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zoom RSS 箕輪初心:生方▲【武田の騎馬行列】&箕輪城161「箕輪城関係の武将」

<<   作成日時 : 2015/04/14 08:24   >>

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武田信玄公の命日は4月12日である。武田躑躅ヶ崎(現武田神社)
からの武者行列は見られた。騎馬は25騎であった。箕輪城との関係
を考察しながら、まとめてみた。騎馬のほとんどの一族は、永禄9年
(1566)9月29日の箕輪城攻撃の関係者である。また、永禄12年
(1569) 鉢形城→滝山城→小田原城→三増峠の戦いでは、甲斐→信濃
→上野の出陣なので、小山田以外の本格的な武田軍団20000以上が
上野国を通ったことになる。

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箕輪初心●箕輪城130「長野業正の生涯」=武田信玄を悩ませた人物
http://53922401.at.webry.info/201405/article_2.html
★武田家の滅亡まで

箕輪初心★箕輪城136【長野氏業=業盛】:
永禄9年箕輪城落城。
http://53922401.at.webry.info/201405/article_10.html
辞世は
「春風に梅も桜も散り果てて名のみぞ残る箕輪の山里」

箕輪初心★箕輪城137【長野亀寿丸=鎮良】&『浦野家文書』
http://53922401.at.webry.info/201405/article_11.html

〜〜〜長野業政 VS 武田信玄〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●真田3代B『川中島の戦い&真田の上野国進出』
http://53922401.at.webry.info/201111/article_28.html

箕輪初心◆長野:川中島&胴合橋・典厩寺・雨宮など
http://53922401.at.webry.info/201309/article_12.html

箕輪初心●群馬:岩櫃城A「歴史+真田一族」
http://53922401.at.webry.info/201011/article_6.html

箕輪初心●箕輪城シリーズJ「武田信玄の西上州侵攻」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_16.html

箕輪初心●群馬松井田:坂本城&愛宕山城=武田信玄の築城か?
http://53922401.at.webry.info/201210/article_4.html


〜〜〜武田時代の箕輪城〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

箕輪初心●箕輪城シリーズL6代「甘利昌忠」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_21.html

箕輪初心:●箕輪城シリーズM「第7代真田幸隆(幸村祖父)」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_22.html

箕輪初心●箕輪城シリーズO「第8代:浅利信種」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_24.html

箕輪初心:●箕輪城シリーズP「第9代:内藤昌豊」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_25.html

箕輪初心●箕輪城シリーズQ「第10代内藤昌月」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201010/article_26.html

箕輪初心▲箕輪城147【善龍寺】=長野業正長男:長野吉業の墓
・内藤昌豊&昌月の墓=会津藩
http://53922401.at.webry.info/201412/article_7.html


箕輪初心▲埼玉上里【金窪城】&『神流川の戦い』詳細
http://53922401.at.webry.info/201409/article_21.html
★内藤昌明は滝川一益の家臣として仕えた。

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箕輪初心▲武田信玄:鉢形城〜滝山城〜小田原城〜三増峠の戦い
http://53922401.at.webry.info/201411/article_19.html


箕輪初心◎【長篠の戦い】前編:武田VS松平+織田の動き
http://53922401.at.webry.info/201211/article_25.html

箕輪初心◎長篠の戦い後編:設楽原の激闘&上野国関係者
http://53922401.at.webry.info/201211/article_27.html

箕輪初心★織田信長G武田氏滅亡→本能寺の変
http://53922401.at.webry.info/201206/article_12.html

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【2】躑躅ヶ崎(現武田神社)〜甲府駅の武者行列
 戦国時代最強とうたわれた甲州軍団
 名将武田信玄に率いられた武田勢は、風林火山の旗印のもと怒とう
 の進撃で、その勇猛ぶりを天下にうたわれた。

