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zoom RSS 箕輪初心▲【老神ひな祭り】&真田信之(幸村の兄)の妻:小松姫

<<   作成日時 : 2015/03/03 07:15   >>

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2月14日(土)〜3月31日(火)沼田市利根観光会館(老神温泉の
朝市会場の横)において開催されている。鴻巣市の「びっくりひな
祭り」とタイアップして「老神温泉ひな祭り」行われる。鴻巣&老神
の同時開催となる。★何故、鴻巣市&沼田市の同時開催になっ
たのか?「それは真田幸村の兄:真田信之(初代:沼田藩主)の妻
:小松姫に由来する。」と新聞に書いてあった。老神温泉ひな祭り
では、幅6.7m、高さ3m、15段のひな壇等に1500体のひな人形
1500体を展示している。普段は鴻巣市より寄贈していただいた
ひな人形500体&県内外からの寄贈1000体が会館下に格納され
ている。雛人形はこの期間だけに展示している。
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○写真
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 (★パンフレット)
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・つるし雛
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◆◆ 真田信之(真田幸村の兄)&妻:小松姫 ◆◆
第一次上田合戦=上田・神川の合戦の後、真田信之(真田幸村
の兄)&妻:小松姫が結婚した。

・天正10年(1582)
3月、織田信長が行った甲州征伐により武田氏は滅亡。
甲斐から信濃、西上野に及んだ武田遺領は織田家家臣に分与された。
武田旧臣の信濃国人衆らは織田政権に臣従した。

6月2日本能寺の変・・・織田信長が死亡。
@織田家と友好関係だった北条家が北条氏直率いる5万6,000の兵で
 織田領上野に侵攻した。
 神流川の戦いで織田家臣:滝川一益率いる2万を撃破した。
 滝川一益は箕輪城:内藤昌月らと別れ、清洲に急いだ。本拠地:
 尾張の蟹江城・伊勢?まで敗走した。

A甲斐の河尻秀隆が一揆により戦死した。
 北信濃の松本城:森長可も城を捨て、旧領の美濃:可児城に撤退
 した。

B南信濃の毛利秀頼も尾張へと撤退した。
C上野国の滝川一益は神流川の戦いで、北条氏邦&兄:北条
  氏政の攻撃を受け、箕輪城から小諸城〜木曾〜尾張に撤退
  した。
 
 織田領である信濃、甲斐、上野が空白状態となった。
 越後の上杉景勝、相模の北条氏直、三河の徳川家康など近隣
 勢力が侵攻した。
 旧織田領を巡る「天正壬午の乱」が起こった。

 甲斐を制圧した徳川家康が南信濃へ侵攻した。
 上杉景勝は北信濃へ侵攻した。
 北条氏政は上野国から碓氷峠を越えて東信濃へと侵攻した。
 ★箕輪城を制圧した北条氏邦の家臣:大導寺政繁は甲斐に
 若神子城・獅子吼城まで、侵攻した。
 
 
●真田昌幸は北条方に属していたが、徳川方の依田玄蕃の工作に
 より離反した。真田昌幸は東信濃:上田から上野吾妻に勢力を
 保っていた。・・・上田城〜岩櫃城〜沼田城ラインである。

 北条氏政は東信濃から甲斐へと侵攻した。
 ★北条氏邦&家臣:大導寺政繁は甲斐の若神子城・獅子吼城
 まで、侵攻した。

 徳川家康は甲斐:新府城に陣取っていた。

 獅子吼城の戦い
 大導寺政繁 VS 徳川家康
  徳川家泰は服部半蔵をつかい、獅子吼城を攻略した。 

10月 徳川・北条の間で和睦が成立した
 和睦条件として徳川傘下となっていた真田氏の上野沼田領と
 北条氏が制圧した信濃佐久郡を交換することとした。

・天正11年(1583)
●真田昌幸は上田城の築城に着手した。
  真田昌幸は沼田領や吾妻領を巡り北条氏と争っていた。

・天正13年(1585) 徳川家康が甲斐へ着陣して、真田昌幸に沼田領の
 北条氏への引き渡しを求めた。
●しかし、真田昌幸は
 「沼田は徳川氏から与えられた領地ではない。」
 と拒否した。
 
●真田昌幸はさらに敵対関係にあった上杉景勝と通じた。
真田幸村は上杉景勝の家臣:松代城の河田氏?(大河ドラマでは)
 の所に人質として向かった。

 7月 徳川家康は浜松に帰還した。
 徳川家康は真田昌幸の離反を知った。

 8月 徳川家康は真田討伐に家臣の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉
  ら約7000の兵を真田氏の上田城に派遣した。

  徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地の信濃国分寺
 付近に陣取った。
  真田昌幸は約1200人であった。
 @真田昌幸は上田城に籠城した。
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  (★当時の上田城は上田高校付近)
 A長男:真田信之は支城:戸石城(かつて武田信玄が2度負けた城)
  に籠城した。
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  ★上田ICの北西の山
 
 B矢沢頼綱(昌幸叔父)の嫡男:頼康(昌幸の従兄弟)は支城の矢沢城
  に籠城した。
  矢沢頼康は上杉景勝の援兵(松代城河田家臣?)と共に篭城した。
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  ★上田ICの小諸よりの獅子岩?の東の山。


 閏8月2日 神川の合戦   真田昌幸 VS 徳川家康
 真田昌幸&真田信之1200
 鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉7000
 徳川方は上田城二の丸まで進撃した。しかし、反撃を受け撃退された。
  後退の際に上田城の籠城兵の追撃を受け、戸石城の真田信幸も横
  から攻撃した。
  追撃戦に矢沢勢も加わった。
  徳川勢は神川で多数の将兵が溺死した。
  徳川軍は1300人もの戦死者を出した(伝)。
  真田軍は40人程度の犠牲ですんだ。

