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zoom RSS 箕輪初心:生方「箕輪城159&【中嶋宏氏主催の長野堰を語りつぐ会の絵図展】

<<   作成日時 : 2015/04/04 07:14   >>

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平成27年(2015)4月3日〜7日まで、高崎シティギャラリー
にて高崎「長野堰展」を開催されている。初日で約300人の
来場者があった。★実に素晴らしい長野堰の研究である。
約60の絵図や写真がある。後は見てのお楽しみである。
私は中嶋宏氏が主唱する「長野堰を語り継ぐ会」の14番目
の会員になった。今日は井伊直政パージョンの鎧で解説する
予定だったが、目立ちすぎるので、鎧と刀の展示のみとなった。
長野氏時代の箕輪城祭戸用水&早瀬川:十二堰&長野堰が農
業用水&ノロによる肥料作りのための用水・生活用水(食事・洗濯
・風呂水など)・館の防御用水・魚の捕獲用水(ヤマメ・ハヤ
・ナマズなど)して、大きな役割を担った。井伊直政の高崎城
時代には、長野堰は高崎城のお堀=城防御用水・生活用水
・農業用水・工業用水(染め物業)となった。そして、明治時
代には、防火用水&染め物業や製糸業や製紙業などの工業
用水として、高崎を守り、大いに発展させた用水路であった。
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〜〜〜高崎市の用水路シリーズ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心◆「群馬:高崎の稲作と用水路@」
http://53922401.at.webry.info/201103/article_34.html

箕輪初心◆群馬:高崎市の稲作と用水路A「長野氏の開発@」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201104/article_5.html

箕輪初心◆群馬:高崎の用水路B「長野氏の用水路編A」
http://53922401.at.webry.info/201104/article_6.html

箕輪初心◆群馬:高崎の稲作と用水路C「江戸時代」
http://53922401.at.webry.info/201104/article_7.html

箕輪初心★江原源左衛門&滝川用水20131010
http://53922401.at.webry.info/201310/article_11.html

箕輪初心★高崎藩8代・10代松平輝貞&「右京の泣き堀」
http://53922401.at.webry.info/201310/article_14.html

箕輪初心◆高崎の長野堰=西新波堰の歴史
http://53922401.at.webry.info/201310/article_12.html

箕輪初心◆長野堰B「染色のまち高崎に流れる長野堰
:高崎広報」
http://53922401.at.webry.info/201410/article_13.html

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【1】中嶋宏氏所蔵の面白グッズ&借り物
@円筒分水の模型・・・元小学校の福島先生が作成
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A高崎市大橋の長野堰からの小さな用水路で
 捕獲されたナマズ
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B手作りのジオラマ・・・主に副会長:西山氏が作成。
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B箕輪城の復元予定の城門・・・・高崎市教委:秋本太郎
先生の設計による小型の復元模型・・・高崎市教委からの
借用品・・・普段は高崎市役所1階に展示されている。
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C高崎城の復元模型・・・山崎一先生の設計に
 中嶋宏氏&会員が遠構えまで補作した物
 高崎歴史民俗資料館からの借り物である。
・東からの天望・・・大手門〜本丸
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・北からみた模型・・・長野堰からの取水口が分かる。
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【2】中嶋宏氏の新聞
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・パソコンによる画像
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【3】中嶋宏氏所蔵の絵図集や巨大年表
  ★素晴らしい長野堰研究です。後は見ての
    お楽しみ。60近い絵図や写真がありますよ。






〜〜以前の原稿にコメント・補足・感想等を追加〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【1】【高崎広報】2014年の秋号「熊井戸氏の執筆」
●高崎城下と領内を潤す16q水路
 
@高崎の中心市街地の北を流れる用水路「長野堰」は、武田信玄の進行を防
いだ箕輪城主・長野業政が16世紀初頭に開削したことから、その名を名付け
らたという。
★@『武田信玄の進行を防いだ』・・・弘治3(1559)〜永禄9年(1566)なので、
7年かもしれません。


1)箕輪城祭戸用水は、椿名沼(深さ7m:現箕輪小学校校庭)は武田信玄
  の侵攻を防いだ。街が東にあった。長野業政の家老:下田大膳の家
  (現箕郷支所)や現裏宿の田んぼに水が必要であった。
  南北朝時代の安国寺に水が必要であった。