●武田二十四将騎馬隊

1)飯富兵部少輔虎昌(おぶひょうぶしょうゆうとらまさ)
赤備えの軍団を編成して伊那、佐久攻略で活躍した。佐久:内山城。
「甲山の猛虎」、「赤い稲妻」の異名をとどろかせた猛将である。
・永禄8年(1565)「義信事件」で飯富兵部は謀反を企んだと
 して、弟の三郎兵衛(後の山県昌景)の密告のより捕らえられ、
10月15日 責任を取らされ、自害した。享年62。
  (★『甲陽軍鑑』)
飯富兵部は箕輪城の近く若田原の戦いには参戦したと思われる。
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2)横田備中守高松(よこたびっちゅうのかみたかとし)
・天文19年(1550)9月9日 村上の拠点である砥石城を包囲した。
 横田高松も参戦して攻撃を開始するが、・・・砥石崩れで・・
 村上軍が退却する武田軍に襲い掛かった。横田高松は殿軍を
 引き受けて戦死した。享年64?
戦場にのぞむこと34度、31の戦傷があったという。
 ※原虎胤の長男:康景(綱松)は横田高松の婿養子となった。
 ★横田綱松は箕輪城攻撃に参加したであろう。
 長篠の戦いで討死した。
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3)板垣駿河守信方(いたがきするがのかみのぶかた)
 譜代の重臣。諏訪城代。
・天文17年(1528)2月14日 上田原の戦いで戦死した。
嫡男:信憲が継いだが、武田信玄に誅殺された。同族の加賀美遠光
 の於曽左京亮信安が板垣家を再興した。
 ★板垣信安は箕輪城攻撃に参加したであろう。
 子孫は板垣退助である。


4)土屋右衛門尉昌続(つちやうえもんのじょうまさつぐ)
 武田晴信の守役:金丸虎義の次男。金丸氏は清和源氏流武田氏
 一門で、甲斐守護武田信重の子、金丸光重を祖とする。
 虎義は譜代家老であったという。
土屋昌続は三枝昌貞(守友)、曽根昌世、武藤喜兵衛(真田昌幸)、
 甘利昌忠、長坂昌国らと「奥近習六人衆」の一人として武田信玄の
 傍に仕えたという。
・永禄4年(1561)の4回目川中島の戦い
 武田信玄の傍を離れずに上杉謙信に応戦し、戦功により侍大将にな
 ったという。 (★『甲陽軍鑑』)
★永禄9年(1566)9月 箕輪城攻撃に参加した。
9月29日、長野氏業(業盛)が自刃。箕輪城落城。 

・永禄12年(1569) 三増峠の戦い
 箕輪城代:浅利信種が戦死。
 浅利同心衆の相備えとして付けられた。
 桓武平氏三浦氏流?土肥一族?土屋家の名跡を継いだとされる。
 三方ヶ原の戦い 徳川方の鳥居信之と一騎打ちで首級をあげた。
 長篠の戦い 一斉射撃を受け戦死したという。
※兄弟には金丸昌直、土屋昌続、秋山昌詮、金丸定光。土屋昌恒、
 秋山親久がいる。
土屋昌恒は内藤昌秀(昌豊)が箕輪城代になって、保渡田城を
拡張工事し、そこに住んだ。・・・子孫は土屋文明だと思われる。

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5)甘利備前守虎泰隊(あまりびぜんのかみとらやす)
 武田譜代の名将。板垣信方とともに家老を務めた。
・天文17年(1548)2月14日 上田原の戦いで、甘利虎泰は戦死した。
 甘利昌忠が跡を継いた。
・永禄4年(1561)  真田幸隆と信濃:上田から、上野(群馬)
 の吾妻の侵略を支えた。大戸氏(→浦野氏)の取り次ぎを
 行った。甘利昌忠はその後、5年間、岩櫃城&箕輪城攻撃
 に関わった。
 
甘利昌忠は娘を安中景繁に嫁がせた。

★永禄9年(1566)箕輪城落城
 甘利昌忠は僅かな期間であるが、真田幸隆の跡を継いで、箕輪
 城代となった。真田幸隆と一緒に城代を務めたのかもしれない。

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6)小畠(小幡)山城守虎盛(おばたやましろのかみとらもり)  
 小畠虎盛は上野小幡氏の遠縁とする系図もある。
 「鬼虎」の異名を持つ猛将。36回の合戦に参加して貰った感状
  は36枚、41ヶ所の傷を受けた(伝)。
・永禄4年(1561) 6月 小畠虎盛が病死。享年71。
   小畠昌盛は武田信玄に許されて「小幡」姓を上野国の
国峰城主:小幡重貞→信貞にあやかって名乗ったもの
であるらしい。
★永禄9年(1566) 小畠昌盛は箕輪城攻撃に参加した。
★元亀元年(1570) 箕輪城代:内藤昌豊の配下として西上野の総横目
を務めた。

