社の集会に参加した。
11月10日 与謝野夫妻を訪ねた。
  長期滞在した。作歌もした。
  出版社への就職がうまく行かなかった。
  結核の発病もあり、

・明治36年(1903) 2月 父が東京に迎えにきて、故郷:森岡に帰った。
 5月〜6月 『岩手日報』に評論を連載した.
11月 『明星』に再び短歌を発表し、新詩社同人となった。
  石川啄木のペンネームを使い始めた。
 12月  『明星』に長詩「愁調」を掲載し、歌壇で注目され始めた。

・明治37年(1904)
1月8日 堀合節子とデートした。
1月14日 堀合家から婚約の同意を得られた。
9月〜10月 青森〜北海道小樽を旅行した。
  小樽駅の駅長だった小樽の義兄宅に宿泊した。
10月31日 詩集出版を目的として再び東京に出た。

・明治38年(1905)
1月5日 新詩社の新年会に参加した。
5月3日 自費出版費で第一詩集『あこがれ』:小田島書房より出版した。
 上田敏による序詩と、与謝野鉄幹の跋文が寄せられた。
5月12日 父親が婚姻届を盛岡市役所に提出した。
  石川啄木は満19歳であった。
  石川啄木は親戚が集まった結婚式には出席しなかった。

6月4日 石川啄木は盛岡に戻った。
  父母、妹:光子との同居で新婚生活を送ることになった。
  石川啄木が一家の扶養も負うようになった。
6月?日  『岩手日報』にエッセイ他を「閑天地」と題して連載した。
9月5日 石川啄木が主幹兼編集人となり、文芸誌『小天地』を出版
 した(発行人は父一禎)。
 岩野泡鳴、正宗白鳥、小山内薫等30人余りの作品を掲載した。
 地方文芸誌として文壇の好評を得るが、資金問題で継続出版が
 できなかった。

・明治39年(1906)
2月17日 函館駅長の義兄を訪問した。
  石川一家の窮状打開を相談したが解決できなかった。
2月25日 長姉:田村サダが結婚先の秋田県鹿角郡にて肺結核
      で死去した。

3月4日 妻と母を連れて渋民村に戻った。
4月14日 渋民尋常高等小学校に代用教員として勤務した。
4月21日  徴兵検査で筋骨薄弱にて徴集が免除された。
6月〜 小説を書き始める。
12月  評論「林中書」を脱稿した。
12月29日 長女:京子が生まれた。
    落ち着いた生活が続いた.

・明治40年(1907)
1月 函館の文芸結社「苜蓿社」より原稿の依頼があった。
    松岡蕗堂と知遇を得る。
4月1日 新生活を北海道で開こうとし、教職を離れることを決意して
  渋民尋常高等小学校に辞表を出した。
 
5月5日 函館の松岡蕗堂の下宿に身を寄せた。
  妻子は盛岡の妻の実家:堀合家、妹は小樽駅長の義兄に託した。
  別居生活が新生活だった。

5月11日〜5月31日  函館商工会議所の臨時雇いで生計を立てた。

6月  吉野白村の口利きで、弥生尋常小学校の代用教員となった。
    橘智恵子と知り合うなり、片想いの女性となった。
   「苜蓿社」のメンバーの宮崎郁雨と知り合った。

8月〜 「函館日日新聞」の遊軍記者も兼ねた。
    函館大火によって離れた。

9月〜 札幌で『北門新報』の記事の校正係となった。

9月末〜 小樽の新しい新聞社『小樽日報』の記者となった。
小樽日報に同期入社に野口雨情がいた。
      社会面の担当記者となった。 

      当時の主筆が野口雨情と確執があった。
      石川啄木も野口雨情の起こした主筆排斥運動に
      荷担した。重要な中心人物の一人であったらしい?
      野口雨情が2週間あまりで退社した。
★野口雨情先生のご子息は私の家から車で1分の
所にいたが。現在は?・・・・

12月  『小樽日報』の内紛で、暴力をふるわれ退社した。
     



・明治41年(1908)
1月4日 小樽市で「社会主義演説会」で西川光二郎の講演を
   聞いた。西川と面識を得る。
   家族を小樽に残した。
(★石川啄木全集・ウィキペディアより編集)

1月19日、石川啄木は小樽を発って、単身釧路に向かった。
岩見沢に泊まった。

1月20 日 旭川に一泊した。
釧路新聞社は社屋を新築し、移転作業を終えていた。




〜〜〜◆◆ 釧路時代 ◆◆〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
1月21日、午後9時半、釧路駅に到着した。
 ※当時の鉄道は釧路駅が終着駅であった。
  まだ、根室本線はなかった。
 釧路駅は現在の釧路駅からは南西に500mの所にあった。
 和商市場&今回泊まった釧路プリンスホテル・市役所の間、
 「こども遊学館と公園付近」が、当時の釧路駅だった。
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 釧路駅に降り立った石川啄木は
 「さいはての 駅に下りたち 雪あかり 
         さびしき町に あゆみ入りたき 」
と詠んだ。
  