2)早瀬川堰の工事は、もっと早くから行われていたはずである。
 ★おそらくは元の水草(現下芝第5保育園付近)長純寺が創建された
 ・取水口は長純寺に流れ、さらに、井野館・石神砦 (菊地うなぎ神社)
 ・新波砦・満勝砦・北爪砦(浜川町ローソン北隣)・寺内館と水が必要
  であった。全て環濠館であった。農協用水にも使われた。
  従って、永正元年(1497)には、早瀬川(現12堰・・12ヶ村への
  用水)が作られていたことになる。
  
 ※山崎一先生や近藤義雄先生の説では、寺の内館から長野氏が
   始まる説を採っている。
 ※久保田順一先生は、源頼朝の坂東33観音の指定などから
  から考えると、箕輪(高崎市箕郷町)が最大の都市であった
  としている。

 ★とにかく、平安時代には、箕輪(現箕郷)〜休息に、水田遺構が
  南下し、並榎や筑縄に田んぼ遺跡が急速に20ヶ所近くに増えた。
  長野康国=長野康業の可能性もある。
  長野氏系図17の内、長野弾正系図は、文化庁の認定になり、
  長野堰功徳碑に刻まれた。・・・・家系図が江戸時代のものなので
  17系図のどれを信じてよいかわからない。

3)長野堰の開発もっと早いのではなかったろうか?
 1504年説が有力説である。
 1503年に水草(現箕郷町下芝の第5保育園付近にあった長純寺が
 流された。

・天文20年(1551) 箕輪城主4代目:長野業政は長野堰を開発。
 長野堰の工事が行われたと考えられる。取水口は烏川ではなく、
 高崎市上沖の榛名白川からの取水であったと考えられる。
 祭戸用水〜早瀬川〜長野堰へと用水の水が現並榎町、現飯塚町に
 流れて行くように工事がなされたのであろう。早瀬川&長野堰は北東
 から南東に流れていく。つまり、真南に小さな用水路を流す構造に
 なっていたと考えられる。さらに、長野業政の娘婿で同心:和田信繁
 の住む赤坂に水を供給し、烏川に流れこむようにさせたのであろう。
 また、和田の同心:天田(甘田)一族、島野一族などの館にも小さな
 用水路を通したのであろう。


・弘治3年(1559)、長野業政が本郷堰(高崎市箕郷町善地駒寄〜榛名町十
4)本郷堰&長純寺堰
  文字〜榛名町本郷)から、菩提寺:長純寺に水を送るための工事をした。
  榛名町本郷の本郷景?&現榛名町十文字の後閑氏を助けながら
  本郷堰(黒沢川)を開発したのであろう。



Aしかし、伝説によれば実は平安時代に長政の先祖、上野国守・
長野康業がもともと開いた用水で、千年の歴史を持つとも言われている。
★『長野康業』・・・長野正弘氏系図にあるが、他16の系図には
『長野康業』なかったと思う。長野正弘氏は高崎来迎寺住職である。
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B長野堰は、榛名山のすそ野、箕輪城にも近い高崎市本郷町の烏川から
取水された・・・
★ B烏川から取水されたとあるが、長野郷は西に榛名白川&
 烏川に接し、東は井野川に挟まれた地区であった。

★ B烏川からの取水ではなく、榛名白川の取水であったと
 と考えるのだ妥当である。何故なら、榛名白川の本流が
 戦国時代には、現在の高崎市沖町の町中を流れていたと
 考えられる。現在の沖町の十字路が一番低い所にある。
 すなわち、榛名白川の本流であったと考えられるから
 である。江戸時代には、ここに宿がひらかれ、置屋=
 飯盛り宿が形成されていたからである。



C田園地帯から市街地へ至る用水で、岩鼻町で再び烏川に合流している
(烏川は利根川の支流)。
★長野氏の時代に岩鼻に行っていたかは不明である。
 


D長野氏が開いた長野堰は現在よりもはるかに小規模と考えられ、
★自分たちの地区開発が長野地区である。
 狭義の長野郷は現在の長野郷である。
 広義の長野地区は、久保田順一先生によれば、現長野郷
 &箕郷地区&榛名本郷〜榛名神社地区と考えられている。
 