・天正10年(1582) 織田信長・徳川家康連合軍が甲斐に侵攻する
したが、小畠昌盛は病床にあったため参戦できなかった(伝)。
  武田勝頼に甲斐善光寺で暇乞い後、病死した(伝)。享年49。
3男:小幡景憲は「甲陽軍鑑」の編者である。
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7)山県三郎右兵衛尉昌景(さぶろうびょうえのじょうまさかげ)
美濃の名家土岐氏の出、飯富兵部の弟(甥)とされる。
・永禄8年(1565) 10月「義信事件」
 武田信玄の嫡男:武田義信と彼の傅役:飯富虎昌が謀反を起こし
 た。昌景が密告し、兄:飯富虎昌は自刃した。飯富虎昌の赤備え
 を引き継いだ。
・永禄9年(1566)8月飯富の姓から山県姓と名を改めたのが確認される。
永禄9年(1566)9月 箕輪城攻撃に参加した。
9月29日、長野氏業(業盛)が自刃。箕輪城落城。

・天正3年(1575) 長篠の戦い・・・戦死。
・天正10年(1582) 武田氏滅亡。
井伊直政の配下に多くの旧山県昌景の家臣がいる。
 勘助流・馬場流・山県流の築城術を身につけた早川幸豊は
 井伊直政の家臣として、高崎城や彦根城の縄張りを担当した。

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8)秋山伯耆守虎繁(あきやまほうきのかみとらしげ)
・天文16年(1547) 信濃福与城攻めで一番乗りの戦功を挙げた。
木曽福島城攻めで戦功を挙げた。
伊奈郡代に抜擢され、高遠城、飯田城、大島城の城代を務めた。
永禄9年(1566)9月 箕輪城攻撃に参加した。
9月29日、長野氏業(業盛)が自刃。箕輪城落城。
・元亀3年(1572) 10月 武田信玄は西上作戦を開始する。
秋山虎繁は山県昌景とともに別働隊を率いて三河に攻め入った。
 三方ヶ原の戦いに参戦した。
・元亀4年(1573)年)3月 秋山虎繁は岩村城に入城した。
  この時、前城主:遠山景任の未亡人で織田信長の叔母:「おつや
  の方」を正室として迎えたとされる。???
  遠山家の養子:織田信長の5男:御坊丸(後織田勝長)を保護し
 て甲斐に送った。
  武田信玄の死後、武田勝頼に仕えた。
・天正3年(1575) 長篠の戦い
武田軍が敗れた。
  11月、織田信長は嫡男:信忠に命じ、岩村城を包囲した。
  秋山虎繁は開城したが、長良川で磔にされた。享年49。



9)穴山玄蕃頭信君(あなやまげんばのかみのぶきみ)穴山梅雪
 父:穴山信友の妻は武田信虎の娘である。つまり、武田信玄は叔父。
 穴山信君の妻は武田信玄の次女:見性院である。 義父にもあたる。
★永禄9年(1566)9月 箕輪城攻撃に参加した。
9月29日、長野氏業(業盛)が自刃。箕輪城落城。
・永禄11年(1568) 駿河侵攻を開始
穴山信君は今川家臣や徳川氏との取次を務めた。
信玄の死後、従兄弟で義弟:武田勝頼とは対立が絶えなかった。
 長篠の戦いの際には戦線を離脱した。
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10)真田弾正忠幸隆(さなだだんじょうのじょうゆきたか)
・天文10年(1541) 武田信虎は諏訪頼重や村上義清と共に小県へ侵攻
した。5月の海野平合戦により海野一族は駆逐された。
 滋野一族の海野棟綱と真田幸隆は鳥居峠を越えて羽根尾城の
 上野国:長野原の羽根尾城の羽尾羽尾修理亮=羽尾幸全&海野
 幸光兄弟を頼った。 羽根尾幸全は真田幸隆(幸村祖父)らを
 庇護した。
 その後、箕輪城の長野業政が真田幸隆を庇護した。
 真田幸隆は3年間の箕輪城生活を終え、武田信玄の被官となった。