  結果:真田軍の勝利

・閏8月3日 徳川方は真田氏に味方した丸子三左衞門の籠もる丸子城
 を攻めた。
 しかし、要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できなかった。


・以後20日間・・・対陣を続けた。
 徳川家康は援軍として井伊直政、大須賀康高、松平康重の5000を
 送った。

・8月28日 徳川軍は上田より撤退した。
 その後も、大久保忠世らは小諸城に留まり、真田勢と小競り合い
 を繰り返した。
11月 松本城にいた譜代の重臣:石川数正が豊臣秀義に出奔した。
 これにより、徳川家康は完全に撤退させられた。

結果・・・第一次上田合戦で、真田昌幸は優れた智謀の武将とであると
評された。そして、徳川家康の真田氏に対する評価は高まった。


・天正13年(1585)9月〜天正14年(1586)5月
沼田城にも北条氏邦が数回に渡って攻撃を仕掛けていた。
 しかし、真田昌幸の叔父である沼田城代矢沢頼綱(真田幸隆弟。
 :矢沢頼康の父)が撃退に成功した。
結果・・・真田一族の名声が高まっていった。

 
本多忠勝は真田一族の知略に惚れ、軍略に恐れた。
本多忠勝は真田家を徳川に取り込むため、徳川家康に自分の娘を嫁がせ
ることを提案した。
徳川家康もまた、上田合戦後に面会した真田信之(当時は信幸)の器量・
力量に感服していたので、自分の配下の武将として取り込んでおきたい
という思いがあった。
徳川家康は本多忠勝の意見を快諾した。徳川家康は小松姫を自分の養子
(秀忠の養子説あり)として、真田信幸へ嫁がせることにした。
本多忠勝の娘:小松姫を真田信之へ嫁がせて懐柔することに成功した。


・慶長5年(1600)
徳川家康は徐々に野望を露出させていた。
6月 会津:上杉の直江兼続の「直江状」を契機に、徳川家康は五大老の
 名の下に諸大名を率いて会津討伐に向かった。
真田昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村)も徳川家康の発した号令の
下に集い、沼田を出た。
 徳川家康の3男:徳川秀忠の率いる軍勢約3万8千に合流すべく下野
:宇都宮城へ向かった。


7月21日 犬伏の別れ
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 (栃木県佐野市犬伏:)
 真田親子が佐野犬伏に構えた陣所へ、石田三成の密使が到着した。
 
@真田昌幸は石田三成とは姻戚関係(石田三成・真田昌幸とも妻は宇田
 頼忠の娘)であった。
A真田幸村の妻は豊臣家臣の大谷刑部小輔吉継の
 娘(竹林院)であった。
 真田昌幸は第一次上田合戦の遺恨で徳川家康を嫌っていた。

B真田昌幸の長男:信之は神川合戦の後、徳川家康の養女:小松
 姫を娶ったこともあり、徳川家康の親派となっていた。

3人の親子は長い激論の結果、真田昌幸・幸村は豊臣秀頼方に、
 真田信幸は徳川方に別れることとなった。
 真田昌幸が西軍・東軍どちらが勝っても真田家滅亡を防げるという
 考え方であった。とも言われている。

 真田昌幸:信繁(幸村)は真田信之と『犬伏の別れ』て、直ぐに
 上田に引き返そうとした。
  途中、真田信之の沼田城に逗留しようとした。
 しかし,真田信之の妻、小松殿(稲姫)入城を拒否した。
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 真田昌幸の将兵は怒って門を破ろうとすると、小松姫は
 「力ずくで開門とは何事じゃ。 殿(信之)ご出陣の留守中に狼藉に
 及ぶとは曲者に違いない。女なれどもわらわは伊豆守(信之)の妻、
 本多中務(:本多忠勝)が女。 内府御女の称号を許されている。
 この城へ手をかけるものあらば、一人も漏らさず討ち取れ。」
 と、緋縅(ひおどし)の鎧をつけ、薙刀を掲げて城より一喝した。
 真田昌幸は
 「孫の顔が見たい。」
 と小松殿に懇願した。
 しかし、小松殿は頑として聞き入れなかった。
 真田昌幸は
 「頼もしきかな。武士の妻はこうありたいものじゃ。」
と答えた。
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そして、真田昌幸は沼田で野陣した。
 (★『沼田日記』)

その後、真田昌幸が正覚寺で休息をした。
小松殿が子を連れて現れ面会した。
真田昌幸、信繁(幸村)父子は小松殿の才覚と人となりに
感服した(伝)。

真田昌幸・信繁は現在の牧水コース〜長野原〜嬬恋〜向かった。
嬬恋の大笹の関所に差しかかった。
徳川秀忠の命を受けた地侍が襲ってきた。
真田信繁(幸村)が斬り捨てた。
鳥居峠〜真田郷〜上田城にに無事たどり着いた。
真田郷・・・真田本城・天白城・根小屋城・尾引城などがある。
 全て登っている。


・元和6年(1620)
小松姫は病にかかり江戸から草津温泉へ湯治に向かった。
 途中、武蔵鴻巣で亡くなった。
 
 墓は鴻巣市勝願寺、沼田市正覚寺、上田市芳泉寺に分骨されている。
 小松姫は生前に勝願寺の2世:円誉不残上人(えんよふざん)に帰依
 していたので、小松姫の2女が一周忌の際に分骨した。

 長野県長野市松代町松代大英寺に霊廟がある。

●鴻巣市勝願寺
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●沼田市正覚寺の小松姫の墓
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・現在・・・鴻巣市&沼田市が雛人形で結ばれた。





★明日は伊豆の城に戻る。

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