E水路の延長は1598年(慶長3年)に箕輪から高崎へ城を移した
初代高崎城主・井伊直政が進めた。
★井伊直政は箕輪城から高崎城移転に際し、生活用水として
 農業用水として、高崎城の守りとして、長野堰からの取水
 工事をさせた。


F水路事業は歴代城主によってその後も引き継がれた。
★特に安藤家は大日堰(井野川〜高崎市緑町の水田)・三ツ寺
 の堤(唐沢川〜堤〜旧群馬町菅谷の水田)などの水田開発に
 力を注いだ。高崎城の天守閣・城下長野堰水路の拡張工事
 などを進んで手がけた。
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箕輪初心◆群馬:高崎の稲作と用水路C「江戸時代」
http://53922401.at.webry.info/201104/article_7.html
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G現在の水筋が徐々に整えられていった。
総延長16qに及ぶと、高崎藩領のほぼ全域約1、700ヘクタール
を潤すことができた。現在でも取水量が流れている。 


H江戸時代は、西新波堰、もしくは大川と呼ばれた。高崎藩以前の武将
の名が付く「長野堰」の呼び方は、その頃の城主には面白くなかったの
かもしれない。
★箕輪側からは「十二堰」と呼ばれる祭戸用水&早瀬川の延長
 であった。

●榛名湖から取水を計画した輝貞公
 
I長野堰の水は高崎城下に引かれ、お城や城下町の用水に使われた。
★火災に対する用水としても使われた。

J領内の新田開発が進むと、水量が足りなくなり対策が迫られた。
★すでに、水争いは頻繁にあった。


K元禄時代の城主・大河内右京大夫輝貞公は、長野堰の改良に熱心
で、榛名山にトンネルを掘って、榛名湖から水を引く計画に着手した。
ところが吾妻側から猛反対を受け、幕府の判断で工事は中止になって
しまった。榛名湖南の摺臼岩下には、掘りかけのトンネルが今も残っ
ており「右京濠」と言われるが、「右京のただ濠」「右京の泣き濠」
など、ずいぶんな呼ばれ方もされている。
★右京の「泣き堀」・「ばか堀」とも呼ばれている。榛名のするす
岩から箕郷松之沢〜長野郷〜高崎へと続く用水路の計画である。
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箕輪初心★高崎藩8代・10代松平輝貞&「右京の泣き堀」
http://53922401.at.webry.info/201310/article_14.html
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@それから200年後の明治37年、ようやく榛名湖からの取水工
事は実現された。
★榛名天神峠からの取水である。

●高崎の染物を支え育てた長野堰

 
M井伊直政は箕輪城から高崎城へ城下町も移し、高崎城下に染め職人
口は壮観で、豊かな水る紺屋の町が誕生した。高崎の染物は江戸時代
からの歴史があり、西上州一帯から集まる高崎絹を染め、「高崎に来れ
ば染物の仕事が間に合う」とまで言われたそうだ。染物職人の多くは、
長野堰とそこから城下に引いた支流の水を利用した。旧市の北部には、
戦後に至るまで長野堰に沿って多くの染工場があり、染物の洗い場が
長野堰に張り出していた。護岸は石積みで長野堰の川流しは、昭和20
年代まで盛んに見られた風景である。
★箕輪城時代の紺屋町は群馬銀行箕輪支店・現金屋・
 箕輪タクシー・長島屋のある付近である。・・・
 井伊直政の高崎城への移築に際し、職人と町名をそっくり
 移転させた。