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箕輪初心●真田3代@「実田→真田幸隆の出自
http://53922401.at.webry.info/201111/article_26.html

箕輪初心●群馬長野原【羽根尾城=羽尾城】
http://53922401.at.webry.info/201201/article_24.html

箕輪初心●真田3代A幸隆の箕輪城居候1541〜旧領奪回1551
http://53922401.at.webry.info/201111/article_27.html

箕輪初心●群馬:中之条【内山城=仙蔵の要害】=真田幸隆の
嵩山城攻撃
http://53922401.at.webry.info/201202/article_8.html
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・天文20年(1551) 再び戸石城攻めが行われた。
 『高白斎記』によれば、真田幸隆の調略=砥石城にいた実弟:
 矢沢幸綱を味方に引き入れて、5月26日に1日で攻略した。
・永禄4年(1561) 第4次川中島の戦い
  嫡男:真田信綱と妻女山の上杉本陣への夜襲に加わった。
・永禄4年(1561) 真田幸隆は信濃先方衆・上州先方衆として小県から
吾妻にかけての攻略を命ぜられた。
同族の羽根尾城:羽尾幸全と鎌原城:鎌原重幸の対立を
利用して侵攻した。
鎌原幸重と羽尾幸全の所領抗争・・・幸隆が調停した。
・永禄6年(1563)、羽根尾城・長野原城周辺で合戦となった。
 弟:常田が長野原城で死んだ。
 岩櫃城の斎藤憲弘を攻撃して、海野幸光などを味方にした
 羽尾幸全を支援した上杉方の斎藤氏居城:岩櫃城を、調略で
 落とした。

・永禄8年(1565) 獄山城を落とした。

★永禄9年(1566)真田幸隆は箕輪城を攻略にも加わった。
 ★羽根尾城&箕輪城の攻撃は大恩を仇で返すこととなった。
 甘利昌忠&大戸氏→浦野氏と共に箕輪城主:長野業盛を
 攻略に参加した。
 真田幸隆は嫡男:信綱と共に、武田氏の上野攻略の拠点:箕輪
 城代として3日間過ごしたようである。
 ・・・譜代衆並みの扱いであった。
 所領の安堵や配置換えを行っている。
 その後、甘利昌忠が箕輪城代になった。
・永禄10年(1567) 白井城を攻略した。
号を一徳斉、真田幸村の祖父。武勇知略共にすぐれていた。



11)馬場美濃守信春(信房)(ばばみののかみのぶはる)
・永禄4年(1561) 川中島の戦い
上杉軍の背後を攻撃する別働隊の指揮を任された(伝)。
・永禄5年(1562) 馬場信房から馬場美濃守信春と改名した。
永禄9年(1566)9月 箕輪城攻撃に参加した。
9月29日、長野氏業(業盛)が自刃。箕輪城落城。

・永禄11年(1568) 駿河攻めにも参加した。
・永禄12年(1569) 三増峠の戦い
馬場美信春は先鋒として北条軍と戦い、武功を挙げた。
・元亀3年(1572) 信玄による西上作戦にも参加した。
  三方ヶ原の戦い
徳川軍を浜松城下まで追い詰めるという武功を挙げた。
※徳川家康の脱糞伝説
・元亀4年(1573) 武田信玄が死去
  武田勝頼を補佐するが、馬場&山県と疎まれたという。
・天正3年(1575) 5月21日 長篠の戦い
 武田軍は、有能な武将を次々と失い、戦線は崩壊。
  武田勝頼が退却するのを見届けると、殿軍を務めていた。
  馬場信春は追撃の織田軍と戦い、戦死した。
  享年61。
石碑・・・新城市出沢(すざわ、)が戦死の地とされている。
墓所
1長篠城址に近い新城市長篠字西野々・・(★断層露頭の手前)
2山梨県甲州市の恵林寺
3北杜市白州町の自元寺:菩提寺
2テラの外付けハートディスクは中身消滅で、
 4月12日に「小竹」にコジマ電気から連絡があった。
 「写真消滅・・・山梨・長野・新潟・富山・石川分もない。
  これから書こうとする約400城以上のブログようの写真は
  ないのだ。」
 牧ノ島城や石碑や3つの墓とも写真があったのに・・・