 幣舞橋を渡って、歓迎の小宴を受けた。
釧路新聞社があったのも釧路川左岸である。
  釧路の町の中心は、南大通りから南埠頭方面にかけてで
あろう。汽車は煙を吐くため、市の中心からは離れた
場所に建てれれる。
※米神公園付近に住んだ家があったのだろう。

1月22日 釧路新聞社に出勤した。
   
釧路新聞 (現北海道新聞社)に勤務した。
  石川啄木は釧路新聞の新聞記者として社会論説や連載
  などに頑張った。
  数多くの歌も残していた。
※釧路に27の句碑があるそうである。
  
 釧路では、妻子を小樽においてきた気軽さ?寂しさからか、
 酒&芸者遊びを覚えた。
 小奴という芸妓とは不倫関係?になった。
 お金にはルーズで小奴などに奢って貰っていたようだ。
(★釧路:港文館)

3月  石川啄木は主筆への不満&東京での創作活動への意欲が募り、
  釧路を離れる決意した。
新聞記者として76日間滞在した。

でんでんむしの岬めぐり
http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2013-09-13
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

4月28日〜   東京・千駄ヶ谷の新詩社に暫く滞在した。

5月2日 与謝野鉄幹に連れられ森鴎外宅での観潮楼歌会に出席
  した。参会者は8名だった。
5月4日 金田一京助の援助もあり本郷区菊坂町赤心館を宿した。
  生計のため小説を売り込むが成功しなかった。
  逼迫した生活が続いた。
6月23日〜25日
  「東海の小島…」「たはむれに母を背負ひて…」など、後に広く
知れ渡る歌を作った。
  さらに、246首を作った。

7月 『明星』に発表した。
   金田一京助は、自分が結婚するまで、石川啄木に金銭的・精神的
   な支援をした。

9月6日 下宿先を本郷区森川町蓋平館に移した。
11月『東京毎日新聞』に小説「鳥影」を連載した。
   『明星』は終刊した。
    『スバル』の創刊準備に当たった。

・明治42年(1909)
1月1日 「今日から24歳(数え年)」(★当用日記)
1月 『スバル』 創刊発行名義人になる。
就職活動が実ったのである。

3月1日 『東京朝日新聞』の校正係となる。
4月3日〜 ローマ字で日記を記すようになる。
4月7日  「ローマ字日記」を著し始めた。
 
4月13日
 「老いたる母から悲しき手紙がきた」
  「今日は社を休むことにした」
  「貸本屋が来たけれど、六銭の金がなかった。
  「そして、『空中戦争』という本を借りて読んだ」
 と日記にある。

6月16日 函館から妻子と母が到着した。
  本郷区本郷弓町の床屋「喜之床」の二階に移った。

10月 妻:節子が啄木の母との確執で盛岡の実家に向かった。
 ★石川啄木は嫁姑の確執もタッチしてないのか、しようと
しないのか分からない。しかし、結果は、自分がタッチして
いないのが分かる。変な野郎だ。

11月? 石川啄木も金田一京助の尽力で、戻った。
★やっぱ、ぐうたら男であろう。

12月 やがて、父も同居するようになった。


・明治43年(1910)
3月下旬 『二葉亭全集』の校正を終えた。
4月〜  出版事務全般を受け持った。

5月下旬〜6月上旬
  小説『我等の一団と彼』を執筆した。

6月3日 「幸徳秋水の拘引の記事解禁
  刑法73条に関わる記事はなかった。
  石川啄木は新聞記事を集める作業を進めていた。
 ★「大逆罪」の件と認識していた説が有力である。

7月1日 社用で入院中の夏目漱石を見舞った。
8月 朝鮮併合
「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」
があるが、歌集には収録しなかった。
8月下旬  評論「時代閉塞の現状」を執筆した。

9月15日 『朝日新聞』の「朝日歌壇」が創設され、選者となった。
10月4日 長男:石川真一が誕生した。
    27日には病死してしまった。

12月 満24歳 第一歌集『一握の砂』を東雲堂より出版した
 

・明治44年(1911) 大逆事件
1月初旬 
  石川啄木は弁護士:出修と会った。
  幸徳秋水の弁護士宛「意見書」を借用した。
  石川啄木は、「大逆事件」以前から社会主義思想にひかれていた。
  幸コ秋水の「陳弁書」を読み、社会主義を研究し始める。