※「本紺屋」→元紺屋町
 高崎旧城下の職人町の一つで、旧市街地の東に位置する。  
 「元紺屋」は、箕輪城下で紺屋職人の長をしていた宇佐見氏
 が、高崎への移城にともなって紺屋町に移住し、高崎藩から
 紺屋支配を命じられた。
初期の中山道で、紺屋町&東隣の北通町の間を南北に通っていた。
 中山道は、わずかの期間であった。染物店や漬物店などがあって、
 往時の面影を残している。
 ・延享年中(1744〜48)に町名主が交代した。
 中紺屋町・新紺屋町の「紺屋町」の一部であった。
 中紺屋町・・・紺屋職人が多くいた。
 元紺屋町と新紺屋町の間にあった。
 旧城下の職人町で、市街地のほぼ中央に位置している。
 中紺屋町から「西ノ横丁」、「東ノ横丁」と呼ばれていた。
 「東ノ横丁」は「古着屋横丁」とも呼ばれていた。
 高崎は中山道の要衝にあり、高崎絹の集散地として絹問屋、
 絹宿が軒を並べていた。高崎田町の絹市場は五の日、十の日
 に六斉市が立ち賑わいを見せていた。
 http://www.npogunma.net/shouto-takasaki/district/2_walk/1_chimei_05na_ma.html
 東三条通りの寿司屋「五万石」近くに染物屋があった。
 長野堰の川幅も今より広く、桟橋が渡され、洗い場になっていて
 反物を水洗いしていた。という。
 この先は、城東小学校の校区で円筒分水がある。

(★高崎織・・・蒲原宿)

 
N長野堰の水利権は高崎藩や村同士の話し合いでルールが作られて
いたが、日照りになると水争いが起こり、時には凄惨な状況にも発
展した。長野堰の支流には「地獄堰」と名付けられた用水があり、
水争いの激しさが伝わってくる。水利の問題は明治以降も続き、・・
★井野川流域・長野堰流域は水論が多かった。



O昭和37年に地獄堰を含む4つの用水に平等に湧き上がる「円筒分水」
が、高崎市立城東小学校の近く(高崎市江木町)に設けられた。サイフ
ォンの原理で水が湧き上がる円筒分水は、全国でも珍しい施設で、水の
流れも美しく、農林水産省の「疏水100選」に選ばれている。
★実に工夫された施設である。




〜〜〜もっと以前の原稿〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
●長野堰サイクリングロードコース
 @「長野堰頭首工」・・・・烏川から長野堰にへと取水。
   最大時、6.797立法メートル取水。
   ※高崎市榛名町本郷・・・「頭首工竣工記念碑」  
     昭和47年
 A高崎市沖町・・・・・・・養魚場に給水。
 B高崎市沖町・・・・・・・沖町郵便局・岡田邸・・・・
  長野堰が見える。長野時代は、住吉砦であった。
  従って、当時、榛名白川は高崎市沖町の繁華街の北:現在の
  取水口付近で烏川に合流していたため、本来の取水口は、
  高崎市沖町上沖の諏訪神社北付近だと。想像できる
 C現榛名白川を渡るサイフォン・・・
   水門とサイフォンの入り口
   榛名白川の手前で再びサイフォンが設置されており、
   川を伏せ越している。
 D榛名白川左岸。。。長野堰の流れは新波橋を左岸の伏せ越の
   対岸フェンスの裏に水路
 E県道26号を離れて200mほど暗渠。
   再び水路。石柱には「水神宮」。
 F第一我峰堰・・・・・長野堰サイクリングロード。
   美しいカーブを描きつつ水路が続く。
   田んぼの中を?、のんびりと?、自
   転車道が続いている?
 G高崎市下小塙JR前・・・・水路沿いを行く。
   長野郷中学校南を東に進む。周囲の景色は一面の田んぼ。
 H高崎環状線と交差。・・・・歩行者用の地下道が整備。
 I高崎市上小塙・下小塙の堺を進むと、流れはだんだんと
   高崎住宅街へと変わっていく。
 J長野堰改修記功碑・・・・信越本線と交差地点には歩道橋設置。
 K高崎市「サイク長野堰リングロード」・・・
  「高崎市総合文化センター」で長野堰サイクリングロード
   は終端。
   実際には長野堰最大の見所と大きな分水工「請地堰」
   が先にある。
 ●五万石義人堂五万石義人堂。
    明治維新の頃減税を訴えて蜂起した五万石騒動の際に、
   総代が捕らえられ処刑された場所。
 L佐野堰へ分流
 M「長野堰円筒分水堰」・・・中央のサイフォンからあふれ
   出た水が、4つの水路に分かれる場所。 
  地獄堰、矢中堰、倉賀野堰・上中居堰の4堰に分岐・・・
  正確に受益配分される分水施設である。 
  ※分水堰付近の石碑には
 「恐ろしや 地獄の関と 思ひしが 悟ればここぞ 極楽能堰」
   かつての水利争いを地獄、分水堰ができてからは極楽と
  いう意味である(伝)。