12)原隼人佑昌胤(はらはやとのすけまさたね)
地理守備の術にすぐれていたという。陣場奉行として陣取りに才能を発揮。
・永禄4年(1561) 西上野侵攻
原昌胤&跡部勝資&曽根虎長&土屋昌続らとともに上野国衆への
 取次を務めていた。
 原昌胤は一之宮貫前神社や高山氏、小幡氏、高田氏らの取次を担当
 した
★永禄9年(1566)9月 箕輪城攻撃に参加した。
9月29日、長野氏業(業盛)が自刃。箕輪城落城。
・永禄10年(1567) 下之郷起請文
上野国衆からの起請文を担当した。
・永禄12年(1569) 駿河侵攻
  富士山本宮浅間大社や静岡浅間神社など寺社支配を行った。
・天正3年(1575) 長篠の戦い 戦死。


13)武田典厩信繁(たけだてんきゅうのぶしげ)
 武田信玄の弟。副将といったところである。
 武田信玄の影武者を務めた。
・永禄4年(1561) 川中島の戦い
武田信繁や山本勘助や諸角が戦死した。
※長野ICから300m程の所に典厩寺がある。
 真田??が建立した。・・・★写真は消滅。





14)武田刑部少輔信廉(たけだぎょうぶのしょうゆうのぶかど)
 武田信玄の弟。
・永禄4年(1561) 第4次川中島の戦い
兄:武田信繁が戦死したため、親族衆筆頭となった。
 戦時には、後方守備や本陣守護などを務めていた。
永禄9年(1566)9月 箕輪城攻撃に参加したであろう。
9月29日、長野氏業(業盛)が自刃。箕輪城落城。
・元亀元年(1570) 信濃の高遠城主に任じられた。
・元亀4年(1573年)4月 武田信玄が死去。
 武田一族の重鎮として飯田城代や大島城代などの要職を任された。
 武田信玄の死後、武田信廉が武田信虎の身柄を引き取り、高遠城
 に住まわせた。
・天正3年(1575) 長篠の戦い
5月21日の設楽原合戦の時には穴山信君らと戦線を離脱した。
・天正10年(1582) 織田・徳川勢による甲州攻撃
  武田信廉は大島城を放棄して甲斐へ退却した。
  武田勝頼の自刃から13日後、・・・・
  3月24日、甲斐府中の立石相川左岸で森長可配下の各務元正、
(★子孫は元同僚の祖先)
豊前采女によって殺害された。享年51。



15)小幡豊後守昌盛(おばたぶんごのかみまさもり)
 小畠山城守虎盛の嫡男。
・永禄4年(1561) 6月 小畠虎盛が病死。享年71。
  ★小畠昌盛は武田信玄に許されて「小幡」姓を上野国の
国峰城主:小幡重貞→信貞にあやかって名乗ったもの
であるらしい。
永禄9年(1566)9月 箕輪城攻撃に参加したであろう。
9月29日、長野氏業(業盛)が自刃。箕輪城落城。
★元亀元年(1570)箕輪城代:内藤昌豊の配下として西上野の
総横目を務めた。おそらく、8年間?

・天正10年(1582) 織田信長・徳川家康連合軍が甲斐に侵攻。
小畠昌盛は病床にあったため参戦できなかった(伝)。
  武田勝頼に甲斐善光寺で暇乞い後、病死した(伝)。享年49。
3男:小幡景憲は「甲陽軍鑑」の編者として著名である。



16)一条右衛門大夫信龍(いちじょううえもんのたゆうのぶたつ)
 武田信虎の末子とされる。河窪信実の弟とされている。
  甲斐源氏:武田信義の2男:忠頼を祖とする一条家を継いだ。
・永禄4年(1561) 川中島の戦い
永禄9年(1566)9月 箕輪城攻撃に参加したであろう。
9月29日、長野氏業(業盛)が自刃。箕輪城落城。