1月10日
  アメリカ合衆国で秘密出版された。
  日本国内に送付されたピョートル・クロポトキン著の小冊子
  『青年に訴ふ』を歌人谷静湖より寄贈され、愛読した。

1月13日 土岐哀果と会った。
  『樹木と果実』の出版計画を相談したが、実現はしなかった。

※石川啄木の幸コ幸徳事件への興味は異常だった。
 「裁判全体は政府によるでっち上げだった。」と確信した。

5月 石川啄木は幸コ幸徳の弁護士宛の意見書を出した
   「A Letter from Prison」の前文を書いた。

6月15日〜17日
   長編詩「はてしなき議論の後」を執筆した。

7月28日 妻:節子は肺尖カタルと診断された。

8月7日 小石川区久堅町へ移った。

9月3日 父が家出した。

12月 石川啄木は腹膜炎と肺結核を患い、発熱が続いた。

・明治45年(1912)
3月7日 母:カツ死去。
4月9日 土岐は第二歌集出版の話を啄木に伝える。
4月13日午前9時30分ごろ、小石川区久堅町にて肺結核のため死去。
   妻:節子、父、若山牧水に看取られた。享年26。

4月15日 浅草等光寺で葬儀が営まれた。
  夏目漱石も参列した。
  土岐が生まれた寺で、彼が葬儀の世話をした。

6月14日 節子が次女を出産。
     房州(千葉県)で生まれたため「房江」と名付けられた。

6月20日 第二歌集『悲しき玩具』出版した。
     土岐がタイトルをつけた。
9月4日 節子は2人の遺児を連れ、函館の実家に帰った。


■石川啄木一族の墓(立待岬)
・大正2年(1913) 一周忌
函館の大森浜を望む立待岬に宮崎郁雨らの手で墓碑が立てられた。
  遺骨も移される。
 ★大学3年の時に、行ったけれど、写真はない。


 5月5日、節子も肺結核で死去。
   遺児は節子の父が養育する。
   東雲堂書店から『啄木遺稿』『啄木歌集』が出版された。

・大正4年(1915) 『我等の一団と彼』が東雲堂書店から出版された。

・大正8年(1919) 石川啄木全集3巻が新潮社より出版された。

・昭和5年(1930) 長女:京子が懐妊中に急性肺炎を起こし、2児を
         残して24歳で死去。
         次女:房江も肺結核により19歳で死去。

◆昭和26年発行の「一握の砂・悲しき玩具」
 ★母の本棚から出てきた。母は上毛歌壇の短歌で、特選も
あった。今は、病院でNHK短歌を読んでいるだろう。
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◆代表歌・・・歌集「一握の砂」より
「高きより 飛び下りるごとき 心もて 
   この一生を 終わるすべなきか」
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「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる 」

「頬につたふ なみだのごはず 一握の 砂を示しし 人を忘れず 」

「砂山の 砂に腹這い 初恋の いたみを遠く おもひ出づる日

「いのちなき 砂のかなしさよ さらさらと 握れば指の
     あひだより落つ 」

「しっとりと 涙を吸へる 砂の玉 涙は重き ものにあしあるかな」

「たはむれに 母を背負いて そのあまり 軽き(かろき)に泣きて
   三歩あゆまず」

「ふるさとの 父の咳する 度にしばらく
  咳のいづるや 病めばかなし」


〜〜〜北海道にて〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「はたらけど はたらけど猶 わが生活(くらし) 楽にならざり
    ぢつと手を見る」

「友がみな われよりえらく 見ゆる日よ 花を買い来て 妻としたしむ」


〜〜〜岩手県盛岡市の思いで〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく」

「かにかくに 渋民村は 恋しかり おもいでの山 おもいでの川 」

「石をもて 追はるがごとく ふるさとを 出でしかなしみ 消ゆる時なし」

「やわらかに 柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに

「ふるさとの 山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな」

すごくいい短歌なのにね。

〜〜〜岩手の山〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心▲岩手【コマクサの岩手山&八幡平温泉】
http://53922401.at.webry.info/201205/article_11.html

箕輪初心▲【幻想的な山行:八幡平&八幡平温泉】
http://53922401.at.webry.info/201205/article_12.html

箕輪初心▲東北【紅葉を堪能した栗駒山&温湯温泉】
http://53922401.at.webry.info/201205/article_14.html

箕輪初心▲【ハヤチネウスユキソウが咲く百名山:早池峰山】
&【花巻温泉】
http://53922401.at.webry.info/201205/article_13.html

箕輪初心★松尾芭蕉22『奧の細道』J【平泉】&▲岩手3山
http://53922401.at.webry.info/201208/article_6.html


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