【2】長野堰の歴史(中嶋宏氏の資料&近辺市史・町史)
●長野堰
(高崎沖町→高崎農業普及所南→高崎飯塚町→高崎大類→
 烏川合流)

※延長6年(928)   長野康業が長野堰を開発開始? 
    (★中嶋宏氏の「長野堰の水と光」より) 

・天文20年(1551) 箕輪城主4代目:長野業政は長野堰を開発。
  ★当時、榛名白川は高崎市沖町の繁華街の北:現在の
    取水口付近で烏川に合流していたため、本来の取水
    口は、高崎市沖町上沖の諏訪神社北付近だと。
   想像できる

・永禄9年(1566)〜 箕輪城主は武田信玄家臣:甘利・浅利・
    内藤らが水路整備?(資料なし)

・天正10年(1582)〜箕輪城主:北条氏邦・猪俣邦憲などが
   水路整備?(資料なし)

・天正18年〜慶長年間1600年頃・・・
   箕輪城主8年→高崎城主:井伊直政が拡張工事完成?

・文政年間(1818〜)・天保年間(1830〜)・嘉永年間(1848)
  長野堰をめぐる水争い

・明治23年(1890) 長野堰組合が発足

・明治26年(1893) 上並榎に佐賀野川用水が開設。・
  ・・水車4基。

・明治37年(1904) 榛名湖より天神峠トンネルから引水し
   長野堰へ補助用水。

・大正3年(1914) 板紙製紙工場が長野堰の水を使用。
高崎板紙が資本金8万円で創設された。
    井上保三郎は社長に、取締役に青木勘之助、荒木仙十郎、
    小島弥一郎、櫻井伊兵衛等が就任。
    工場は八島町に置かれた。
    板紙は麦ワラのほうが稲ワラより安いので主原料と
    した。問屋で使用した俵・縄などの廃物が当時一日
    500貫(約2,000kg)も出たのでリサイクルした。
   (★高崎新聞)

・大正12年(1924) 下小塙堰の完成。

・昭和2年(1927)   長野二段締め切り頭首口
    (高崎市金井淵町)→堰・・・烏川横断・・・
     高崎市我峰町→高崎市新井団地→環状線新井の
     信号東を横断→高崎市立北部小北面を東へ
     →真木病院西で本長野堰に合流・・・
     (後に、本長野堰+貝沢堰新築・・・・)

・昭和6年(1931)  長野堰の石積み工事開始。

・昭和28年(1953)〜昭和43年(1968)
     長野堰の三面コンクリート工事。
     色業の染色原料の芳流が長野堰・一貫堀川増加。

・昭和35年(1960) 上並榎に瀧谷不動近くにポンプ堰を建設。

・昭和37年(1962) 工事。

・昭和47年(1972) 高崎市旧榛名町本郷に長野堰頭首口が完成。

・昭和49年(1974) 〜昭和54年(1954) 水質汚濁解消工事。

・平成20年(2008) 長野堰の感謝祭イベント実施。     
  

・平成26年(2014) 円筒分水が珍百景に選ばれた。
  中嶋宏氏が案内者として出演した。


◆参考資料等
・中嶋宏氏の本などを編集
・観光高崎の文章




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コメント(2件)

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突然すみません、以前記事にあった井伊直直政の継父、
初代松下源太郎の子孫、14代松下 朗と申します。
4月4日は、12代松下親次の命日でした。
お墓の資料、本家先祖の資料から菩提寺の資料などで、
ここにたどり着きました。知らなかった事もあり、勉強になりました。
pinecone
2015/04/04 22:20
4月4日は、12代松下様の命日でしたか。
@浅野家文書に箕輪城の「松下」が記載されています。
 箕輪城稲荷曲輪のことです。
A松下源太郎公が箕郷町の龍門寺です。井伊時代の鬼門の寺
 でした。
箕輪城稲荷曲輪と龍門寺に是非行った見てくさい。
松下朗様
2015/04/05 09:25

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箕輪初心:生方「箕輪城159&【中嶋宏氏主催の長野堰を語りつぐ会の絵図展】 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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