・永禄11年(1568) 武田信玄の駿河侵攻
   駿河田中城代(島田市)を務めた。
・天正3年(1575) 長篠の戦い
武田勝頼の戦線離脱を見極めた後で退却した。
・天正10年(1582) 織田信長・徳川家康の甲州攻撃
  3月2日 駿河田中城(島田市)を撤退して上野城に戻った。
  3月10日 徳川勢1万に対し300で突撃して討死。
★一条家の支流:下条家の子孫に黒崎家があり、
 旧群馬町に住んでいる。



17)真田源太左衛門尉信綱(さなだげんたざえもんのじょうのぶつな)
 真田幸隆の長男。
・永禄4年(1561) 第4次川中島の戦い
父:真田幸隆と妻女山攻撃の別働隊に加わった。
・永禄6年(1563) 父:真田幸隆の岩櫃城攻撃
  ★真田信綱は信濃の真田郷を事実上支配していたと思われる。
★永禄9年(1566)9月 箕輪城攻撃に参加した。
9月29日、長野氏業(業盛)が自刃。箕輪城落城。
父:真田幸隆とともに箕輪城代を務めた?
 箕輪城の旧長野氏の安堵・・・家臣の配置を考えた。
甘利昌忠が箕輪城代になった。甘利と兼任かもしれないが。

・永禄11年(1568) 真田信綱&昌輝兄弟は駿河国攻めの先鋒を
  担った。
・永禄12年(1569) 三増峠の戦い
真田信綱&昌輝、内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げた。
・元亀3年(1572) 真田信綱は真田幸隆に代わって、信濃先方衆の
  筆頭になっていた。
  三方ヶ原の戦い
  武田軍の先手を務めて奮戦した。
・天正2年(1574) 5月 真田幸隆が死去。
  真田家の家督を継いだ。
・天正3年(1575) 5月21日の長篠の戦い
鉄砲部隊の銃撃によって弟:昌輝と共に戦死した。享年39。
※信濃の上田:真田の信綱寺に墓がある。・・・★写真は消滅。
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箕輪初心●真田3代C『真田信綱→真田昌幸の時代』
http://53922401.at.webry.info/201111/article_29.html


18)多田淡路守満頼(ただあわじのかみみつより)
・天文16年(1547) 8月 信濃国佐久郡・志賀城攻め
小田井原の戦い
  武田信玄 VS 関東管領:上杉憲政援軍
活躍した。
・天文17年(1548) 信濃守護:小笠原長時との戦い
林城(松本市)攻撃
  武田信玄から感状を受けた。
※信州虚空蔵山砦(砥石城の向かいの岩山)の守護の時、
 「火車鬼」を退治したという伝説がある。
・永禄4年(1561) 第4次川中島の戦い
 病床にあり、息子を参戦させた。
・永禄6年(1563) 病死。




19)小山田左兵衛尉信茂(おやまださひょうえのじょうのぶしげ)
秩父平氏流小山田有重の子孫である。岩殿城主。
 母は武田信虎の妹で、武田信玄の従弟に当たる。
・天文16年(1547) 8月 信濃国佐久郡・志賀城攻め
笠原清繁の妻を金で買って、側室とした。
・永禄9年(1566) 3月 武田信玄に従い上野国(群馬県)に出陣した。
9月29日、長野氏業(業盛)が自刃。箕輪城落城。
・永禄11年(1568) 駿河侵攻
小山田信茂は駿河江尻(静岡県静岡市清水区)から先陣として
  侵攻した。(★『甲陽軍鑑』)
・永禄12年(1569) 三増峠(神奈川県愛川町・相模原市)の戦い
 武田信玄は小山田信茂に「武蔵国八王子城(八王子市)を攻め、
 滝山城(八王子市)での合流を指示した。」
 (★『甲陽軍鑑』)
・元亀元年(1570)小山田信茂は伊豆韮山城・興国寺城攻めに参加した。
・元亀3年(1572)10月 「西上作戦」を開始した。
  12月三方ヶ原の戦い。
・元亀4年(1573) 4月12日 武田信玄は信濃伊那郡駒場で死去。
  家督は4男:武田勝頼がついだ。
・天正3年(1575) 長篠の戦い
  小山田信茂は武田勝頼の警護し、退却した。
・天正6年(1578) 〜小山田信茂は武田家&上杉家・後北条氏
    との取次・調停にも携わっていた?。
・天正9年(1581) 12月 織田信長・徳川家康の武田領攻撃
武田勝頼は新府城(山梨県韮崎市)を築城して甲府から本拠
  を移転していた。
箕輪初心●真田3代D『5回主家を変えた真田昌幸』
http://53922401.at.webry.info/201111/article_30.html
総大将織田信忠、副将滝川一益・・・
・天正10年(1582)
 3月3日 武田勝頼は新府城を放棄し、小山田氏の郡内へ逃れた。
  真田昌幸が上野岩櫃城(群馬県吾妻町)の潜竜院への退避を
  提案したが、武田勝頼側近:長坂光堅が小山田を頼り、
  岩殿城(大月市賑岡町)へ逃れることを主張した。
  武田勝頼一行が退避するさなか、小山田信茂は武田勝頼から
  離反した。・・・武田勝頼は自刃した。
その後、小山田信茂も自刃説、東光寺での処刑説がある
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★岩櫃城跡探検隊第9弾【郷原城】【潜竜院】&『早川知佐講演会』  
http://53922401.at.webry.info/201406/article_3.html
箕輪初心●山梨【岩殿城】=武田勝頼を裏切った小山田氏の山城
http://53922401.at.webry.info/201202/article_5.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


20)内藤修理亮昌秀(昌豊)(ないとうしゅりのすけまさひで)
 「内藤昌秀(まさひで)」が正しいという説が有力である。
※『高崎市史』・・「豊」は父:虎豊から1字を取ったもの。
・武田信虎の重臣・工藤虎豊の次男として生まれる。
  工藤祐長(くどう すけなが)と名乗った。
・永禄4年(1561) 第4次川中島の戦い
上杉謙信軍の背後を襲う妻女山別働隊の大将として活躍した。
永禄9年(1566) 箕輪城攻めで抜群の功績を挙げた。
9月29日、長野業盛が自刃。箕輪城が落城。
  戦後に信玄から300騎持の大将に加増された。
・永禄11年(1568) 武田家譜代の名門:内藤姓に改めた。
  内藤修理亮昌豊を名乗った。工藤の家督は兄:昌祐が継いだ。  
・永禄12年(1569) 三増峠の戦い
小荷駄隊を率いて、津久井城に入った。
★元亀元年(1570) 〜内藤昌豊は箕輪城代を務めた。
 箕輪に善龍寺を再建した。
 200mの所に、保渡田城に拡張工事をし、そこに住んだ。
  上野方面経営の指揮を執った。

・元亀4年(1573) 4月 武田信玄が死去した。
  4男:勝頼が武田家を継いだ。武田勝頼には疎まれたという。
・天正3年(1575) 長篠の戦い
戦況不利を悟って山県昌景らと共に武田勝頼に撤退を進言したが、
  受け入れられなかった。
  出撃して激戦の最中銃火に散った。享年54。
跡は,保科正直の子が養子となり、内藤昌月(まさあき)が
箕輪城代になった。




21)三枝勘解由左衛門尉昌貞(さえぐさかげゆさえもんのじょうまささだ)
  
・永禄4年(1561) 3月 三枝昌貞は信濃に知行を与えられた。
・永禄8年(1565)「義信事件」で飯富兵部は謀反を企んだと
  して、弟の三郎兵衛(後の山県昌景)の密告のより捕らえられ、
  10月15日、責任を取らされ、自害した。享年62。
  (★『甲陽軍鑑』)
★三枝昌貞は事件に関与していた可能性もある。
  正室:山県昌景の娘といわれている?
永禄9年(1566) 箕輪城攻撃に参加したであろう。
・永禄11年(1568) 駿河侵攻
  三枝昌貞は弓衆を率いた。戦功があった。
父:三枝虎吉が駿河田中城の城将などを務めていた。
・永禄12年(1570) 8月 甲斐塩後郷(甲州市塩山)の代官を務めた。
・天正3年(1575) 長篠の戦い
鳶ノ巣山の砦を守備する別働隊に配属された。
5月21日早朝 織田信長の命で酒井忠次が率いる別働
  隊による襲撃をに受けた。戦死した。
※三枝昌貞が討たれた「姥が懐」の付近(新城市乗本字東畑)に、
「三枝兄弟」の墓碑が所在している。
★ここでは、上野国の和田信業や反町なども戦死した。




22)高坂弾正忠昌信(こうさかだんじょうのじょうまさのぶ)
石和の春日大隅の子:虎綱である
・天文21年(1552) 春日弾正忠を名乗ったという。
・天文22年(1553) 信濃の小諸城(小諸市)の城代となった
・弘治2年(1556) 信濃の海津城(長野市松代町)城代となった。
  越後上杉氏に対する最前線にあたる海津領の守将を任された。
箕輪初心●長野:海津城=松代城:川中島の戦いでの信玄の拠点
http://53922401.at.webry.info/201309/article_14.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201309/article_14.html
・永禄4年(1561) 第4次川中島の戦い
妻女山攻撃の別働隊として戦功を挙げた。
  信濃更級郡牧ノ島の香坂氏の養子となった。
  ※三日月堀&丸馬出が残存している。
  川中島衆の寺尾・屋代両氏の取次役を務めていた。
永禄9年(1566) 箕輪城攻めで抜群の功績を挙げた。
9月29日、長野業盛が自刃。箕輪城が落城。

・元亀3年(1572) 三方ヶ原の戦い
武田氏の主だった戦いに参戦した。
・元亀4年(1573) 4月 武田信玄の死
   武田勝頼時代にも海津城代として上杉氏に対する抑えを任された。
・天正3年(1575) 長篠の戦い
参戦せずに海津城を守備していた。
  しかし、嫡男:昌澄が戦死している。
・天正6年(1578) 上杉謙信の死
   御館の乱
   武田信豊とともに上杉景勝との取次を努め、甲越同盟の締結に
   携わっている。
 6月14日 海津城dr死去。享年52。



23)原美濃守虎胤(はらみののかみとらたね)
  「鬼美濃」の異名で諸国の軍団に恐れられた。
・下総国千葉氏重臣の千葉一族支流原氏の一門。
・永正14年(1517) 小弓城合戦
足利義明軍に敗北。
箕輪初心○千葉【大巌寺館・生実城】&「生実城と小弓城の関係」
http://53922401.at.webry.info/201404/article_12.html

小弓城を奪われ、父:原友胤とともに甲斐に落ち延び,
武田信虎に仕えた。
・大永元年(1521) 甲斐飯田河原戦
   原虎胤は今川軍の福島正成(北条綱成実父)を討ち取る
   功績を挙げた。
・天文20年(1552) 小笠原氏との戦いで活躍した。
  平瀬城は武田信玄により落城した。平瀬義兼は自刃した。
  平瀬城を改修し原虎胤に守らせた。
・永禄4年(1561) 信濃国割ヶ嶽城(斑尾&戸隠の間)攻略で負傷した。
   第4次川中島の戦い
   参戦できなかった。
・永禄7年(1564 ) 病死。享年68。



24)山本勘助晴幸(やまもとかんすけはるゆき)
 板垣駿河守の推挙で信玄に仕えた。
  兵法に優れていて、武田信玄の参謀として働いた。
・???年 山本勘助は上野国安中の長源寺で、真田幸隆に
 助けられた。

 (★NHK大河ドラマ「風林火山」)

・天文17年(1548) 武田信玄から安中に知行を与えられた。
 (★真下家文書)
 2010年安中市「真下家所蔵文書」発見
  山本勘助=山本菅助の武田晴信の押印のある
 文書で、天文17年(1548)年、武田信玄は
 山本菅助に戦功を認め、知行を与えた。
 (★安中市教委「西上州の中世」より)
・永禄4年(1561) 川中島の戦い
キツツキ戦法で上杉謙信に敗れた。
武田信繁や山本勘助や諸角が戦死した。
長野ICから300m程の所に胴会橋がある。(釜飯屋隣)




25)武田信玄・・・甲斐源氏の武将。




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